源氏物語についての断想
秋山 虔 No.873(平成20年11月)号

 『朝日新聞』八月五日朝刊に、「書き継がれる心のあや」「今に通じる男から女への恋」などの見出しで、「千年の源氏物語享受史」の一齣が掲載された。「谷崎潤一郎、川端康成から村上春樹まで、その小説世界はどんな影響を受けているのだろうか」と、具体的に作品が紹介されている。その源泉となった源氏物語の筋立てや人間関係が次のように表示されていた。

 ①父、桐壺帝の妻であり、義母でもある藤壺と源氏の密通。②愛する女性と生き写しの別の女性を愛の対象とする「かたしろ」。藤壺と若紫、宇治の大君と浮舟など。③六条御息所の生き霊による葵上の取り殺し。④六条院の花として耀く玉鬘への多くの男性からの求婚。⑤源氏と生涯にわたって信頼関係を築いた花散里。二条東院では、源氏の子タ霧の世話をまかされる。以上だが、これらをながめていると、近現代の作家たちが換骨脱胎の意欲をそそられたこともうなずかれるし、作家に限らず一般の読者にとっても現在に引きつけて共感することができようけれど、しかし、そうした局面でのみ受容されるのであったら、源氏物語の急所から大きく逸れてしまうのではないか、という思いを抱かせられる。例えば、前記の第一項、源氏と藤壺の密通の件につき、父の妻すなわち義母と父の子息との不倫関係という次元でのみ捉えるのであれば、源氏物語の根幹は、少なからずぼやけてしまうことになるだろう。

  去る五、六、七月にわたって『東京新聞』夕刊に連載された尾崎左永子氏の「源氏物語随想」を私は興深く読んだが、その第七回「紅葉賀」で述べられた条で源氏と藤壺の密通について触れ、「ここにこうした人間関係を持ち込んで、罪の意識と、のちの因果応報の筋立てを作った紫式部の、非凡な眼力に、今さら目をみはる思いがする」といい、「今後の展開の中で、桐壺帝が実際に藤壺と源氏の間柄を知っていたのかどうか、紫式部は最後まで明かさない。それがまた怖い。作者と読者の、まるで力ずくの駆けひきのような綱引き状態が、光源氏の死まで、あるいは更に『宇治十帖』を含む五十四帖の巻末まで、緊張感を切らすことがないのである」と述べられた。この文言を私は反芻した。源氏と藤壺との関係は、父と子とが同一の女性を愛した、というような単純なことではないからである。

  かつて昭和十年代の戦時下、源氏物語は大不敬の書として忌避された。その理由は①源氏が父帝の后藤壺と密通したこと。②そのために生まれた子(冷泉院)が帝位についたこと。③冷泉帝がわが出生の秘密を知り、実父の源氏を准太上天皇として待遇したこと、以上の三点だが、これは源氏物語の世界の根幹というべきであろう。父帝は源氏と藤壺の密通について知っていたのかどうか。知らなかったと読むのが通説のようだが、尾崎氏が一読者となって紫式部との「綱引き」に挑戦されるのは、氏の読みとしては通説に従ってはいられなかったからではなかろうか。私としても、父帝がまったく気づかなかったとすれば、それははなはだ不自然と思われるのである。

  「紅葉賀」巻で、帝は朱雀院(帝の父か兄か)への行幸に先立って、身重の藤壺を慰藉すべく清涼殿で試楽を催され、源氏は左大臣の嫡男頭中将とともに青海波を舞った。極楽の迦陵頻伽の声を思わせる源氏の詠唱に上達部・親王たちは感涙を禁じえなかった。詠唱が終って袖を翻すとともに、待ち受けた楽の音のはなやかさに、源氏の容顔は一段と輝きまさり、源氏を憎む弘徽殿女御をして、「なんと不吉な、神隠しにあっても不思議ではない」と穏やかならぬことを口走らせるのだった。藤壺は、帝寵に浴しながらも源氏の子を宿してしまった、その苦悩を抱える身でなかったら、今日の源氏の晴れの舞姿を心ゆくまで称賛できたであろうにと、夢魔にさいなまれるごとき心境である、と語られている。

  その夜、帝の御寝に侍する藤壺に、帝は語りかけた。「今日の試楽は青海波に尽きぬな。いかが見たまひつる」と。「あいなう、御答へ聞こえにくくて、『ことにはべりつ』(格別でございました)とばかり聞こえたまふ」藤壺であった。まったく無表情なこの返辞は、帝の問いかけに対応していない。そして、この取りつく島のないような藤壺の返辞への帝の対応に、私はこれまたこだわりたいのである。帝はすかさず話題を転じて「片手もけしうはあらずこそ見えつれ」(相手の頭中将もわるくはないと思われた)と言い、さらに「なんといっても名門の若公達は違う。有名な舞の師たちは上手ではあるけれど品格がないからね。この試楽に、こうした妙技を発揮し尽くしてしまったのでは、行幸当日の本番は物足りないことになりはせぬか。とにかく、あなたにお見せしたかったので、今日の試楽の準備をさせたのだが」と言う。この多弁が、やはり前記の藤壺の返辞と明白に位相を異にしているといえよう。帝は、源氏と藤壺との関係をはっきりと確認しているのではなかろうか。しかし、そのことが帝にとっては意想外の驚きではなかっただろう。

  いったい、二人の仲らいが帝にはもっとも自然なことと思われたに違いないのである。桐壺巻の叙述をここで具(つぶさ)にたどることはしないけれど、藤壺の登場の時点において、すでに源氏との結縁は十分に予想されたのである。桐壺更衣に先立たれ、哀傷のあまり虚脱していた帝を立ち直らせたのは、更衣に生き写しの藤壺であり、さればこそ源氏は母代(ははしろ)として一途に藤壺を慕ったが、この二人の親睦は一に帝の勧奨するところであった。世人は、源氏と藤壺を、それぞれ「光る君」「かがやく日の宮」と並び称えたというが、共に最高の美質を称賛されされつつ登場したニ人の和合は必然でさえあったといえよう。その尋常ならぬ関係についてすでに感づいていた帝が、源氏の青海波の舞姿について感情を押し殺した藤壺の返辞に、はっきりと確証を見いだしたのではないか。

  やがて藤壺腹の表向きは皇子が誕生する。「いとあさましう、めづらかなるまで写し取りたまへるさま、違ふべくもあらず」。源氏と瓜二つの若宮とあっては、そのことが藤壺にとって恐怖の種であった。まず帝の目にどうして気づかれぬことがあろう。若宮と対面した帝は、源氏に向かって「皇子たちは大勢だが、ただそなただけを幼少から朝夕見ていた。そのころが思い出されるせいか、若宮はそなたそっくりだ。小さいうちは、すべてこうしたものだろうか」と仰せられた。源氏は顔色変って「恐ろしうも、かたじけなくも、うれしくも、あはれにも」さまざまに感情揺動し、藤壺もまた、いたたまれず流汗淋漓の体であった。二人の密通を因とする若宮であることを帝に覚られなかったとしたら、きわめて不自然であろう。

  帝はその心底をおくびにも出さぬばかりかこの出産五ヶ月後、藤壺の中宮冊立を実現させ、源氏を近衛中将から参議に昇進させている。そして若宮(冷泉院)を立坊させるべく、ということは将来の帝たるべく体制を固めるために自身は譲位を決意している(紅葉賀)。

  皇位を朱雀帝に譲り、藤壺とともに仙洞御所に閑雅の日々を過していた帝は、やがて病を得、その崩御に先立って、朱雀帝に対しては東宮(冷泉院)の地位の保全を誓わせ、かつ源氏を重用すべしと遺言した。源氏に対しては、東宮の後見すべきよしを委託している(賢木)。

  後のこと、源氏は弘徽殿・右大臣の策謀に敗れて須磨の浦に流寓する身となり、暴風雨に襲われ生死の境を惑うことにもなったが、その源氏の夢枕に立ち現れた桐壺院は源氏に対してこの地を去れと勧め、また京の朱雀帝の夢枕に立っては源氏の召還を要請している。院にとっては、源氏の輔佐による冷泉帝の治世の到来が切望されたのである(明石)。その夢のなかの桐壺院は、源氏の苦境について「これはただいささかなる物の報いなり」と言い、「我は位に在りし時、過つことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を終ふるほど暇なくて、この世をかへりみざりつれど、(源氏ガ)いみじき愁へに沈むを見るにたへがたくて、海に入り渚により、いたう困じにたれど、かかるついでに内裏(朱雀帝)に奏すべきことあるによりなむ急ぎ上りぬる」と言って、立ち去ったとある。

  傍線部①について三条西公枝『細流抄』には「薄雲(藤壺)密通などの事なるべきか。またさならでもあるべし」と、断案は保留しているものの、帝は二人の密通を知っているのではないかと忖度している。傍線部②については醍醐天皇の伝承を準拠とする古注釈説もあるけれど、①の読みと当然連結させて解釈すべきであろう。桐壺院自身としては誤ちを犯したことはなかったけれど、后妃とわが子との不倫関係は当然自分の罪科であることを免れがたかったという認識ではなかろうか。しかし物語の作者は、これまで一貫して帝の心底には立ち入らなかった。後に、源氏が正室の内親王、女三宮と腹心の柏木との密通を知り、その子薫をわが子として抱き取らされたとき、因果応報の理を嚙みしめ、現世にかくも苦杯を強いられるからには、その分後生における報いは軽減されようかとまで思う。そうした深刻な痛苦に堪えていたことが思い合わせられる。桐壺院とて耐えがたい内心を隠蔽しつづけたのであろう。しかし、どこまでも源氏を、藤壺を包容し、二人の儲けた罪の子をわが皇子として将来の帝への道を確保したのは、帝にとっては王家統の卓越した貴種の結合により王権の神聖の護持されていくことが、倫常の規矩を超越して第一義的に冀求されねばならなかったのではないか。かつて帝が桐壺更衣を寵愛したのも、私見によれば更衣個人の魅力もさりながら、その出自の故大納言家が王家統であったということも一因であっただろう。通念からすれば、ほとんど狂気の沙汰というほかない帝の桐壺更衣寵愛は、藤原氏の左右大臣家が権勢を競う朝廷の現実への背反であったとも解される。

  そうした帝の心底もさりながら、藤壺は源氏あっての、源氏は藤壺あっての、それぞれに数奇な境涯であった。二人によって儲けられた男子が帝位についたために、源氏は准太上天皇に、藤壺は女院となって、共に最高の尊貴びととして賛仰された。物語の世界の骨格をなす二人の経歴は、宿命的ともいうべく紡がれていくといえようが、しかしながら、源氏物語の書かれた時代の現実、すなわち藤原氏によって領導された摂関時代の現実からすれば、まったくありうべくもない架空の境涯であったことはいうまでもない。しかも、そのうえ、そうした在りようが、その根本において人倫に違背する犯しに始発している。源氏と藤壺の人生はそのことからの報復に対する不断の恐れにつらぬかれていることに注意したいのである。それぞれの心底のおののきについては、さきにいささか触れているが、ここにあらためて本文をたどるまでもなく、物語の世界の人々にけっして覚られてはならぬ不安、現世ならぬ後生にまでその射程の延びていく果てしなき憂愁が抱え込まれている。その点にこそ、源氏物語が仮構の絵空事ではなく、迫真の現実性をたたえる世界であるゆえんの一半が存するといえよう。

(日本学士院会員・東京大学名誉教授・東大・文・昭22)