『万葉集』の感傷力
中西 進
(奈良県立万葉文化館館長・全国大学国語国文学会会長)

No.881(平成22年3月)号

     一

日本文化が東アジア(広くはユーラシア大陸)の文化的ターミナルであることは、シルクロードの終着点という表現で一般化している。

しかしその過程でどのような伝播と受容がおこなわれ、その変容にどのような力が加えられたかという問への、大きな返答はまだ聞かないように思う。

そこでわたしは、近ごろ、この大陸文化の東漸に働いた日本の変容力を感傷力だと主張してきた*。感傷とは近代人にとってはむしろ否定される情緒だろうが、そうであればこそ、古代的で本質的なもののはずだ。わたしはこれを「深く、心の中に錘鉛を下ろして確かな手応えを感じる力」と規定した。

わたしは、日本の文化史の上での第一期が一二世紀までに完成した情の文化だと心得ているが、これこそ感傷力による文化に他ならない。その完成の例として『源氏物語』をもち出す点にも異論はない。そしてまた数学者・岡潔が説いてやまなかった情緒**もひとしいものだと考える。

だから完成品として一一世紀の『源氏物語』をあげるのはよいが、さて、ここに到る以前からの歴史も証明されなければなるまい。

とうぜん八世紀を中心とする『万葉集』が問題となるだろう。そこで『万葉集』の文化力が感傷力といえるのか否かが問われる。冒頭に述べたのは、その答えである。

じつはこのことに関しても、若干の言及を古くからしてきた。『万葉集』という寄せ集めの、したがって各巻の個性がさまざまである歌集の中で、第二巻は編集されることで「感愛の文学」とよべるものを生んだと思われる***。ここでは感愛という『万葉集』の用語によっているが、もとより感傷と同質のものである。

このほかに感傷という用語も『万葉集』に見える。これは高市古人[ふるひと](黒人と同じ)が天智天皇の近江大津宮の廃虚を悲しんで作った歌で、
   高市古人の近江の旧堵[きゅうと]を感傷して作れる歌
  古の 人にわれあれや ささなみの
  故き京を 見れば悲しき(巻一―三二)
とある(題詞の原文は漢文)。

『万葉集』には題詞のことばとして、先の感愛のほかに、悲傷、哀傷などがあり、中国の『文選』には「哀傷」が部立として登場する。

これらは人の死、不遇な流離、歴史的な興亡といったものを契機とした歌うたに対して題詞や左注で表現される感情であり、時間空間における欠乏感を主としている。古人の右の歌も、旧都の荒廃が主題である。

すでにあげたように『万葉集』の第二巻は感愛を主題として編集されたものだが、もちろん『万葉集』のすべてが、これを目的として編集されたのではない。それぞれの巻の主題はあるのだが、さて結成された作品としての『万葉集』は、トータルに感傷力にみち、そのゆえに訴求する力が大きく、日本古代文化の大きな代表の一つになっている。

『万葉集』編集のリーダーは聖武天皇であり、天平を冠する時代に現形の大半を得た。

よって『万葉集』の大きな力、感傷力を発揮した天平時代の文化活動は輝かしいものといえる。

     二

それでは具体的に感傷力はどのように『万葉集』から発見できるのか。その実例を述べよう。

時は天平勝宝九歳(七五七)六月二八日である。先の左大臣・橘諸兄の子である奈良麻呂が、権勢をふるう藤原仲麻呂の政治を不満とし、皇太子・道祖王をかえ新帝を立て、仲麻呂を排除して政権を一新しようとする策謀が、仲麻呂の元に密告された。

行動派の仲麻呂が、事を穏便にすますはずはない。加担したと思われる諸王、廷臣たちがつぎつぎと捕えられ、拷問にかけられた。故左大臣長屋王の子・黄文王をはじめ道祖王、大伴古麻呂といった王や重臣も拷問の杖によって絶命した。

処刑者は総勢四四三人。大伴家持の下僚として彼を支えていた万葉歌人の大伴池主[いけぬし]も捕えられた一人で、この事件後記録に名を見つけることができない。下獄か遠流か、そしてそのまま死亡したのであろう。

とにかく仲麻呂は兄の右大臣豊成[とよなり]まで大宰員外帥[いんがいのそち]に下降してしまった。

史書である『続日本紀』はこの「橘奈良麻呂の乱」をあますところなく書きつくして、おびただしい紙片を埋めた。

ところが一方で『万葉集』はこれをどう扱うか。さすがに無視はしていない。だから次のような二首をのせる。

  天平宝字元年の十一月十八日に内裏[うち]にして肆宴[とよのあかりきこしめ]せる歌二首
  天地を照らす日月の [きはみ]無く
  あるべきものを 何をか思はむ
   右の一首は皇太子[ひつぎのみこ]御歌[みうた]
  いざ子ども 狂業[たはわざ]なせそ 天地の
  固せし国そ 大倭[やまと]島根は
   右の一首は、内相[ないしよう]藤原朝臣[まを]せり。
                     (巻二十―四四八六、四四八七)

前者は新しく皇太子とされた大炊王[おおいのおおきみ](のち淳仁天皇となるが、仲麻呂失脚後に淡路島に流されて憤死)の歌、後者は仲麻呂。彼は乱に先立って紫微[しび]中台をおこし、その長官(内相)となっていた。

要するに勝利者がこの二首をのせるはずなのだが、立太子された二十五歳の若者は内心の不安を強いて否定したがっているように見える。仲麻呂も見かねたらしく、あえて一首を奏上した。あれは狂業だ、大倭は天地が固めた国だと。絶叫するような歌である。

事件がらみの歌をのせるとはいえ『万葉集』ではきわめてイレギュラーな内容の歌だ。

ところが『万葉集』は謀反が発覚する直前の二首と、正体不明の一首を右に先立って並べている。

  勝宝九歳の六月二十三日に大監物三形王[だいけんもつみかたのおほきみ][いへ]にして宴せる歌一首
  移り行く 時見るごとに 心いたく
  昔の人し 思ほゆるかも
   右は、兵部大輔[ひようぶだいぶ]大伴宿禰家持
  咲く花は 移ろふ時あり あしひきの
  山菅[やますげ]の根し 長くはありけり
   右の一首は、大伴宿禰家持、物色の変化[うつろひ]悲怜[かなし]びて作れり。
  時の花 いやめづらしも かくしこそ
  [][あきら]めめ 秋立つごとに
   右は、大伴宿禰家持作れり
                    (巻二十―四四八三~四四八五)

謀反発覚の五日前である。謀反がわはおたがい口外をつつしんでいる最中だから、それなりに空気は重く、沈痛である。第一首は聖武天皇、諸兄がすでに死に、時代が大きく代った実感の中で故人を慕い、心中に仲麻呂政権を批判しているのだが、それはことばにはしない。

第二首目は、この、時代の推移にともなう絶望を、目立たずにしかし確かに伸びる地中の根を見つめることで、救おうとする。

そしてさらに第三首はむしろ懐旧の情へのこだわりを捨てて「秋を迎えた時節の花をみてお気持ちを晴らしてください」と、誰かにいった一首である。

誰かとは誰か、小説的な空想をかき立てるばかりで、その人はわからない。人名も、どこでどう作った歌かも伏せたままの登載である。

三首が出所を異にしていることは家持の記名を見ただけでも知られるだろう。三首は明らかに意図的に並べられたものだ。どういう意図か、いうまでもあるまい。仲麻呂への一つの反撥、それでいて心痛めた某への忠告である。

史書の『続日本紀』は同じ目的に向かって叙述の委曲をつくした。それに対する『万葉集』の歴史叙述が、何とこれであった。

ここに深く湛えられた感傷は力において十分に大きく、量において何と豊かなことか。

これをこそ、わたしは『万葉集』が発揮する感傷力だと考えるのである。

     三

こうして『万葉集』のことばは、むしろ余白におかれていることの方がおおい。しかし大事なことばは余白にある。

もう一つ例をあげよう。これまたすでに述べたことだが****、『万葉集』巻十九の巻末には次の一首がある。
   二十五日に、作れる歌一首
  うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり
  [こころ]悲しも 独りしおもへば(巻十九―四二九二)

有名な一首でこの次に左注があることもよく知られている。
  春日は遅遅[うらうら]にして、鶬鶊[ひばり][まさ][]く、悽惆[せいちう][こころ]は歌にあらずは[はら]ひ難し。(下略)。

この、左注の冒頭部分は周知のとおり『詩経』(出車[すいしゃ])の一節である。この左注と歌とを較べると、作者はむしろ「出車」の詩によって和歌をよんだといってよいだろう。

それでは家持はなぜこのように詠歌したのか。じつは、「出車」の詩は北方に賊の鋒起があり、村々の男が兵として徴発され、女たちが離別を悲しむ、乱がおさまり村に平和が戻るという詩である。その平和の部分が左注に引かれた。

この平和を家持は口にし、考え合わせると今の時世が悲しく、悽惆の情を撥うためには歌にたよらざるをえない、と彼は訴えたかったのである。

しかもこの巻末歌をもって先立つ一巻の歌巻を、家持は諸兄にとどけた形跡がある。歌の「独り」とは諸兄と離れている悲しみを表現したものだった。時に天平勝宝五年(七五三)、諸兄はこの三年後に失脚、三か月後に聖武が崩じ、みずからもその八か月後に後を追うごとく薨じた。

ここにも歌のもつ無言の表現があり、歌は深く心の底に錘鉛を下ろして、世の実相を訴えようとしているのではないか。

従来この歌には、その背景にまで省察が届かず、春愁の歌の一つと見なされてきたが、じつはそれほど底の浅いものではないのである。

ただ、聖武・諸兄体制はこの時はまだ表面上つづいている。そこで家持の悲しみは、体制崩壊前だからこう理解することがおかしいと思われるかもしれない。

しかしそういえば奈良麻呂の乱の歌とて五日とはいえ先立っていた。およそ詩の言語とは、そのように結果を先取りして発せられるものだ。もう紙幅がないが、科学や情報の言語しかもたなくなった現代人には、詩や呪言、予告のような神によって管理されていたことばが、もう不可解になっている。それは悲しい言語の受難なのだ。

むしろいま『万葉集』のことばの本質が何であり、この詞華集を編んだことが、日本の文化史の上でどのような意味を持ち、どんな役割をはたすかを考えようとすることは、幸いというべきだろう。

現代人は、人間にとって基本で必須な感傷をすら罪悪視するようになった。そのような心の貧困から脱却するためにも、『万葉集』の感傷力を正統に評価する必要があるであろう。

*たとえば〇九年十月十日のシンポジウム「歴史から学ぶ日本像」(奈良市)、日本経済新聞十一月四日(朝刊)収録。同十七日のシンポジウム「アジア美」(奈良県明日香村)、朝日新聞十月二十五日(朝刊)収録。

**たとえば『情緒の教育』(燈影舎)など

***六五年の上代文学会で「感受の誕生」を報告、同題論文を六六年四月「国語国文」(京都大学)に発表。のち『中西進万葉論集』(講談社)第六巻収録。

****拙稿「引用の意識」『文学』一九八八年十一月掲載、のち拙著『万葉集と海彼』一九九〇年四月角川書店、『中西進万葉論集』(講談社)第三巻に所録。

(奈良県立万葉文化館館長・全国大学国語国文学会会長・東大・文博・文・昭28)