七十年ぶりに帰った曽遊の地 ─安達峰一郎博士の肖像画─
小和田 恒
(国際司法裁判所裁判官)
No.860(平成18年9月)号


 (この一文は、もともと六月十二日ハーグ平和宮で行なわれた安達峰一郎元常設国際司法裁判所所長の肖像画の除幕式の際に、日本経済新聞のために準備されたものである。しかし、実際に六月十四日付日本経済新聞朝刊に掲載された寄稿は、紙面のスペースの関係上、原文の半分以下に短縮せざるをえなかった。同時にこの寄稿をオリジナルな形で紹介することは安達博士をより広く知って頂く上で有益との御示唆を各方面から頂いたので、日本経済新聞社の了承を得てここに原文のまま転載させて頂くこととなった。日本経済新聞社及び学士会の関係者の御協力に対して謝意を表したい。)

 北国オランダの初夏の日は長い。夏至も近い六月の太陽は、午後五時といっても暮れなずむ気配もなく平和宮の建物に明るい陽ざしを惜しみなく注いでいる。去る六月十二日夕刻、まだ明るい日の光を受けた平和宮の中、国際司法裁判所の「法衣の間(ローブ・ルーム)」と呼ばれる一室で一枚の肖像画の除幕式が行なわれた。
  肖像画の主人公は、安達峰一郎博士。一九二〇年に常設国際司法裁判所として設立され、第二次大戦後国際司法裁判所と改称されたこの裁判所の百年近い歴史の中で、日本人として裁判所長(日本式にいえば裁判所長官)の重責を担ったただ一人の人である。安達博士が常設国際司法裁判所長の職にあったのは一九三一年からの三年間である。安達裁判所長の肖像画がどうして今頃になってここに掲げられることになったのだろうか。

 国際司法裁判所といっても、なじみの薄い方が多いかもしれない。しかし、旅行でハーグを訪れたことのある人なら、中世の城館の趣のある「平和宮」の前で記念撮影をしたことを思いだされるに違いない。もっと時間がおありだった人はこの宮殿の最大の見せ場である「日本の間」を訪れて、豪華絢爛たる西陣織の絹で織られた四季花鳥の図でおおいつくされた壁面の素晴らしさに心を奪われた感動を思い起こされるかもしれない。
 この建物は、今から百年前、十九世紀末から二十世紀初めにかけて二回に亙って開かれたハーグ国際平和会議が歴史上はじめて国家間の紛争を平和的手段で処理するための常設の国際裁判所設立を決定したことに感動したアメリカの鉄鋼王アンドルー・カーネギーが、私財百五十万ドル(時価で約百億円に当たるだろうか)を投じて国際裁判の殿堂として寄贈したものである。
  この平和宮に本拠をおいて、一九二〇年国際連盟の主導の下で常設国際司法裁判所は設立された。そして安達博士は、ここに一九三一年から一九三四年までの四年間裁判官として勤務し、その中三年間を裁判所長という名誉ある地位で過ごしたのである。

 平和宮の中の一室、「法衣の間」には一九二〇年に常設国際司法裁判所が設立されて以来の歴代の裁判所長の肖像画が掲げられている。(一九四六年以降、国際司法裁判所に組織替えされてからの歴代所長の肖像はその隣室にまとめられている。)ところが、その中に安達博士の肖像画が欠けていることに気づいたのは二〇〇三年、私が国際司法裁判所裁判官として選任され、ここで仕事をするようになって間もなくのことであった。
  何故安達博士の肖像画だけが欠けているのかについて、裁判所の歴史に詳しい書記局の関係者に訊いてみたがあまり決定的な説明は得られなかった。
 私の想像では、安達博士が裁判所長在任中に不幸にも病を得て、所長辞任直後の一九三四年十二月に現職裁判官のままアムステルダムの病院で客死されたことに関係しているのではないかと思われる。歴代裁判所長は、裁判所長の任期を終えて退任した後に画家を選定して描かせた肖像画を裁判所に寄付するのが恒例になっている。安達博士の場合には上述のような事情の下で裁判所長退任後間もなく逝去されたために、肖像画を準備する暇がなかったのではないかと推測されるのである。その代わり、かつては安達博士の胸像を描いたメダイヨンが室の隅におかれていたというが、今日ではそれも平和宮博物館の方に移されてしまっている。

 安達峰一郎博士の功績は、ただ単に国家間の紛争を法によって裁く世界の国際法廷である国際司法裁判所で裁判所長を務めたただ一人の日本人だったということだけではない。博士は第二次世界大戦前の日本が生んだ世界に最も知られた国際法学者であり、国際連盟を中心とする国際社会で最も尊敬された真の国際人だったのである。
  明治二年、山形県に生を享けた安達峰一郎は東京帝国大学時代から国際法に志を抱くようになった。その動機について博士は既に十九歳のとき「夫レ我那ハ当時疑ヒモナク弱小ノ国ナリ、少弱ノ国ヲ以テ列国ノ間ニ介在シ帝国ノ尊厳ヲ損スルコト無ク内治外交ノ完全ヲ求メント欲セバ、深ク国際ノ理法ニ通ジ、機変ニ処スル秀才アルモノ外交ノ衡ニ当リ、満腔ノ熱心ヲ以テ之ニ従事セザルベカラズ」と述べている。
 この志を具体化すべく外務省に入った安達博士は、若くしてポーツマス講和会議に小村寿太郎全権の随員として参加したのを皮切りに、第一次大戦後はヴェルサイユ講和会議随員として戦争責任委員会などの各種委員会に参加して国際的に頭角を現わすようになる。国際連盟には第一回から第一〇回まで継続して日本政府代表として参加し、その得意とするフランス語を駆使して活躍した。特に常設国際司法裁判所との関係では、その設立のための裁判所規程起草の任に当たる法律家委員会の委員として大きな貢献をしたことが、後年裁判官に選ばれる背景となったと思われる。
  中でも特筆されるのは、一九二四年国際連盟総会では国際紛争平和的処理に関する「ジュネーブ議定書」が審議された際、当時の列強の筆頭格だった英仏を向うにまわして日本代表として日本の主張を持して一歩も譲らず、遂に日本の主張を認めさせたというエピソードである。当時国際連盟事務次長だった新渡戸稲造博士がこの場を目撃していて「安達の舌は国宝だ」と絶賛したのは有名な逸話である。

 一九三一年国際連盟理事会、総会の圧倒的支持を得て常設国際司法裁判所裁判官に選任された安達博士は直ちに裁判所長に選ばれることとなった。これは先任制が定着した今日ではとても考えられないことだが、当時においてもきわめて異例なことであったに違いない。外交官としてだけでなく、国際法学者として安達裁判官の令名はそれほどに世界にとどろいていたのである。
  三年間に亙る裁判所長の職務は、きわめて重くかつ厳しいものであった。しかも日本をめぐる国際環境はちょうどこの頃を契機に悪化していった。裁判所長に就任した年には、満州事変が起き、日本は国際連盟で批判の的となる。そして裁判所長としても最後の年に当たる一九三三年には、日本は国際連盟から脱退するのである。
 
 それにも拘らず、安達裁判所長に対する裁判所内外の信頼はいささかも揺らぐことがなかった。
安達裁判官の同僚であり、国際法の世界的権威として令名のあったマックス・フーバー裁判官は安達裁判官について「偉大な数十年間の外交的経験は、裁判官並びに裁判長としての彼に国際裁判官に不可欠なところの国際関係に対する鋭い洞察力と雑多の分子から構成された裁判所の指揮を可能ならしめるところの人物鑑識力を与えた……彼の裁判官的良心の前には如何なる政治的日和見主義もかつて力をもち得なかった」と彼の死を悼む言葉を寄せた。
 また裁判所書記局を代表する立場から安達裁判所長の右腕となったハマーショルド氏は「故安達所長は裁判官の道徳的な義務を表わす一つの記憶に値する非常によい言葉を発見した。自己に神性の衣をつけること―自らを神格化することが裁判官の義務であると彼は言ったのである」と述べ、自分の出身国の有為転変に動かされず、神の立場から事に当たろうという決意の下で行動した安達裁判所長の姿を描き出している。
  たしかにハマーショルド氏が言うように、安達裁判所長にとっては「最後まで義務を尽くすこと、彼の肉体的限界を超えるまで努めることが彼の目標」であり、それが裁判所で過ごす毎日、毎時間の目的であった。そしてそれが安達博士の健康を致命的に蝕むことになったことは疑いを入れない。一九三三年末をもって裁判所長を辞した安達博士は、その後療養の目的で滞在していた保養地から翌年夏急遽アムステルダムの病院に入院、その年の暮十二月二十八日に現職の裁判官の地位に就いたままその生涯をとじた。オランダ政府がその逝去に対してオランダ国葬をもって遇したことは、国際司法裁判所の歴史の中でも破格な待遇として知られているところである。

 このような日本が世界に誇る国際人であり、世界の尊敬を一身に集めた日本を代表する知識人の肖像画があるべきところにないのは如何にも残念だというのが、私が国際司法裁判所に着任して以来もちつづけた気持だった。そして、どなたか私の趣旨に賛同して肖像画の寄贈に協力して下さる篤志家はないであろうかというのが私の秘かな思いになった。
 まず外務省に協力を打診したが、昨今の緊急財政の下での予算削減の状況下では残念ながらそういう出費の出ようがないというのが結論であった。更に安達峰一郎記念館という財団法人があると聞いていたので、そこにも接触したが「うちはご承知のとおりお金がありませんから」とやんわり断られたこともある。
  当面諦めるしかないかと考えていた矢先のこと、昨年一月、私が評議員をしている学士会の新年祝賀午餐会の席で、隣りあわせになったのが、同じ評議員である元最高裁判事大内恒夫氏であった。
 国際司法裁判所の最近の活動などについて色々お話している中に、大内さんから実は最近こういう仕事を引き受けておりますといって差し出されたのが、安達峰一郎記念館理事長という肩書の入った名刺である。
 恐る恐る安達裁判所長の肖像画の件を持ち出してみたところ、意外にも「それは大変すばらしい話だから、何ができるか理事会に相談してみてもいいですよ」とのお返事がかえって来たのである。
 その後大内さんから、「理事会で協議したところ皆さんがいい話だから何とか協力しようということになりました」という御鄭重なお手紙をいただいたのは昨年夏前のことだっただろうか。実際に肖像画を描いて頂く画家についても、私自身が名誉会長を務めている美術文化振興協会メンバーの芸術家の方に御協力をお願いしてよい旨申し出たのだが、結局、全面的に記念館の皆様の御好意におすがりすることになった。古吉弘画伯にお願いすることが決まったのは昨年後半のことである。

 今年に入って、五月の連休前にはいよいよ肖像画が出来上がりますという御連絡を頂いて、裁判所長、書記局と具体的打ちあわせを行った結果、六月十二日に除幕式を行うことが確定した。当日は東京から大内恒夫記念館理事長、佐藤友光常務理事においでを頂き、また在蘭日本大使館から小町恭士大使にも御列席頂いて、立派なセレモニーが挙行された。現在の国際司法裁判所長ヒギンズ女史からも鄭重な祝辞を頂くことができた。三年来の夢が実現した今、私自身ほっと一息をついたところである。
 ところが、この稿を起こすに当たって安達博士の生涯と足跡を文献で辿っていた私は、今になって安達博士がオランダで客死された直後の昭和十年二月十八日に東京で開かれた「安達峰一郎博士追悼座談会」の中に次のような記述があるのを発見した。発言したのは常設国際司法裁判所で安達裁判官の前任者であった織田萬博士である。

 常設国際司法裁判所におきまして、所長の職を務めたものは、歴代その肖像を残すことになっておりまするが、これは第一の所長をしたオランダのローデルという人がオランダの画家に描かせた自分の肖像を寄付し、それが例となったのであります……
 先例がすでにお話したようになっておりますし、また裁判所としても必ず所長の肖像を残さなければならぬに相違ないのでありますから、もし故人がそういう計画をしていなく、また実際肖像が残されていないとすれば、どうかこれは一つわれわれ故人の旧交新知の間から、また、なるべくというよりは、必ず日本画家の方にこの肖像をお願いして、そうしてこれを平和殿に納めることにしたいのであります。
 世界平和の中心となっている所のこの殿堂に、日本の美術を残すということもまた日本の誇りの一つではなかろうかという感じも致します……
 そうしてもし、そういうことになったならば、満場の皆さんが必ずご賛成してくださるものと私は堅く信じます……

 考えてみると、今回安達峰一郎記念館関係者の皆様の御協力によって、はからずもこの織田博士の提案が実に七十年の歳月を経て実現したことになる。この機会が日本が生んだ最高の国際知識人、世界の平和と国際社会の法の支配のために文字通り命を捧げた安達峰一郎博士に対する理解を深める契機となれば、多少のなかだちをした私としてこれ以上の幸せはない。

(なお、この稿を完成するに当たって、就中、安達峰一郎記念館発行「世界の良心安達峰一郎博士」の記述に負うところが大きかった。特記して謝意を表したい。)

(国際司法裁判所裁判官・東大・教養・昭30)