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夕食会・午餐会感想レポート

平成26年7月午餐会「発掘と研究」

夕食会・午餐会感想レポート

7月22日午餐会

青柳先生には大変貴重なお話をありがとうございました。
まず、冒頭のポンペイを埋めたヴェスビオの噴火は8月ではなく、ブドウ収穫後の10月、11月ではなかったかとのご指摘には、噴火が始まったような衝撃を受けました。このテーマだけでも通してお聞きしたいと思ったほどです。しかし話題はアグリジェントに移り、それにもまた引き込まれてゆきました。かつて「アフロディテ(ヴィーナス)」をテーマに博物館を訪れたときの館員の親切さを思い起こしました。ポンペイでは図書室に案内いただき文献の頁を開いて写真を撮らせていただいたり、鍵がかかっていた部屋の中を見せていただいたり、イタリアの遺跡には楽しかった思い出がいっぱい詰まっています。
ローマ大学留学を契機にそのイタリアの発掘の道を開かれた先生に深い敬意を表します。
しかし最後に述べられた(ご活躍の舞台が)「少しずつ狭まってきたような気がするが、それも致し方ないことかと思っている」というお言葉は余震のように、こんどはさびしく、響きました。大げさかもしれませんが、明治以降「殖産興業・富国強兵」のための西洋の学問技術の吸収に努めた割には海外への「文化的展開」が等閑視されました。その間西洋諸国はさまざまな外交力と資金力で、各地を発掘しました。これから海外各地で発掘を志す若者には、より強い国内からの支援が彼らの道を開くように念じてやみません。

(東大・文、相良 嘉美)


楽しいご講演ありがとうございました。昔ナポリからソレントへの移動途中でポンペイのなだらかな斜面を眺めて、「ナルホド。ここに火砕流が走ったら、ひとたまりもないだろうな~」と感じたことを思い出しました。
先生は小プリニウスの手紙からポンペイ消滅の日を割り出されました。新発見と思います。英雄伝にその父の記述があった記憶がありましたので、帰宅後調べたのですが見つかりませんでした。確か彼は艦隊司令官で、市民救出のために艦隊をポンペイ沖合に並べていたので、「艦隊が火砕流に巻き込まれたのか」と思っていたのですが、ウィキペディアでは、彼は上陸して火山性ガスで窒息したとなっ ています。タルキニアのメリオルの紹介では、「なぜ蓋がルーブルにあり、石棺がフィレンツェに?」と不思議だったので調べたところ、執政官にもなった大物政治家だったようです。これも理由かも知れません。英独から文献が出ていましたが、先生のお話された「エトルリアの復興に尽力した」らしい話は一見して見当たりませんでした。エトルリアとローマの関係研究がどう展開するのか楽しみです。
またナポリ北東の新発掘遺跡は、ポンペイの消滅した79年の噴火の後、472年の噴火で完全に埋没したと伺いました。375年のゲルマン民族大移動から、帝国分裂、ヴェロナ遷都、アウグスティヌスの死、西ローマ滅亡の下での天災で、天に捨てられ、国が滅びる時の国民の嘆きに思い致した次第です。

(東大・教養、勝亦 眞人)