アメリカ大統領のリーダーシップ
本間長世
(東京大学名誉教授)
No.874(平成21年1月)号

はじめに
 アメリカの大統領選挙は4年に1度、ちょうどオリンピックの開催年に行われます。本年(2008)は北京オリンピックが盛会裡に終わり、数々の新記録が生まれましたが、アメリカ大統領選でも、初めてづくしの記録が生まれています。民主党では初めて黒人の大統領候補が誕生し、共和党では72歳の大統領候補が誕生、副大統領候補には女性が選ばれました。

 初代大統領ジョージ・ワシントンから数えて現在のジョージ・W・ブッシュは第43代になりますが、2人のリーダーシップの評価を直線で結んでグラフにすると、かなり急勾配の下降線が描けるのではないかと思います。

Ⅰ ワシントンの教訓
 独立革命軍司令官としてのジョージ・ワシントンのリーダーシップは絶大でした。ヨーロッパでの歴戦を経てきたイギリス正規軍がアメリカ大陸に乗り込んできた時、彼は農民を動員し、訓練をしながら応戦しました。1776年12月25日のクリスマスの夜に、彼はデラウェア川を渡り奇襲攻撃を敢行しました。川幅が広く、しかも冬で川に氷が流れるなかを平底船で渡ってまでして軍を勝利に導きました(図1)。独立を勝ち取った結果、やがてワシントンは初代大統領に選ばれ、建国の父としてアメリカ国民に尊敬されることになります。

 ワシントンは外国でも尊敬されました。日本でも明治35年(1902)の唱歌の教科書に「ワシントンの歌」が載りました。「(前略)13州の血はほとばしり、ここに立ちたるワシントン(後略)」という、彼への尊敬の念を込めた勇ましい歌詞です。

  ワシントンは国の骨組みとしての憲法の制定会議の議長を勤め、「妥協の束」と言われた憲法案がまとまり、各州の批准を経て、独立前の13の植民地がそれぞれ州として1つの連邦共和国を形成します。

  共和国にふさわしい憲法の肉付け作業は前例のないことで、大統領を何と呼ぶかというようなことから始めなくてはなりませんでした。アメリカという国は、イギリス国王の暴政に反逆して建てた国ですから、主権者たる人民が選出した人々の集まりである立法府が重要になってきます。そのため、立法府に関しては詳細な規定が憲法に盛り込まれています。

  大統領となったワシントン(任期1789~1797)は、組閣にあたって適材適所に閣僚を配しました。国務長官には、ヨーロッパの情勢に通じていたトマス・ジェファソンを、また財務長官には革新的財政政策を打ち出したハミルトンを起用しました。

  ところで、ワシントンは大学を出ていません。青年期は土地の測量技師として、生まれ育ったヴァジニアの奥地まで測量に携わりました。当時、測量技師という職業は、内陸の土地を開拓するために重要でした。

  ワシントンは、大学では学びませんでしたが、18世紀の啓蒙主義の精神を身につけていました。ですから、共和国のリーダーとしての大統領の強さを備えていたことになります。彼は、行政府がコレクティブ(集団的)・リーダーシップを振るうように気を配りました。ただし、ジェファソンとハミルトンは主義主張の上での対立を深めていきます。

  さらに、何より彼は大統領としての品格ないし威厳を備えていました。彼は乗馬が得意で、ダンスもまことに優美に踊りましたが、存在感が重々しかったようです。

  ワシントンは2期8年で引退しましたが、これが先例となり、第32代のフランクリン・D・ローズヴェルトまで、大統領の任期は2期8年までが慣例となります。彼は退任するにあたり、派閥の弊害(派閥に陥れば共和国は維持できない)を避けるべきことと、アメリカは建国したばかりの小国であるから、ヨーロッパの諸帝国間の争いに深く介入してはならないことを、あらかじめ国民に切々と訴えました。

Ⅱ 共和国からポピュリズムのデモクラシーへ
 しかし、アメリカはワシントン大統領の下で政党政治が始まり、やがて共和国からデモクラシーへと姿を変えていきます。

  共和国とデモクラシーは両者とも人民主権から出発しますが、前者は人民がまず見識の高い者を選び、選ばれた人々が政治に携わることによって国民のために優れた意見や判断に基づく政治を保証する。つまり良識・見識がある人々を選ぶことを前提とするわけです。後者は同じ人民主権でありながら政党政治の形をとりますから、政党間で政権争いをします。わが党の政治がいかに国民の利益となり、相手の政党がいかに欠陥があるかを有権者に訴え、理性だけでなく感情にも訴えることをします。

  18世紀啓蒙主義の下に生まれたアメリカには、独立宣言に謳われたような自由と平等の価値に基づく政治理念があるわけです。それらを奉じつつ、デモクラシーの下では有権者の利益に訴える部分が強くなっていきます。

  19世紀前半にフランスの若き貴族アレクシス・ド・トクヴィルが、デモクラシーの長所・短所を学ぶためにアメリカを訪れ、9カ月半ほどの見聞で得た感想を、今日古典とされている『アメリカにおけるデモクラシー』としてまとめました。彼はそのなかで、「アメリカには偉大な政党はもうできない。普通選挙によって立派な政治家を選ぶとする考えは幻想である」と述べています。彼が貴族だったことを割り引いても、ポピュリズムのデモクラシーへの警戒感がすでに見てとれます。しかし、近代民主政は政党政治として発展し、今日に至っています。

Ⅲ リンカン
   ―「ポリティシャン」+「ステーツマン」

 トクヴィルが言うように、その後、立派な政治家は現れなかったのかというと、そうではありません。国家分裂の危機にあたって、第16代大統領エイブラハム・リンカン(任期1861~1865)が登場します。彼は「ポリティシャン」、すなわち政治的な駆け引きも巧みな党人政治家であり、加えて「ステーツマン」、すなわち高い見識を備え国家の将来を見通した政治家でもあって、アメリカ大統領のなかでも際立っていました。

  リンカンは1860年の選挙において、共和党の指名大会で大統領候補の指名を得るために綿密な作戦を立てています。南北戦争の最中の1864年の大統領選挙(アメリカは南北戦争の最中でも、4年に1度の選挙をきちんと行っていました)でも、再選のためのさまざまな工作をしています。例えば、彼は司令官を通じて前線の兵士たちに休暇を与えました。休暇をもらった兵士たちは投票のために故郷へ帰りますが、当然、彼らは休暇を与えてくれたリンカンに投票します。

  さらに、リンカンは、挙国一致内閣という名分で、共和党内の派閥の領袖たちを内閣に入閣させました。互いに牽制し合う力を相殺させれば、その上に立って彼はリーダーシップを振るうことができます。

  憲法の規定により、戦時における軍の最高司令官としてリンカン大統領が選んだ前線の可令官たちは、いずれも期待外れでリンカンは苦労しましたが、やがて猛将グラント将軍を見出し、南北戦争は北軍の勝利に終わります。リンカンにとって連邦分裂の危機を救うことは、同時にアメリカ建国の理念を守り、デモクラシーの可能性を世界に向かって示すことでした。

  リンカンの最大の武器である雄弁は、政治的にも大きな意味をもちました。彼の第1次および第2次内閣の就任演説は名演説と言われます。

  有名なゲティズバーグ演説は、冒頭で建国を振り返り、次に一大内戦のなかにあるアメリカの現状を述べ、最後にアメリカの未来を見通すことで締めくくっています(図2)。アメリカを「人民の、人民による、人民のための政治」の国として存続させねばならないことを、メッセージに強く込めた演説でした。

  冒頭に「Four score and seven years ago」とありますが、「score」は20ですから、「20の4倍足す7で87年前」ということを言っているわけです。こういう持って回った言いまわしは、実は『聖書』の「詩編」のリズムを使っています。それによって、たった272語の短い演説ですが、その短さを補うだけの重みが出ています。研究者によれば、その他の部分にも聖書の響きが伝わるような単語が用いられています。

  最後の3行の「that this nation, under God, shallhave a new birth of freedom」の「new birth(新しい誕生)」という表現は、アメリカの歴史を見る上での1つの大事なキーワードと言えます。この後に、あの有名な「government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.」が謳われているわけです。

  この演説では、87年前に独立宣言が採択された時を建国の年とすることになっていますが、これは本来はおかしいはずです。憲法が制定され、大統領が就任して初めて、正式にアメリカ合衆国が創られたことになるわけですが、リンカンは、独立は宣言してもこれから戦争をして勝敗もまだ分からない時に、アメリカという国が誕生したとあえて言い切った。これは言葉による一種の革命だとする研究者もいます。

  ともかく、アメリカの歴史に独立宣言の重みが連綿として伝わることになる演説であったことは確かです。リンカンは、「我々は歴史から逃れることはできない」と言っています。ゲティズバーグ演説は、演説というより、ゲティズバーグ国立戦没者墓地の奉献式場での大統領の冒頭挨拶ですから、3分間の短い文章ですが、これに続く本来の追悼演説は2時間に及んでいます。しかし、当代の大雄弁家によるこの大演説は完全に忘れ去られました。

Ⅳ ウィルソンからブッシュへ
   ―リーダーシップの挫折
◆ウッドロウ・ウィルソン

 その後の大統領は、ワシントンやリンカンに並ぶような人は輩出していません。20世紀に入って、第28代大統領ウッドロウ・ウィルソン(任期1913~1921)が登場します。彼はプリンストン大学の政治学の教授で、後に学長も勤めました。学者の経歴をもって大統領になった人は、彼の他にはおりません。彼は教授時代からリベラルアーツを重視し、政治家を志すなら政治学ばかりでなく、哲学、文学、純粋科学、特に人間性の理解を深めるためには詩を読むのが良いことを強調しています。

  ウィルソンは、1912年の選挙で大統領に当選すると、親しい友人に「私は外交政策のことは全く分からないので、任期中に対外関係に難問が生じたら、それは運命の皮肉というものだ」と漏らしています。

  この運命の皮肉が、まさにウィルソンを直撃します。第1次大戦がヨーロッパで起こり、彼はアメリカの参戦回避に努力します。この戦争はヨーロッパ諸国間の争いであって、アメリカには関係がないから厳正中立を守るべきだとする立場を容易には崩しませんでした。

  ウィルソンは4年後の大統領選挙で、「ウィルソンはアメリカを戦争に引き込まなかった」というスローガンの下で再選されますが、その翌年にアメリカは参戦しています。これに限りませんが、選挙戦のスローガンと、当選して大統領に就任してからの政策は、必ずしも一致しません。

  アメリカは、1917年になってからのドイツの潜水艦による無差別攻撃にたまりかねて参戦を決断しますが、ウィルソンは苦手の外交は主として懐刀のハウス大佐と国務長官に任せ、戦後の世界秩序構築を考えていました。

  ウィルソンは、戦争が起こらない世界をつくるためには、新しい国際平和維持機構をつくるべきであると提唱しました。その基本原則は「民族自決主義(帝国主義に真っ向から対立する考え)」と「集団安全保障」でした。彼はそのための機構を構想し、それがのちの国際連盟規約(カヴェナント)になります。彼は祖父も父親もプロテスタントの長老派(プレズビテリアン)の牧師という家に生まれています。この派は契約神学(神とイスラエルの民の間に恩寵の契約[カヴェナント]が結ばれた)を奉じるプロテスタントの一派です。彼にとっては「カヴェナント」という言葉は、ごく自然に使われる言葉であったのでしょう。

  しかしながら、その基本原則である「民族自決主義」や「集団安全保障」を貫くことは難しく、ウィルソンは前もって「14ヵ条の平和原則」を掲げますが、講和会議が始まると、帝国主義のフランスやイギリスの首脳たちはウィルソンになかなか同意しませんでした。

  ウィルソンは、「民族自決主義は、ほかのところでやってくれるのは結構だが、フランスとイギリスの植民地は手をつけない」というフランスとイギリスの主張を受け入れ、妥協を重ねた末に国際連盟規約を含む講和条約案を成立させます。それをアメリカに持ち帰り、上院議会の3分の2の賛成を得て批准されることを目指しますが、そこに彼の宿敵である共和党のへンリー・キャボット・ロッジが立ちはだかります。ウィルソンの雄弁にかなわないロッジは、議会上院で、国際連盟規約案の全文を一語一語大きな声でゆっくりと2週間かけて読み上げるといった引き延ばし戦術を行います。なかなか通らないことに業を煮やしたウィルソンは、直接国民に訴えます。

  国民に対してどれくらいの説得ができるかは、大統領のリーダーシップが問われるところです。旅行先の各地の演説は聴衆の共感を得ますが、結局、彼は志半ばで過労のため脳梗塞に倒れ、その結果、アメリカは国際連盟に参加しないままで終わることになります。

  しかしながら、彼の「民族自決主義」と「集団安全保障」の基本理念は、「ウィルソニアニズム」として今日まで生きています。国際連盟の後に国際連合がつくられ、今日ではこれが集団安全保障の国際機構として機能しています。「民族自決主義」の理念も、第2次大戦後の独立国の増加につながりましたが、新たな紛争も生んでいます。

◆フランクリン・D・ローズヴェルト
 ウィルソンから数えて4代目に、第32代大統領フランクリン・D・ローズヴェルト(任期1933~1945)がリーダーシップの新しい形を発揮した大統領として現れます。

  彼は大恐慌の最中に登場して、国民を励ましました。「恐れるべき唯一のことは、恐れること自体である」というメッセージが彼の甲高い声で述べられると、国民は奮い立ったといいます。彼は名門中の名門の出で、ニューヨークがまだオランダ植民地であったころ移住してきた家の子孫です。アメリカに称号をもつ貴族はいませんが、上流階級の、さらにその中の上層の家の子孫が人民の側に立ったことで、1936年の選挙では、ローズヴェルトは農民や労働者の支持を得て、再選を果たします。

  彼の下で、大統領のリーダーシップの重要性は名実共に飛躍的に増大します。執行権が大統領に属することは憲法に規定されていますが、国内外の問題に対する政策の企画・法案化、議会通過のための議員たちへの働きかけが、大統領の下で積極的に行われます。

  それだけでは足りず、大統領のリーダーシップにはモラルがなければいけないとして、ローズヴェルトは「モラル・リーダーシップ」の必要性を説きました。

  国内においては経済政策、つまり大恐慌からの救済・復興に努め、失業問題の解決に苦心惨憺して、1938年からは事実上ケインズ経済学を取り入れて、財政政策を行います。連邦政府が経済活動に介入するべきだというニューディール・リベラリズムは、ローズヴェルトの死後も、保守的な「新自由主義」が登場するまで続きます。

  序でながら、ケインズとローズヴェルトは一度ですが会っていて、ローズヴェルトは「経済学者という人が来たが、数字を並べて何を言っているか全く分からなかった」と語り、ケインズは「ローズヴェルトは政治家としては実に優れているが、経済学のことは何も知らない」と述べたという逸話が残っています。

  ニューディール政策をもってしても失業問題は解決しないままアメリカは第2次大戦に突入し、それによって失業問題が解消することになります。ローズヴェルトは、ヒトラーの脅威を深く懸念して、この力を抑えることが極めて重要であると早い時期から考えていましたが、第1次大戦で懲りたアメリカ国民の間に孤立主義が強まり、ヨーロッパでどちらが勝とうがアメリカは手を出すなという空気が広まっていました。ローズヴェルトはその空気を少しずつ変えていく努力をしました。彼はポリオに罹って車椅子の政治指導者となり、病気についての経験と理解が深かったので、演説を行う時は、例えば「戦争は伝染病であって、隔離しておかなければいけない。そうしないと離れたところまで蔓延する」というような、病気の比喩をしばしば使いました。

  ローズヴェルトは日本の対米英宣戦布告を機に第2次大戦にアメリカが参戦するに至ると、連合国の力を結集して勝利に導き、1940年の3選に続いて戦時中の1944年に空前の4選を果たしますが、ヤルタ会談後間もなく静養先で亡くなり、直ちに副大統領のトルーマンが大統領に昇格します。

◆ハリー・S・トルーマン
 第33代大統領ハリー・S・トルーマン(任期1945~1953)は、戦後の大統領でただ1人、大学教育を受けていません。ミズーリ出身の地方政治家が連邦議会上院議員に当選、1944年の選挙で副大統領に選ばれたことから、ローズヴェルトの死後大統領になったという人物ですが、歴史の本をよく読み、歴史から政治を学んだ政治家と言えます。
 戦後の難局に面して、トルーマンは専門家の意見を聴き、その上でとるべき政策について判断し、果断に実行しました。最終責任は大統領にあるとして、多くの難題に大統領として思い切った決定を下しました。評価が今も揺れている広島・長崎への原爆投下を許可し、朝鮮戦争で国連の承認を取り付け北朝鮮と戦い、やがて中国とも戦う。マッカーサー司令官が原爆を使ってでも北朝鮮を潰して満州まで進出しようとすると、彼を解任します。

  トルーマンは、ローズヴェルト以来の懸案であった、戦後における国際平和維持のための国際連合をアメリカ主導で立ち上げ、さらに国際通貨基金、世界銀行の設立等々、今日も機能している国際機構をつくり上げました。その意味では、大いなる創造に立ち会った大統領であります。

◆ロナルド・W・レーガン
 第40代大統領ロナルド・W・レーガン(任期1981~1989)の下で、米ソ冷戦の終焉の始まりが到来します。彼は極め付けの保守主義者だと言われますが、戦争をせずに冷戦終了のきっかけをつくったことは彼の実績として再評価すべきだという研究者もいて、評価の分かれるところです。

Ⅴ 「経験」―2008年大統領選挙の争点
 2008年の大統領選の争点として、「経験」というキーワードが使われてきました。予備選挙戦で、オバマ候補はヒラリー・クリントン候補に経験不足だと、繰り返し言われました。それでは、どのような経験を積んでいれば、大統領として良きリーダーシップを振るうことができるのか。

  ワシントンの場合は大学教育を受けていませんが、憲法制定とその肉付けという創造の場に立ち会いました。リンカンは小学教育もろくに受けておらず、戦争の経験もありませんでしたが、南北戦争における戦時下の最高司令官として、職業軍人を上回る戦略を立て勝利に導きました。ウィルソンは外交政策は苦手と自認していましたが、ウィルソニアニズムを提案しました。ローズヴェルトは経済学を理解せず、本来は財政均衡論者でしたが、大恐慌からの復興を目指してニューディール・リベラリズムを遺産として残しました。トルーマンは大学教育を受けていませんが、ローズヴェルトの後を継いで戦後の国際機構をつくり上げるという創造的大統領となりました。

  その後のリンドン・B・ジョンソン、ジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントンは対外政策に暗く、対外政策に明るいと自負するリチャード・M・ニクソンは電撃的な中国訪問を実現しましたが、足元をすくわれ弾劾裁判にかけられるのを避けて辞任という、前例のない歴史をつくりました。

  ジョージ・W・ブッシュ大統領は、9・11テロ以後、それまであまり力をいれてこなかった対外問題に没頭して、強硬なイデオロギー的対外政策、つまりアメリカ式民主主義を武力を用いてでも中東地域に広げることを外交目標に掲げました。そのためには、これまで守られてきたことを踏みにじってでも差し支えないとして、イラク侵攻も同盟の助けを借りるのではなく「有志連合」で良しとしたのです。外交における基本概念を次々と踏みにじり、戦争についても、攻撃される危険が迫っている場合には先制攻撃が許されるという考え方を超えて、やがて危険な存在になる可能性がある場合の対応として、予防戦争も辞さないという態度をとり、対テロ戦争遂行のためには、国内で危険人物と目される者をスパイする。捕虜に対して、国際条約で禁止されている残酷な拷問にかける。自らを保守主義者と名乗り、経済政策では所得格差の増大を加速させ、イラク侵攻の大義名分についてアメリカ国民も騙していたのではないかとブッシュへの批判が強まり、世界におけるアメリカの威信の低下を招きました。

  さて、ここで副大統領について少し考えてみます。初代副大統領のジョン・アダムズはマサチューセッツ州出身で教養のある人ですが、彼は「副大統領になってみたら、上院議長として採決の際、票が同数であった時に1票を投ずることはあっても、それ以外に何も仕事がない。副大統領とは世界で最も無意味な職である」と、妻に言っていたそうです。

  その後は、リンカンが暗殺され、副大統領のアンドルー・ジョンソンが憲法の規定により大統領に昇格しましたが、彼は大統領として初めて弾劾裁判にかけられ、1票の差で有罪を免れるという歴史を残しました。第25代のマッキンレー大統領は1901年に暗殺され、セオドア・ローズヴェルトが副大統領から大統領に昇格しました。フランクリン・ローズヴェルトは4選したものの任期中に病死し、その後をトルーマンが継ぐ。ジョン・F・ケネディが暗殺され、後を継いだリンドン・ジョンソンが、ケネディが通し得なかった法案を彼の腕力(上院議員当時、「寝技師」と言われたりもしました)で、次々と通していく。

  リチャード・ニクソンが大統領として初めて辞任に追い込まれ、ジェラルド・R・フォードが後を継ぎます。レーガンの下で副大統領を2期8年勤めたジョージ・H・W・ブッシュが共和党の大統領候補になり、選挙に勝ってレーガンの後を継ぐ。

  以上のように、さまざまな事情で副大統領から大統領になる例は20世紀にいくつもあり、また現在では副大統領職はアダムズが言うように軽いものではないのですが、大統領候補が副大統領候補を選ぶ際には、やはり選挙戦に勝つために自分とバランスが取れるような人材を優先させる傾向が依然として強いようです。

  民主党のオバマ候補は特に外交での経験が不足だと言われてきたので、経験が十分過ぎるほどのジョー・バイデン上院議員を副大統領候補に指名しました。彼は外交問題が専門で、安全保障についてもオバマを補佐できるという触れ込みで選んだわけです。共和党のマケイン候補は、いままでいくつかの問題で共和党保守派本流の立場に反対を表明してきて保守派の支持が少ないことを恐れ、そこを固めたいということがひとつ。デモクラシーがポピュリズムになったことの1つの弊害と言えますが、民主党支持の多くの女性はヒラリー・クリントンを大統領にさせたかった。予備選挙でヒラリーがオバマに敗れると、オバマに投票するよりはマケインに投票するという女性が多く、彼女たちの票も確実に取り込みたいということもあって、アラスカ州知事で全国的には無名だったサラ・ペイリンを副大統領候補にしました。「経験」というキーワードで言えば、バイデンはオバマの足りない点を補ったわけですが、ペイリンは、万一の場合、大統領が勤まる器であるか否かは十分考慮せずに選ばれました。

  安全保障については、イラク戦争をどうするのか。オバマはアメリカ軍をあらかじめ期間を区切って漸次引き上げ、テロについてはアフガニスタンに力を入れることをいち早く表明しています。マケインはイラク戦争が勝利を得るまでは、軍を駐留させると言ってきました。

  いったい、テロに対する勝利とは何なのか。国との戦いについては何が勝利か分かりやすいのですが、テロに対しては完全勝利宣言をすることは非常に難しい。とにかく、安全保障が大事だと言った矢先で、アメリカ空前の金融危機が起こってしまいました。このような事態になるのなら、経済に強い人を副大統領候補に選んでおけば良かったといっても、もはや間に合いません。

  「政治において1週間は長い時間である」と言った人がいるそうですが、日本では「一寸先は闇」という名言を吐いた政治家がいたと思います。大統領選挙の投票日は11月4日ですので間近に迫っていますが、現時点では結果は最後まで分からないとしか申せません。支持率と投票結果は必ずしも比例しないし、オバマは予備選挙で若者に強く支持されて躍り出ましたが、その若者層が本選挙で投票する率は思ったほど高くないかもしれない。今回はこれまでとは違うかもしれませんが。

  経済については民主党が伝統的に強く、安全保障については共和党が得手であると言われる。しばらくの間は、有権者は安全保障以上に経済の動向をもっぱら注目するでしょう。いまはインターネットや携帯電話の時代ですから、そこで飛び交う情報が重要になってきています。そういうメディアのなかでの情報操作を考慮した上で、候補者も有権者も対応をしなくてはなりません。

  そのようななかで選ばれる次期大統領のリーダーシップは、ワシントン以来の傑出した大統領から何を学ぶのでしょうか。これまでの経験が乏しかったからといって、必ずしもそれがマイナスにならないのは、リンカンやトルーマンが示している通りで、いかなる見識を発揮するかは就任してからの問題です。そして何より、私はチームワークにおけるリーダーシップが大事であると思います。

  これまでの体制がもたらした危機を乗り越えて変革を目指すために、大局的な判断をタイミングよく下すことができるかどうかは、単にアメリカだけの問題にとどまらず、全世界に影響を及ぼすことを新しい大統領は覚悟しておく必要があります。

  ご清聴有難うございました。

(東京大学名誉教授・東大・教養・昭28)
(本稿は平成20年9月22日午餐会における講演の要旨であります)

追記
 11月4日の投票の結果、オバマ=バイデンの組み合わせの民主党が圧勝し、1月20日にオバマ大統領が誕生することになった。議会でも民主党の勢力が増大し、8年続いた共和党政権の時代が終わった。
 黒人の大統領が選ばれたということは、アメリカ史における一大変革である。オバマ候補は、「われわれは変革を必要とし、また変革をなし遂げることができる」と訴え続けて、選挙戦をたたかったが、彼の当選自体がすでに変革であり、アメリカが新しく出直すことを、アメリカ国民のみならず世界の人びとが期待していると思う。アメリカの「新しい誕生」である。
 47歳という若さで、国政についての経験が乏しいオバマは、大統領としてどのようにリーダーシップを振るうのであろうか。
 選挙戦を通じてみる限り、彼の武器は、賢慮に裏打ちされた雄弁と、冷静な知性と、貧しさや苦しみに落ち込んでいる人びとの心情を理解する感性である。 経験豊かで、変革のために力を盡くす人びとを、各省長官をはじめとする政府の要職に配置し、チームワークにおけるリーダーシップを大いに発揮して欲しいものである。

(2008年11月7日記)