近代日本の知識人
丸山真男(著述業) 講演特集号(昭和51・52年)

 「ヨーロッパ人やアメリカ人の話はジョークで始まる。日本人の話は弁解から始まる」 ということをよく申しますが、私も日本人でありますので、残念ながらどうしても弁解か ら始めなければなりません。一応「近代日本の知識人」という題をつけさせて頂きましたが、別に現在こういう問題を専攻しているわけではなく、私が今調べておりますのは主と して江戸時代の思想で、近代日本のことはここしばらくお留守にしております。ではなぜこういう題を選んだのかと申しますと、私がまだ大学に在職中のころ、ジャン・ポール・サルトルが日本にきました。そのとき日本のことにいろいろ興味を持ち、彼の出している 「レ・タン・モデルヌ」という機関誌で日本特集をやることになり、私が「日本の知識人」 というテーマを受け持たされたわけです。ところが例によって私は仕事が遅くぐずぐずし ているうちにあの大学紛争の騒ぎとなり、完成しないまま私は病気になり、結局寄稿しな かったのであります。従ってその中途半端な草稿がここにあります。そのなかから時間の範囲で適宜取捨して本日のお役目を果たすというのが弁解の次第です。

 そういう由来で、もともと日本のことを何も知らないヨーロッパ人に、日本の知識人について語るというつもりで執筆したものですから、なんだそんなことはとっくに分かっているという事柄が恐らく出てくると思います。その点もご了承願います。

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  お話ですから別に第一章、第二章というわけ方はしませんが、まず第一に言語的な問題からアプローチして行きます。

  知識人(intellectuels)というのは、社会主義とか全体主義とかイデオロギーとかという言葉と並んで、現在、世界中いたる所の知的世界で頻繁に用いられながら、今挙げた言葉と同様に意味の曖昧な一連の言葉に属しております。従って知識人論をみますと大抵まず「知識人とは何か」という定義から始まっています。
 けれども一人の日本人が日本の知識人について西欧の雑誌で語ろうとすると、定義から出発するより前に、一体どの日本語の定義から出発するのかという疑問に困惑させられるのです。もちろんヨーロッパ系統の英・仏・独をとりましても、the intellectual s.; les intellectuels; die Intelligenten こういうそれぞれの言葉の間にはやや異なったニュアンスがありますが、こういう言葉はいずれも西ヨーロッパのカルチャーを背景にして生まれ、根を共通にしている言葉であり、違いといってもせいぜい同じ文化のヴァリエーションであります。もし西欧でこういう用語の考察が必要とすれば、それは今申した言葉とロシア語から出た intellilgentsiya という言葉との関係を考察すれば十分と思うのです。
 ところが日本の場合は、まず西欧における intellectuels ─英仏独何語でも良いのですが─それらと多少とも意味関連のある多くの日本語の吟味から始めなければならない。
 確かに近代日本にも西欧の intellectuels にほぼ実質的に対応する人々は存在して きましたし、ヨーロッパの知的世界で知識人論という題のもとに扱われたような問題も我々は共有しているわけですが、そういう人々を一括して指示する日本語として何か1つ選べといわれますと、ほとんど不可能に近いのです。

  試みに西欧において知識人論が論議されているのと同じような問題が議論される場合に用いられる日本語を、 明治維新以来出て来た歴史的順序に従って主要なものを列記すると以下のようになります。
 A「学者」「学者先生」、B「学識者」、C「有識者」「有識者階級」。以上が明治時代に用いられた言葉です。大正になりますとD「知識階級」、E「インテリ」が出現し、 戦後に出来た言葉としてF「文化人」があります。これに「知識人」を加えますと、7種あるわけです。
 この最後の「知識人」という言葉は文字通り西欧語の翻訳後ですから、現在いろんな評論雑誌や新聞の学芸欄で知識人論をする時は「知識人」という言葉が用いられますが、 我々国民の日常用語としてはあまり使いません。つまり論壇とか学芸欄とかで知識人論をやる時に日常用語でない「知識人」という言葉を選ばなければならないこと自体が、 先程申しましたいろいろの言葉が、いずれも intellectuels の正確な対応語でないことを語っているわけです。
 そうして1つの言葉の代りに複数の関連語、もしくは類似語を持っているのは、日本の文化的伝統および日本の西欧化というものの特殊なあり方に根ざしております。従って言葉の意味論を抜きにして、いきなり日本に「知識人」が実質的に存在することを当然の前提にして議論を進めることは、容易ですけれど、それだけに知識人の地位と役割とを、日本社会のコンテクストの中で理解する上にはかえって誤解を招きやすいのであります。 逆説的ですが intellectuels が、世界中どこでも普遍的な知識を追求するところの社会群として特色づけられているだけに、世界中どこでも知識人がいるはずだということを自明の前提として出発するのは危険であると思われます。つまり特定の社会における知識人についてのどんな論議も、その社会の人々が知識人に対して伝統的に抱いてきたイメージを切り離して論ずることは出来ないのです。今述べましたように、明治以来いろんな言葉が使われてきたこと自身、日本人の intellectuels に対するイメージが、 日本の近代史の中でいかに分岐してきたか、という歴史的な事実を反映しているように思われます。

  こういう用語の問題が、単に穿鑿の趣味の問題ではなくて知識人の社会学的考察と深く関わっていることを示す具体的例として、先程挙げました中から「インテリ」という 外来日本語を取り出し、その意味論を調べてみます。
 またこの言葉は他の類似後に比して日常語として使われて来た頻度数が最も高い。それだけに近代日本において一体誰が知識人であるかを見定めるということの困難さが、 この「インテリ」という用語の曖昧さに集中的に表現されているからです。

  言葉の来歴から申しますと、「インテリ」は intelligentsiya というロシア語の日本化された略語です。従って輸入された1920年代当時は、多かれ少なかれ元の意味を帯びていたのです。つまりこの言葉は帝政ロシアの革命的、もしくは体制批判的な知識人を指し、そうでなければ小説「オブローモフ」に出てくるような、教養を持て余し、生活力がなく、怠惰な生活を送っているような知識人、これがまさにインテリゲ ンツィヤでありまして、その「日本版」が元来の意味であったわけです。
 しかし、やがてこの外来語は土着化し、インテリという日常用語となり、言葉の由来から離れて広義に使用されるようになりました。それと共に先程申しましたような 「学者先生」「有識者」以下一連の用語の歴史的イメージが、この「インテリ」という言葉の中に流れ込むわけです。

  そこで「インテリ」という言葉をサンプルとして、その吟味をしてみましょう。

  第1に「インテリ」は形式的な資格において定義されます。これを仮に「形式的意義における知識人」と呼ぶことにします。それは高等教育を現に受けているか、または高等教育の学歴を経た人々です。この場合に高等教育というのは歴史的に相対的な概念です。
 明治の末迄は義務教育を終えて中学に進むことは高等教育を受けることを意味しま した。第二次大戦前までは、高等学校、専門学校以上が高等教育であります。そういう学歴を持っているのがいわゆるインテリであります。
 例えば戦前に、兵隊に招集されたとき、あるいは毎年の点呼のとき、まず壮丁がならびますと、「中等学校以上出たものはこっちへ並べ」、「高等専門学校以上出たものはこっちへ出ろ」というように並べられるわけです。高等専門学校以上であって大学卒とはいわない。大学卒などは、大多数の小学校卒の国民に対しては雲の上的存在になってしまうわけです。私はこの時程、自分が国民から孤立しているという感じを持ったことはありません。広い庭に沢山集まっている壮丁の中で高等専門学校以上の出身者は本当に一握りしかいませんでした。そういうふうに「高等教育」というものは歴史的概念であります。大学生もインテリであって、私も大学の頃タクシーの運転手に「あんた方インテリは」云々と説教された覚えがあります。

  この第1の定義に関連して注意すべきことは、「高等教育」の学歴を経たものは卒業後において自分達の知性をどう使うかということに関わりなく、卒業証書それ自身がインテリへの帰属の証明として生涯通用したということです。今日よくいわれている「学歴社会」という意味はここにあります。つまり学歴というのは「競争の原理」 と「身分の原理」というもともと矛盾する2つの原理が癒着したところに成り立つものです。
 ヨーロッパにおいては、官庁とかビジネスの技術者やホワイト・カラー層をも広く intellectuels の考察の範囲に入れるようになったのは比較的最近の現象です。とこ ろが日本では20世紀初頭において、すでに例えば高級官吏やビジネスの頂点の管理者層は勿論、公私のビュロクラシーの圧倒的多数の成員が「高等教育」の学歴を持っているという理由で「学識者」「有識者」あるいは「知識階級」といわれ、これがやがて「インテリ」のイメージの中に流れ込んで行った。しかも高等教育機関の在学生ないし卒業生は、将来において大日本帝国のエリートになるという期待が、社会からかけられていたために、上のようなインテリの形式的定義の中には、自ら学歴と並んで、公私のビュロクラシーにおいて相対的に高い地位を、現在又は将来に占める人々、と いう意味が含まれるわけです。
 その意味では先程申しました形式的定義というのは、同時にインスティテューショナル(制度的)な定義ともいうことができます。「インテリ」とは、あるいは「インテリ」の大部分はオーガニゼーション・マンであり、組織の中のエリートです。世界的にみてこういう定義が格別不思議でないのは開発途上国もしくは社会主義国ですが、日本の場合は資本主義的近代化の「離陸」の段階をとっくに終わり、高度工業国に成長した後においても、この定義が引き続き生きていたのです。
 1930年代初めの恐慌の際に「インテリの生活難」というトピックがしばしば新聞や雑誌のタイトルになりました。「インテリ」の生活難というのは学者、作家、芸術家、評論家、弁護士、教師という人々の生活難をいうのではなくて、「高等教育」の学歴 を持ちながらも、以前のように卒業して直ちに官庁、会社に就職出来ないという現象、あるいは企業の整理とか倒産によって失職した人々が激増したこと、これが「インテリの生活難」という新聞種になったわけであります。

  intelligentsiya というロシア語が輸入されたのはちょうどその少し前のことです。ご承知のように1920年代後半から30年代の前半にかけ「思想問題」がやかましい論議の対象になりました。
 「思想問題」という言葉は、私共ははじめは外国人に説明するのに非常に困ったのですが、今ではかなりポピュラーになりまして、“thought problem”というと、日本の研究をやっている人なら大体すぐわかるのです。
 この「思想問題」にたいして日本の支配層が苛立ち、恐怖したのは、元来の意味のインテリゲンツィヤの急進化ではなくて、むしろ先程申した、意味を拡大されていた「インテリ」、つまり大学・高専の在学生や卒業生が「危険思想」に感染する傾向であったのです。当時の内務省警保局の調書に「諸事件概要」というのがありますが、その中にこういう言葉があります。「露西亜革命の影響を受けて社会主義・共産主義思想の輸入を見るや、この思想は忽ちにして燎原の火の如く国民思想に瀰漫し、関東大震災後に至りては、『高等専門学校以上を卒業せるいわゆる有識者層は』、最もこの赤化思想の洗礼を受け……」(『』指定丸山)云々とあります。

  この時の「思想問題」が知識人にたいしてどういう意味を持ったかということはまた後で触れますが、ここではただ「有識者」についての伝統的な形式的及び制度的定義が、インテリの赤化傾向が論じられる際にもそのまま生きていたという点に注目して頂きたいと思います。もし「赤化」の嫌疑を受けているのが狭い意味の、つまりロシア的意味のインテリゲンツィヤにとどまっていたら当局にとって事態ははるかに安心だったのでありますが、それをこえて広く「有識者」──つまり大日本帝国のエリートを構成する分子として期待されていた人々が「赤化」するというので、思想問題は支配層を戦慄させるに足る悪夢となったわけであります。下からの労働者階級の圧力ではなくて、大日本帝国のエスタブリッシュメントを白蟻のように内側から蝕むものとして恐れられた──ここに日本における「赤化」問題の皮肉があったのであります。

  第二次大戦後の大規模な教育制度の改革、大学生の急増の結果、当然に大学生及びその卒業生の社会的評価というものは昔より低下しました。つまり、高等教育卒のインフ レによる価値低下が起こったので、その限りにおいて「高等教育の卒業生」イコール「インテリ」という等式は大きく動揺したわけですが、ご承知のように伝統ある有名大学については、依然として学歴は官庁や大企業において昇進が約束されているシンボルであります。そして大企業や官庁における局長や部長が当然「インテリ」と見なされているという事態も変わっておりません。
 大学教授は勿論インテリ中のインテリと見なされますが、これも知性の実質的内容ではなくて、むしろ大学教授という身分に基づいてそうなのであります。作家の小田実さんがアメリカでの話としてどこかで引用していたのですが、“Surely he is a university professor. But is he an intellectual?”というふうな会話があった。これを直訳して、「成る程彼は大学教授である。だけど彼はインテリか」と日本で言ったら、これは訊く方の頭がおかしいと思われるのではないでしょうか。そういう「ずれ」 の問題が先程申したような言葉についてあるわけです。

  では「インテリ」の意味はそういう形式的及び制度的定義に尽きるかというと、必ずしもそうではありません。例えば学歴の無い庶民相互の会話で「お前はなかなかインテリだな」という場合をとってみます。これは実質的にインテリを定義している。ただし 「有識者」のように名詞ではなく「なかなかインテリだな」というように形容詞として使います。
 その場合の意味は、特定の職業に密着した技能、知識を越えて、多少とも一般的普遍的な事柄について論議する能力ないし傾向を指すのであり、これはヨーロッパにおける intellectuels の定義により近い用法になってくるわけです。こういう用法の原型は、恐らく古典落語に出てくる「物知り」、つまり長屋の家主とか隠居さんだと思いますが、 少なくとも現代の日常会話では大抵の場合形容詞として用いられ、特定の社会層を指示する意味合いは薄いということに注意しなければならないわけです。
 これは日本では普遍的知識に対する知的好奇心に関する限り、先に言ったような「インテリ」に限らないで、広く庶民を含めた一般社会に共有されているという事情を示しております。この傾向をオーバーに表現しますと「一億総評論家」となるわけです。

  日本では大学教授や作家、芸術家、論説記者、弁護士、医者……そういう人々を抱合 するような intellectuels を社会的構成の上で1つのまとまった社会群としてイメー ジに思い浮べることは困難です。つまり1つの社会群としてはどこにいるか分からない。 それより、学歴による定義、あるいは公私のビュロクラシーの所属性による区別の方が、「彼は何であるか」ということをアイデンティファイするより鮮明な指標として一般に通用している。ところが他方において普遍的な教養もしくは教養への憧れということになると、西欧社会と比較した場合、学歴とか社会的地位に必ずしも比例しないで、非常に広い範囲の国民の間に分布されている。こういう一種の二重構造がある、ということ になります。

  しばしば指摘されることですが、数百万に及ぶ発行部数を持つ日本の代表的新聞は、 欧米のクォリティペーパーに比べると内容においては大衆的でありますが、ヨーロッ パやアメリカの大衆紙に比べますと到底そこに見られないような高級な論議やエッセイが載っております。
 また明らかに大衆雑誌と区別されるような月刊評論誌が、数万ないし十数万のレギュラーな読者を持っているというのは、しばしば西欧人を驚かすわけです。更に、ニーチェからサルトルに至るまでの非常に難解な哲学的著作が続々と翻訳され、これまた数万ないし十数万におよぶ発行部数を持っているということ、これも必ずしも戦後現象ではないのです。
 1つの例としてマルクス・エンゲルス全集の例を挙げますと、これは1928年改造社から刊行され始め、5年間で完結しました。こういう全集は当時ソ連にもなく、世界で唯一の包括的な収集です。それが出たのは日本が一番早かった。どの位売れたかと申しま すと、第1回配本は15万部、全部を平均しても1冊12万部であります。この数字はアメリカは勿論、ヨーロッパでもほとんど信じられない部数です。もちろん、売れたことが必ずしも読まれたことを意味しません。また読まれたということと理解されたことともまた別です。がそれを割引して計算しても日本人の知的好奇心というものの一般的な高さとその社会的な拡がりを否定することは出来ないと思います。

  ただ、こういう文化的、知的な好奇心は社会層で見ると分布が拡がっていますが、年齢からみますと10代後半から20代という若い世代に圧倒的に集中している。ですからそういう読者の大部分は大学卒業者も含めて、卒業とともに普遍的な教養からも急速に「卒業」してしまう。つまり職場の技術的な知識への関心に埋没する傾向があるのです。 これは「若者文化」という日本の特色の1つですが、この問題に立ち入ることはここでは差し控えます。

  言葉のことばかり話して申し訳ありませんが、戦後に現われた「文化人」というカテゴリーについて一言申し上げます。これについて私は以前に書いたことがありますが、「文化人」とは何かと定義しようとすると非常に困難です。勿論ドイツ語のKulturmensch (教養人)という意味ではありません。確実に言えることは、こういう新しい言葉が鋳造された背景の1つは、特にテレビによって代表されるようなマス・ メディアの急激な発展であります。
 第2には、戦前なら先程申したような「インテリ」のカテゴリーに入らなかったような人々、例えば、司会業者、テレビ・映画俳優、一般娯楽芸能人といったような人々の社会的地位が戦後になって急激に上昇したという社会的事情があります。後者の契機も、結局マス・メディアの発展、特にテレビによる有名性と結びついているわけで すから、「文化人」の登場というのは、いずれにせよマス・メディアとの関連なしには理解できない訳です。同時に大学教授、高校の先生、評論家、新聞記者等の間から、 テレビの時事問題の解説などにレギュラーとして出場する人々、ある場合には芸能人等と一緒に娯楽番組にさえしばしば顔を出すことで名前の売れた、いわゆるタレントの知識人が出現しました。
 こうして有名芸能人の社会的地位が昇格し、他方において伝統的知識人の少なくとも一部が書斎とか職場の机から出て、芸能人に劣らないような巧妙な大衆向けの話術を駆使するようになったということ、つまり簡単に申しますと「インテリの芸能人化」と「芸能人のインテリ化」という2つの傾向が合流して、その両方を共通に括る言葉が必要になり、「文化人」という言葉が出てきたというふうに私は考えるわけです。
 ですから、「文化人の集会」とか「文化人のデモ」とか新聞に載る時には、大体大 学教授、作家、芸術家が芸能人等と一緒にやっているわけです。従ってこれを「イン テリの集会」というとちょっとニュアンスがちがって来ます。況んや先程申しましたような芸能人あるいは司会者を「知識人」というと何か違和感があります。つまり intellectuelsとのズレはこの「文化人」という言葉に非常によくあらわれているのです。ですから、伝統的用語としての「インテ リ」と戦後新造された「文化人」というのは、部分的に重なっている2つの円として描くことが出来ると思います。

  こういう用語の吟味なしにintellectuelsの問題に接近することが、いかに危険であるかということを申し上げたいために、くどいほどいろいろな言葉を並べた点を御諒承願います。
 例えば「日本はintellectuelsの社会的威信、尊敬度が伝統的に高い。」とアメリカで日本を研究してる人がよく申します。この点日本はアメリカとは対照的で、むしろフランスに近いと言うのです。
 しかし、これに対しては「あなたのいうintellectuelsというのは“誰のこと”をいうのですか。」という反問をしなければならない。少なくとも第二次大戦前迄の日本では、作家とか新聞記者の社会的な威信は決して高いとはいえず、政府の高官や大企業の経営者に比べてはあきらかに低かったし、ホワイト・カラー一般に比べてさえも、必ずしも高いとは申せませんでした。
 自分の経験で申しますと、私の父は新聞記者で大阪から東京に出て来て家を探さねばいけない、その時、新聞記者というとなかなか貸して貰えないので「会社員」といったと子供のとき母から聞きました。これは非常に象徴的だと思うのです。文学者などは西欧的概念からいえばインテリ中のインテリなのですが、大日本帝国では、文士というと国民の正業からはずれた、道徳的にどこかいかがわしい存在とみなされていた。漱石とか鷗外というのはむしろ格別で、例外的だったのです。
 こういう次第で「あなたのいうインテレクチュアルズというのはどういう意味ですか。」という反問をしなければいけないと、申し上げるべきです。

  こういう文士とか「ぶん屋」というような職業に比べますと、教師に対する尊敬度はたしかに伝統的に高かったといえます。例えば「先生」という教師に対する尊称が次第に一般化され、今日は司会者、人気歌手までみな「先生」で、そういわれてまんざら悪い気持はしない、こういうこと自体、教育者が歴史的に享受してきた尊敬度の高さを度外視しては理解出来ません。そこには疑いもなく儒教文化の影響に帰せられる歴史的事情があります。
 従って「反知性主義」の伝統の強いアメリカの学者がこの側面をみて「日本の大学教授はフランスに近い。」と羨ましがるのも無理ないことです。けれどもこの場合でさえも、若干の留保が必要ではないかと私は思います。例えば特に伝統的な国立大学教授の社会的威信は先に述べたようにプロフェッションの性質に基づくものでは必ずしもありません。
 威信が高いとすれば、それは政府の高官とか大企業家と並んで、日本国家における世俗的な階層性(ハイラーキー)の位置が高いということに由来しているわけです。 高等官勅任教授勲何等ということに尊敬度は基づいていた。もっと広く教師一般、本来の意味での「先生」についていえば、その社会的尊敬度を無条件的に、例えば中国や朝鮮の儒教的読書人と並べるわけには参りません。中華帝国や李氏朝鮮の読書人は儒教古典の精通者であるという建前によって、文字通り統治階級を構成してきたのであり、野にあってもやがて時節が来れば官になるという前提があるわけです。
 ところが科挙制度のなかった日本では儒教が政治権力によって正統的イデオロギーに近い位置を与えられていた江戸時代でさえ、儒者というものはせいぜい知的アドヴァイザーであっただけで、現実に政策を決定する地位になく、いわんや禄は一般に低かった。しかも儒教の学問の最盛期においてさえ「浮世床」の一節に「唐のことばかり探して足もとのことに疎いだの、悪い病にとっつかれたもんだ。」「孔子の道はおいて、王子の道(王子には稲荷があって繁華街だった……丸山註)もろくそっぽうにやしるめえ」という言葉があります。ここには平民の感情としてアメリカにおける “common man”のプラグマティクな生活態度から出たところの「反知性主義」とむしろ共通したものがある。実生活に疎くて空理空論ばかりいっているということです。
 江戸時代に生まれた有名な川柳「先生と言われるほどの馬鹿なし」も日常実際的事務の処理能力の欠如を皮肉ったわけです。伝統的中国や朝鮮では恐らくこういう諷刺は生まれなかったろうと思います。むろんこの川柳の意味は非常に微妙で一がいに反知性主義といい切れません。高級な知識に対する尊敬と軽蔑のアンビヴァレントな評価が含まれており、その逆説的な含みが滑稽さをさそうのですが、その点では前にのべたような「お前なかなかインテリだなあ」という庶民の会話の場合にも、右の川柳と共通した微妙な両義性がやはりあるわけです。

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結局近代日本においてはintellectualsを“実質的に”構成するようないろいろな職業がありますが、それらが共通の分母を通じて多少ともまとまった一つの社会郡をなしているというイメージが、それらの職業人相互の間にも、また、他の社会の人々の間にも乏しかったといえるのではないでし ょうか。
 日本人の平均的イメージからいいまして、もし社会の職業を横断する区別があるとすれば、それは官庁とか会社とかという組織体に属しているか、それとも独立に仕事をしているか、というような区別の方がより大きい。従っていわゆるプロフェッションのなかでも、一方では大学教授、マス・コミ組織の部課長以上の人々、病院所属の医師、裁判官・検事というような系列と、地方で民間学者、民間評論家、開業医、弁護士とかいうような系列との間に、少なくとも歴史的には、見えない一線がひかれてきた。
 組織に所属しているかどうかということが大きいイメージとしてあり、社会的信用度は概して前者のほうが高いわけです。
 日本には自由契約のジャーナリスト、あるいは民間学者が少ないということにはいろんな理由がありますが、こういう社会的イメージの影響もあると思います。よく紹介の時に「私は(あるいはこの方は)政治学者です。」という代りに「○○大学の者(方)です。」といいます。また「私はプロデューサーです。」という代りに「○○放送局の者です。」と所属の方をいいます。要するに、どういう組織に属しているかという区別の方が、「知的な」仕事に従事しているかどうかということよりも際立ってみえるということです。

  こうして日本ではいろんな形でintellectuelsに対応する人々が実質的にはいたにもかかわらず、それらの人々の間において、一つの見えない「知性の王国」の住人であるという共属の意識はついには成熟しませんでした。
 それが冒頭でのべた「知識人」という一つのコトバのかわりに複数のコトバがあることに象徴されているわけです。その大きな歴史的背景として、日本の近代化が、非常に早い時期から官僚化・ 組織化の途を歩んだ、という事情がありました。もう一つの事情として、世代間の相互不信と亀裂の早期的登場という「世代」の問題がありますが、これは時間の関係で触れられません。

  むしろ結論的な意味で私の考えを申し上げるならば、上のように、知識人が職場のちがいをこえてひとつの知的共同体を構成しているという意識が近代日本では成熟を妨げられてきたにもかかわらず、歴史を振り返ってみると、比較的にそういう意識が高まった時期が3度あったと私は思うのです。
 この時期を簡単に申しますと、第一期は明治維新からほぼ明治20年位までの頃で、これは近代知識人の生誕期であります。
 詳しくは申せませんが、たとえば「明六社」に集まった人達が「明六雑誌」という近代日本ではじめての高級評論誌を出しましたが、そこで福沢諭吉が「学者職分論」という一文を書きました。「学者は政府に仕えるべきか、それとも野に在るべきか。」という有名な議論であります。そういう問題の提起自身が、近代知識人―カール・マンハイムのいう「自由に浮動する社会層」としての知識人の誕生を告げております。この問題をめぐって同人の間でも、議論は分かれたのですが、在官であるのと在野であるのとを問わず、彼等はあくまで明六社という知的サロンの同人であり、明六社の解散後もそういう知的共同体の成員であるという意識を持ちつづけた。
 これは何も明六社に限った現象ではありません。自由民権論をめぐって、はげしい論争が起っても、対立する立場の「学者」や「政論記者」の間に共通の「知性の王国」の住人だという意識が失われませんでした。
 お読みになられた方もあると思いますが、中江兆民の「三酔人経綸問答」という書物が明治20年に出ております。そこには「洋学紳士」と「豪傑君」と「南海先生」という3人が登場し、南海先生に家に集まって徹夜で酒を飲みながら国事を論じます。彼等のイデオロギーはそれぞれ違い、しばしば全く正反対になります。結局大議論の末に明け方になって別れるというのが筋書きです。
 大ざっぱにいうと「洋学紳士」はラディカルな民主主義と、軍備廃止の絶対平和主義を代表し、「豪傑君」は洋学紳士に真向から反対して、権力政治の立場から大陸に対する軍事的進出の方向に日本の進路を見出し、「南海先生」は2人の議論を調整しながらイギリス流の立憲政治と、穏和なナショナル・インタレストの結論に落着きます。
 結局、3人は立場を譲らぬまま別れるのですが、彼等の議論を通じて兆民は当時の日本が選択を迫られていた主要なイッシューの見事な鳥瞰図を描いております。が、私がこの書物をここで挙げたわけはそういう内容ではなくて、むしろこの書物の結尾にあります。「二客、竟に復た来らず。或は云ふ、洋学紳士は去りて北米に遊び、豪傑の客は上海に遊べり、と。而して南海先生は依然として唯、酒を飲むのみ。」
 これが終わりであります。この結末は、恐らく兆民が意識していた以上に近代日本の知識人がその後歩んだ道程を象徴しているように思うのです。つまり明治20年頃には、まだこういうちがったイデオロギーの持主が集って徹夜で討論するような精神的空気が実際にあった。
 しかもこの3人に主人公はこの夜を最後として再び会うことはなかったというのです。「洋学紳士」のその後のコースは1つは大臣・博士であり、もう1つは社会主義者です。「豪傑君」のコースは大陸浪人です。南海先生はちょっと複雑ですが、隠逸して俗物どもを冷笑するインテリになって行きます。それはともかくとしてこの時から十数年後、 内村鑑三が「万朝(よろず)報」で非戦論を展開し、また日本帝国のえせ立憲制を痛烈に批判した時に、その当時の若いオピニオン・リーダーであった高山樗牛が、「国家は実在す。空想にあらざるなり。」と激しい言葉で内山を罵倒しました。
 内村も高山も先に述べましたような制度的インテリではなく、自由文筆家であります。にもかかわらずこの2人が、例えば酒食を共にしながら徹夜で意見を戦わすというような光景は、もはやこの時点では想像できません。つまり「三酔人経綸問答」の主人公達の間にあったような知的共同体の意識というのは、20世紀初頭にはすでに急速に失われつつあったといってよいでしょう。まさに、ふたたび会することがなかったわけです。これは必ずしもイデオロギーの対立がより激烈になったからではありません。イデオロ ギーの対立の幅をいうのであれば、大日本帝国憲法発布以前の時代の方がむしろ大きいとさえいえます。ご承知のように主権在民論まで堂々と登場したわけですから…。
 むしろ問題は大日本帝国の国内体制が整備され、政治、産業、教育、軍備などいろいろの領域で制度的近代化のテンポが速まるに従って、知識人の社会的流動性はより“少なく”なった、という点にあります。つまり、公私の官僚制の中に編成された制度的知識人とその外にある「自由知識人」との間の分化が固定化してしまった。しかも、自由知識人自身がそれぞれ排他的な職業的空間に活動領域を限定する傾向が強くなってきた。文壇の「壇」とか、学閥というのがその例です。
 要するに、近代日本ではインテリの専門化・技術化が早期から進行したということであります。これは帝国大学に最初から工学部が設置されていたということによく象徴されていると思います。大学レヴェルでの工学部の設置という点では、日本の大学が模範としたヨーロッパの諸大学より早いわけです。

  日本でこのように専門的技術的知識人が早期的に登場したことが、どういう意味をもったかという問題に深入りすることは避け、その代わりに1つだけ例をひいておきます。 史論化であり、大記者でもあった山路愛山が明治43年にすでにこういうことをいっております。「現代に時めける青年官吏は十中の九まで大学出身の学士にして、而して其の思想はただ“其の従事すべき仕事の上のみに集中せらる。”正にこれ、英雄時代 (註―幕末の志士の時代を指す)去りて『書生』の時代来たり、『書生』の時代去りて “専門家の時代に達せり”というべし。」(傍点丸山)
 こうして現在世界中に悪名が高くなった専門化に伴うコンパートメント化とかセクショナリズムという傾向は、日本ではほとんど近代化それ自体の「原罪」であったといっても過言でないと思います。 これは私も大学人であったので自己批判を含めて申すのですが、日本の「総合」大学というものは、およそuniversiteの名に反して、西欧の学問のそれぞれの専門の学科を個別的に輸入する形で成立したために、学部学科の密室化が早くから進行し、したがって学部間の壁は、欧米の大学よりずっと厚い。こういう歴史的背景を考えますと、たとえば「私は考古学が専門ですから、学生運動のことはわかりません。」というような教授があらわれ、しかもそういう言葉が別におかしいとも思われないのも、もっともです。 ヒューマ二ティーズの典型である哲学も、ここでは「専攻」の対象として出発しました。要するに、明治の中期ごろを境として、維新で成立した知的共同体の解体が進行したということであります。

  さて、こうして、社会の各組織とか「壇」とかに分化した知識人を精神的にふたたび結びつける第二の画期となったのが、最初にちょっと触れた1920年からの「思想問題」の登場ということです。
 前にも申しましたように思想問題というのは決して知識人みずからが提起した問題ではなく、「当局」によって造られた言葉であります。当局によって思想問題の対象として指定され、「思想犯」の容疑者となりやすい階層として、いわば他律的にひとまとめに定義されたのが当時のインテリであったわけです。しかもこのように1920年代に、当局によって「上から」思想問題の対象として一括された知識人は、同じ時代に「下から」 も、ひとくくりにまとめられました。
 このいきさつは詳しくは申しませんが、第一次大戦後急速に労働運動が台頭してきま した。最初はイデオロギー的にはアナルコ・サンディカリズムであります。労働組合法もなく労働者の組織率は5~6%以下というところでの「サンディカリズム」というのも、奇妙なものでありますが、すくなくともイデオロギー的にはまさにヨーロッパのサンディカリズムの特長をなす「反知性主義」を本家からひき継ぎました。
 従って、そこではプティ・ブルジョア知識人に対する不信と嘲笑が支配的であり、高等教育機関の学生もホワイト・カラーも、文学者、芸術家も、「分極化する階級闘争にはさまれて没落に運命づけられている中間的小市民」というふうに一括されたレッテルを貼られます。しかもこのように一括されたインテリ自身が明治時代の先輩のような、乃公出でずんばというエリート意識をとっくに失って、社会の巨大なメカニズムの歯車として自分を意識するようになっていたので、右のような早急な断定も割合容易に受け入れられたのであります。

  「青白きインテリ」というマゾヒスティックな調子を帯びた呼称が当時流行語になりました。そして大学生の中からは、ロシア革命後の世界的な激動に鼓舞されて、人民の中へ、「ヴ・ナロード!」という合言葉のもとに労働運動に身を投ずる人々が出現します。帝大の「新人会」の機関紙が1921年にその題名を現実に「ヴ・ナロード」と改称しております。
 しかし、労働運動の中に身を投じていった大学生たちにしても、自分の知性と知識とを運動のために積極的に行使するというわけではなくて、むしろ青白きインテリの「自己否定」を通じて労働者大衆と自分とを同一化しようとしたのです。従って思想問題登場の初期段階においては、職業や身分をこえた、知識人としての共通性の意識は、「上から」にせよ、あるいは「下から」にせよ、いずれにしても他発的な形でしか呼びさまされなかった、といえます。

  このように20年代に、いわば他律的に一つの社会群として結びつけられた知識人に対して、もっと積極的な意味で、共通の基盤と役割とを自覚させたということ、そこに1930年前後のマルクス主義の巨大な歴史的意味があると思います。
 日本への、マルクス主義の輸入はこれよりも早いし、またその発展についてはいろいろな角度から論じられますが、ここではもっぱら知的共同体の再形成について果たした役割に限定して昭和初頭のマルクス主義を取り上げるわけです。そういう点で、悪名高い「福本イズム」の風靡は非常にシンボリックな意味を持っております。
 なぜかといいますと、レーニンが「目的意識性」と「自然成長性」の区別をしましたが、福本和夫はそれに依拠して、「日本の運動にとって緊急の課題というのは運動の大衆化ではない。一切の折衷主義や『ズルズルべったり』の妥協から訣別して、厳格な理論と世界観で労働者階級を武装させることがまず先行すべきである。」と主張しました。 これまで労農大衆に対するコンプレックスに悩まされ、「激烈な階級闘争の間にはさまれた無力な青白きインテリ」という負い目をおっていたインテリが、ここで初めて、理 論と世界観を労働者階級に植えつけるという積極的使命を与えられた。
 つまり、労働者の単なる自然発生的な階級意識への追随ではなくて、プロレタリアートへの理論的体系の注入によって、これを真に革命的な階級意識にまで高めるということ、それこそ前衛的知識人の光栄ある課題だということになったわけです。むろん福本のこういう理論が新らしい知的共同体をつくったのではなく、それどころか福本イズムは、現実の運動に対しては無限分裂の因子となりました。ただ福本のそういう考え方自身が知的運動としてのマルクス主義の思想史的意味を典型的に表現しているということを申したいのです。
 その証拠に、狭い意味での福本イズムがコミンテルンの批判によって没落した後においても、方法論とか理論とか体系の強調ということは引きつづき日本の左翼運動の体質をなしております。1935年度の内務省の調査によりますと、治安維持法によって起訴された者のうち、高等専門学校および大学の在学者と卒業生は31%を占めております。また1931年に文部省が検挙した学生の「左傾」した動機を調査したところ「左翼理論に関する文献の影響および、左翼理論に関する講演・講義の影響」というのが調査対象の50%で第一位です。
 「社会の現状に対する疑惑」の12.5%に比べて前者の方がはるかに大きい。
 むろん社会主義的な実践の合法性の余地が非常に狭かったという事情を考慮しなけれ ばならないにしても、戦前の日本の左翼運動におけるアカデミックな性格、特に文献的な「勉強」の要素の比重の大きさは否定するべくもないと思います。マル・エン全集が世界で唯一つ日本だけで完成し、それが驚くべく売れたということもこの点に関係していると思います。

  しかも日本におけるマルクス主義の知的運動としての影響力は、いわゆる左翼のイデオロギーに限られたものでは決してなかった。そこが私は非常に重要な点だと思うのです。
 というのは維新前後に西欧文化が怒濤のように流れ込んだ短い時期を除きますと、近代日本の学問は始めからそれぞれ専門的な個別化された科学を輸入し、先程申しましたように、各学部、学科が密室化するという傾向が早くから進んでいた。その穴に落ち込んでいた日本のアカデミズムに対して、マルクス主義の哲学と歴史観というものは、否応なしに経済と法、政治との関連はむろんのこと、文学や芸術の領域にまで孤立的にではなく相互連関的にとらえることを教え、しかももろもろの「上部構造」に共通する土台を指示することによって、社会体系の変動をトータルに解明することを、いわば知的に強いた最初の思想であった、といってよいのであります。
 戦前において「社会科学」というとマルクス主義的な社会科学だけを意味していたということは、不幸な事情や弊害も伴いましたけれども、そこにはそれなりの歴史的背景があったといえます。しかもマルクス主義は単に社会科学や哲学の領域だけではなく、本来科学に対して無縁であった文学や芸術の活動にも深刻な影響を与えました。
 反マルクス主義の文学者も含めて、文学における「方法」という問題を真剣に考え出したのは、マルクス主義の衝撃によってであります。社会的政治的運動としての日本のコミュニズムに対してどんな批判が下されようとも、日本におけるマルクス主義が1つの知的運動intellectual movementとして、職場と世代によって分断された知識人のかなりの部分を相互に結びつけ、知的の共同体の意識を呼び醒ませたという足跡は永久に残るのではないかと思います。けれどもこの第2のエポックは満州事変以後、とくに「転向」の時代の到来と戦時軍国体制への編成によって終わりを告げます。

  その次に第3のエポックがまいります。
 これが敗戦直後の時代です。大日本帝国の思想に「閉じた」社会の厚い壁が一挙に崩れ落ち、「暗い谷間」を過した知識人に、3たび知性の共同体の住人としての自覚が呼び醒まされました。私は妙な言葉ですが仮にこれを「悔恨共同体の形成」と名付けるのです。
 つまり戦争直後の知識人に共通して流れていた感情は、それぞれの立場における、またそれぞれの領域における「自己批判」です。一体、知識人としてのこれまでのあり方はあれでよかったのだろうか、何か過去の根本的な反省に立った新しい出直しが必要なのではないか、という共通の感情が焦土のうえにひろがった。そこには開放感と自責の念とが分かち難くブレンドされていました。
 もちろん何を悔いたかはその人の敗戦までの思想的な道程によって異なります。かつて「アカ」として逮捕投獄され、転向手記を当局に提出した人々は、変化する精神的気候の中で自分の原則を貫けなかった知的および道徳的な弱さを悔いた。いわゆる自由主義的知識人達も、国内における軍部や右翼の政治勢力の台頭に対し懐疑と不安をいだきながら、結局はズルズルと押され「新体制」に順応したということに対して悔いた。
 また、各分野の専門的・技術的知識人にも、自分たちはあまりに社会政治情勢に対して無知で、専門以外のことについては、いわゆる「学のない」国民大衆と全く同じに政府や大本営発表をそのまま素朴に信じながら自分の仕事を続けてきた、今後はもっと広い世界的な視野を持たなければならない、という悔いと反省が広く拡まった。社会人ではない、学徒出陣した学生たちも、学園に復帰して再出発するに当って、青年なりに無知と無批判への悔恨がありました。
 これが空き腹を抱えながら哲学書や社会科学書を買うために本屋の店頭に行列を作る という光景が方々にみられた所以だろうと思います。戦争に反対して辛い目にあった少人数の知識人でさえも、自分達のやったことはせいぜい消極的な抵抗ではないか、沈黙と隠遁それ自身が非協力という猜疑の目でみられる時代にあったとはいいながら、我々の国にはほとんどいうに足るレジスタンスの動きが無かったことを、知識人の社会的責任の問題として反省する必要を痛感しておりました。
 私の先生である南原先生が当時、「精神革命」という言葉を用いられて、旧体制の社会革命だけでなく、むしろヨリ根本の問題は我々自身の精神革命の問題だ、ということを強調された。そういう用語を使わなくても、それに近い意識は私は戦後直後において知識人の間に非常に広く行き渡っていたと思います。

  こうして戦争直後には、専門分野や職業のちがいをこえて新らしい知性の建設をめざすいろいろな集団が生まれました。
 例えば「民主主義科学者協会」とか「新日本文学会」とかいう集まりは1950年代になりますと、すでにコミュニストまたはその同伴者の集団とみられておりますが、結成当初の記録をみますと、今日ではちょっと考えられないような人々が発起人となったり、活動に参加しています。
 知識人の再出発 ― 知識人は専門の殻を越えて1つの連帯意識を持つべきではないか、 そういう感情の拡がり、これを私はかりに「悔恨の共同体」と呼ぶわけです。しかしこれはまさに「悔恨の共同体」であったところに限界があった。というのは戦争体験が風化すると共に「悔恨」もまた時の流れの経過とともに風化を免れなかったからであります。

  ご承知のように日本の復興が「焼跡民主主義」から高度成長時代へと急テンポに進展するにしたがって、政治・経済・教育等あらゆる領域で一度麻痺状態に陥った制度は急速に整備され、組織は肥大化し、国民生活のすべてがルーティンのレールの上に乗って進行するようになりました。
 いうまでもなく専門化と官僚化の傾向は、先進国に世界的に共通する現象ですが、私が申し上げたいのは、戦後においては近代日本のいわば「業(ごう)」であったこうした傾向が一層加速化されたのだということです。
 マックス・ヴェーバーのいった「魂のない専門人」の輩出はーすでに山路愛山が明治時代に指摘していた事であり、そうした傾向が、戦後の世界的な動向とダブってあらわれてくる。こうして知識人がふたたび各職業領域のタコツボに入ってしまったというのが今日の状況ではないかと思います。

  さて、今後どうなるか、知性の共同体の再建はいかにして可能かということは皆様に考えていただくとして、最後に一言「備考」をつけ加えておきます。
 私共は江戸幕府体制のことを身分社会と申します。士農工商の身分だけでなく、日本中が300に近い閉鎖的な藩で分断されていました。けれども皮肉なことに、身分と藩によって縦横に分断された幕藩体制おいて却って知識人の間に知的共同体の共通の成員だという意識があったということであります。
 というのは当時の代表的知識人は「儒者」ですが、儒者はある人は藩に使え、ある人は使えていない。そうして儒者は朱子学とか古学とかの立場に基いて非常に激烈な論争も行いました。
 しかし、在官と在野をこえ、藩の相異をこえ、彼等は共に「聖人の道」を学んでいるという共通の意識によって結ばれていた。むしろだからこそ、同じ「道」をめぐって共通の土俵で論争した。儒者に対立した「道」を主張した国学者などの間にもまた同じような意識があります。そして、庶民社会でこれに対応するのが先程申しましたような古典落語に出てくるような「物知り」であります。
 都会では横丁の隠居や大家であり、田舎では、お寺の坊さんか寺子屋の師匠がこれに当ります。ああいう物知りというのは、どんなに戯画化されて描かれているにせよ、近代知識人の原型であり、自分がどこの国に生れた、とか身分は武士だとか医師だとかいう所属意識をこえて普遍的な文化を追求する、知的好奇心にあふれた存在です。
 しかもそういう知的階層が、自己意識としてもまた世間の目としても、何藩とか何村という区別をこえて、「学者先生」というカテゴリーでまとまっていた。
 逆に大日本帝国が出来て、封建的な階層制と地域的障壁が大胆にとりはらわれた後に、急速な官僚化と専門化がそれに代位してくると、かえって組織への所属制の方が、知的共同体の同じ成員であるという意識よりも優先するようになってくる。こういうパラドックスがみられるように思われます。

  今日は、とくに後半の話をきりちぢめて急ぎましたので、もともと完結していない話が一層お分かりにくくなったのではないかを恐れますが、大分時間を超過しましたので、 一応私のお役目を終わらせていただきます。

(著述業・東大・法・昭12)
※本稿は昭和52年6月10日 夕食会における講演の要旨であります。