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夕食会・午餐会感想レポート

平成21年8月午餐会「日本の教育のいくつかの問題」

夕食会・午餐会感想レポート

8月20日午餐会

今回の講演はテーマとしても時宜を得たもので、有意義でした。
家庭の躾が失われ、教員の質が低下し、自己の権利のみを強調し公を軽んじた憲法のために、社会の規範が失われた上、戦後の米国の愚民政策(3S:スクリーン、セックス、スポーツ)に禍されるとともに、最近はNHKを始めとする粗悪なテレビ番組の低級芸能人の跳梁と不出来な若者、とくに女性に迎合する世の中の風潮が社会を著しく汚染してきました。この10年、20年はこの傾向が際立っています。
問題の所在は明らかですが、如何なる手段を講じるべきかが問題です。安倍晋三内閣が教育改革に手を染めようとしましたが、惜しくも内閣そのものが挫折したことは残念でした。
フィンランドの教育にも言及されましたが、過去の我が国にはこれに劣らぬ家庭教育か伝承されていたことは、我が国の高齢者の熟知していることです。
冒頭で教育は人類の伝統的の営みで持続が肝要で急激な大改革は避けるべきと述べられましたが、同感です。
戦後米国により、我が国の戦前が一切否定されましたが、これに輪を懸けたのが当時の内務官僚でした。
講演の中で触れておられなかったことにエリート教育があります。この分野では英、仏、米とも一貫して充実を続けていますが、我が国では教育の平準化のもが強調され、エリート教育は全く捨て去られています。
今日の政治の貧困も元を糺せばこの点に起因しています。我が国にはエリートは皆無で、国内政治は勿論のこと、とくに外交面では大問題で、経済大国の時代にはこの弱点はカバーされていましたが、今日では大問題です。
ここで敢えて戦前の「旧制高等学校」の果たしてきた役割を振り返る必要性を通過します。それ以上の言及は控えておきます。

蛇足ながら参考までに:
一高:東京、首都。 二高:仙台、伊達藩。 三高:京都、御所。 四高:金沢、前田藩。 五高:熊本、細川藩。六高:岡山、池田藩。 七高:鹿児島、島津藩。 八高:名古屋、尾張藩。

(東大・工、江川 隣之介)


戦後約半世紀の間に、教育改革は度々行われて来たが、それらの改革を通して教育が着実に良くなったか、と言えば疑問である。むしろ改革の都度聞こえて来たのは、教育現場における混乱の声ではなかったか。改革の出発点となった問題把握が偏っていたり、改革の実施が性急に過ぎたりした場合が多かったのではないかと思われる。
本来、教育には人間に関する全ての要素が関係するが、明治以来の国家組織においては、教育は中央集権的な行政のもとに実施されて来た。それは効率の良い近代国家形成には適していたが、情報化によって人々の行動が複雑に変わり多様化しつつある現代の社会においては、問題を見誤ったり、性急な改革が弊害を生ずるなど、不適切なことが起り得る。
今回の講演はこのような実態を直視し、広く社会と教育全般を見渡して、重要な問題を指摘するものであったが、本質的な問題についてユーモアを交えながら話されたので、肩肘張らずに聞くことができた。
講演では、最近の人々の一般的な娯楽や思考の傾向、家庭や社会の教育力、大方の先生方の教育に取り組む姿勢、ほとんどの生徒が高校と大学へ進学し卒業する実態を踏まえて、学力低下をきたす制度としての問題や大学院を含む各大学の経営の問題、アカデミーすなわち大学等での研究者が専門分野に特化して視野を広げる努力を怠る傾向の問題などが指摘された。その上で、創造性を高めるとともに知識基盤社会での生き方を示唆する教育が国を救う道であるとして、そのための重要なポイントが提案された。
(1)ナショナル・ミニマムを確立する。義務教育に落第の制度を設ける。
(2)世界を解釈する能力を人文科学・社会科学を通して養う。専門とは別の活動を
生活の中に取り入れる。
(3)国として高等教育により多くの金をかける。
これを実践することが重要であるが、実践するための道程についての言及は無かった。蓋し、今回の講演は問題を指摘することが主旨であったからであろう。聴き終わって、自分は何ができるか、何をすべきか、と考えてみた。国の制度を動かす力は無いが、教育の環境としての社会一般の理解のために、世論形成の一粒の泡となって、心ある人々と話し合い泡粒の環をひろげて行くことではないか、と思った。

(東大・法、藤田 宏明)