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夕食会・午餐会感想レポート

2020年8月午餐会「明智光秀の知られざる実像―光秀と京都を中心に―」

夕食会・午餐会感想レポート

8月20日午餐会

講演は、京都の人々が信長や光秀をどのように見ていたかという視点からの、当時の公家の日記や寺の文書等(古文書・古記録)に基づく論考であり、文書などがPCで映写された。

当時、「天下」という言葉は、公家・武士・寺社・上層町人の伝統的支配層の社会を意味しており、「天下」=「京都」という使い方が一般的であった・・という話から始まる。

明智十兵衛の名は、「信長記」には、永禄12年(1569年)の本国寺合戦の時に記載があり、また、同年の「饅頭屋町文書」に信長の重臣の一員として記載があるが、左程の知名度はなかった様子にて、公家の日記に現れるのは、「言継卿記」の永禄13年(1570年)正月以降のこととなる。延暦寺焼き討ち前後には、「兼見卿記」にも名が見え、上京焼き討ち、京都代官奉行就任の頃になると、知名度は上がる。

信長は、義昭を擁して永禄11年(1568年)に上洛するが、その後も、信長の京都滞在は、用のある時のみの短期滞在の繰り返しであり、好んで上洛していない様子とのこと。また、更に注目されたのは、信長勢の上洛が、乱妨狼藉、悪銭での売買、寄宿の強制などを引き起こしたため、京都の人々には、決して歓迎されてはおらず、むしろ迷惑な存在であったこと。また、人々は、上京焼き打ちなどの戦禍を逃れて、禁中(内裏)に小屋掛けをしたとのことである。本能寺の変(天正10年(1582年)6月2日)の後、公家らは、光秀を迎え入れたが、公家達にとって、信長も光秀も同類であった由。

山崎合戦ののち「兼見卿記」には、「洛中洛外安堵しおわんぬ」との記述がある。信長は、上洛の目的を「天下静謐」としていた由だが・・・信長・光秀の時代の天下静謐とは何だったのか・・との疑問形で講演は締めくくられた。

信長といえば、天下布武・・日本の統一を目指したとのイメージがあるが、「天下」=京都、布武=静謐・・という程度の話だったかもしれぬ・・信長も光秀も、天下統一の野望の下に動いていたというよりも、目の前の事態に対応して、生き残りのために、ミクロ的な勢力争いをしており、本能寺の変もそのひとコマに過ぎなかったのかもしれない。そして、京都の人々は、事態を存外冷めた目で見ていたのではないかという気がしてきた。

講演では、当時の京都の地図が示されたが、上京、下京の二つの市街地をメインストリートたる室町通がつなぐ案外小さな町で、麦畑に囲まれていたとのことである。小生の生まれは、京都市中京区(昔の「下京」)である。その昔、先祖は、禁中に小屋掛けをして難を逃れていたかもしれぬと、いろいろ考えさせられた。

(京大・法 神谷 武)


コロナ禍のために予定された講演が延期され、本日を楽しみにしていた。家内の実家は京都府福知山市、私は長女ガラシャの婚家丹後の舞鶴であり、現在延期になっているNHKの「麒麟がくる」も毎回楽しみにしていた。

洛中は当時は二条通りを境として、内裏をかかえる「上京」及び南の商業地区である「下京」に分かれ、土塀で囲まれていた。

 講演の中で印象に残ったのは、「芸術が東京一極集中であってはいけない」という言葉だった。少子社会の危機が迫っている中で、「四季」の戦略は演劇の展開等も含めてこの思想に拠っているようだ。

将軍義昭を奉じての信長の上洛に関する都人が受け止めは、歓迎ではなかったようだ。その前、洛中は三好三人衆の統治により束の間の平穏を謳歌していた。義昭は信長を伴い、将軍職を回復し本圀寺を仮御所としたが、三好三人衆らにより襲撃され、光秀や織田勢に護られ、その後二条古城(義昭の御所)を光秀を棟梁頭として普請した。光秀らは多数の家臣を洛中の寺院等に無料強制民泊させている。これは光秀に限ったことではなく、力を背景にした武士の横暴な民泊は、都人にとっては迷惑この上ない。

信長が、義昭が新御所に移ったことを見とどけた後(1570年)に上洛しているのは、皇居の修理支援と周辺が安定したためのように思われるが、その後姉川合戦により、浅井・朝倉勢と死闘している。信長によりいわゆる延暦寺焼き討ちが起こる。悪名高い「焼き討ち」が起こった原因は、合戦に敗れた浅井・朝倉勢を匿ったことが基本だろう。僧自体の堕落、焼き討ちされたのは根本中堂と大講堂のみで他は元々廃絶していた、虐殺と言うほど死骸が見付かっていない等の冤罪説もあるが、光秀が先頭を切って討伐を行い、恩賞として山麓の坂本を与えらている。

武士は悪銭の使用においても都人には迷惑を与えた。「悪銭」が流通しないので米、反物等の代替貨幣に戻った。悪銭のイメージはつかみにくいが、恐らく見た目で明らかに公式の銭とは判定できないものだったようだ。大規模な武士の上京ごとに撰銭令が出されているので、明智をはじめ有力武士が悪銭の使用を禁止している。明智が武士団の風紀を取り締まる立場にあったことや、当時の武士の態度がわかる文書のように見える。

その後将軍義昭の信長への反抗のため、洛中は乱れた。 戦禍の巷は、幼児・婦人も含め略奪にまさせられた。信長は比叡山焼き討ちやその後の洛中焼き討ちから恐れられた。光秀は、横暴な信長の行動に付き従うことに嫌気を感じたのか、本能寺の変に至る。先生は、信長が無防備な常態にいたことが、変の動機だったとの説を唱えておられた。

(東大・工 上林 匡)