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夕食会・午餐会感想レポート

平成22年1月夕食会「大学におけるリベラルアーツ教育の過去・現在・未来」

夕食会・午餐会感想レポート

1月8日夕食会

東京大學理事・副學長 小 島 憲 道 先生

 最初に往時を振り返つてみますと、前期教育での理系科目は後期課程への準備は十分であつたと滿足してゐます。強ひて言へば數學では群論、物理學では量子力學、特に前者は「概念の操作」といふ知的訓練の場として、文系學生にもその授業があつたらと思ひます。これらは社會に出てから本を讀むだけではなかなか理解が困難であつた實感があります。
文系科目では社會科方面は授業の内容より、大河内一男先生や木村健康先生など大先生の謦咳に接したことが印象的で、特に木村先生が「これからの日本の當面の競爭相手はイギリスである」と仰せられ、敗戰直後の當時「日本は負けても未だそんなに大きいのか」と驚いたと同時に、その後の展開を先生が正確に見通してをられたことを知ることとなりました。
前期は特に語學に注力するといふことで、第一,第二外國語で文系授業時間の大半を占めてゐました。但し實用語學の習得といふ面では御講演で御指摘の通りあまり系統立つたカリキュラムではありませんでしたが、これも各先生獨特の御人格に觸れることで、それはそれで善かつたと思つてゐます。英語の論文作成訓練ALESSなどは當時には無く、今の學生は惠まれてゐると感じました。只、かうした實用語學の教授技術は格段に進歩してゐますが、このやうな教育にゲーテやシェークスピアの泰斗を宛てることでいゝのか、安嶋先生の御指摘に共感したことも事實です。なほALESSの寫眞ではどの學生さんも背中が丸くなつてゐます。「逞しい」東大生には背筋を伸ばして欲しいものです。
一方國語、漢文は澤山の選擇科目の一つに過ぎず、しかも國漢は同一時限の授業で何れか一方のみしか受講できませんでした。私は國語を選擇しましたが、内容は源氏物語若菜の卷で「實用國語」は後期卒業論文で小川芳樹先生に御指導いたゞいたのが最初で最後でした。現在もさうだと思ふのですが、學生は受驗勉強で英語の直譯、即ち主語、動詞、目的語の關係や時制を明確に把握してゐると判る文體を求められる結果、日本語としての慣用句を排斥して不自然な言ひ囘しが多くなつてゐます。これを學生のうちに矯正しておかないと、正しい國語の傳承が行はれなくなる虞を今痛感してをります。原書講讀などで日本語譯に就いて英語の論文作成竝の訓練を望みたいものです。
當時の教養學部は矢内原初代學部長の下創設期の熱氣があり、その熱氣は、是非善惡は別として、知的エリートの養成を志向し、それは南原總長の入學式の訓示に「諸君は日本の文化を擔ふことゝなつた」とあつたことゝも符合してゐたやうに記憶してゐます。御講演では「最早エリートの爲の象牙の塔ではない」とのことでしたが、東京大學が知的エリートの育成を抛棄又は斷念したとすれば、知的エリートは誰が、如何にして育てるのか、將た又「事業仕分け」流に言へば「知的エリートは何の役に立つのか、或いはそもそも必要なのか」を「政治主導」での決定に委ねるのか議論すべきではないでせうか。
勿論知的エリートとは「知的特權階級」の謂ひではなく、その深い教養に裏打された立居振舞によつて、家庭にあつては家族を、職場にあつては上司部下を含めた同僚を、國家社會にあつては國民を自づから「化す」、即ち教化、化育するものであるべきで、その意味での知的エリートを否定なさつてはをられないと了解してをります。かうした視點に立つと、その教養は文系、理系のバランスだけでなく、同時に和、漢、洋のバランスもとれてゐなければなりません。特に「和」を重要視する所以は、自國の文化であるといふ當然のことに加へ、西歐思想が「矛楯の解決」を至上命題にして來たのに對し、我が國が外來文化を攝取吸收する過程で「神佛習合」や「絶對矛楯の自己同一」に代表せられる「矛楯の共存を理解する」文化を生成させて來たことを擧げたいと思ひます。
その點で私たちの時代は知的エリートの育成と言ひながら洋學の單獨主流であつたといへるのではないか。このことは東京大學が、江戸幕府の學校であつた昌平坂學問所にではなく、蕃書取調所にその出自があることにも由來してゐるのでせうが、御講演でも御指摘がありましたとほり、アリストテレス、プラトン以來の西洋哲學が崩潰し、その再構築はレヴィストロースの構造主義その他を以てしても未だ成功を見てゐない、つまり西歐文明が行き詰り、これを解決する契機は寧ろインド、中國文化の再評價にあるとされる現代なればこそ教養の和、漢、洋のバランスを恢復しなければならないと思ふのです。
「矛楯の共存」といふ世界にあまり類を見ない觀念を西歐哲學の論理體系の中で展開するにはなほ幾多の天才を必要とするのでせうが、日本人は修行や現世的經驗を通して「理解」してゐます。そこでこれは前期科目の「體育」で全學生が最低五十メートルは泳げるやうにする「實學」があつたのを思ひ出してのことですが、教養學部での和の要諦は「日本の古典に親しむ」のも勿論必要ですが、同時に「實學」例へば謠、仕舞、參禪、武藝、茶・花等の「徒弟修行」的實技實習が效果的ではないでせうか。

教養學部入學六十年目の囘顧を通して大學教育の在り方に就いての現在の私の感想を申し述べました。近頃ゆとり教育に代表せられる「出來ない子を作らない」は良いとしても、「そのためには出來る子が少くなるのも厭はない」現代日本の教育風潮を憂へる餘り過激の言もありましたことを御詫びし、東京大學の益々の發展を御祈り申上げます。

以上

(東大・工、市川 浩)


半世紀前、”教養”に魅せられて、嬉々として後期課程に進学した私には、「大学におけるリベラルアーツ教育の過去・現在・未来」は大変魅力的なテーマであり、特に未来はどうなるのか、という関心にそそられて出席した。
懐かしい新渡戸、南原、矢内原さんのお名前から始まる小島憲道先生のお話はよく整理されて、同じような思考で生きてきた私には分かりやすかった。
肝心の、現在~未来は「共生のための国際哲学教育研究センター」でアジア、北米、欧州、イスラーム圏と共同で進められているとのこと、これは飛躍的に”人類”の範囲が拡大した現代にふさわしいと賛同した。多言語によるのもいい。
ただ、「構造主義および脱構築によるプラトン以来の伝統的哲学の解体、再構築(レヴィ・ストロース、ミシェル・フコー、ジャック・デリダ、他)についてはもう少し解説がいるのではないかと思った。なぜなら、私たち古い世代の教養の基本的前提が揺らいでいるのだから、である。
しかし、それも講師が最後に少し触れたように、音楽なら音楽で”自分の愛するもの”から、自然に導かれ、自ら悟るものであるのかもしれない(大上段に振りかざすのでなく)。
珍しく、知的好奇心が満たされた一夕であった。

(東大・教養、池田 嘉也)