私とバレエ
牧阿佐美
(新国立劇場舞踊芸術監督)

No.868(平成20年1月)号

はじめに

私は現在、一九九七年に開場した新国立劇場の舞踊部門の芸術監督をさせていただいております。

バレエという芸術分野は今までは民間だけで行われてきましたことと、また舞台上で育つといわれるダンサーも才能豊かな方が大勢いたにもかかわらず、上演の舞台数が少ないためにそのチャンスを逃してしまっていた感があります。しかし新国立劇場ができてからは公演回数も多くなって、急激にバレエ・ダンサーの技量が上がってきました。日本と外国のレベルの差が大きく開いていた時代もありましたが、今は、バレエをよくご覧になる方から「もうわざわざ外国からゲストを呼ばなくてもいいのではないか」と言われるくらいのレベルに達しております。それでも、ロシアや欧米はバレエの歴史が長いので、世界一流のゲストに来ていただくことで私たちも勉強することができます。世界各国から一流のダンサー、振付家や指導者に来日していただいたお蔭で、この一〇年間で踊る人も教える人も育ってきたと思います。例えば、一〇年前と比べて、舞台づくりにおける考え方は大きく飛躍して、外国に負けないほどの国際的なバレエができるようになってきました。新国立劇場のバレエは今年でたったの一〇年と、その歴史は浅いのですが、歴史が浅いなりに一所懸命に一つひとつのことにぶつかって挑戦しているところです。

歴史の長いところはマンネリ化して、一時期少しレベルが落ちた時代がありました。しかし、ロシアもそうですが、復活しはじめると、歴史が長い国はやはり良質の作品ができてくる。最近のロシアは経済が好調ですから、バレエ・ダンサーの待遇も随分よくなっています。昔はダンサーの給料は月二~三万円でしたが、今は二〇万円くらいに上がっていますし、一回踊る度に役のランクによって別に給料が加算されますから、特に外国に働きに行かなくてもよくなっています。今から一〇年とか一五年前は、日本に来て稼いで帰ろうという感じで、帰りに冷蔵庫などを買って持ち帰ったという話がありましたが、今は何でも揃っていますから、もうそんなことをしなくてよくなりました。ゆったりと稽古ができる環境になって、いいダンサーが出てきています。ダンサーの質は周りの環境に影響されますから、私たちも一〇年でマンネリ化しないよう、ダンサーの指導にあたっております。私たちのバレエ団は設立してわずか一〇年ではありますが、来年(二〇〇八年)はアメリカのケネディ・センターのジャパン・フェスティバルに招待され、日本を代表してバレエを踊ることになっています。日本のバレエの質は一〇年前と比べて飛躍的に高くなっておりますので、何かの折にはぜひご覧いただきたいと思います。

私の経験から、バレエの習得は非常にきついものです。好きだからこそ長く続けていけるのです。バレエというのは人間にとって、とりわけ私たち女性にできる芸術の最高のものだと思います。振り返ってみて、私はバレエを長く続けてきて本当によかったと思っています。

バレエは音楽をベースにして踊って表現をしますから、どうしても音楽性が必要になります。リズムには合わせられるけれどその音楽の質を感じ取れないといった人の場合はなかなか難しいわけですが、回数を重ねていろいろな経験をさせながら、何とか育てていきたいと頑張っているところです。

バレエは集中力と教養

私の母は舞踊家(橘秋子)で、私は子供のころから母の教えを受けたのですが、当時は日本が戦争に負けたころで、一所懸命さだけはあったのですけれど、バレエの本当の基礎をまだよく理解していない時代でした。

私は母の勧めでアメリカに勉強に行きました。なぜアメリカに行ったのかと言いますと、帝政ロシア時代の第一級の多くの芸術家たちが、ロシアを離れて英国やアメリカに亡命していた時代だったのです。それで私はアメリカに勉強に行ったわけです。私の先生はアレクサンドラ・ダニロワという帝政ロシア時代の優秀な舞踊家です。ダニロワ先生は私のために、彼女の後をついで指導者になった七人の指導者を選んでくれました。「本番があるときは一レッスンでいいけれど、本番のないときは三レッスンやらないといけません」と言われて、私はまだ若くて舞台に出ていなかったので、一日三レッスンを頑張って受けました。

私は一〇代の後半から若い人たちを教えていましたが、一時期バレエを辞めたいと思ったことがあります。それでおそらく母は私をアメリカに行かせたのでしょう。母から、「小さくても本物のダイヤなら価値があるけれど、三カラットや四カラットあってもガラス玉だったら何の価値もない。あなたは体が小さいのだから、今舞台で花を咲かせるのではなく、将来、指導者になれるように、アメリカで本物を身につけてきなさい」と言われたときは、本当にガッカリしました。私は踊りたかった、舞台に立って拍手されたかったのです。しかし、自分は小柄だからそれをあきらめなければならない。しかし徐々にですが、自分で踊るよりも踊りの質を見極めることのほうが好きになっていきました。

これも母の策略だったと思いますが、アメリカから帰国してから、高尾山近くの小仏峠の滝に連れていかれました。毎月第一日曜日はその滝に打たれることを、一〇年間欠かさず続けました。一〇年たって母が病に倒れてからは、さすがに滝行きを止めました。というのは、それは体にすごくこたえる修行なのです。毎月のことですから、寒い雪の日もある。なぜ母がそのような過酷なことをさせたのかというと、滝に打たれた帰りの高尾山駅までの道すがら、往きの道中には何も見えなかったのに、滝に打たれた後の帰り道では、こんなにもいろいろな可憐な野の花が咲いていたということに気づくようになるのです。それほど滝に打たれ雑念を取り払うと、ものが見えてくる。ものが見えるようになれば芸は身につく。そういう母の教えがあったと思うのです。いろいろな方から「滝に打たれればバレエが上手になりますか」と聞かれましたが、そのころの私は何と返事をしていいか分からず、「母が連れていってしまうから……」としか答えられなかったのですが、帰りにはとてもよくものが見えるようになったことは事実なのです。

さらに母からは「日本人なのだから、日本の踊りを一通り勉強しなさい」と言われ、舞楽や日本舞踊を学んだこともありました。舞楽は男性が舞うものですが、日本の踊りということで、宮内庁楽部に通わせていただきました。

世界を周ってみますと、プリマと言われる方々は実に品が良くて、美しく、教養豊かなのです。それに比ベ日本人のダンサー、舞台での表現力をみると精神的に幼い部分もあり、踊るテクニックだけを一所懸命になって追いかけているように思いました。何とかレベルの高い人間にならなければいけないと考えて、小笠原礼法や坐禅もしました。今、そのことが私にとって全部プラスになっています。

だからといって、今の若いダンサーにそれを要求するわけにもいきません。どうしたらそれだけの集中力をつけさせることができるだろうか。踊りの上で滝に打たれたくらいの集中力をつけさせるために、私は稽古量を増やしました。世界的なアーティストを呼んで振付をお願いすると、その方の厳しい要求に応えなければならない。最初のうちは自分なりの表現で踊ろうとするのですが、自分が要求するレベルに達しない限りは舞台で踊らせないというくらい、先生方は厳しかったのです。それで自然に彼らに集中力が備わってきました。それまではテクニックが少しできると有頂天になっていたのですが、いい作品を踊れなければいいダンサーにはなれないということを自覚するようになりました。

ダンサー養成のためにバレエ研修所を設立

新国立劇場のバレエ部門はよいダンサーも徐々に育ってきて、内容もすごく良くなってきておりますが、今後それをどのように続けていくかといった課題があります。ダンサーを募集し始めた当時、まず教育方法がそれぞれのバレエ団やバレエ教室によって違うことに気がつきました。それを統一するまでに四、五年かかりました。最初に入ったダンサーたちは現在、三五、六歳になっていますので、そろそろ下のダンサーを育てなければならないということから、二〇〇五年にバレエ研修所をつくっていただきました。

この研修所では、国際的に活躍できるダンサー育成を目標に、バレエのレッスンを一〇時半から三時まで行い、そのあとは座学をしています。英語はもちろんのこと、バレエ史、音楽史、美術史などの一般教養的なことを勉強します。また、体が太ってしまうと舞台に出られなくなるので、栄養学を教えています。バレエというのは、痩せて見えていても、舞台に立つとけっこう太って見えるので、少々痩せているくらいでは舞台では通用しないのです。だからといって、ただ痩せてしまうと演技に迫力がなくなってしまいます。体に筋肉が付いて、贅肉を落とすことをしていかなければならないので、栄養学が重要になります。料理を月に一回程度、みんなで手づくりして食べるといった授業もあります。

衣裳づくりも行います。先日行われた第一回目の発表会でのスパニッシュ・パートの衣裳は、今年入ったばかりの研修生たちが自分たちの衣裳をつくりました。紐を結ぶことも上手にできない、ミシンをかけることもできないような今どきのお嬢さんたちが自分たちの衣裳をつくりあげて舞台に立ったときは、本当に感動しました。バレエの古典には必ずと言っていいくらい各国の踊りが入りますので、研修生はそれらも学びます。ちなみに、スパニッシュを踊るには、若いうちにカスタネットを習うことが必須です。

ここ数年、研修所の修了生がバレエ団に入団してきますが、外部から応募してきたダンサーたちとは顔つきが少し違って見えます。研修所の修了生はさまざまな勉強を積んで自信に満ちた顔をしている。外からの応募者は、オーディションはよかったので入れてみると、実際の作品にぶつかるとなかなかうまく表現できない場合もあります。研修所の修了生は新国立劇場バレエ団のスタイルを学んでいますので即戦力として舞台で使えますし、主役を務めたダンサーもこの六年間に二人輩出しています。このように研修所で教育をしてバレエ団に送り込んでいくと、あと四年もすれば、さらに高いレベルの作品ができるのではないかと、今から楽しみにしております。

日本のバレエは、私たちが現役で踊っていたころは、家族が見にくるとか、親戚が見にくるとか、みんな知り合い関係で席を埋め、プレイガイドで切符が売れたためしがなかったものです。最近は多くの方がチケットを購入してくださるようになってきました。

いいダンサーは舞台で育ちます。舞台でお客様の気を感じて自分の踊りを合わせていくうちに輝いてきます。稽古場だけでは素晴らしい舞台をつくっていくことはできません。その点で新国立劇場は舞台数が多いので、バレエ団として急速に成長しました。この一〇年間にたくさんの国際的なダンサーに出演していただきました。外国のダンサーがゲストで来ますと、彼らはいろいろな国にゲストとして招かれているわけですが、新国立劇場のコール・ド・バレエ(群舞ダンサー)やソリストはとても素晴らしいと褒めてくださいます。私もそれには自信を持っています。ただし海外で主役を務められるようなダンサーについては、これから四、五年はかかるだろうと思います。

真に主役をまかせられるダンサーとは、幅広く教養を積み、人を感動させるところまで作品の内容を表現できなければなりませんが、それは中身の訓練ができていないと難しい。二〇年くらいやっている人でも、表面的には形やテクニックができていても、それが観客に伝わるかというと、「可愛かったね」「きれいだったね」くらいで終わってしまう。これでは国際的に通用するダンサーとして、世界に送り出すわけにはいきません。

新国立劇場では、今申し上げたようにダンサー育成のために研修所を併設しておりますが、さらにフランス、アメリカ、ロシア、イギリス、オランダ等々の国々から代表的な振付家や指導者を招いて、その方たちの作品を踊ることで勉強をさせていただいています。そのお蔭で奥行きの備わったダンサーが増えてまいりました。こういったことは、やはり国立だからこそできることで、民間で私たちがかつてやっていたときとは教育環境は格段に上がってきております。

世界の劇場支援

世界のバレエ界を見てみると、ヨーロッパの主要な劇場は全て公によって運営されています。また、アメリカの場合はケネディ・センターなどの民間で個人や企業から巨額の寄付を受けて行われています。日本の新国立劇場は国からの支援に加えて個人や企業から、かなりの寄付を受けておりまして、その全てに支えられて良質の作品をつくっていく方向に向かってきています。ですから、企業からの支援は劇場にとりまして大変重要でございます。企業の事情で寄付が集まりにくくなってくると、公演ができなくなってしまいます。

新国立劇場にはオペラ、バレエ、演劇、現代舞踊の部門があります。これら全てが公演をしているわけですが、このような文化的・芸術的なものに触れることによって心の潤いがもたらされるものだと思います。ですから、踊り手にも上質の作品を見せなければならない責任がありますので、私たち指導者は一丸となって努力しているところです。

バレエの基礎は世界で通用する

私は幸いにも、帝政ロシア時代のバレエ学校を出てアメリカに亡命した世界的に著名な先生に学びましたから、アメリカで習っていてもロシア帝政時代のバレエの教育方法で学ぶことができました。パリのオペラ座も帝政ロシアの基礎からスタートしていますから、そういう意味でアンナ・パヴロワなどと同じバレエの基礎ということになります。帝政ロシア時代のバレエの基礎はいまだに古臭さがないので、英国ロイヤルバレエもパリ・オペラ座バレエもそれを基礎としています。

ところで、バレエはイタリアで生まれて、ルイ十四世によってフランスに学校がつくられました。バレエの劇場用のスタイルはそこで完成されました。その後、ロシアが国を挙げてバレエに取り組み、フランス人の先生方が全員ロシアに移動して、ロシアで「白鳥の湖」のような大きなバレエが完成していきました。最初のイタリアのバレエはほんの二、三分のソロで、美しい女性たちが美を競ってパーティーなどで踊っていただけのものでした。そのバレエがフランスに渡り、ルイ十四世は自分が舞台に出るのが大好きでパーティー会場で踊ったりしていましたが、彼は学校がないとバレエは育たないということに気づきました。それが現在まで続いてきているのです。その後、フランスの先生方がロシアに行って、ロシアで成功したわけですが、ロシア革命のときにアメリカやイギリスなど世界各地に亡命して、その先生方から世界にバレエが広がったという経緯があります。

しっかりした基礎を訓練すれば、世界のどこのバレエ団に行っても通用します。例えば、「白鳥の湖」を日本で踊った経験のあるダンサーが、突然よその国の劇場に行ってもすぐに踊れる。少し違う振付であっても、基礎が同じですから一日か二日で覚えられるのです。しかしコンテンポラリー・ダンスは個人独特のものですから、その基礎を習っても、それがよその国に行って通用するかというと、そうはいきません。個人がつくったダンスの振付は、すぐには覚えられるものではないからです。

その点、クラシックバレエの場合は型が決まっているから世界で通用しますが、しかしこのバレエの型というのは小さいときに訓練しなければ身につきません。歌舞伎や能と同様に、小さいときに型を身につけておくと、その後は心の成長につれて自然に踊りがよくなっていきます。大きくなってから型を覚えようとしても、とても間に合うものではありません。バレエを習い始める年ごろは、最低でも小学校五、六年生から、早ければ三年生くらいから始めて、五、六年生で少しは知っているようにしておいて、中学一年生くらいから猛訓練し、高校を出るころにはプロになれるくらいのテクニックの実力を持つ。しかしそれはあくまでテクニック上の実力ですから、新国立の研修所のようなところで教養の幅を広げる勉強をして、そしてようやくプロになっていくという道筋になります。

バレエも時代とともに変化

現代のクラシックバレエの基礎を築いたと言われるフランス人のマリウス・プティパ(振付家・台本作家)がロシアに行ってつくった作品がチャイコフスキーの三大バレエ(「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」)です。世界の大きなバレエはほとんどプティパの作品です。プティパの時代は精神的なものまでは強くは要求していませんでしたし、型があるので踊りやすいのですが、今はバレエの世界もドラマチックになってきましたから、ロシアでもプティパの作品を手直ししています。現在の「白鳥の湖」は最初のプティパ作品とは相当かけ離れています。最初は四時間くらいの長いバレエだったのを、いいところを残して二時間半くらいにまとめて上演しています。

私はバレエも時代に合わせて直していったからこそ二〇〇年も生き残ったのではないかと思うのです。次々と才能のある方が手を入れて直したからこそ、古典作品は今の世に生きているのだと思います。

ところが一方で、創作作品は一つも手を入れられないのです。例えば、アメリカのジョージ・バランシンの作品やイギリスのフレデリック・アシュトンの作品にはたくさんいいものがあるにもかかわらず、直してはいけない。古いまま覚えなさいということで、作品によっては観客が飽きてしまいます。元の踊りがいくらよくても、やはり時代遅れというところがあっても、ヨーロッパにおいては装置も衣裳も変えられない。ところがロシアの場合はどんどん変えられるのです。私はロシアのように、才能ある人が直してもいいという時代が早く来ればいいと思っています。私は今回、新国立劇場で「白鳥の湖」「ライモンダ」「ラ・バヤデール」の三本のロシア作品を改定しました。

最近は、ヨーロッパの劇場でも、プティパの作品をその劇場独自のものに変えて上演しています。自国で活躍している人のものは変えられないけれど、プティパは昔の人だから直しても差し支えないと考えて自分の劇場用に直しているのです。そのほうがスピード感も含めて、今の観客に喜んでいただけるのだと思います。

バレエは台詞がありませんが、それでも内容が分かるような演技をするように変わってきています。例えば、相手を好きだとか嫌いだとかという表現にしても、昔は型でそれを表していました。ですから型を知らないと、見ていてもつまらない。それが今は、舞台に倒れてのたうち回って苦しさを表現したりと、強烈な表現をします。こういった演技力はクラシックバレエにも多くなってきているのです。

ルイ十四世のころにジョルジュ・ノヴェールというバレエ・マスターが、バレエはこのままではいけないと言っています。そのころのバレエは二、三分のもので、きれいな衣裳を着て、トウシューズも自分で縫って、ときどきつま先でちょっと立つというくらいの時代でした。これではバレエの発展はない、もう少し物語性があってドラマチックにならなければ長続きはしないと、その時代に言ったというのは素晴らしいことです。その時代にノヴェールがそういうことを提唱してくれたおかげで、今日までバレエが残ってきたのではないかと思います。

バレエは総合芸術

新国立劇場では有名な舞踊家で振付家のローラン・プティさんの作品を持っています。この方は一七、八歳のころは全く無名だったのですが、ジャン・コクトーのところへ飛び込んで、あなたの作品をぜひやらせてもらいたいと頼んだそうです。コクトーはその若者の意欲に感動して、自ら衣装も装置もデザインしてバレエをつくりました。それからローラン・プティの名が一気に世界に広まっていきました。

フランスではエルテをはじめ一流の方たちがローラン・プティの作品の装置を応援しています。衣装はクリスチァン・ディオール、サン・ローランなど、いろいろな方がつくっています。フランスでは一人の芸術家をみんなで協力して育てているのです。日本でもこれからは様々な分野の芸術家の方々にバレエに興味を持っていただき、これまで以上にジャンルを超えたコラボレーションができるようになることを期待しています。

バレエはもともと総合芸術なのです。舞台装置が良くなければいけない、衣装が良くなければいけない、色彩が良くなければいけない、音楽が良くなければいけない、踊り手がうまくなければいけないということが基本にあります。そういうなかで、今まで舞台専門家という人がいたのですが、ローラン・プティさんの場合は、一〇代後半から当時の有名な芸術家たちの応援を得て、いい作品をどんどんつくってもらって、世界的に名を馳せました。彼はその途中でオペラ座の学校を出ていますが、さらにハリウッドにも行って、フレッド・アステアの映画「足ながおじさん」の振付などをしています。その後パリに戻って「ノートルダム・ド・パリ」などのバレエをつくりました。そのようにアーティストが周りの人に助けてもらいながら創作していくという環境が日本のバレエ界にも欲しいところです。今、ローラン・プティさんほどの才能のある人が日本の若手の中に育っているかどうかは分かりませんが、それぞれの分野で一流の才能を持つ多くの人たちで舞台をつくりあげていくという時代が来てほしいと願っています。

おわりに

私は新国立劇場の芸術監督として四年間の任期が残っておりますので、その間に主役クラスの優秀なダンサーを育ててから辞めたいと思っております。残りの四年間を精一杯務める所存ですので、ご声援の程よろしくお願いいたします。

ご清聴有難うございました。

(新国立劇場舞踊芸術監督)
(本稿は平成19年9月20日午餐会における講演の要旨であります)