龍馬の流儀
星 亮一
(歴史作家)

No.886(平成23年1月)号

要 約

坂本龍馬は薩長同盟及び大政奉還を成し遂げた後、暗殺され、彼の新政府構想であった徳川慶喜を初代総理に迎える大名連合政権も歴史の闇に葬り去られた。通説では「龍馬暗殺の黒幕は会津」であるが、「倒幕派の薩摩藩が、徳川を温存させようとする龍馬の新政府構想を嫌って暗殺した」と推理。龍馬暗殺によって倒幕派が主導権を握り、慶喜と会津は賊軍にされて辛酸を舐めたが、歴史上つねに犠牲を強いられてきた東北が、今もドラマにおいて悪役にされる風潮に苦言を呈する。

東北はいつも負ける運命にある

NHKの大河ドラマ『龍馬伝』は、主演の福山雅治さんがなかなかいい男であることもあって凄い人気です。しかし、私は福島県郡山市に住んでいるのですが、私の周辺では、八月頃の放映から、今後の展開に暗澹たる思いを抱く人が増えてきました。長州や薩摩や土佐の志士達が「幕府を倒せ」と騒いでいる場面が多くなったからです。こうなると次は「幕府と会津を倒せ」となるに決まっているから、「また東北が悪者扱いか」とがっかりする気持ちになって、「もう、見るのをやめた」という人もかなりいます。別に僻み根性が強い訳ではありませんが、東北は歴史上、ことごとく負ける運命にあります。奥州藤原氏が栄えた平泉は、頼朝に徹底的にいじめられました。戊辰戦争においても、秋田を除く東北全体が賊軍扱いを受けました。『龍馬伝』も最初はよかったのですが、「倒せ」となると、「東北を主体にした大河ドラマを制作してもらわなければならない」と本格的にお願いしたい気持ちです。

幕末も、出遅れていた東北

私の家は両親とも仙台藩の下級武士の末裔です。幕末の様子をいろいろ尋ねると、京都守護職を命じられていた会津藩だけは風雲急を告げる京都の様子を肌で知っていましたが、他の東北雄藩は、「京都で何か騒ぎがあるようだ」程度の認識でした。

幕府が鳥羽・伏見で敗れて初めて、盛岡や仙台などは慌てて視察団を派遣しています。薩長土肥に遅れること約二年、「薩長についた方がいい」「とんでもない。義は会津にある。会津を応援すべきだ」という論争がようやく東北で起こるのです。

テレビも新聞も新幹線も何もない時代です。仙台は飢饉もありませんし酒もうまいし米もとれるので、庶民は太平楽でいました。そこに、ガツンと来たのです。

土佐藩は龍馬が亡くなった後、明治時代には薩長に完全に遅れをとり、その他大勢となってしまいましたが、それでも東北に比べればはるかに進んでいました。

坂本龍馬

龍馬の実家は下士階級でしたが非常に裕福でした。ちょうど土佐城が見える所に彼の本家と分家がありました。しかし、上士と下士の間には厳格な身分差別がありました。下士は侍扱いされず、登城も禁止でした。ですから、龍馬は土佐城に入ったことはありません。下士は、上士が通る時は雨の降る中でも道路に腹ばいになってお辞儀をしなければいけない階級でした。

長州では、高杉晋作の奇兵隊のように階級社会を打破する藩政改革が行われ、下士が藩政の実権を掌握しています。土佐もその影響を受け、土佐勤王党が出てきます。大河ドラマでは、武市半平太が道場で門下生とともに血判状に判を押し、「攘夷」を叫ぶ場面がありました。「刀で夷秋を斬るんだ」という主張です。しかし土佐では上士と下士の壁をついに破れず、武市半平太は山内容堂の命令で切腹します。土佐は古い形を引きずったまま明治維新を迎えます。

さて、裕福だった龍馬は江戸に何度か私費留学をします。江戸滞在中、黒船を見た龍馬は、「刀を振り回して攘夷を叫んでも黒船は斬れない」と悟ります。そしていろいろ考えた結果、京都に向かいます。土佐藩士が京都に出ると、大抵長州藩士の子分のようになってしまうのですが、龍馬はそれを嫌がり、「幕府には勝海舟という人がいて、軍艦でアメリカに行っている。その人に会って、世界情勢や海軍について勉強したい」と願い、勝海舟に会いに行きます。最初に勝海舟の弟子になったということは、龍馬にとって非常に大きなことでした。龍馬は最後まで「徳川を切り捨てない」という立場でした。『龍馬伝』でも、西郷と桂が倒幕と慶喜殺害を企てている時、龍馬が強く反対する場面がありました。

龍馬は、幕臣の勝海舟からはリベラルな思想を受け継ぎ、一方で西郷隆盛のような器の大きい人とも、桂小五郎のような革命家とも付き合います。立場を超えて様々な人と付き合った龍馬は、非常に柔軟でバランス感覚があったのでしょう。

勝海舟

勝海舟の家は、曽祖父が越後から江戸へ出て様々なことをやって富を築き、祖父の代で御家人株を買って旗本となりました。昔からの由緒正しい旗本ではないため、どんなに勉強をしてもトップには登用されない家柄でした。

勝海舟の父・小吉は大変先見の明のある人物だったようです。当時、旗本で気の利いた人は千葉周作の道場で剣道を習いますが、勝小吉はどこで聞いてきたか、「剣道だけでは駄目だ。これからは蘭学を勉強しなければいけない」と考え、息子・海舟を蘭学塾に入れます。そのうち「蘭学だけでも駄目だ。やはり英語だ」と聞いてくると、海舟を英語塾に入れるのです。なかなか凄い教育親父だと思います。今で言う「塾を掛け持ちする中高生」が勝海舟で、剣道・蘭学・英語の三つを学びました。

オランダ語が出来た勝海舟は、長崎海軍伝習所に第一期生として入学します。彼は軍艦操練をしますが、海軍トップにはなれず、いつも二番手・三番手でした。例えば、日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節団が派遣されることになりました。使節団は米軍艦で渡米しましたが、護衛という名目で咸臨丸も随行することになりました。勝は「自分こそ艦長」と期待していましたが、木村摂津守という、勝より十三歳年下だが家柄は格上の人が総督に任命されました。「勝は不平たらたらで、キャビンに閉じこもって寝転がっていた」と記録されています。

咸臨丸には福沢諭吉も一緒に乗っていました。福沢は、木村摂津守の従者として渡米した人です。そのため常に木村摂津守に味方し、勝には批判的でした。福沢は航海のことをいろいろ書いていますが、「勝海舟は口だけだ。船が出て嵐になったら日本人は皆船酔いを起こして寝ているだけだ。何の役にも立たない。勝海舟が艦長だったら、船が沈んでしまう」と書いています。

木村摂津守という人はよく分かっていた人で、米海軍士官を七、八人採用して連れて行きました。実際には彼らが操船して約一カ月かけて咸臨丸はサンフランシスコに到着しました。勝は、「全部、俺が動かした」と吹聴し米海軍士官が乗っていたことを『氷川清話』その他で一言も触れていません。そのため福沢諭吉は、「また嘘を言っている」と憤り、勝とは終生不仲でした。

海舟は、「実力本位で人材が登用されない幕府は駄目だ。こういう社会は潰さなきゃいかん」と思っていました。だから龍馬のような幕臣でない人が好きだったのです。

西郷隆盛は、薩摩藩の役人として江戸にいる時に、勝海舟に会っています。海舟は、「これからは幕府の時代ではない。諸君達が新しい日本を造るんだ」と演説し、幕府の批判をしました。西郷は「幕臣なのにこんな発言をする人がいる」と大変驚いています。龍馬も「これ程の人物がいる江戸は凄い」と度肝を抜かれました。そして、「勝先生が言うのだから、我々が天下を取れるかもしれない」と思ったようです。

会社には時々、外部に自分の会社を悪く言って、外部と積極的に交流する人がいます。まさに海舟がそのタイプでした。普通の幕臣は幕府の中の付き合いしかありませんが、海舟は薩摩の西郷と付き合い、土佐の龍馬と付き合い、長州の桂小五郎と付き合い……というようにネットワークが広いのです。そして何か問題が起こったら、海舟が出ていって始末をつけました。組織にはそういう人が絶対に必要です。

海舟は、「攘夷を叫んで刀を振り回している時代じゃない。日本も海軍を作って黒船を持たなければやっていけない」と主張し、神戸海軍操練所を作らせます。そして、「幕臣だけでは駄目だ。広く諸藩から、やる気と体力のある人材を集めなければならない」と主張しましたが、幕府は、「幕府の金で薩摩や長州の人間を養成する訳にはいかない」として、神戸海軍操練所に諸藩出身者を入れませんでした。

勝海軍塾

海舟はこの時、同時に「勝海軍塾」という私塾を作り、塾頭に龍馬を据えました。龍馬は土佐から近藤長次郎ほか二〇名ばかりを呼びよせています。そのまま順調にいけば、幕府もあれ程無様な倒れ方をしなかったと思います。勉強させる場合、薩摩の人、土佐の人、長州の人、仙台の人等いろいろな人を集めて学校を作ればその人達に連帯感が生まれ、日本のことを考えるようになります。ところが、いつも江戸城の中だけで考えて、幕臣の子弟だけで進めようとしたから、歪みが生じたのです。

勝海軍塾にはいろいろな学生がいましたが、その頃の若者は皆、攘夷です。神戸から京都は近いですから、池田屋事件に連座する塾生が出てきました。「仮にも幕府の資金援助を受けている学生が、池田屋事件に連座するとはけしからん」ということになって、海軍操練所は閉鎖、勝は首になりました。

海舟が預かった三〇人近い塾生達には給料が出なくなりました。困った海舟は西郷隆盛に塾生を託しました。当時、琉球や中国などと交易をしていた薩摩藩は、彼らを丸ごと引き受け、「船も操れそうだから、商社でもやらせよう」と長崎で亀山社中を結成させました。ですので、ある時期から亀山社中は薩摩藩の子会社です。

土佐では、下士は草履しか履けませんでした。高下駄を履いて歩くのは上士だけです。これを知った時、私は「成程」と思い当たりました。旧制高校生は皆、高下駄を履きました。それはただのバンカラではなく、一種のエリート意識です。長崎に行った塾生達も皆、高下駄を履いて長崎の町を闊歩します。「俺達は薩摩藩のお抱えの侍だ」という誇らしい気持ちの表れだったのでしょう。

薩長同盟成立

薩摩藩は亀山社中に帆船を買い与えますが、海が荒れるとすぐ操縦不能に陥り転覆する、その繰り返しでした。大体、外洋を帆船で走るのは大変なことです。アメリカの捕鯨船の乗組員は、子供の頃から船に乗っています。マストにさっと登って風を読み、嵐の中で帆を畳むなど、踏んでいる場数が違います。半年や一年、海運塾で勉強したくらいで太刀打ち出来る訳がありません。

「龍馬に海運業は無理」と判断した薩摩の上層部は、以後、龍馬に長州藩との折衝役を任せるようになります。当時、薩摩藩は活発な交易活動から利益を得ていましたが、長崎奉行所に監視され自由に出来ず、幕藩体制への不満が生じていました。そこにイギリスがグラバー商会を介して、武器・弾薬・艦船等を日本市場に向けて輸出し始めました。あたかも討幕運動を煽るかの如くでした。

龍馬は犬猿の仲である薩摩と長州の間に入って、両者を結び付けました。しかしこれは龍馬一人の手柄ではありません。大河ドラマではあまり描かれませんが、長州藩も薩摩藩も、幕末にイギリスに密航者を送り込んでいます。薩摩出身者(五代友厚、寺島宗則など)と長州出身者(井上馨、伊藤博文など)は、ロンドンやパリで、同じ日本人ということで会話を交わしたはずです。西欧列強の実力を目の当たりにした彼らは、「薩長で対立している場合ではない」と悟り、新国家建設に向け協力を誓い合ったに違いありません。帰国後、彼らは薩長のパイプ役も果たす新しい官僚群となります。薩長同盟の成立は、彼ら密航組が実務スタッフとして奔走した結果でもあります。また、長州の高杉晋作は、イギリス植民地下の上海で、中国人が鎖に繋がれ鞭打たれる風景を見て衝撃を受け、強い危機感を抱いて帰国しますが、そうした危機感が広く共有されたことも、薩長同盟成立の背景にありました。

薩摩は、もともと会津と同盟を結び長州と対立していました。しかし会津を切り捨て長州と手を結んだのです。

大政奉還、それぞれの思惑

龍馬は、「天皇と幕府という二つの統治者がいるから混乱する。幕府は速やかに大政奉還し、天皇の下で新国家を建設する。議会制度を導入し、陸海軍を整備して世界に伍していく。そうしないと日本は植民地になってしまう」と考え、『船中八策』を書き上げます。

西郷や桂小五郎は、「幕府は外そう。私達だけでやろう」と言いましたが、龍馬は、「徳川氏も最大の大名として仲間に加え、大名連合政権を作ろう」と言いました。

府軍を打ち負かしました。徳川慶喜は英明で名高い将軍でしたが、信用なりません。朝は「絶対に勝つ」と意気軒昂だけど、夕方になると「負けるかもしれない」と急に弱気になり、「お腹が痛くて寝ています」「風邪を引きました」などと言って肝心な時に姿が見えなくなるのです。余談ですが、慶喜は黒豚が大変好きで「豚一公」とあだ名されていました。薩摩藩は幕府と交渉する際、薩摩の大豪族・肝付家の末裔で主席家老の小松帯刀に、黒豚を土産に持たせたと言われています。慶喜は小松の訪問を大変楽しみにしていて、本当に仲が良かったようです。

結局、「大政奉還後、あなたを初代総理にする」と龍馬が言うし、小松帯刀も太鼓判を押すから慶喜は独断に近い形で大政奉還しました。これが策略でした。龍馬と小松帯刀の役割は慶喜を騙して大政奉還させるまで。この後、龍馬は殺され、小松帯刀は京都から鹿児島に追われました。薩摩藩は軍事クーデターを起こし、徳川慶喜と松平容保を京都から追放します。

当時の薩摩藩では、西郷や大久保ら下級武士は倒幕派でしたが、藩主・島津久光ら上級武士は幕府との戦争に反対でした。西郷らは上層部を説得するために、天皇を利用しました。岩倉具視らが倒幕の詔勅を書いたのです。西郷らは偽の詔勅を持ち帰り、島津久光にちらっと見せました。筆跡も印鑑も確認出来ない一瞬だけだったのがミソです。天皇のご威光で藩論は倒幕に決定、京都に出兵しました。長州も同様でした。

騙されたと気付いた徳川慶喜は、家臣達を大坂城に集めて徹底抗戦を唱えましたが、夜になると小姓服を頭から被って裏門から出て、会津藩主・松平容保ら側近とともに天保山沖に浮かぶ軍艦に乗って江戸に逃げ帰ってしまいました。総大将の振る舞いに幕府軍は戦意を喪失し、大坂を放棄し江戸や国許に帰還しました。

誰が龍馬を殺したか

私は、「龍馬が生きていれば戊辰戦争は起こらなかった」という本を書きました。徳川慶喜を初代総理に据える、という龍馬の新政府構想も、彼の死で潰されました。

誰が龍馬を殺したのでしょう。何か悪いことが起こるとすぐ会津藩のせいにする風潮がありますが、会津藩としては龍馬に頑張ってもらいたい訳です。大政奉還前、龍馬と後藤象二郎と会津藩の重臣が参加した会議で、龍馬の新政府構想は承認されています。慶喜の立場を守りたい会津藩が、龍馬を殺すとは考えられません。

実は、勝海舟こそ曲者です。官軍が攻めて来た時、西郷と古い友達だった海舟は、二人で品川で会談し江戸城無血開城を決めます。ここからは私の推理ですが、薩長は莫大な戦費をつぎ込んで倒幕の戦争を始めたのに、無血開城では戦利品も得られない。しかしただでは軍隊を帰せない。そこで海舟は、「江戸に金はない。でも東北を見よ。会津藩二三万石、仙台藩六二万石、占領すれば相当の価値だ」「京都の騒乱は会津藩のせいだ」等々、西郷を唆したのではないか。そして東北征伐となったのではないか。海舟は知らん顔をして江戸に居続けたので、東北の人達は海舟が大嫌いです。

先日、私は高知県立坂本龍馬記念館に取材に行きました。同館館長・森健志郎氏は私との対談の中で、「戦争回避派の龍馬が生き残ると、倒幕派には不都合」「龍馬暗殺の黒幕は、倒幕派の首領、薩摩ではないか」と仄めかしておられました。私は「全くその通りだと思います」と申し上げ、意気投合しました。

『龍馬伝』はいよいよ龍馬暗殺のシーンを迎えます。NHKは「真犯人はやはり会津らしい」と言います。当時、会津藩お抱えとして新撰組と京都見廻組がありましたが、見廻組組頭の佐々木只三郎が実行犯というのが通説です。彼は会津藩の上級武士の次男坊でした。しかし殺す理由が希薄です。現場検証もなく、見廻組組員の証言のみ。現在の法律からすれば、証拠不十分で事件は迷宮入りしたはずです。

会津の人達は泣いていました。戊辰戦争以来朝敵の汚名を着せられ、下北半島に流され、差別と困窮の極みを忍の一字で耐えてきたのに、今だにドラマでは悪役です。最近は龍馬暗殺についても様々な説が出てきているのに、NHKは「実行犯は会津お抱えの京都見廻組。黒幕は不明」という方針で描くようです。黒幕は薩摩か、長州か、会津か。紀州藩との間にも船をぶつけたトラブルがあって、紀州かもしれません。

龍馬の今日的意味

私は、二〇〇八年八月の衆議院議員選挙の時から「自民党は幕府だ」と思っていました。自民党総裁は一年も続かずころころ代わって、外国から見たら誰だか分からない。徳川将軍も同じです。将軍で知られている人は、家康・家光・綱吉・吉宗・慶喜ぐらいでしょうか。あとは人前で全然話も出来ないし、外国使節と会っても何も出来ない。ただ頷いているだけ。イギリスは、「幕府は駄目だ。リーダーが全く機能していない。薩摩の方が若手を中心に余程しっかりしている」と幕府を見限ります。

そうこうするうち、自民党政権は潰れ、民主党政権になりました。「民主党は薩長」だと言えるでしょう。菅さんは山口県出身で「奇兵隊内閣」を自称していますし、小沢さんは岩手選出ながら薩摩の西郷と大久保を尊敬しているからです。

東北の人達は白けています。平民宰相として有名な原敬こそ尊敬すべきだからです。原は盛岡藩出身の最初の総理でした。彼の号「一山(逸山)」には、戊辰戦争で朝敵とされた東北が受けた侮蔑の言葉「白河以北一山百文」への深い憤りが篭められています。「原より大久保や西郷を尊敬する人は総理になれない」と冷ややかな評価です。

さて、薩長は明治政府になってからも利権を巡って至る所で争っています。例えば北海道開発の利権を取ったのは薩摩で、植民地台湾の利権を握ったのは長州というように、互いに喧嘩ばかりして仲が悪いのです。歴史的に見て、長州好きの菅さんと薩摩好きの小沢さんとでは必ず喧嘩になると思っていましたが、案の定そうなりました。菅内閣は長州閥です。日本の政局はかくのごとく幕末に似ていますが、今の日本に龍馬はいません。「龍馬よ、出て来い」と願う今日この頃です。

(歴史作家・東北大・文・昭34)
(本稿は平成22年9月21日午餐会における講演の要旨であります)