甘えの心性と近代化
土居健郎
(聖路加国際病院顧問)
講演特集号(昭和62年10月)

 ご紹介いただきましたように、昭和46年に出ました『甘えの構造』という本が好評を得たために、その後しばしば「甘え」についての話をさせられてきました。しかしいつも同じことをしゃべるのは自分はつまらないし、また話している者がつまらないと聞いている方もたいてい面白くないものです。ところで本日お集まりの方々は皆さんインテリでいらっしゃいますから、近代化の問題には大変関心がおありであろうと想像いたしまして「甘えの心性と近代化」という題をつけたような次第であります。
 
 「甘え」の問題に深入りしましたのは、私は本来医者でありますから、まあ余技のようなものでございますが、しかし後述いたしますように私の本業と全く無関係なことではございません。これに対して、近代化ということになりますと、社会学的な概念でありますから、私はずぶの素人であります。したがって間違ったことを言うかもしれませんけれども、現代に生きる日本人の一人として、私なりに日本の近代化の問題には多大の関心を寄せております。そこで甘えの観点から近代化を見た場合どういうことが言えるだろうかという点について若干お話ししようと思ったわけであります。
 
 順序といたしまして最初になぜ「甘え」ということを問題にするようになったかということから話を始めたいと思います。
 
 『甘えの構造』の中に述べたことでございますが、これには1950年(昭和25年)、アメリカに初めて私が留学いたしました時に受けたカルチャー・ショックが大きな刺激となっております。戦時中に軍隊で南方に行ったことがあり、それが私にとって日本を離れた最初の経験でありまして、その時も日本という国のことをいろいろ、考えさせられましたが、アメリカ体験はそれにもまして、はるかに大きな刺激になったわけでございます。自分が日本人であるということを本当に強く感じさせられました。自分の感じ方、考え方にはアメリカ人と違うところがあることをはっきり体験させられました。まあ、カルチャー・ショックだけであればどなたも体験されることであって、別に甘えの問題に突き当たらなかったと思いますが、なぜ私の場合そうなったかというと、その点が私の本業と関係があるのです。
 
 私の専門は精神医学で、この学問では人間の心のあり方が問題になります。ところで心と言葉の間には非常に深い関係があり、そして言葉というと文化とかかわりが深いわけですね。私は医者になりたての若い頃から、なぜ自分たちは学問をするときに欧米語に頼らなくちゃいけないかという素朴な疑問を持っていました。戦前の医学教育はドイツ語を重視しまして、カルテという今も使われている言葉はドイツ語ですし、カルテを記載するのにも「てにおは」だけは日本語を使って、それ以外はドイツ語を使ったものです。戦後はだんだんドイツ語から英語に変りましたが、それだけの変化で事情はあまり変りません。これは考えてみると妙な話です。私は戦後しばらく内科をやっていましたが、その時も大変不思議な気がしました。患者は日本人で、日本語で病状を訴えているのに、それを聞いている医者の方は英語に直して書くというわけです。この点はその後精神科に転じましてますます強く感ずるようになりました。殊にアメリカに行ってから、彼らはみんな英語で話して英語で物を考え、英語で物を書いているのに、どうして日本人に同じことができないのかということを痛感したわけです。殊に心理というのは言葉と密接な関係がありますし、自分達の気持ちを最もよく表現できる母国語を使わないで心の状態について議論するのは、土台おかしなことだと思いました。もちろん西洋からいろいろ学ばなければならないことがありますが、しかし一番大事なことは、西洋人が西洋の言葉で物を考えるように、日本人も日本語で物を考えることだと強く意識した次第です。こういう心構えが、甘えの問題を掘り下げていくようになった一番根本の動機であります。というのは日本語で甘えというとすぐわかりますが、これを英語で言おうとすると簡単でない。その他にも日本人の患者を診ていて日本語だと簡単に記載できるのに英語だと記載できないものが沢山ある。もちろんその逆もありますが、このような点に興味を持って、とうとう『甘えの構造』という本を書き上げたような次第です。
 
 あの本が出ましたのが、昭和46年、私が東大教授になって本郷に来る直前です。たしかその前年の45年にイザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』が出ている。あの本はかなり有名になりまして、その波に乗って私の本も売れたのではないかと思いますけれども、その後日本人論なるものが流行するようになりました。
 
 私の本はそのはしりの一つと考えられているようです。もちろん私は一方で日本人の特徴をつかみとりたいと思いましたが、同時に日本語で学問をしたいという気持があるわけですから、単に日本人論を展開するだけでは満足できない。そこに普遍的なもの、西洋人にも通じるものを打ち出したい。そういう気持ちは初めからありました。ですから、この甘えの概念というのは、概念としては日本特有であるけれども、しかしその概念が普遍的な意味を持つということを初めから考えており、『甘えの構造』でもかなりはっきりその点を書いたつもりでおります。しかし、読者にはその点がそれほど強くは伝わって来なかったかもしれない。ちなみに中根千枝さんのタテ社会論が出たのがやはりその頃です。中根さんの最初の論文が『中央公論』に出たのが昭和四十年代の前半だったと思いますけれども、中根さんのお仕事と私の仕事が両方並べられて、一時日本人論の代表作のような観を呈したように思います。
 
 もちろん私の書いたものに対して批判がなかったわけではありません。これは日本人よりアメリカ人の方にかなり強く、最近ではそれが特に強くなってきております。それは日本人が日本人を特殊と思いすぎるという感じがアメリカ人に強いからであって、日本人が特殊であるという考えを強化した犯人の一人に私はさせられております。中根さんも犯人の一人で、他に日本人だけじゃなく、ライシャワーや私の友人のエズラ・ボーゲルらも同じように槍玉にあげられております。
 
 たとえば、「甘え」は日本人だけの専売特許ではない、アメリカ人にだって甘えの感情というものはあるとか、こういう論評が出ております。大体批判するのは、アメリカで左翼系の学者に多い。現在は、日本の国際化を促進せねばならないという事情から日本の特殊性を協調する結果となる議論が批判の的とされるのでしょう。アメリカは移民がつくった国で、ヨーロッパのいろんな国から人々が渡ってきましたし、後にはアジア人も入り、最近では多くのベトナム人が入っていますが、こういう事情からアメリカという国はそれぞれの民族の特殊性を消し去ろうとする傾向が強く働くように思います。大体アメリカン・デモクラシーの基礎になっている平等主義と関係のあることですが、アメリカという国は普遍的な原理のもとに人々が団結するということでつくられた国です。そういう立場に立つと、人々は文化の普遍性というものを強調したくなります。文化人類学というのはアメリカで発達した学問ですが、それはいうなれば普遍的な文化の恩沢に浴していない民族を調べる学問だということができるほどです。
 
 しかし他方アメリカには、最近エスニシティといって民族性を大事にしようという動きがマイノリティ重視の運動と関連して出てきています。他方反対に、エスノセントリズム、日本語で自文化中心主義と訳していますが、そういう傾向を極端に嫌う風潮がございます。最近私の考えに対する風当たりが強くなっているのもこの風潮と関係があります。しかし文化というものは本来自分中心のものです。ですからアメリカ人はアメリカが中心と思うし、中国人は中国が世界の中心だと思うのです。一つの文化の中に生まれた人間が自分の文化を中心に考えるのは、まあ、当然の結果であるといえますね。ですから特殊性を強調し、その特殊性が普通に通ずることを主張したとしても、必ずしもそれが他に優れているという意味ではない。この特殊性と普遍性という原理は相互に対立するものではなく、むしろ相互に相補うものです。そして文化的なことを考える場合にはどうしてもここのところを避けて通ることはできないのではないかと私は考えています。
 
 次に「甘え」の心理をどう考えるかという点について少し話をしてみたいと思います。これは日本人にとっては普通の言葉ですからすぐわかるけれども、先ほど申したように違う文化から見るとそれがいかにわかりにくいものかということがわかってくる。一口に「甘え」という状態はどういう場合に起きるかというと、これは人間関係の中で起きる。しかし人間関係がなくて「甘え」が起きるという場合もある。そういう場合は説明がちょっと難しくなります。
 
 一番簡単な場合は子供が親に甘えている場合でしょう。これは相手と特別な関係にあって、相手によって愛されているというか、自分が相手に受け入れられているという感じがあって、ある種の一体感が経験されている場合です。これは満足している甘えですね。満足している場合は相手がこちらを受け入れている、それは相互的といいますか、こちらの要求を相手はわかっていて、わかってくれているということがこちらにもわかっている。そこで一体的な感情が起きていることになるのです。
 
 ところでこの状態をもう少し違う点から見てみますと、ふつう相互的といいますと、双方の立場がイコールなわけですね。相互依存というのがそれです。これに反して甘える関係というのは甘えを許容する相手、つまり甘えられる相手がいて、甘える人がいる、そういう一方的なベクトルが付されている関係であるということが言えます。したがって、そういう関係が成立するためにはこちらの気持ちを受け入れてくれる相手がいなくてはいけないし、この関係は非常に相手に寄りかかっているところがあるわけです。一体感と言いましたけれども、たとえば男と女が互いに愛し合って一体感を体験するのとはちょっと違って、この場合は双方の間にあるステータスの違いがある。これは英語で言いますとディペンダンスの関係、すなわち依存的な関係ということができます。要するに甘えは相手次第というところがあります。こちらは甘えたい、しかし向こうが甘えさせてくれればいいけれども、甘えさせてくれなければフラストレーションが起きる。ですから甘えという感情は、それが満足しているときは大変気持ちがいいけれども、同時に傷つきやすい状態です。もし満足が得られなかったら、すねたりひがんだり、ひねくれたり恨んだりします。このように甘えと関係していろんな語彙がもともと日本語に多いのには甘えの不安定性のためかもしれません。
 
 さて心理学用語で、もともと西洋から入ってきた言葉ですけれども、感情とか、欲望とかいう概念がありますが、「甘え」は甘えているときは感情であるわけですね。しかし甘えられないでいるのに甘えたいときは、広い意味では感情と言ってもいいけれども、欲望という方がよい。そこで、先ほどちょっと述べたことですが、こういう感情は人間本来のものであり、殊に子供を見れば明らかなように、日本人だけでなく西洋人にだって甘えはあります。しかし言葉と心理の問題になるのですけれども、欧米の言葉はそういう甘えの感情に特に名前をつけない、一口でいえば甘えはラブの中に入ってしまう。したがって「甘え」をはっきり概念として取り上げることができるのは、日本語だけだということになります。ちなみに英語でセンチメントというと、ある特殊のリファインされた感情を言います。ですから欧米人にもフィーリングとしての甘えは存在するけれども、甘えという語彙がない以上、彼らはセンチメントとしては甘えを体験しないという言い方ができると思います。
 
 甘えというものは、子供が親に甘えるというふうに一種のステータスの違いを前提としていますから、幼児的というか、プリミティブといってもいい感情ですね。たとえば、子供が親に甘えているときに、その子供が意識して甘えているかというと、意識してはいません。ただ大人がそれを見て甘えているというわけです。ですから甘えの感情そのものは言語を伴わないで起きている。英語でノン・バートルと言いますけれども、非言語的なコミュニケーションとして甘えが起きるのだということができます。言葉を持ち込むときはむしろ甘えられなくなるのです。「これから甘えますよ」と言っては甘えられないですね。ただ「お言葉に甘えまして」と反省的に言う場合は別です。この表現は、ステータスの違いがはっきり意識されていて、相手の好意を受け入れる---相手が好意を示してくれることをお受けいたしますというときに使います。この点西洋のラブという言葉の使い方とかなり違っていて、西洋人がアイ・ラブ・ユーと言う場合には、言葉に先行してラブがあるのだけれども、しかし、アイ・ラブ・ユーと言うことによってラブは一層強められる。西洋人には、愛というものは本当であればあるほど言葉で表現され、行いで実現されなくちいけないという考え方がある。これは西洋人の倫理です。ところが日本人のいう甘えというのは、これも広い意味では一種の愛ですけれども、言葉で表現し、行動で実現するというよりも、見るものが見ないとそこにあることがわからない、そういう感情ということができるかと思います。 
 
 そこで、先ほどから申し上げているように、日本語の甘えるという言葉はかなり特殊な言葉だと思うのですけれども、日本語だけにあるかというと韓国語にも似たものがあるらしい。もっとも韓国語の「甘え」は、日本語のように概念としてあまり一般化できないもののようです。もっとも言葉というものはどんなものでも他国語に正確に翻訳するのは非常に難しい。「甘え」の意味を英語やドイツ語やフランス語で何とか表現できないかというと、もちろん不可能ではないし、辞典をご覧になるといろいろ訳が出ていますけれども、ただ日本語の世界のように甘えをめぐって一つのコンステレーションが他の言語ではできていない。日本語では、甘えられないからすねているとか恨んでいるとか、そういうふうにわかるようにできている。そういうことですべてを引っくるめて甘えの語彙ということがいえる。甘えの心理を日本語は非常に上手に表現できるし、ほとんど分析的に表現しているといっえもいいのじゃないかと思います。日本語はよく分析的でないといわれますけれども。
 
 次に甘えの延長線上にある心理を表現する言葉として「慕う」という言葉について考えてみたい。「慕う」に準ずるものとしては傾倒とか私淑とか、他にもいろいろあります。私淑というのは孟子に出てくる言葉だそうですけれども、ともかくひそかに相手に対して心を寄せているという気持を表現する言葉は日本語に大変多いし、使い方も多いのじゃないかと思います。「慕う」を英語でいうとロング・フォーとかイァーン・フォーとかいう表現になりますけれども、日常的にはあまり使わないような気がするし、かなり詩的な表現になります。しかし日本人は日常会話の中で、「慕う」「傾倒する」「あこがれる」などしょっちゅう使っている。我々の高校生時代は、ドイツ語のゼーンズフトがはやったけれども、これもやはり日本人にあこがれの気持ちが強いからではなかったかと思います。
 
 ところで「甘え」にせよ「あこがれ」にせよ、これは同等の関係というよりもステータスの違いがありますね。先ほどはディペンダンスという言葉でこれを表しましたが、依存とか依頼心は心理的な言葉です。しかし社会学的な言葉でステータスの違いを記述するとどういう概念が出てくるかといいますと、実は権威なのです。すなわち、ステータスの違いというのは、甘えられる方が強く甘える方が弱者であるということになりますが、この強い方に権威があることになります。ですから「甘えの心理」の世界というのは、権威が見える世界、権威を前提としている世界ということが言えるわけです。そう考えると、そこですぐに日本の近代化の問題につながってくるのです。どういうふうにつながってくるかと申しますと、西洋人は、日本の社会を権威主義的と見ています。日本の社会で上下関係がいつも問題になるということは権威の所在が問題になるということであって、そこから日本人は権威に弱いという結論が出てくるのです。
 
 ここで日本の近代化があらためて問題となります。なぜかというと、日本では未だに前近代的な人間関係が支配し、いつも上下関係を意識しているというふうに欧米人が見ているからです。外国で日本人同士が会うと、必ず最初に、どっちが年が上か、ランクの上下はどうかということを探りあって、それから話を始めるというふうに彼らは非常に辛らつな観察をしています。このように日本は人間関係が非常に前近代的であるのに、なぜ近代化に成功したのか。これは彼らにとって大きな謎であり、西洋の社会学者はこの問題をいろいろ議論しています。近年来日したアイゼンシュタットとか、リブセットというような学者がこの問題を取り上げて近代化と伝統の関係を論じているのを読んだことがあります。彼らは日本の例から、どうも近代化と伝統は必ずしも齟齬しない、それどころか近代化を促進するような伝統があるんじゃないか、というような議論を展開しています。しかしそれならば西洋の近代化は伝統と完全にたもとを分かっているといえるのでしょうか。西洋も中世は宗教が非常に盛んで、また封建主義的であったけれども、産業革命と同時にどんどんモダンになったとふつう考えられています。アメリカがその一番いい例ですが、しかしそのアメリカでも伝統と完全に決別したかというと、必ずしもそうではないのであってパターナリズムという形で伝統が残ったと言われます。この言葉は日本語で家父長的温情主義というふうに訳されますが、このパターナルという言葉はアメリカの学者が日本人を描写するときによく使う言葉で、「日本人はパターナルな関係をすぐ持ちたがる」というふうに使います。これは大抵悪口の意味で使うのですけれども、しかし実は西洋の近代化の中で最初にパターナリズムというものが出てきたと言ってよいらしい。すなわち産業革命で伝統的な共同体が崩れる、家庭がバラバラになる、それを何とか食いとめようとして、擬制的な親子関係を作っていこうとしたのがパターナリズムで、それは他ならぬ西洋でまず起きたことであって、したがってそういう言葉もつくられたということができます。  このパターナリズムが西洋で盛んになるのが十九世紀ということですが、私がそのことを知ったのは、アメリカの社会学者リチャード・セネットという人が1981年に出した『オーソリティー』という本によってです。セネットによれば、このパターナリズムは西洋で破綻する。というのは現代の西洋人は権威というものを原則として否定するからです。殊にアメリカではそれがひどい。では否定することによって彼らは権威から自由になっているかというと、そうではないというのがセネットの意見です。
 
 ここで自由の観念が問題となりますが、西洋人、殊にアメリカ人にとって自由というのは、権威からの自由であり、権威を否定する自由なのですね。言い換えれば、権威というものは必ず圧迫するものであるということになります。しかし権威を否定することによって自由が成立するためには権威がまずもって存在していなければなりません。その意味でアメリカ人の自由の理想は、実質的には権威に依存しないですむこと、日本的に言えば甘えないですむ状態ということになります。
 
 ところがこれは限界概念で、実際には非常に難しい。ある人はより自律的で、ある人はそれほどではないということになります。そうすると、自律の少ない人間はより自律的な人間に支配されることになります。それが現にアメリカで起きていることです。このことはアメリカでは自律的な人間ほど権威を持っているということを意味します。ですから、彼らは権威というものを一般の意識から否定して平等主義を主張するけれども、実際には非常に隠微な形で権威に従属させられる関係が続いていることになるのです。
 
 この考え方をバックにしますと、日本人の物の感じ方がはっきりしてくるように思います。日本人は権威を真正面から否定しない、むしろ受け入れる、これはそのとおりでしょう。しかし、権威のよしあしを見分ける目というのが日本人にはかなりあるのではないでしょうか。泣く子と地頭には勝てないというように、危ないと思ったら用心して適当に面従腹背をやり、本当にいい人ならば心から従うわけです。この心から従うことと甘えることはどうもつながっている。そしてアメリカ人にとって甘えないことが自由のしるしなのですが、日本人の自由はどうも甘える自由のようです。こういう訓練を日本人はしょっちゅうやっているんじゃないでしょうか。そこに日本の特徴があるし、強さもある。セネットも言っていますが、人間の欲求は単に食物やセックスにかぎらない、心の養いを求める。聖書の有名な言葉に、「人はパンのみによって生きるにあらず」というのがありますが、この点は子供も大人も同じです。そういう心の養いがないと人生はつまらない。「人生意気に感ず。功名誰かまた論ぜん」という中国の詩も同じようなことを暗示しているように思います。何か心を養ってくれるものを求めて日本人は右往左往する。悪く言えば絶えずうまい汁にありつこうとするといえますし、よく言えばこれはいけるかいけないかに敏感であるということになります。
 
 そこで結論として申し上げることは、日本が非西洋諸国の中で一番近代化が進んだのは、いろんな要素が働いた結果でしょうが、心理学的には、以上述べてきたように、これはいいものだと思ったらすぐ飛びつくことが幸いしたといえます。和魂漢才、あるいは和魂洋才という形で、いいものはどんどん取り入れようとする。この点は『甘えの構造』の中でもちょっと触れましたけれども、そういう働きが非常に高度に発達していることが日本を早く近代化させてといえます。しかしその同じ心理が、同時に近代化に対する毒消しの役割もしていることになりますね。西洋ではパターナリズムがどうも破綻してきている(注)。もちろん西洋にも心の豊かな人がたくさんいますが、しかし全体的に見ると、人間がますます孤独になりつつある。漱石の『心』の中で、主人公の学生が「先生」を大変慕い、そのもとにしげしげと通ってくるのを「先生」がある日戒めて次のような言葉を述べています。「かってはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足をのせさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに満ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」。漱石は19世紀の終りから20世紀の初めにかけて日本の近代化の渦中に生きた人ですけれども、非常に敏感にこの近代化の本質を見抜いていたということができると思います。
 
 ところで日本人は非常な近代化を遂げながら、まだそれほど孤独に悩んでいない。戦前は国家全体が一つの家族とされましたし、戦後も会社などが擬似家族の形態をとって、近代化のストレスというものに耐えてきています。それができるのは日本人が甘えることを知っているからではないでしょうか。これがどこまで続くかはもちろんわかりません。しかし、我々が日本語をしゃべっているかぎり、甘えのよさも悪さもあるけれども、その代り酸いも甘いもかみわけて、何とか日本の社会は西洋の近代化と違う道を進むことができるのではないか。これは希望的観測ですけれども、そんなことを私は考えております。私はご承知のように精神科の医者ですが、最近日本でも精神科の患者がどんどん増えつつあります。精神科が繁盛する社会というのはあまりいい社会ではない。ですから楽観はできないのですけれど、それでもまだまだ西洋よりいいんではないかと、一種の自己満足を感じています。これは私の甘い観測で、それこそ私の甘えかもしれませんけれども。
  以上で私の話を終らせていただきます。

(注)
  森田明は特に米国における人権擁護運動の最近の高まりの中にパターナリズムの破綻を鋭く嗅ぎとっている。「青少年の人権とパターナリズム」ジュリスト1987.5.3(No.884)
  なお、最近我が国で精神衛生法の改正に関して、同意入院の制度を廃止しようとする動 きがあるが、これも同じ様に解釈できるであろう。

(聖路加国際病院顧問・東大・医博・昭17)
本稿は昭和62年7月10日夕食会における講演の要旨であります