いま、なぜ民族なのか?
山内 昌之
(東京大学教授)
講演特集号(平成5年10月)


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1.帝国崩壊の産物
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  今日の演題の「いま、なぜ民族なのか」、あるいは「いま、なぜナショナリズムなのか」という問いは、非常に切実なものがあります。これは世界の現状を見ますと、答えがあまりにも自明のことであるのかもしれません。冷戦が終わりソビエト連邦が解体したのち、世界の各地で「民族問題」と呼ばれる、大きな悲劇が相次ぎ、少なからぬ国家が分裂の危機にさえ瀕しているという現実があります。
  かつてロシア帝国は、「民族の牢獄」と呼ばれる時期がありました。私は依然、この解体し分裂する前のソ連を「民族の火山」あるいは「民族の戦場」になぞらえたことがあります。しかし、いまとなってみますと、この形容すらおとなしすぎた感があります。セルビア人のように、他の民族の居住地域を実力で併合しようとするケースを見るにつけ、バルカン半島などは、さながら「民族の火薬庫」とも言えるような極めて悲惨な状況にあると思えます。
  現在、私たちが直面しているこうした世界の国家や民族の在り方を見ますと、多かれ少なかれほとんどの国々は、すべて国境の内部に何らかの形で少数民族(マイノリティー)や外国人の集団を抱え込んでおります。国家とはこうした少数派や外国人といった諸々の集団から成る大きな混合体のような性格を持っており、どの国家も1つの民族から成るわけではない複合社会、多民族の社会であると言えます。日本は単一民族に近い社会だと誤解されておりますが、その日本においても、外国人労働力の問題や隠されがちな少数民族の問題がはっきりと浮かび上がってきているのが、昨今の状況ではないかと思います。

 アメリカは民族の坩堝とか、サラダボウルという言葉に象徴されるように、多くの民族が共存する多民族社会を実践したという意味において、極めて稀な成功例と言われてきました。しかし、昨年の4月から5月にかけてのロサンジェルスの大暴動を見ますと、アメリカもまた、いま世界を駆け巡っている民族の奔流から決して自由でいられないことを噛みしめているのではないか。アメリカは、これまで英語という共通言語とアメリカ合衆国憲法という2つの原理を手掛かりに人々をまとめ、しかも経済的な繁栄という、社会を豊かにしていく条件にも恵まれてきました。
  同じく成功例だと考えられていたカナダも、昨年暮れのケベック州の住民投票によって、フランス語系の住民たちが分離独立しようとする意志がはっきりと確認されまして、カナダもまた、民族問題の奔流から自由ではいられない。さらに驚くべきことに、ベルギーのような一見何の問題もなかった平穏な国でさえも、北部のオランダ語系フラマン系の州と南のフランス語系ワロン系の州とが分離しようとしている。そして、ベルギー王国は王制国家としては非常に珍しい連邦国家へと変貌しようとしております。

 さて、いま私たちが目にしている「国家の分裂」という現象は、多くの場合は帝国の崩壊や分解によって起きた現象です。みなさんの脳裏に1つの座標軸を置いてみて下さい。座標軸の左に帝国を置きますと、その対極に位置するのは、いわゆる国民国家という存在です。帝国は、その中に多くの民族、多くの宗教、多くの文化を担う人々が住んでいる国家です。それに対して国民国家とは、限りなく単一の民族に近く、宗教や文化も単一の要素が強くなるという傾向を持つ国家と規定します。そうすると、帝国的理念と国民国家の考え方は、全く相容れない要素が含まれており、この観点から国家の分裂を見ますと、第一次世界大戦が大きな節目になっているかと思います。
  1914年に始まった第一次世界大戦は、1918年の終戦によって、その後の世界史に多くの歴史的衝撃を与えました。たとえば、アジア、アフリカ、ヨーロッパに跨がっていたオスマン帝国が崩壊する中で、シリア、レバノン、パレスチナという国家が生まれました。旧オスマン帝国は、およそ30以上もの国家や地域に分解していく過程を経て、現在見られるような中東の世界秩序ができあがったのです。さらにハプスブルグ朝のオーストリア・ハンガリー帝国が瓦解することによって、バルカン半島が混乱に陥り、現在に至るまで多くの問題を残していることは、ご承知の通りです。

 帝国の分解や崩壊という観点から現代の歴史を見ますと、この現象に似た例が旧ソ連の解体です。15の社会主義共和国が独立を達成し、独立国家共同体が成立しましたが、その中でもなおかつ多くの自治共和国や多くの民族が存在しています。ロシア連邦自体もその中にまた20以上の自治共和国を抱え、かつての大きな民族がそのまま住んでいますので、ソ連が解体したから、それで民族問題が解決されたというわけではありません。ロシア連邦自体が、実はソ連を縮小した形でさらに民族問題を継承しているのです。それは、ロシア連邦が、広さにおいてもかつてのロシア帝国という“帝国の遺産”を、やや縮小した形でそのまま受け継いでいる国家だからで、その中に多くの民族が存在しているのは当然なのです。
  しかし、帝国でも、うまく進めば、多民族が共存・共栄することも可能であって、帝国あるいは連邦の理念は、元来が多民族国家として繁栄する「種子」を持っているのです。
  ところが、そうした考え方と、国民国家とが相容れないところに、歴史的には民族問題が起きてくる大きな背景があると思います。それのみならず、いま現に存在する規制の国家からの分離を求めるようなケースが出ております。

 トルコとイランとロシア連邦共和国に挟まれた地域、カスピ海と黒海の間にアルメニアとアゼルバイジャンという共和国があります。この2つの国が、小さなナゴルノ・カラバフという自治州を巡って争っております。
 さらに現在、旧ソ連における民族問題の焦点は、たとえば中央アジア、コーカサス、ベラルーシ(白ロシア)やウクライナといったロシア連邦共和国以外の地域に住む2500万人のロシア人、かつて帝国や連邦の支配的、指導的な民族であったロシア人たちが、今度は逆に少数民族として旧ソ連の共和国に住むことになっているという現実があります。
 とくにウクライナには、全人口5200万人のうちロシア人が1100万人も住み、ウクライナの全人口の約20%を占めているわけです。せっかく成立したこのウクライナという国民国家が、実はその内部にたいへん強力なライバルとして、20%ものロシア人たちを抱え込むことになったのです。

 冷戦というのは、国際緊張という点では比較的効率がいい体制であったという見方もあります。重武装や再軍備といった緊張は世界の各地で確かにありましたものの、米ソ両国の影響力によって、そういう対立をバランスの中に取り込み、具体的な戦争はもとより、各地域における民族紛争をも抑止する力を持っていたと言えます。
 ところが、ソ連という多民族国家が崩壊し、均衡を担っていた片方がなくなったことにより、ソ連内の民族的な緊張が拡散したのと同じような構図が地球大的に出てきている。つまり、国際政治の重要な均衡要因の片方が崩れ去り、権力の重心が変化したことによって、いま、「なぜ民族なのか」という問いかけをせざるを得ないような、民族と国家の在り方の緊張が惹き起こされているのではないかと思います。

 では、複数の民族や文化が存在する社会の大きな特徴は何か、何が問題なのかと申しますと、1つには宗教と言語が入り組んでいるという点です。この複雑な問題は国家の分裂の仕方にも、大きな影響を与えるのです。
 今年に入りまして、チェコスロヴァキアが大きな紛糾や、さしたる流血の騒動もなくチェコとスロヴァキアに分離しました。チェコ人は、プロテスタントを信じ、チェコ語を話しています。それに対してスロヴァキア人は、カトリックを信じスロヴァキア語を話しています。しかもかれらの居住地域は、プラハとブラティスラヴァと、西と東に分かれて固まっていますから、地理的に分離線を引きやすかったということがあります。

 しかし同じ分離でも、旧ユーゴスラヴィアがなぜかくも悲劇的な流血の惨事を繰り返しているのかと言いますと、やはり宗教と言語の分布の複雑さと無関係ではありません。
言語はセルビア人がセルビア語を使用し、クロアチア人はクロアチア語を使う。ボスニア・ヘルツェコヴィナに住んでいる人々は、そのどちらも話すという現状です。
 宗教的にはクロアチア人はローマ・カトリックであるのに対して、いま国連等によって国際的に糾弾されているセルビア人は、ギリシア正教に由来するセルビア正教を信じている。ボスニア・ヘルツェコヴィナの、ムスリム――イスラム教徒という意味――と呼ばれる人々は、イスラムを信じているということで、民族と宗教の分布がたいへん複雑になっております。さらに、ボスニア・ヘルツェコヴィナにおいては、旧ユーゴスラヴィアのちょうど縮図のように、カトリック、ギリシア正教、イスラムという宗教分布図が、ある箇所に固まって住むのではなくて、水玉模様のように、まだらに点在しているのです。
 たとえば、クロアチア人はクロアチアに近いところに住み、ある地域にはセルビア人、こちらにはムスリムの人たちというように線引きがしやすい状態になっていればともかく、水玉模様の1つひとつを、全く分離・分割するなどということは、とうていできるものではありません。
 そこで、セルビア人たちは、ムスリムが住んでいる土地からムスリムを追い出していく方法を考える。これが新聞でもよく目にする「エスニック・クレンジング」――民族的にきれいにしていく、浄化していくというものです。
 実際には、これは英語で言うところのジェノサイド――民族的な組織的「虐殺」に繋がるようなことが行われているのです。

 こうしたケースは、何もヨーロッパだけではありません。アフリカの場合を念頭に置いてもお分かりになると思いますが、アフリカのほとんどの国は、かつてヨーロッパの植民地であったという悲劇的な過去を持っております。その悲劇性や苦しさは、かつてかれらが帝国主義の支配を受けたという意味においてだけであるならば、それは苦しさの半分にしかすぎません。
 苦しみの半分以上は実はそこにあるのではなくて、当時の宗主国であったイギリスやフランスなどの支配国側の利益によって、部族や氏族といった民族に次ぐレベルの集団の居住地域を無視して線引きがなされ、新しい国家の枠が決められた後遺症を強く引きずっているということにあるのです。

 地図をご覧いただくと分かりますように、植民地を決める際には、直線的な線が引かれました。ヨーロッパや東南アジアの国々と比べた場合、アフリカの国境線は特徴的です。ヨーロッパの国の都合によって線引きがなされたアフリカや中東の国々は、現在もなお新しい国家をどのように創り出していけばいいのかという点で、多くの苦しみを抱えています。民族問題は、多かれ少なかれ、このように歴史的な遺産を引きずって生まれてきているということを、私たちは認識する必要があるかと思います。

 いま、とくに問題になっておりますのは、クリントン政権によるセルビアに対する軍事的な制裁の実現か、ということで、これは日本では実体がつかみにくいかもしれませんが、欧米、とくにアメリカにおいてはもう去年ぐらいから連日新聞の一面、外報面等々が全部、セルビア、ボスニア・ヘルツェコヴィナ問題で塗りつぶされるような状況です。それは、たいへん重要な、いまの世界の国際関係の大きな焦点になっている問題です。近々クリントン政権の大きな動きがあると予想されるなかで、とくにいまの民族問題がなぜ中東、旧ソ連、バルカンに集中して起きているのか、なぜ、そうした地域において、いま民族なのか。簡単にその歴史的な背景を、お話ししたいと思います。

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2.ナショナリズム起源と段階
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  民族の問題にとっては、ナショナリズムが大きな手掛かりになります。この民族やナショナリズムが、世界史の前面に現れてきたのは、1789年、フランス革命を契機としています。
 

  フランス革命以前の国家は、いわば王朝国家ですから、人々の忠誠心やアイデンティティ――自分たちはいったい何者であるのか、どういう存在なのかということを考える際の自分たちの帰属意識は、王朝あるいは王室等に寄せられていました。
  つまり、ブルボン朝フランスに属する人々は、まさに臣民と呼ばれ、かれらはブルボン朝王室に対する忠誠心を、自分たちのアイデンティティの帰属の拠り所にしていた。ハプスブルグ朝のオーストリア帝国の人々も同様で、王朝や王室への帰属なのであって、国家に対する帰属意識は、たいへん希薄であったのです。たとえば、フランスであの『ラ・マルセイエーズ』という歌が作られ、三色旗がうち振られて、パトリ―いわゆる「祖国」という言葉が市民権を得たのは、フランスが共和国という形態になってからです。
  つまり、フランス人が自分たちがフランス国民であると意識し、国民国家なのだという認識を持つようになってからです。いわば王朝や帝国に代わって、国民国家を支える民族意識やナショナリズムが、強く前面に出てくるようになったのです。

 これを象徴するのが軍隊の変貌で、それまでヨーロッパは多くの戦争を経験しておりましたが、基本的には傭兵を中心にした軍同士が戦いました。従って、傭兵同士の職業人としての互いの共通の理解は暗黙の諒解、日本風に言うならば一種の談合によって、この辺で手を打とうということになる。
  傭兵隊長も被害を出すのは嫌ですから、大規模な戦争には発展しない。いわば儀式としての戦争行為が、近世に至るまでヨーロッパ史の1つの特徴でした。

 
  ところが、フランス革命後になると、戦争の仕方そのものに大きな変化が生じます。フランス民族のため、あるいは国家のため、無私の貢献、忠誠心を尽くす国民軍が成立して、かれらは共和国のために死んでいく。お金ももらわず、戦争で自分たちが自ら進んで死ぬということは、それまで有り得なかったことです。
  ですから、当時オスマン帝国のパリ駐在大使は、フランスの国民軍が「国」のために自ら進んで死んでいくということに、たいへんな驚きを感じたわけです。しかも国は、傷痍軍人に対してケアをしていくという形で、愛国心をナショナリズムに結び付けていく試みもなされているのです。これもフランス革命を契機として現れた現象です。

□ 第一期 国民国家の萌芽 □

  この民族やナショナリズムの歴史は、ひとまずヨーロッパを中心に見るとすれば、現在に至るまで大きく5つに分けることができます。この時期区分は、もともとゲルナーというイギリスの人類学者の主張から教示を受けたものです。それによると、1789年、フランス革命によって始まった時代が第一期。
  その時期、フランスのような国家の在り方は、決してまだ世界を覆ったわけではなく、オスマン帝国からアジアのムガル帝国、清朝の中国等、依然として王朝や宗教というような原理を用いる国家が存在しておりました。

  フランスにおいては、確かにブルボン王朝は倒れましたが、ウィーンではまだハプスブルク朝が、モスクワにはロマノフ朝、さらにコンスタンチノープルではオスマン朝が健在でした。そこでは依然として王朝の理念、宗教に基づく宇宙的な秩序が、牢固として存在していたのです。

  従ってこの第一期は、新しく生まれてきたナショナリズムと、自らの体内から生み出した古い秩序との争いの時代であり、国民国家のサナギが形を現してきましたが、全体としては、まだ帝国が強い時代でした。

  ご承知のように、「会議は踊る」という言葉があります。1789年に始まるフランス革命の後に、フランス革命およびナポレオン戦争の戦後処理を巡って、1814年9月から1815年6月にかけて、ハプスブルク朝オーストリア帝国の首都であるウィーンに、諸外国の全権外交官たちが集まりました。「会議は踊る」というのは、たいへん象徴的な言葉で、なぜ踊ったのかというと、その後の国際会議と違い、まだ秩序の担い手側に国家そのものが分裂するという危機感が乏しかったからです。
  つまり、のちの1919年のヴェルサイユ会議でパリに集まった高官や大臣たちは、もはや踊る余裕はなかった。ところが、ウィーン会議では、民族自決とか国家の自立を求めてウィーンにやって来て、自分たちの国や民族の権利をどのように保障してくれるのかといった難しい問題を持ち込むような「民族」は、まだ姿を現していなかったからで、そういう考え方自体が希薄だったのです。
  オーストリアの全権メッテルニヒ宰相も、正統主義を唱えて旧秩序の復活を求めたフランス代表のタレーランにしても、かれらは安んじてウィーンで舞踏会を享受することもできたのです。
  しかし重要なのは、ゲルナーの巧みな比喩を使いますと、「そこにはまごうかたなく、もう蛇は現れていた」ということで、旧秩序という「エデンの園」は存在したかもしれませんが、そこに密かに蛇は現れていた。ただ、みんなの目に見えなかっただけのことです。

□ 第二期 文化としての国家 □

  やがて、この蛇がはっきりと姿を現す時代になります。すでに1820年代から30年代にかけて、オーストリア帝国、メッテルニヒのお膝元で、ハンガリー人やチェコ人といった人々がフランス人の思想に強いインパクトを受けて、メッテルニヒのヨーロッパ秩序に反対を唱え始め、実はそこからハプスブルク朝帝国の中には、ドイツ語を話すドイツ人だけではなくて、ハンガリー語、マジャール語を話す人々も存在するということが、強い自己主張と共に次第に人々の目に入ってくるようになり、これが7月革命と呼ばれる事件へと繋がっていきます。
  この第二期に至りますと、従来の王朝とか帝国ではなく、完全に新しい国家への希求、つまり自分たちの自前の国家を持とうという動きが出てくる。この時代には、国家とはある民族にとって自分たちの生存権を保障するもの、集団としての在り方を考える上で、文化を担うものだと考えられたのです。
  19世紀もとくに30年代以降になりますと、国家とはただ単に王朝の擁護者あるいは信仰を体現するものであるという考え方は、だんだんと力を失い、この新しく生まれてきた潮流は、帝国に少しずつ亀裂を入れていくことになります。ですから、この時代にブラームスの『ハンガリー舞曲』に刺激を受けてドボルザークの『スラヴ舞曲』などの民族音楽と呼ばれるものが生まれたのも、決して偶然ではなく、お互いに触発されていったのです。
  これは、現代人であるならば、サッカーやオリンピックなどによって明確になるような、ある種の民族的な自己表現です。普段は意識していなくても、日本人が勝ったりメダルを取って日の丸が揚がったときに感じる、あの興奮はどこから来るのかと言えば、これはまさに文化としての国家が、人々のある文化的な表現を体現していくものへと変化していった名残なのです。

□ 第三期 ナショナリズムの自滅 □
 

  この第二期において、はっきりと姿を現しつつあった国民国家は第三期、つまり第一次世界大戦の終戦によって全盛期を迎えます。第一次世界大戦後、1919年にパリで開かれた講和会議(ヴェルサイユ会議)において、「民族自決」という言葉が全世界的に人口に膾炙することになります。私は、あえてこれに異を唱えたいのです。1919年のヴェルサイユ会議は、民族自決ということから意識されるような、民族、ナショナリズムが勝利を収めた時代だと考えてはいけません。むしろ、このヴェルサイユ会議に象徴される第三期の時代は、ナショナリズムの勝利であると同時に、ゲルナーの言うように、自滅の時代であると定義できると考えます。

  民族自決は、アメリカ民主党選出の第28代大統領でプリンストン大学教授であった理想家肌のウッドロウ・ウィルソンによって唱えられた考え方でした。ウィルソンはナショナリズムの原理を「自決権」という形で認めましたが、これは極めて不公平なもので、戦勝国及びその友好国は、確かにこの原理を有効に生かすことができました。
しかし敗戦国はその原理をうまく適用することができませんでした。アメリカ政治は、ヨーロッパ政治の複雑さやヨーロッパが抱える問題を単純化すると、よく指摘されます。それはウィルソンに限らず、現在のクリントンに対してもしばしば寄せられるヨーロッパ側からの非難です。日本からは、全権代表として西園寺公望や牧野伸顕、その随員として近衛文麿などが参加し、日本の全権は非ヨーロッパ国にも自決の適用を、と主張したにも拘らず斥けられました。
  民族自決という原理は、実は戦勝国にとって必ずしも満足できるものではなく、敗戦国にとってはなおのこと満足できないものでした。また、欧米のある国にとっては満足に近かったかもしれないけれども、非欧米の国にとっては必ずしもそうではなかったという矛盾を抱えていたのです。つまり、このヴェルサイユ会議で行われたようなヨーロッパや中東の国の線引きが、実は現在我々が直面する大きな問題に繋がるわけです。

 ウィルソンはたいへん善意あふれる学者でしたから、民族的な分布によって、同じ質からなる政治の単位を創ることができる。つまり同じような質の、同じような言語や宗教を信じる民族からなる国家を創り上げることによって、帝国の遺産を国民国家の新しい出発へと振り替えることができると考えたのです。
  確かに、形の上では新しい政治のシステムが生まれ、チェコスロヴァキアやユーゴスラヴィア、ハンガリー、アルバニアといった新興国家が生まれました。
  しかし、この新しく生まれた政治システムは、たいへん不幸なことに、その内部に自らが取って代わったはずの、かつての帝国が抱えていた弱さを持っていました。それに加えて、かれらの国家としての単位は、かつての帝国と較べるとあまりにも小さく、政治や行政においても経験が未熟で、しかもその帝国よりはるかに小さい国の中に、少数民族だけは数が変わらず存在しているといった、たいへん不幸な事態を見たわけです。

 
 帝国という言葉を聞くとき、我々は直ちにこれをネガティブな、マイナスのイメージだけで考える傾向があります。現在の我々の感覚で物を考えますと、世界史の事柄は全部ネガティブなものになって、20世紀以前の世界史は、全て否定されることになってしまいます。歴史というものは、現在の尺度で測りきれるものではないはずです。

 たとえばオスマン帝国は、1453年にコンスタンチノープルを陥として以来、1923年のローザンヌ会議まで、多民族国家として5世紀も存在していました。この国家がもし、ただ単純に軍事的に圧迫する専制国家であったとすれば、これほどの長期にわたって存続するはずがありません。
  帝国というものは、そこに住む多くの民族、多くの宗教を信じる人たちの生存権をどのように共存させていくかということを、何らかの形で図っていかないと成り立たない国家システムです。そういった意味では、オスマン帝国は、多くの民族や多くの宗教の共同体の平和共存に成功した国の一つであります。ハプスブルク朝のオーストリア帝国も、ある意味で、成功例と言っていいかもしれません。
  つまり、ある民族の出身だから政治的にエリートになれるといったようなことではなく、国家を担い指導していくエリートの生まれる筋道といったものが、いろいろな民族、いろいろな宗教を信じる人たちに広く保障されるシステムが、帝国にはあったのです。帝国時代はある意味では、民族政策や少数民族の争いについて、むしろ問題が起きないということさえありました。

  オスマン帝国は、確かに、専制国家には違いありませんでした。しかし、しばしば「柔らかい専制」と呼ばれるように、多くの民族を共存させるような原理を持っていました。たとえば外交を例にとると、オスマン帝国には文化を摂取する上で、ヨーロッパ人に一番近い存在であるキリスト教徒がたくさんいまして、かれらはたいへん外国語も堪能であり、人人と接触しやすいという歴史的な背景を持っておりました。
  オスマン帝国外務省が1860年代のロンドン、パリ、ペテルブルク、ウィーン、ベルリンに送った大使のうち、2人までが実はトルコ人ではなくギリシア人でした。同じ60年代から70年代にかけての外相代理には、2人のアルメニア人がいます。20世紀初頭の外務省の職業外交官のうち、20%はイスラム教徒以外の人々でした。帝国にとって一番大事な任地の一つであるギリシアのアテネに1860年代に派遣された大使は、何とギリシア人でした。これは日本外交にとって大事なソウルや北京に、日本人ではなく、その任国の民族籍を持つ外交官を大使として派遣するようなものであって、たいへん象徴的なエピソードであり、帝国の持っている他民族性の柔らかい側面でありました。

  しかし、これはオスマン帝国が広大な地域を支配していたから可能であったことで、清朝の王室がアイシンギョロ(愛新覚羅)つまり満州族出身者でありながら漢族出身の君主以上に漢文化に通じていた皇帝たちが統治するというように、帝国には、普遍的な、ある多民族国家としての宇宙的な帝国の理念があったと理解することができます。康熙、雍正、乾隆というこの3帝の時代の清朝は、世界の中心的存在として、民族問題などが表に出るはずもなかったわけで、オスマン帝国も同じです。

  オスマン帝国以前の、古代国家ローマ帝国の問題は、ヨーロッパにおけるラテン文化圏の境界線であり、今日においても基本的に変わらず残っております。ダキアという国は、ダニューブ川の向こうにあったにも拘らず、ローマの土地――ローマニア――ルーマニアとなってずっと残った。しかしライン川の向こうはラテン化することはできず、ラテン文化圏、ゲルマン文化圏、スラヴ文化圏という領域が残っております。
  帝国というのは、いかに柔らかい専制といっても、そこに属している民族の意思に反して帝国に入ってくるとすれば、その民族の自立願望は妨げるのが難しいエネルギーであり、民族の問題というのは、いまだけではなくて、19世紀以降に折にふれて出てきているのです。
  ところが、こうした考え方に対して最も対蹠的なのは、単一民族に限りなく近づく国民国家という考え方で、この国家は規模が縮小された上に、その中にさらに多くの民族を抱え込むことになるという性格を、否応なしに持ってしまう国家なのです。
  パリ講和会議が、いまのバルカン半島から中東にかけての国々の一番大きな矛盾を作ったのは、まさにこの点です。第三期においてはこのシステムの弱さや矛盾を突いた悲劇が生まれます。たとえばチェコの中にある、ズデーテンラントに住むドイツ人であるとか、東方のかつてのドイツ騎士団領の名残の東プロシアとドイツ本国との間の領土を、ダンツィヒ回廊によって切断されたドイツ人といたケースです。

□ 第四期 「夜と霧」の時代 □

  こうして第四期にナショナリズム、民族の最も醜悪な形が起きてきます。つまり、ヒトラーの時代です。それとは趣を異にしながらも、同じように民族に対する政策という点においてスターリン支配下のソビエト連邦にも似たような点がありました。ヒトラーとスターリンの時代――普通ならば、人間が思いもつかないような、とうてい果たすこともできないようなことをでき得た時代が、不幸な第四期だと言ってよいかと思います。

  この不幸な第四期を世界的に見ていきますと、東アジア、日本においてもそうしたことを共有するような側面があった時代でした。逆説的に言いますと、民族問題の根本的な解決が、これほど見事に果たされた時代もまたなかったわけです。民族問題の解決は、違った人々が文化交流や結婚を通して、次第に同質化していくことによって果たされるのが本来の姿です。普通は人間的な同化、人道的な文化接触等を通して、自然な同化や同質化が行われていくのが、歴史の示しているところでした。
  ところがこの第四期における民族とナショナリズムの大きな特徴は、人間を集団的に殺害したり、ある場所からある場所へ強制的に移住させるといった、まさに非人間的な処理の方法がとられたことです。これによって、視点を変えれば東ヨーロッパあるいはソビエトの一部の地域における民族問題が、「解決された」のです。

  民族問題で一番注目すべき現象は東欧からロシアにかけてのユダヤ人とジプシーの問題です。他に付け加えますと、クリミア半島に住んでいたクリミア・タタール人、トルコに近い国境に住んでいたチェチェン人、イングシュ人、メスヘティア人といった人々、さらにカラチャイ人、バルカル人といったあまり馴染みのない民族の名前もあるかと思いますが、かれらにとってかけがえのない土地と家族と歴史を持った人たち――たとえば一番小さい民族の場合、人口規模では、ちょうど藤沢市ぐらいの人々が、ある日突然にその土地から強制的に中央アジアに移住させられる。つまり、これは強制移住という名における民族問題の「解決」とも言えます。
  もう1つの方法は、大ドイツを創ろうとするドイツ・ナショナリズムの犠牲として、東欧等に住んでいたユダヤ人や一部ポーランド人が抹殺されるといことが起きてくる。この強制移住や集団虐殺は、たいへん不幸なナショナリズムの第四期が生み出した問題です。

□ 第五期 2つの異なった流れ □

  第二次世界大戦後の第五期は、一部の国際政治学者たちが予見し、希望的に楽観視したように、絶望的な民族対立の時代は終わり、これからはこの教訓によって国民国家を単位とするような、平和共存の新しい世界へと収斂し、移っていくと考えられた時代でした。確かにこの点は一部においては実現しております。基本的にはこの第五期の延長上にある、いま我々の生きている時代のたいへん複雑な点は、2つの異なった流れが存在していることにあります。

  1つは、ECやASEAN(東南アジア諸国連合)等に見られますように、国家や民族が統合して相互協力しようとする側面がある一方、旧ソ連や旧ユーゴに見られますように、分離や分裂が進んでいる時代でもあります。これはたいへん複雑な現象です。この違いはその国民国家の成立時期、成立の仕方と無縁ではありません。

  ヨーロッパで統合が比較的スムーズにいっているケースを、西のほうから見ていきますと、イギリス、フランス、スペインなどは、民族の形成、集団の在り方、かれらの住んでいる地域が、中世から近世へ脱皮していくプロセスで、そのまますんなり近代国家へと成長を遂げることができた国々です。これらは自分たちの住む社会と国家の重なりとが、比較的容易であり、ネーションという言葉が、民族、国民、国家という意味を重ねているような国なのです。
  東にさらに進むと、ベルリン、ローマになります。そこでは、かつての神聖ローマ帝国の版図で、ローマ帝国が分裂したあと、教皇領の存在などによって国の統一が分断されていた地域です。それでもドイツ語やイタリア語という共通言語を基にして、人々の交流が可能であり、国は分裂していても、あるまとまりをなし得る国でした。ですから、これらの国は19世紀の半ば過ぎに統一を完成してのち、共通の言語や文化によって、国の建設がスムーズに運び得たのです。
  さらに東の方のロシアやウクライナといった国々になりますと、事態がすこぶる違ってきます。それらの国は、まさに自前の国家を創ろうとしたときに、中に少数民族をたくさん抱え込むといった、ある種の歴史の大きなねじれが起きたわけです。それは本来果たすべきであったロシアあるいはウクライナの国民国家としての成長が、ソビエト社会主義共和国連邦という国家の成立によって、コースがずれていって、そのズレが、いま大きな「悪しき遺産」として残っているのです。

 ヒトラーやスターリンの時代は、平和な時勢であれば考えもつかなかったようなある種の狂気、特異性というものを、善良な一般市民にさえ植えつけた時期でした。ユーゴスラヴィアの悲劇も、同じことが言えます。セルビア共和国のミロシェヴィッチ大統領やボスニア・ヘルツェコヴィナのカラジチに率いられているセルビア人の民族主義者たちは、ヒトラーやスターリンも考えつかなかった、たいへんネガティブな新しい民族問題の解決法を生み出します。それは、対立する民族、特にイスラムの女性たち(ムスリマ)を組織的に陵辱することによって人口分布に大きな影響を与える。対立民族の女性の精神構造そのものを変えていくような、たいへん忌まわしい「エスニック・レイプ」と呼ばれる手法を思いついたのです。これはムスリマに生まれてくる嬰児たちを祝福されざる存在にするだけでなく、次の世代にまで民族間の憎悪を持ち越してしまうという点において、クリントン大統領が非難しているように、まさに非人道的な大きな犯罪であると言えます。

 ヨーロッパの統合が抱えている本質的な問題は、「ヨーロッパ人」という新しいアイデンティティをどうやって生み出すか、ということに集約されるのではないかと思います。ヨーロッパという土地に住んでいる人間であるならば、ヨーロッパ人として受け入れていくのか、血統・人種という、人に備わるものを考慮するのか――つまり、ヨーロッパ、ヨーロッパ人を、キリスト教やローマ帝国の伝統を継承するものとして理解するのか、それともマグレブ系のイスラム教徒やトルコ人であっても、ヨーロッパで生まれた人たちはヨーロッパ人として受け入れていくのか、これが最大の問題点だと思います。それは血統主義か出生地主義か、あるいは属人主義か属地主義か、という問題にも繋がります。

 さきほど私はヨーロッパを4つの地域に分けて、西の方から説明いたしましたが、イギリスやフランスが比較的均質な性格を持った国家になったのは、歴史の偶然が作用していると、多くの専門家が指摘しております。同様に、日本が限りなく単一民族国家に近い形で存在しているのも、歴史の偶然であり、列島国家であるという地理的条件を抜きにしては考えられないでしょう。
  また民族形成も、他の国と較べてかなり早い時期に、北方系、南方系の混淆が民族移動の中で行われたという、時間差の問題も無視できないところです。
  さらに日本語の独自性があげられます。中国、朝鮮といった隣接国の強力な言語に対して、大和ことばと唐ことばなどを巧みに混淆し、言語的な独自性を持ち得たわけです。書き言葉も漢字だけでなく、片仮名、平仮名でも表記しました。そういう言語の独自性が、民族的なアイデンティティ、民族としての独自性を維持していくうえで大きな条件になったのではないかと思われます。

 その限りなく単一民族国家に近い日本においても、決して単一民族国家ではないわけです。たとえば中世に朝鮮から派遣された使節が、瀬戸内海に朝鮮語を話す人々の島があるのを見て驚いている。これは「老松堂日本行録――朝鮮使節使の見た中世日本――」宗希環著(村井章介校注・岩波文庫)に所収されておりますが、このように、私たちが思っている以上に、日本の中には異質性を含有する隙間があったということを見直していかなければいけない。この点が今までの我々の歴史感覚から落ちていた部分ではないかと思います。
  日本史研究は、いま、いわゆる国史という狭い枠を超えて、アジアも射程に置いた接近を試みております。ご関心をお持ちのむきは、東京大学出版会から『アジアの中の日本史』というシリーズ(5巻本)が出ておりますので、そちらをご覧いただきますと、新しい知見が得られるかと思います。
 
  現在の日本には、外国人労働者あるいは「不法在留者」の問題が、新たに起こってきて、我々があまり気づいていなかった側面を、否応なしに見せられつつあるというのも事実です。21世紀の日本は、これまで享受してきた状態とは違った性質の民族問題が生じてくるのではないかという予感もいたします。
  歴史学や考古学も、実は民族問題と関わっております。民族というのは、歴史への追憶、歴史と自分たちの結びつきといったことを存在の根拠といたします。たとえば古代の日本の遺跡、古墳が発掘されたという報道に、感動や興奮が呼びさまされる――これは日本人のルーツに、精神的、物理的につながっていく、過去を確認できる文化的な遺産として受け入れていくからで、そういう興奮も民族という自意識を強めるのに貢献するのです。

 ユーゴスラヴィアの例で申し上げますと、一番民族の純粋性が高い、つまり同じ民族同士の結婚から生まれた人々のパーセンテージが高いとされているスロヴェニア人同士の結婚で生まれた子供たちは、全体の73%、残りはスロヴェニア人とクロアチア人、あるいはスロヴェニアとムスリムといった結びつきで生まれた人たちです。クロアチアの中で最も民族対立の激しい地域でさえも、実は35%の人たちはセルビア人とクロアチア人との混合結婚によって生まれた人たちです。
 
  では、問題の根本的な解決策はあるのか、何が民族問題の解決になるのか、その答えは、物の考え方や人間的な同化、同質化を絶えず進めていく以外にないと思います。
  短期的には国連の制裁措置の実現、PKOの展開などが考えられておりますが、中・長期的には、やはり歴史の遺産の継承を抜きには解決方法はないわけで、かつて民族の境界を超えて民際結婚が普通に行われていたような歴史の伝統、そして互いの文化や習俗が混淆していた伝統をもう一度見返してみる、そういう歴史の見直しを、一方で忘れてはならないと思います。
  ただ単に技術的、軍事的な側面からだけ問題の解決を考えるのではなく、歴史的な角度からの問題の解決も、重要なアプローチの一つであり、こうしたアプローチこそがさきほどユーゴのケースで申し上げたような、世界の民族問題に適用できる最終的な解決策となるであろうと信じます。

 
  たいへん雑駁な話に終始いたしましたが、いま、なぜ民族なのかという問題点を、特に歴史的な視点から触れた次第です。どうもご清聴ありがとうございました。

(東京大学教授・北大・文・昭46・学術博[東])
本稿は平成5年5月10日夕食会における講演の要旨であります。