情報とは何か―情報と通信、情報化社会と人間―
熊谷 信昭
(兵庫県立大学長・大阪大学元総長・名誉教授)
No.878(平成21年9月)号

はじめに
 情報化社会とかインターネットなどというような言葉を見たり聞いたりしない日はないというような状況が続いています。なぜ、このようなことがかくも盛んに言われるようになったのかということについて、社会評論家や文明批評家は、よく、次のような解説をいたします。すなわち、「それは、最近になって、人々が情報の重要性を認識するようになり、情報の価値を認めるようになって、情報が金儲けやビジネスの対象にもなるようになってきたからである」というような説明をいたします。そういう説明を聞くと、一瞬、「なるほど」という気がいたしますが、実はそうではないのです。人間社会における情報化の流れというのは最近になって突然始まったことではないのです。

 人間は太古の昔から情報の重要性をよく認識し、常に情報を求め、情報を記録・蓄積したり、伝送・伝達する手段を工夫・改善し続けてきました。例えば、紀元前はるか昔のギリシア時代にも、伝令がマラソンで戦場の戦況を逐一本国へ知らせたとか、紀元前四世紀頃のアレキサンダー大王の時代に、大きな声を出せる者を塔や丘の上に配置して、リレー式に、順次、大声で情報の伝達を図ったというような話もあります。また、古代中国では、狼煙台と呼ばれる塔のようなものを適当な間隔を置いて作り、外敵が襲来するとその上で枯れ木を燃やして煙を上げ、順次それを伝えて遠く離れた辺境の地から国の中央へ敵の襲来を知らせたという史実もあります。二〇〇〇キロメートルくらいの距離を約半日で伝えたと言われています。

 日本でも飛鳥時代から平城京時代にかけて、中国大陸からの来寇に備えて、九州から瀬戸内海沿岸を通り、生駒山を経て奈良の都まで、狼煙のリレーによる通信ルートが設けられていました。幕末から明治初期にかけて大坂の米相場を旗振り、すなわち手旗信号で大和の三輪の米市や遠く岡山、広島まで伝えたという事実もあります。江戸時代の瓦版なども、人々の情報に対する本能的な要求に応える典型的な情報伝達法、すなわちいわゆるマスコミュニケーションの一つだったわけです。

 このように、人類は、人間の歴史始まって以来今日まで、常に情報化社会を目指して進んできたと言うことができます。そして、大昔の狼煙や太鼓などから、伝令、飛脚、駅伝、伝書鳩、手旗信号、郵便、腕木式通信機、電信、電話、ラジオ、テレビ、写真電送、ファクシミリ等々、そして最近の携帯電話や電子メールなどにいたるまで、それぞれの時代にそれぞれのニューメディアがあったのです。

 では、なぜ、最近になって、「高度情報社会」とか「IT革命」などというようなことが、かくも盛んに「改めて」言われるようになったのかと申しますと、それは全く技術的な要因によるのです。もともと、人間社会における情報化の進展というのは、これまでも、常に新しい技術の進歩・発展が決め手となって進んできたのですが、最近になって、情報を扱う技術が、歴史上かつてなかったほどの、まさに劇的と言ってもよいような画期的な進歩を遂げたことが、そのような言葉を「改めて」生み出したのです。

 最近になって歴史上かつてなかったほど劇的に進歩した情報を扱う技術というのは具体的には何かと申しますと、一つは「コンピュータの技術」、もう一つは「通信の技術」です。情報を扱うこの二つの技術の画期的な進歩とその結合が原動力となって、近年の「情報化社会」が実現したわけです。

情報とは何か
 現在のコンピュータの技術というのは、要するに、「情報を処理する技術」です。そして、通信の技術というのは、「情報を伝送する技術」です。すなわち、いずれも「情報を取り扱う技術」です。では、「情報とは何か」ということになりますが、実は「情報」というものを厳密、正確に定義することは容易ではありません。

 情報は物質でもないしエネルギーでもありません。それ以外の「何か」です。そして、人により、専門により、また見方、とらえ方によっていろいろな定義ができてまいります。「インフォメーション」の語源はラテン語の「インフォルマティオーネン」(information-en) で、もともとは「概念」とか「考え」というような意味ですが、「インフォメーション」という言葉を「情報」と訳して、日本で最初に「情報」という言葉を作ったのは、明治の文豪森鷗外(本名 森林太郎、陸軍軍医総監)であったとされています。そして、森鷗外は、「情報とは敵と敵国に関する我が知識全体をいう」と定義しました。

 また、世界で最初に「情報化社会」という言葉と概念を提唱した梅悼忠夫氏は、「人間の感覚諸器官がとらえたものはすべて情報である」と定義し、その後、さらに拡張して、「存在そのものが情報である」としています。例えば、自然の景色は「それ自体が情報である」というわけです。

 大阪大学人間科学部の井上俊教授(現名誉教授)は、「情報には明示的情報と暗示的情報の二種類がある」というようなことを言っています。例えば、二人で長い間話し込んでいて、そのうち一方の人が相手の人に、「ところで、今何時ですか」と聞いた時、本当に「今、何時か」という時間が知りたくて聞いている「明示的情報」の場合と、「もうぼつぼつ帰ろうか」というメッセージを相手に送っている「暗示的情報」の場合の二種類があるというわけです。

 我々工学の分野で情報をこのようなとらえ方で考えたことはもちろんありません。

情報理論の誕生とコンピュータの進歩
 工学・技術の分野で「情報」というものを理論的、科学的に取り扱うようになったのは比較的最近のことなのです。第二次世界大戦後のことであります。戦後間もない昭和二三年に、アメリカのベル研究所にいたシャノンという人が、『通信の数学的理論』(A Mathematical Theory of Communication) という有名な論文を発表したのが始まりです。この論文は現在の情報理論、通信理論のまさに基礎となった歴史的な論文ですが、その中で、シャノンは「曖昧さを減らすもの」を「情報」と定義しました。そして、情報を科学的、理論的、あるいは定量的に取り扱うためには、まず「情報の量」を計る尺度を定めなければなりませんが、シャノンは、「AかBの二つのうちのいずれかである」という「曖昧さ」がある時に、「それはAである」、あるいは「それはBである」、ということを知らされた時に得る情報の量を情報量の基本的な単位として、それを「一ビット」の情報量と定めました。「ビット」(bit) というのは、バイナリー・ディジット(binary digit) を縮めてシャノン自身が自ら名付けた情報量の単位名です。バイナリーというのは「二つの要素からなる」とか「二元の」というような意味で、ディジットというのはデジタル時計などでおなじみの「数」という意味です。例えば、赤ちゃんが生まれた時に、「男の子」か「女の子」かということを知らされた時に得る情報の量が一ビットの情報量なのです。

 このような情報量の定義の仕方は、数学の二進法の演算の考え方に相当します。二進法というのは、ゼロは0、一は1ですが、二は10と表し、三は11、四は100、五は101、というように、あらゆる数を0と1の二つの数字だけで表して計算する演算の方法です。シャノンが情報量を二進法的に扱うように定めたことは、実はコンピュータの技術にとっても、通信の技術にとっても、きわめて重要な意味をもっていました。例えば、コンピュータの場合、我々が日常使っている十進法で働くコンピュータを作ろうといたしますと、0から9までの十個の数字に相当する十個の状態をもつ素子が必要となり、コンピュータ自体が非常に複雑・巨大なものとなって実に大変なことになります。これに対して、二進法で働くコンピュータを作るためには0と1の二つの数字に相当する二つの状態をもつ素子があればよく、一挙に簡単となり、大量の計算を高速で行うためには、結局、二進法的に行う方がはるかに有利になるのです。そういうわけで、現在のコンピュータはすべて二進法的に動作するように作られているのです。

 一方、同じ昭和二三年に、所も同じベル研究所で、もう一つ世紀の大発明がありました。トランジスタの発明です。このトランジスタの技術は、一九六〇年代には集積回路(Integrated Circuit,IC) の技術へと進み、さらに一九七〇年代には大規模集積回路(Large Scale Integration,LSI) の技術に発展しました。トランジスタの発明と集積回路技術の進歩ほどその後の科学技術、ひいては社会全般に決定的な影響を与えたものは他にはないと言っても過言ではありません。シャノンが情報量を二進法的に扱うように定めたことと、この集積回路技術の進展が決め手となって、コンピュータも劇的に進歩したのです。

通信技術の発展
 一方、現在の高度情報社会の実現に決定的な役割を果たしたもう一つの技術である通信技術の方も、近年、劇的とも言える画期的な発展を遂げました。その代表的なものは「衛星通信の技術」、「光ファイバー通信の技術」、「デジタル通信の技術」などですが、今日は、その中で、今話題となっている「デジタル通信」についてお話し申し上げます。

 そもそも人類が行った初期の通信は、狼煙やモールスのトン・ツー式の電信機のように、情報を光の点滅や電流の断続、あるいは煙の有る・無しというような断続的な符号に変換して伝える「デジタル方式」で始まったのです。それが、ベルの電話の発明以来、信号の変化や強弱を表す連続的な波形を、それに比例した(アナロガスな)電流や電波の変化に変えて送る「アナログ方式」になりました。電話はもちろん、ラジオもテレビもこれまではすべて「アナログ方式」で行われてきたのです。それが最近、再び昔の「デジタル方式」に急速に戻りつつあります。現在のデジタル方式というのは、信号の変化や強弱を表す連続的な波形を、適当な間隔以下の細かさで切り出して、そこの値だけを知れば元の波形が完全に分かるという「シャノンの定理」に基づいて、切り出したところの値だけを計り、その値を二進法で、すなわち0と1とで表して、パルスの有る・無しに変換して送るという方式です。

 なぜ今更デジタル方式に変えるのかといいますと、デジタル方式にはたくさんの優れた利点があるからです。例えば、デジタル方式はパルスが有るか無いかということだけが分かればよい方式なので、アナログ方式の場合のような伝送中に生ずる波形の歪みや雑音の累積などによる信号の劣化がなく、きわめて良質の通信を行うことができるという大きな特徴があります。また、アナログ方式よりもチャンネル数を増やすことができるという利点もあります。盗聴されても解読などが簡単にはできないという守秘性にも優れています。

 更に大きな利点は、パルスの有る・無しの組み合わせで二進法的に通信を行う方式なので、同じく二進法で動作している現在のコンピュータとの整合性が非常に良いということです。これはきわめて重要なポイントで、音声や画像、文字やデータなど、様々な種類の情報をすべてパルスの有る・無しに分解して一元的に送れるようになり、受けた情報をパソコンやデジタル端末機などで自由に組み合わせたり、関連させたりすることもできるようになります。

 そんなにたくさんの優れた利点があるのなら、なぜもっと早くからデジタル方式にしなかったのかといいますと、デジタル方式では送信側で連続的な波形を一度パルスの列に変換し、受信側で到着したパルスの列を元の連続的な波形に戻す装置が必要となり、これらが非常に複雑・大型になるうえに、大変高価なものとなるために実際に使うことができなかったのです。それが、集積回路(IC)や大規模集積回路(LSI)などの集積回路技術の進歩で容易に実現できるようになったために、世界的にデジタル方式への移行が進められるようになったのです。

人間社会における情報化の特徴
 人間社会の情報化にはいくつかの特徴があります。その大きな特徴の一つは、新しいメディアが生まれてきても、それまでの既存のメディアが消えてなくなってしまったというためしはなく、常に新しいメディアがそれまでのメディアにつけ加わって、メディアが「マルチ化」しながら進んできたということです。ラジオが普及し始めた時には「もうこれで新聞はなくなってしまうであろう」というような論評がたくさんありましたが、そうはなりませんでした。大正時代に、当時の映像情報の画期的なニューメディアであった活動写真(映画)が登場して、大変な勢いで盛んになっていくのを見て、文藝春秋社長であった流行作家の菊池寛は大いに動揺し、「もう小説の時代は終った。これからは活動写真の時代だ」と言って行く末を嘆いたという話がありますが、これもそうはなりませんでした。電話が現れても、それまでの電報や郵便が消えてなくなってしまったわけではありません。今でも祝電や弔電は昔ながらの電報がそのまま使われています。最近の若者達は、電話よりも、歴史的にはむしろ古い電報の方を頻繁に使っています。ただ、彼らは「電報」と言わずに、「eメール」とか「メール」と呼んでいるだけです。

 テレビが登場しても、ラジオや映画はそのまま続いています。昔の瓦版と同じ号外などもいまだに大きな出来事が起こるたびに出ています。パソコン通信やeメールがいかに普及しても、人間同士が声で直接話し合う電話がこの世から消えてなくなってしまうようなことは決してないと思います。人間社会における情報化は、常に「マルチメディア」の方向に向かって高度化しながら進んできたのです。

人間にとって情報の価値とは何か
 情報は物質でもエネルギーでもなく、使っても減らないものであるから、いくら使っても情報の価値は下がらない、という説がありますが、そうではありません。情報の価値は、その情報を知っている人が少ないほど高く、知っている人が増えてくるとその情報の価値は下がってきます。「新しい情報」、「未だ人の知らない情報」ほど情報としての価値は高いのです。データベースに蓄積されている情報などは、既に公開された情報、すなわち「データ」にすぎず、従って「データベース」とは言えますが、本来の意味での「インフォメーションソース」、すなわち「情報源」とは言えません。

 一方、情報は単独で孤立して存在しても意味はなく、他から得たり、他に伝える通信(コミュニケーション)と一体となって初めて価値をもつわけです。「コミュニケーション」の語源はラテン語の「コミュニカティオーネン」(communication-en)で、その意味は「共有する」とか、「共通の」ということですが、「コミュニケーション」によって大勢の人が同じ情報を「共有する」ようになると、その情報の価値は下がり、皆が知ってしまうともはや「情報」ではなくなり、単なる「周知の事実」ということになってしまいます。そして、情報は、熱力学における「エントロピー増大の法則」と同様に、放っておくと必ず拡がっていくという特性ももっています。

 また、情報は、その情報に対する受け手の関心が高いほど情報としての価値が高く、同じ内容の情報でも、受け取る側の「関心の程度」によって実質的な情報の価値は大きく異なります。生まれた赤ちゃんが「男の子」か「女の子」かということを知らされた時に得る情報の量を一ビットの情報量と申しましたが、それが自分の子供や孫の場合と、見も知らない赤の他人の子供や孫の場合とでは実質的な情報の価値というものは全く違います。すなわち、「情報の価値」というものは、一般の商品と同様に、受け手にとって「欲しいと思う程度」、「役に立つ程度」によって決まります。しかし、今のOと1との組み合わせで処理するシャノン流のデジタル情報技術では、そのような「質的情報量」の違いを取り扱うことはできません。そういう意味でも、現在の情報通信技術は、実はまだ十分成熟していない未熟な段階にあるものがたくさんあると言うことができます。

情報化にまつわる数々の誤解と問題点
 現在、世の中には情報化社会に関する多くの様々な誤解が流布されています。例えば、情報化の基盤整備が進み、情報に関する個人的、地域的、あるいは時間的、料金的な格差、いわゆる「デジタルデバイド」がなくなれば、個人の活動も、企業の発展も、国や地域の活性化なども、すべて均等に進むようになるかの如く思われていますが、実はそうはいきません。国や地域の発展や活性化の決め手となる基本的な要件は、ユニークな世界最新・最高の学術、技術、産業、文化、芸術、娯楽、ファッション等々を創出し、そこに行かなければ得られない「価値の高い生情報」を産み出す真の「情報発信源」となることなのです。いかに光ファイバーを張りめぐらし、パラボラアンテナを林立させて情報基盤を整備しても、それだけで国や地域の発展や活性化が自動的に進むとは限らないのです。これが「ハード」、すなわち「技術」の限界なのです。「ハード」、すなわち「技術」の進歩がなければ話は始まりませんが、同時に、「ハード」、すなわち「技術」だけでは話は終わらない、ということです。

 また、「情報化社会になると、人間は膨大な量の情報の洪水に埋没してしまうようになるであろう」と言われますが、実際にはそうはなりません。いかに情報化が進み、例えばCATVで何十チャンネル、何百チャンネルものテレビ番組が放映されるようになっても、一人の人間が一度に見ることのできる番組はせいぜい一つか二つ、よほど器用な人でも三つぐらいが限度です。新聞にしても、一人の人間が毎日読む新聞はせいぜい二紙か三紙、仕事上必要な人たちでも五紙か六紙が限度です。

 現在、一億を超えていると推定される日本におけるホームページを一件一分で二四時間不眠不休で読み続けたとしても、一億のホームページを一通り閲覧するには、少なくとも一九〇年以上を要します。すなわち、実際に人々が見るホームページは、ごく僅かな限られたものだけであって、インターネット上にホームページを開けば世界中のすべての人が見てくれるというのは、根拠のない誇大な幻想にすぎません。仮に何千人、何万人の人たちが見てくれたとしても、世界の全人口から見ればほんの一握りの僅かな限られた人たちだけなのです。

 では、情報化の進展によって増えるものは何かといいますと、それは、一人の人間が受け取る「情報の量」ではなく、受け取る情報を一人ひとりが選べる「選択の自由度」なのです。情報化社会では、テレビの例でいえば、それぞれのチャンネルがニュース専門、スポーツ専門、経済専門、教育専門、音楽専門、ドラマ専門等々と特定の分野の番組だけを二四時間放映するようになります。さらに、同じ音楽番組でも、チャンネル毎に、クラシック音楽ばかり、ジャズばかり、演歌ばかり、と細分化され、情報の多様化と専門化、細分化が進み、その結果、人々は自分の好む情報だけを自由に選ぶことができるようになるわけです。

おわりに
 二一世紀の科学技術には、「ハードウエア」と「ソフトウエア」に加えて、技術と人間とのインターフェースにおける親和性や操作性、環境との調和性、エネルギー消費の効率性、期待される安全性、人間の感性や心理などとの整合性、芸術性やデザイン性、社会倫理との適合性等々の「ヒューマンウエア」が必要です。そういう意味では、現在の情報通信技術は先端科学技術の代表のように言われていますが、実際は未だ十分成熟していない未熟な段階にあるものが多いと言うことができます。取り扱いが複雑で、使う人間に違和感を与えたり、熟練を要求するような技術は未熟な技術であると言ってよいのです。

 未熟な情報通信技術を成熟した技術とするためには、人間科学や心理学、さらには芸術の分野などまでを含む幅広い異分野の人たちとの連携・協力が一層必要になります。例えば自動翻訳電話を実現しようとする場合、日本で「親が草葉の陰で泣いている」というのは、アメリカでは「親がお墓で寝返りをうつ」(Your parents would turn over in their grave) と言いますので、いくら正確にそれぞれを機械的に翻訳しても、どちらの相手にも全く意味が通じません。実際に役に立つ、成熟した自動翻訳電話を実現するためには、技術者の技術的な努力だけでは達成不可能で、言語学者をはじめ民俗学者や社会科学者などまでも含む人文・社会科学系の分野の専門家たちとの協力が必要不可欠なのです。

 新しい技術や文明が登場した時には、必ずいろいろな混乱や想定外の社会問題が多発するのが常でした。情報化社会においても、教育の問題やセキュリティの問題、知的財産権の問題、プライバシーの問題、ネット社会に固有の新しい犯罪の問題等々の影の部分が発生します。実際、ネットを使った詐欺商法や出会い系サイト、ネットで誘い合わせた集団自殺や人権を無視した誹謗中傷など、予想し得なかった事態や社会的不具合が発生しています。

 情報ネットワークというのは、ある意味できわめて民主的なシステムです。例えば、鉄道網の開通は日本にとって新しい文明の登場でしたが、日本の国鉄(現JR) には上りと下りとがあり、今でも全部、東京が起点です。しかし、インターネットには起点も上りも下りもなく、大人と小人の区別も、グリーン車や自由席や指定席などというような区別もありません。どこの子供が使っても、内閣総理大臣が使っても、全く同等です。しかし、同時に、そのため故に生ずるネットに特有のいろいろな問題、例えば深刻なプライバシーの問題や重大なセキュリティの問題なども発生するわけです。

 情報化の進展によって、いろいろな特定の分野に細分化された情報を自由に選ぶことができる「選択の自由度」が増えてくると、当然のことながら、人々は常に自分が関心のある分野の情報や、好きな番組ばかりを選んで見たり聴いたりするようになります。インターネットの場合でいえば、自分の好みに合う特定の狭いコミュニティーの中だけで情報のやりとりをするようになり、その結果、非常に視野の狭い偏った人間、他人の考え方や嗜好などを理解できない人間、健全な社会常識などを知らない人間等々ができてしまう可能性があります。情報化が進むことによって、かえって若者と年長者、親と子、教師と生徒、上司と部下などの間における相互理解や意思の疎通などが困難になってくるおそれがあるわけです。

 従って、情報化社会では人と人との直接的なフェイス・トゥ・フェイスの対話や接触が非常に重要な意義をもつようになります。実際、これだけ電子商取引(eコマース)や銀行振込みが発展しているにもかかわらず、五・十日の道路の車の混雑は減っていません。商売をする人たちは単にお金を振り込むだけではなく、お得意様に直接出向いて、親しく日頃のお礼を述べたり、挨拶をすることがいかに重要であるかということを経験的に知っているのです。

 また、eメールやファックスなどが普通となる情報化社会では、手書きの手紙や自筆のお礼状などがますます大きな価値をもつようになります。情報化社会では人間自身が果たす役割がきわめて重要となります。従って、情報化が進めば進むほど、バランスのとれた賢明な判断力をもつ人間教育がますます必要となってまいります。

 「健全なる情報通信は健全なる社会から生まれる。そして、より良い情報通信はより良い幸せと繁栄を社会にもたらす」

 という言葉で、私の話を終わらせていただきたいと思います。

 ご清聴ありがとうございました。

(兵庫県立大学長・大阪大学元総長・名誉教授・ 阪大・工博・工・昭28)
(本稿は平成21年3月20日午餐会における講演の要旨であります)