シェイクスピアの人間談義
小田島 雄志
(演劇評論家)
No.853(平成17年7月)号

はじめに

 小田島でございます。先ほど大変有難いご紹介をいただきましたが、私自身、単に芝居好きのミーハー的観客です。こんなに大勢の偉い方々が私の雑談のような話のために一時間も無駄にするのは、日本の文化にとって損失とは思いますが、お許し願いたいと思います。
「シェイクスピアの人間談義」という題でお話いたします。ただ、シェイクスピアは本当にいたのかという話になると三時間もかかりますので、いたということにいたします。私とシェイクスピアとのつきあいも、もう五十年以上にもなります。ではそこから何を学んだのかと言われれば、シェイクスピアが別に何か教えてくれるわけでなく、こちらが求めれば、そこに何かあるという感じです。
  その何かとは人間とはどういう存在かということです。彼は、愛したり、憎んだり、あるいは迷ったり、決断したりする様々な人間の姿を書いたと言えます。そしてこちらも、人間とはこういうものだなということを発見ないし再発見できる喜び、それがシェイクスピアに私が今までつきあってきた意味だろうと思います。
  テーマを一つに絞りまして、シェイクスピアが人間、あるいは人生というものをどう見ているかを、私なりに好きなせりふをいくつか挙げてお話しようと思います。答えを先に申し上げますと、シェイクスピアの人間や人生に対する見方は、一歩引いて見る目と言うか、何かにとらわれている目、つまり当事者の目ではなくて、第三者の目と言ってもいいと思います。
  身近な例ですが、例えば私も雨の日など、道を歩いていて、向こうから車が来てバシャッと泥水をぶっ掛けられると、畜生、車ってなんて横暴だと思います。ところが、こちらが車に乗って走っている場合、おばあさんがよたよた歩いていたりすると、邪魔だから早くどけよと言いたくなる。これは当事者の目で見ているわけですね。そういう姿を一歩引いて、第三者の目で見たら、どっちもどっちじゃないかと思えると言えます。
  日本語には岡目八目といういい言葉があります。これはやはり、縁台将棋を指していて、自分より絶対下手だと思ったやつに「それは違うでしょう」みたいなことを言われると、しゃくにさわるけれども、指している自分より、覗いている人のほうが、実際、ものがよく見えているということはあります。
  つまりシェイクスピアというのは、一歩引いた第三者の自由な目でものを見る達人と言っていいかもしれません。私は、以前『道化の目』(白水社)というエッセイ集を出しました。シェイクスピアに出てくる道化はとらわれないで物を見ているので、そういう目を僕も持ちたいと思って出した雑文集ですが、それを読んだ偉い先輩に「題名だけはいいね」と言われましたが確かに自分でもそう思います。
  今日は、シェイクスピアがいかにそういうことの達人であり、人間というものをよく見ているなと思える例を七つほど、せりふの中からご紹介しようと思います。

 

Ⅰ どんな荒れ狂う嵐の日にも時はたつのだ。
            (マクベス 一幕三場147行)
   Time and the hour runs through the roughest day.

 これは『マクベス』という芝居のせりふなので、皆さんよくご存じでしょう。内容を簡単に申し上げると、11世紀のスコットランドに、実際にいた王様の話です。彼のいとこダンカンはスコットランドの国王で、彼自身は中世封建時代の貴族であり、グラームズの領主でした。このお城は現エリザベス女王の母君の居城だった所でもあり、素晴らしく大きな、きれいなお城です。
  マクベスが、スコットランドに対する反乱軍を、バンクォーという僚友とともに制圧して引き上げてくる途中、三人の魔女に出会います。最初の魔女が、「万歳、マクベス、グラームズの領主」と言い、第二の魔女は、「万歳、マクベス、コーダーの領主」と言い、第三の魔女は「万歳、マクベス、将来の国王」と言います。マクベスは、自分は確かにグラームズの領主、だのにコーダーの領主とはどういうことだ、彼はまだ生きている、将来の国王とはどういうことか、と聞いても、魔女は答えません。また、バンクォーも俺にも何か言えと言うと、魔女たちは、「マクベスほど偉大ではないが、ずっと偉大な方」「マクベスほど幸せではないが、ずっと幸せな方」と。また自分が国王になるとは言わないけれども、「代々の国王を生み出す方」という予言をして、消えてしまいます。不思議なことがあるものだなと言っているところに、ダンカン王の使者がやってきて、マクベスに向かって「反乱軍をやっつけた、その功績によりコーダーの領主に任ずる」と伝えるわけです。
  第二の魔女の予言が当たったのです。とすれば、第三の魔女の言う将来の国王というのも、当たるのではないかと彼は思います。そして、ダンカンとはいとこ同士ということもあり、彼の中に今まで眠っていた国王への野心がめらめらと燃え上がるのです。
  マクベスの居城があるインバネスはスコットランドの最北端にあります。その南部にあるネス湖は例のネッシーという怪獣で有名です。僕も三十分くらいがんばったけれども、出てくれませんでした。そこからネス川が流れて、いちばん北で海に入る所、そこがインバネスです。インバというのは口という意味でその河口にあたるのが、インバネスという町です。長いゆったりしたケープ付きコートをインバネスといいますが、私のおやじはそれが好きでよく着ていましたので、ああ、ここがインバネスかと思いました。この町を流れる大きなネス川にこれまた大きな橋がかかっていて、ネスブリッジと書いてあり、橋のたもとに喫茶店があって、ネスカフェとあった。本当です。写真を撮っておけばよかった。コーヒーのネスカフェと、スペリングがちょっと違います。NESS、Sがひとつ多いです。
  そのインバネスのマクベスの居城にダンカンが来ることになって、結局マクベスはダンカンが寝ていることろを殺すわけです。その後、予言通り自分は国王になります。そうなると、バンクォーもあの魔女たちの予言のように代々の国王を生み出すということは、自分が手を汚してせっかく手に入れた王座が、あいつの子孫にいくことになってしまう。それでは面白くないというので、今度は殺し屋を放って、バンクォーとその息子フリーアンスを殺させようとします。しかし殺し屋は、バンクォーは殺したけれども、息子の方を逃してしまい、そのうちに、今度は殺したダンカン王の長男でイングランドに逃げていたマルカムがイングランド王の助けを借りて攻めてきて、結局、マクベスは死んで終わるというのが、この芝居です。
  じゃあバンクォーへの予言は当たらなかったのかというと、当時の観客はみんな知っていたのですが、芝居での予言というのは必ず当たることになっています。作家は知って書いていますから、当たるのです。実話ではバンクォーの息子は結局アイルランドに逃げて、そこの王女と結婚し、その子孫がスコットランドに戻ってきて、魔女の予言通り、代々の国王になります。
  実際、1603年にエリザベス女王が亡くなります。エリザベス女王は、私は国家と結婚したとか、国民がわが子であるとか、格好いいことを言って、本当の子どもを生まなかったので、ロイヤル・ブラッドの継承者がいませんでした。そこで、スコットランドにいたジェームズ六世という王を連れてきて、イングランドの次の国王にします。ジェームズという名前の王は、イングランドで初めてだったので、一世と名前を変えます。
  当時演劇活動は、貴族以上のパトロンがついていないと許されませんでした。シェイクスピアのいた劇団は、宮内大臣がパトロンでしたので、ロード・チェンバレンズ・メン、宮内大臣一座と言われていました。ジェームズ一世が即位してから、国王がパトロンになったので、キングズ・メン、国王一座と呼ばれます。
  これが1603年のことです。『マクベス』を書いたのが1606年と思われますのでシェイクスピアからすれば、国王でもあり、劇団のパトロンでもある人のご先祖が、系図上はバンクォーです。それで、結局シェイクスピアはこのバンクォーの悪口が書けずに、彼を立派な武将にした。だから、バンクォーを殺させたマクベスを悪党にして、その悪党に殺されたダンカンという王様をまた立派な王様にしたのです。
  シェイクスピアが種本に使用した歴史物語の本によると、ダンカンというのが本当は王位簒奪者で、マクベスが正統な王位継承者だったのを、横取りしたというのが事実のようです。マクベスはダンカンを殺す時に、バンクォーの手を借りましたが、自分が王になったら、彼も王位への野心を持っているとわかったので、やはり殺してしまいました。
  最後の一年、晩年の一年くらい、ちょっとおかしくなったところがあるようですが、それまでの十年ほどマクベスはいい王様でした。しかし、シェイクスピアは当時の国王であり、パトロンである、ジェームズ一世によいしょするというかご機嫌をとるために、ちゃんとバンクォーを立派にし、殺したマクベスを悪党にしています。
  シェイクスピア三十七本の芝居のうち、悪党を主人公にしたのは、二つしかありません。『リチャード三世』と『マクベス』です。そういう歴史物語があったのを、シェイクスピアなりに改変し、善悪の基準をひっくり返して、この『マクベス』を書いたということです。
  この「どんな荒れ狂う嵐の日にも時はたつのだ」というのはどの場面で言われるせりふかというと、マクベスが魔女たちの予言を受けた直後、ダンカン王の使者が来て、自分がコーダーの領主になったと聞いて、だったら自分は将来国王になるかもしれない。そのためには、今いるダンカンを殺さなくちゃいけない。王殺しというのは、非常に重い罪ですが、マクベス自身、イマジネーションの強い男なので、その恐ろしい王殺しの場面を想像してしまうのです。そして、その恐ろしさに、心臓が肋骨を打つという表現が出てきます。胸がドキンとすることを心臓が肋骨を打つという非常に生々しい表現で表わしています。来るものはどうせ来る。ええい、どうにでもなれといって、言うのが実はこのせりふです。「どんな荒れ狂う嵐の日にも時はたつのだ」とはつまり、王殺しなんていう恐ろしいことをやっても、結局時は流れていく、ええい、やってしまおうというコンテクストで言われるせりふです。
  このせりふは、現在というものにとらわれていては、物が見えない。例えば、景気なども、不景気とか好景気とか言われていますが、やはり五十年も百年も続くものではなく、一歩引いて長い目で見れば、景気というものにはかならず波があるように、どんな荒れ狂う嵐の日も、結局嵐は去って、青空がよみがえってくるという、これはシェイクスピアがいろんなところで繰り返す、ひとつの人生観と言えます。
  ついでに申しますと、先ほど話にあったように、殺されたダンカンの長男がイングランドに入り、一万の兵を借りて攻め上ってきます。そして、いよいよ打倒マクベスの直前に言うせりふが、今まで要するにわが国は、マクベスという暴君の下にあって夜の闇に閉ざされていた、しかし、「どんなに長い夜も必ず明けるのだ」という同じようなせりふを言います。芝居の冒頭と最後近くに、敵、味方に分かれて争う者が、意図的にかどうかわからないけれど同じようなせりふを言うということは、シェイクスピアが常に、現在にとらわれず、一歩引いて、長い目で物を見ろということを言っているのです。
  ひんしゅくを買いそうですが、僕は麻雀が好きで、麻雀をやっていらっしゃる方はご存知でしょうが、三面待ち、絶対上がれると思ってリーチをかけたら、親の満貫のカンチャンに振り込むとか、おわかりにならない方はそれで結構ですが、要するについていないなということがあります。その時に、ついていないなと思ったらそのまま底なし沼で、どこまで落ちるかわからない。ではどうすればいいか。胸の中で、「どんな荒れ狂う嵐の日にも時はたつのだ」これを三度繰り返すと、不思議なことにつきはよみがえってきます。シェイクスピアを知っていると、いいこともあります。

 

Ⅱ 顔を見て人の心のありようを知るすべはない。
                (マクベス 一幕四場12行)
There's no art to find the mind's construction in the face.

 これを言ったのはダンカンという王様です。彼は、温厚篤実で立派な名君です。しかし反乱があって、非常に立派な忠義の臣と思っていたコーダーの領主が、その中に加わっていたということで、自分を裏切ったと。そこで、このせりふを言うのです。あの男だけは間違いなく、忠義の臣と思っていたのにと、このせりふを言ったところに、マクベスとバンクォーが登場します。
  いとこでもあるダンカンは、身内ながらあっぱれな男を持って嬉しいぞと言って、マクベスを抱きしめてしまう。でも、観客は、すでに魔女に出会って、王殺しを決意しているマクベスを知っているわけです。つまり、ダンカンは「顔を見て人の心のありようを知るすべはない」と言ったとたん、それを立証するように自分を殺そうと思っているマクベスの顔を見て、心のありようを知るすべがなく、抱きしめてしまいます。
  これはシェイクスピアが劇作法としてよく使う手です。術語で言うと、ドラマティック・アイロニーと言い、劇的皮肉という要するに、劇中人物が意識する以上、自覚する以上の意味のせりふを言ってしまう。これをドラマティック・アイロニーと言います。
  ダンカンからすれば、あくまでコーダーの領主が裏切ったという思い。非常に忠義面していたのにというその思いのたけを言ったのが、マクベスにもあてはまってしまった。ここには観客というものの存在があるから、これが非常に劇的な意味を持ちます。観客からすれば、自分が優位に立つという言い方はおかしいけれども、自分はダンカン以上に知っている。あいつはお前を殺そうと思っているんだぞという思い。さっきお前の言ったせりふが、そのまま実証されたなというように、観客が思えるので、こういうところはシェイクスピア、劇作家としては非常にうまい作家です。
  もちろん、「顔を見て人の心のありようを知るすべはない」これだけを見ますと、見た目にとらわれていると見えないものも、一歩引いて見たら、心が見えるということがあるわけです。実は、シェイクスピアは悲劇、喜劇、歴史劇、いろんなスタイルの芝居を書いていますが、どんな芝居にもこういう人間観が出てきます。シェイクスピア学者はこれを、アピアランスとリアリティのテーマという言い方をします。見せ掛け、仮象と真実というか、本当の姿と、見せ掛けとは、人間、違っていて、この谷間に落ち込むのが、悲劇です。ご存じの話で言えば、例えば『リア王』がそうです。王が娘たちの真実の姿を見損なって、表面だけを見て、長女、次女を信じ、三女、コーディーリアを疑ったために起こる悲劇です。
  だが、一方では、そのアピアランスとリアリティの違いを利用して、ハッピーエンドにいく手もシェイクスピアの喜劇にはよくあります。『ヴェニスの商人』とか、あるいは『お気に召すまま』『十二夜』といった芝居だと、ヒロインが男装する。女が男装して恋人の心をぐっとつかんでしまう、男装して男の心をつかまえておいて、実は私だったのよというので、ハッピーエンドにもっていく。これは明らかにアピアランス、男と見せかけ、本当は女だったという、そういう喜劇もあります。
  いずれにしろ、見せ掛けと真実というのは、シェイクスピアのどんな作品にも必ず繰り返し出てきます。その中に、例えば「顔を見て人の心のありようを知るすべはない」という、このダンカンのせりふも出てくるわけです。

 

Ⅲ 嫉妬深い人は……理由があるから嫉妬するのではなく、嫉妬深いから嫉妬するのです。    (オセロー 三幕四場159行)
  They(=jealous souls)are not ever jealous for the cause,
but jealous for they are jealous.

 これは僕の大好きなせりふです。我々はしばしば、人間の行動というのはこういう理由があるから、こういう行動をしたということで、わかったと思いがちです。これはやはり非常に表面にとらわれていると言えます。例えば昔高校生が、母親を金属バットで殴り殺すという事件がありましたが、その行動が、非常に不思議であると話題になりました。仮にその時に、エレキギターやバイクが欲しいと言ったらお袋が許さなかったのでという理由があったら、わかったとたいていの人が思うのでしょうが、本当にわかっていいのでしょうか。エレキやバイクを買ってもらえない高校生がみんな、お袋を殴り殺すのならいいのですが、そうじゃない。だから、行動に理由がつけば、それでわかったということになるとは限らないと思います。昨今の日本の外交、外務省のことまでいうと具合が悪いので、今、政治、外交の話はしません。けれども、人間というのは理由と等価値の行動をするとは限らないのです。
  私は学生時代に、中野好夫という先生から、シェイクスピアの面白さをいろいろ教えていただきました。その中に、例えば『オセロー』のなかで悪党のイアーゴーがいて、オセローを破滅させますが、その理由を、イアーゴー自身、自分が当然副官になっていいのに、オセローは自分を差し置いて、実戦経験の少ない、マイケル・キャシオーという男を副官にしたからだという、この恨みは当然あっていいと思います。自分が副官に選ばれると思ったのに、旗持ちのまま据え置かれた。これは一般サラリーマンの中にもあるのでしょうね。俺のほうができるのに、あいつが先に出世、課長になったから恨むというのはよくある話です。
  だけど、そのために上司を殺すのでしょうか。これは、十九世紀以来のシェイクスピア学の大問題のひとつなのです。イアーゴーのモーディブ・ハンティングといい、つまり動機探しです。なぜか。イアーゴー自身、もうひとつ理由を言っています。副官の職の問題ともうひとつは、彼にはエミリアという妻がいますが、オセローと自分の女房が浮気したといううわさ。これはうわさに過ぎないけれど、イアーゴーは俺はうわさになるだけで、信じてしまう男だとか、いろんな理屈をつけます。要するに、理由なんか探したって無意味というわけです。そこで、後の批評家たちが、イアーゴーについて、よく悪のための悪であり、すなわち悪の芸術家であるなどいろんなことを言いました。いわゆるローマ派、ローマン主義者と言われる人たちの解釈だと、そうなってしまうらしいのです。ただ人間についてごく当たり前に見れば、これだけの理由があるから、これだけ行動すると割り切れるものではないだろうということを、僕は中野好夫先生に教わりました。戦後、中野さんが出した例で、ある歌舞伎役者の家で茶碗一杯の飯のことで、一家惨殺したという事件がありました。そのように、先生はつまり人間というのは、ほんの小さい理由で何をやらかすかわからない。それこそが人間だということをおっしゃった。私も同感です。
  シェイクスピアというのは、理由というものは本当に些細なものだと言っています。行動と理由つまり動機というものは、これはもう本当にイコールじゃないということを、いろんなところで強調しています。
  例えば『ヴェローナの二紳士』という初期の喜劇があります。そこにあるお嬢様とその侍女との会話があり、男の品定め、源氏物語の雨夜の品定めふうに始まります。その時、お嬢様のほうが侍女に、あの方をどう思うかと聞くと必ず批判的な悪口になっていき、そして、お嬢様の恋人の名前を出すと、そのことを侍女のほうは知っているので、「I think him best.私はあの人は最高だと思います」と言います。お嬢さんのほうが、「Your reason?その理由は」と聞くと、reasonっていっても、「I have no other but a woman's reason.私には女の理由しかありません。I think him so because I think him so.そう思うからそう思うんです」というやりとりがあります。あの方が最高だと思うから、そう思う。これをwoman's reason´女の理由という言い方をしています。
  そう言われてみると、女子高校生たちにアイドル歌手の名前を出して、「好きか」と言ったら、「好き」と。「どうして」「好きだから好き」。これ、非常に正しいんです。男の子に聞きますと、こうだからって、何か理屈を言います。男はだめです。僕も理屈を言いたくなるほうだけれども、好きだから好きというのが、いちばん当たっているでしょうね。つまり人間というのは、これだけの動機があればこれだけ行動するものだという具合の見方にとらわれていると見損なうので、嫉妬深い人は嫉妬深いから嫉妬するという風に見る。これは非常に正しい見方だと、僕は思います。シェイクスピアはそういう例をいろんなところで言っています。皆さん、『オセロー』の芝居がどういう芝居かはもうご存じでしょう。
  このせりふを言ったのは、イアーゴーという悪党の妻、エミリアです。余談ですが、オセローというのは元々ムーア人で、ムーアというのはいまのアフリカ北西部、モーリタニアあたりなので、彼の肌の色は褐色のはずです。当時、つまりエリザベス朝のシェイクスピア時代の人々は、悪魔の色とか、要するに真っ黒で厚唇という、アフリカン・二グロのイメージでムーア人をとらえていました。しかも年は、中年の坂を越えたと自分で言っている男で、そして身分は傭兵隊長です。
  統一前のイタリアではベネチアとフィレンツェは共和国、ミラノは公爵が治める公国。ナポリは貧乏で実力がない王様がいる王国ですね。それとバチカンのバランス・オブ・パワーでイタリアが成り立っていました。ベネチアというのは、海外貿易でものすごく裕福だけれども、戦争には弱いので、外人部隊を本当に雇っていましたが、そこで起こった物語であり、実際にはチンティオというイタリア人の書いた小説が種本になっています。
  そういう外人部隊の、雇われ将軍であり身分からすれば、かなり低いオセローが、元老院筆頭議員の一人娘のデズモーナと愛し、愛されて、一緒になったというところから、この悲劇は始まります。
  だから、イアーゴーという男は自分が副官に選ばれなかったということもあり、それから、女房を寝取られたと、でもこれはまさか、自分でも信じていないでしょうが、ただ要するに、あの黒人の雇われ将軍に過ぎないやつが、大貴族の一人娘と一緒になるというこれだけでも嫉妬して羨ましいという気持ちを持ったのです。要するに嫉妬深い男だから、嫉妬したのです。この芝居の本質は、イアーゴーが嫉妬深い男だったから、オセローを殺した、破滅においやったと見ることが出来ると思います。
  このせりふはイアーゴーの妻エミリアのせりふです。どういうところで言われるかというと、どうも旦那様のオセローの様子がおかしい。彼はイアーゴーにたぶらかされて、妻のデズデモーナがが副官のキャシオーと怪しいと信じてしまい、その様子をエミリアが見て言うせりふです。彼女はデズデモーナの侍女で、自分の亭主がおとしいれたとも知らず、デズデモーナに向かって、「どうもだんな様の様子がおかしいけれど、もしかして奥様に嫉妬していらっしゃるんじゃないかしら」と言います。デズデモーナは嫉妬される理由なんかないと答えます。そこで、これはエミリアという、いわば庶民の人間観が言わせるものです。「嫉妬深い人は理由があるから嫉妬するのではありません。嫉妬深いから嫉妬するのです」。これがやはり人間とはそういうものではないかなと、私自身も思います。

 

Ⅳ 王様だってスミレの花はおれと同じように匂うだろう。
              (ヘンリー五世 四幕一場106行)
   The violet smells to him(the King)as it doth to me.

 これも僕の大好きなせりふです。『ヘンリー五世』というのは、日本ではあまり上演されませんけれども、イギリス人は大好きです。なぜかというと、クイーンを別として、イギリス人の好きな王様ベストテンを選べば、ヘンリー五世が一番じゃないかと思います。エリザベス女王とか、ヴィクトリア女王とか女王様には人気者がたくさんいますが、キングで言えばこの人なのです。
  その理由のひとつは、例の百年戦争で、フランスを完膚なきまでにやっつけた王様だからで、イギリス人にとっては、こんな嬉しい王様はいません。ついでに言うと、百年戦争当時、フランスでの一番の人気者はジャンヌ・ダルクでしょう。シェイクスピアも、彼女について書いています。『ヘンリー六世』という芝居です。これはイギリス人にとっては、もうこんなけしからんやつはいないので、シェイクスピアもこの乙女のジャンヌを、悪霊を呼び出す魔女として書いています。オルレアンにいらっしゃった方はご存じでしょうが、町を歩いていると、あちこちにジャンヌ・ダルクの銅像や壁にはレリーフがあったりするので、以前、同行した週刊誌の記者が、「この町はジャンヌだらけの町ですな」と言いました。先に言われたなという気がしましたが確かにその通りで、そこにあるジャンヌ・ダルクの記念館へ入ってみたら、ヘンリー五世と、トーボットという、イギリス軍の名将軍二人の、いわゆるポンチ絵というか風刺漫画のように非常に矮小化された絵がありました。ですから、フランス人にとっては、ヘンリー五世というのは大嫌いでしょうね。
  このようにフランスとの戦いでの英雄ということがひとつ、それからもうひとつ、彼の父親であるヘンリー四世の時代にすでに、ハル・レジェンド(ハルはヘンリーの愛称)、いわゆるハル伝説というものがありました。それは何かというと、彼は皇太子のくせにもう悪いことを何でもやっているのです。サー・ジョン・フォールスタッフという愉快な人物と共に、居酒屋で飲んだくれ、果ては追いはぎ、強盗に加わったり、もう悪事を散々やっています。そして、当時のある偉い男に捕まって、牢獄に入れられてしまいます。そしてさらに、シェイクスピアが書いているのですが、ヘンリー四世が死んで、ヘンリー五世になった時に、その牢獄にほうりこんだ当人で、今の法務長官みたいな男を呼び出します。彼はきっと首になるなと思ったら、王様が「あなたを私の父と思うぞ。これからも私に間違ったことがあったら、厳しく言ってくれ」と言って重用します。こういうのをイギリス人は好きなのです。
  だからヘンリー五世のような、今の皇太子など、もう本当に問題にならないほどのやんちゃな皇太子が名君になって、アジンコートの戦い、フランス読みでアザンクールの戦いのように、四倍から六倍のフランス軍を、完膚なきまでにやっつける。シェイクスピアだと、フランス軍を十二倍くらいにしていたかな。そして結局大勝利を収めて、フランスの王女と結婚することで和解します。こういうヘンリー五世のような王様をイギリス人は大好きなんです。
  今言った、このアジンコートの戦いで大勝利を収めるけれども、この戦いの前夜は、イギリス軍は意気阻喪しています。連戦、連戦で疲れ果てて、もう武器もがたがたになった。そこで、フランスの新手の、シェイクスピアだと十二倍の敵と対戦することになった。正確にはどうだったのか。五千とか六万とか、シェイクスピアは数字をちゃんと挙げています。
  その前夜にヘンリー五世が、一兵卒に変装して陣中を見回っていると、兵隊どもが輪になって、しゃべっているところに行き合います。自分たちは疲れ果てているし、敵は十二倍だ。だから明日の戦いは勝ち目がないと、誰か王様に進言すればいいのにと、兵隊の一人が言います。それを聞きとがめ、変装したヘンリー五世が、「いや、それは言うべきではないと思う」と言います。兵隊が「なぜなんだ」と聞くと、ヘンリー五世は答えます。「王様だってスミレの花はおれと同じように匂うだろう」と。
  でもすでに、観客は彼が王様だって知っています。だから当然、王様だってスミレの花がおれと同じように匂うと言うのも、観客は知っているけれども、ここは一般化して、受けとることにしましょう。スミレの花というのは、王様にだけいい香りを放って、一般庶民には匂ってやらないなんてことはしませんからね。さらに続けて「王様だって、青い空はおれと同じように青く見えるだろう」、つまり、王様だって人間だ、だから、明日の戦いに勝ち目がないぞと言って、怖がる理由を与えたら、王様だって怖がる。しかし、王様というものは全軍の士気に影響するから本当に怖がらせちゃいけないと言っているのです。
  これは芝居として見ると非常に面白いせりふだけれども、それを抜きにしても、我々はやはり、身分とか肩書きとかにとらわれることが多いけれども、そういうものにとらわれないで自由に見たら、王様だって庶民だって同じだという考え、これがシェイクスピアの人間観の根底にあります。
  例えば、『冬物語』──『冬の夜話』と逍遥さん(坪内逍遥)が訳していた──この芝居でも、本来はシチリアの王女だったのに捨てられて、ボヘミアの羊飼いの娘として育ったパーディタ。彼女は王家の血を受けているので、鄙にはまれな美少女に育っているわけですね。ボヘミアの王子が、鷹狩の途中でこの娘を見て、一目惚れします。
  ところが、王子が羊飼いの娘に惚れたのでは、父の王様としては困るわけです。それで、変装して、パーディタが祭りの女王になっている毛狩り祭りに出かけます。すると王子もそこにいて、二人はもうかりそめだけれども、結婚の式を挙げようみたいなことを言っている。そこで変装していた王が怒り出して、変装をかなぐり捨てて、息子とその羊飼いの娘パーディタを叱りつけるわけですね。お前は王子と知って近づいた、金が目当てかとまで言います。
  じっとそれに耐えていたパーディタが、王様が去った後、「私、王様に叱られてもちっとも怖くなかった。だって、王様の豪華な宮殿を照らすおてんとう様は、私たち貧しい羊飼いの上をも照らしてくださるのですもの」と言います。これと同じです。つまり、スミレの花とか、おてんとう様から見たら、王様とか、羊飼いとか、区別しません。人間は皆同じです。これもずっと引いて見ると、そういうことがわかります。身分、肩書きにとらわれていては見えないものが、見えてくるというこでしょうね。
  実は先日、平幹二朗という役者が私の翻訳の『冬物語』の再演のため、まもなく全国ツアーに出て、東京には六月くらいにならないと戻らないと言うのでこの間ちょっと通し稽古を見に行きましたら、これが非常にいい出来になっていたので、今思い出しましたところです。
  これに限りません。シェイクスピアのいろんな芝居に、この引いて見る目で見たら人間みんな同じだというのは、いろんな形で出てきています。

 

Ⅴ 目はおのれを見ることができぬ、なにかほかのものに映してはじめて見えるのだ。
             (ジュリアス・シーザー 一幕二場52行)
   For the eye sees not itself,but by reflection,
   by some other things.

 これはブルータスのせりふです。シーザーの話はご存じでしょう。これの種本は、プルターク、プルタルコスの『英雄伝』です。シェイクスピアはそれを種本にしています。その英訳された本の、形容詞まで使って書いています。
  ジュリアス・シーザーが、政治家として優れていたと思うのは、例えばブルータスと、ブルータスの妹の亭主、義弟になるキャシアスという男に、法務長官のようなひとつのポストを争わせます。これは上に立つ者のひとつのやり方でしょうね。
  これも私の好きな野球の例ですが、川上(哲治)監督の巨人九連覇というのがあって、あの時、川上の実際の戦法、戦術は、「ただ石橋を叩くだけで渡らない」と言われたくらいの堅実な方法です。あれでは勝てるはずはないと思いましたが、実際に勝てたのは、あのONがいたからです。ではONがなぜあれだけ活躍したかというと、川上は常にその年最高の一塁手、三塁手をぶつけるんです。例えば早稲田に木次(文夫)という一塁手がいて、東京六大学の三冠王になりましたかね。王(貞治)がいるのに木次が来たって、木次は使えない。だけど、木次が来た以上、王はがんばる。三塁には、やはり関西六大学のトップバッターになった、難波(昭二郎)というのを採る。長嶋(茂雄)もおちおちしておられないので、がんばると。ONがあんなに長続きしてがんばったのは、川上のそういう、常に争える人材を持ってきて争わせた、ということにあるのでしょうね。
  シーザーもそれをしました。プルタークによるとシーザーはもしかしたらブルータスを、わが子かもしれぬと思っていたようです。実際に、ブルータスのお母さんというのは、かつてシーザーの愛人でした。どうも計算すると、ブルータスを生んで二年後にブルータスの父親と結婚している感じですよね。今さらDNA鑑定というわけにいかないので確証はないのですが、シーザーはブルータスをわが子かもしれないと思っていました。だからブルータスが反乱を起こしたとき、たちまち潰されて、ブルータスは川の葦の陰に隠れて一夜を明かしますが、結局みんな捕まる。ほかの者はみんな断罪されるのに、ブルータスだけはかえって重用される。シーザーは明らかにえこひいきをやっています。
  ブルータスのほうでも、シーザーが彼をわが子かもしれないと思っていたように、シーザーを父親のように敬愛していたでしょうね。しかし、ブルータス家というのは、代々共和主義者で、シーザーがシーザーたらん、皇帝たらんとする野心を持った場合、共和主義者としては、これを討たねばならないのです。
  こうした悩みをブルータスは抱えていて、一方シーザーを恨んでいたキャシアスのほうが、シーザーを倒そうと、不満分子に声を掛け兵を集めようとすると、みんなが口を揃えて、ブルータスが仲間に加わるならば、俺も加わると言います。ブルータスというのは、公明正大な士と思われているから、彼がいれば、正義は我にありということになると、みんなが言います。そこで数年間口も利かなかった仲だけれども、キャシアスがブルータスに近づいて、シーザー暗殺の士に加わらないかという時に、キャシアスは、君は自分というものが見えているのか、と言います。するとブルータスは、「いや、目はおのれを見ることができぬ、なにかほかのものに映してはじめて見えるのだ」と答えます。要するに周りの人たちの自分を見る目が、尊敬か、軽蔑のまなざしかで、自分が尊敬されているかどうかが見えてくるというのです。そこでキャシアスが弁をふるって、とうとう彼を一味に加え、ジュリアス・シーザー殺しまでいくわけです。
  このせりふ、確かにもう自分で自分というものがいちばん見えないのかもしれない。どうしても特に自分がいい思いをした経験があれば、自分を見る目に、僕はそれを慣性の法則があるというのですが、いつまでもその残像が残っている。したがって、今の自分はもう力がないとなかなか思いたくないし、思えないんですね。
  まだ山本浩二とか、衣笠(祥雄)とかが現役で、広島を優勝に導いた頃、今はもうなくなっていますが、渋谷のある飲み屋でよくこの二人に会いました。西武にいた東尾(修)、愛称でとんびと呼ばれていましたが、彼ともそうです。酒を飲んでいるとみんないいやつです。本当にみんな好きになってしまいます。
  衣笠がいよいよ引退するシーズンの夏頃に、やはり彼と飲んでいて「もう衣笠さん、あんたなら次のカープの監督だろう」と言うと、「いや、俺はだめですよ。今度辞めたらもう潔く身を引きます」と言うので、「まだやれるだろう」と言ったら「俺よりもお客さんのほうがわかっています」と言いました。どういうことかと言うと、チャンスに自分がバッターボックスに入ったら、昔は観客全体がウォーという尻上がりの声で盛り上がってくる。ウォーと下から盛り上がった声に乗って、ホームランを打っていたと言います。ところが最近では、自分が、チャンスにバッターボックスに入って、さあ打とうと思うと、観客がア~アと声を下げていくと言うのです。それで畜生と思って振っても、元はフェンスを越えたのが、外野手の定位置で取られちゃう。「俺より先にお客さんが知っていますよ」と彼が言いましたので、シェイクスピアが言っているのはこれだなと思ったわけです。
  雑談ばかりしておりますが、衣笠でついでにひとつだけ言っておけば、僕は広島の大学に講演を頼まれて行って、帰りに大学のほうでタクシーを呼んでくれて、広島駅までお願いしますって言ったら、愛想の悪い運転手が「フン」というだけなので、少し機嫌よく走ってもらいたいから、「僕は東京から来たんだけれども、衣笠や浩二と時々飲んでいるんですよ」と言うと「フン」と全然反応がない。はずしたなと思って、黙っていると、駅に着く前に、左に入っていくんですよね。ああ、こっちに行くと遠回りになると思ったけれども、黙っていたら、急に途中で住宅街の真ん中でとめて、「お客さん、衣笠のうち」と言ってわざわざ回ってくれたんです。衣笠本人にその話をしたら、「ああ、そうですか」と笑って、「小さいうちでしょう」。本当にたいしたうちじゃなかった。
  そんなことはいいとしまして、自分というのはなかなか見えないというのは、皆、何かやっぱり自分にとらわれているんでしょうね。

 

VI 好きになれなきゃ殺す、人間ってそんなものか?
   憎けりゃ殺したくなる、人間ってそんなもんだろう?
               (ヴェニスの商人 四幕一場66行)
  Bassanio:Do all men kill the things they do not love?
Shylock:Hates any man the thing he would not kill?

 これは『ヴェニスの商人』の法廷の場でのバッサーニオの言葉です。ヴェニスの商人はアントーニオという立派な人のことをいいます。このバッサーニオはポーシャという女に惚れて、求婚旅行に行く費用がないために、金を借りたいと親友のアントーニオに申し出ます。アントーニオが、今自分は海外貿易に全部投資していて、手元に金がないので、金貸しシャイロックから金を借りる証人になると言い、その金でバッサーニオはポーシャに求婚し、見事成功します。
  ところがその間に、アントーニオの投資した船が全部沈んだ。実際は助かったのですが。で、裁判になり、シャイロックが胸の肉一ポンド、証文通り受け取りたいと言い出す。そこで、バッサーニオはポーシャという大金持ちの娘と結婚したわけで、金を持って、三千ダカットを二倍でも、三倍にしてでも返すと言う。しかしシャイロックは受け付けないと言う。どうしてだと言ったら、要するに、自分はアントーニオという男が嫌いなんだと言うので、バッサーニオがここで野次を飛ばすわけです。「好きになれなきゃ殺す、人間ってそんなものか?」そんなものじゃないだろう。
  このバッサーニオの説に、僕ももちろん大賛成ですね。好きになれなきゃ殺すと言っていたら、地上の人類はもう五分間で全滅でしょうね。やはり好きになれなきゃ殺す、人間ってそんなもんじゃないだろうというバッサーニオの言葉に、僕は全面的に賛成します。すると、シャイロックは答えます。「憎けりゃ殺したくなる、人間ってそんなものだろう?」
  言われてみますと、そうですよね。やはり僕も殺したい人、三人くらいはいますね。最初は、谷口千吉という東宝の映画監督です。彼の初監督作品が『銀嶺の果て』という三船敏郎のデビュー作で、その中の信州娘の役に若山セツ子という女優が出ていまして、かわいくてね。「そうずら」なんて言って、僕は大学生の頃、もう夢中になって惚れていたら、監督が彼女と結婚してしまった。ここまではまだ許せます。僕にはまだもう一人好きな女優がいたから。当時宝塚花組娘役トップスター瞳ちゃんこと八千草薫、これにも惚れていましたら、谷口千吉はすぐ若山セツ子と別れて、八千草と再婚します。両方とるなよというので、僕は新宿西口で焼酎を飲みながら泣いた記憶がある。一人殺していいと言われれば、谷口千吉を殺すと言いました。僕は、実際彼に会ったことはありませんが、聞くところによると谷口千吉は本当にいい人らしいです。
  それは別として、憎けりゃ殺したくなるという気持ちは人間にはありますね。相対的な目というのか、シェイクスピアは絶対に断定しません。性善説とか、性悪説とかとは決して言わない。常に相対的にいろいろな立場から物を見ています。これは、とらわれないで一歩引いて見ているから言えるんだと思います。
  人間には真善美を尊ぶ気持ちというのはもちろんありますが、その逆の要素もあります。だから泥棒にも三分の理屈という日本のことわざなどは確かに真実をついています。百対ゼロじゃなくて、やはり七○対三○くらいで、善もあれば悪もあるというのは、普通の人間の姿かもしれない。憎けりゃ殺したくなるという気持ちも、誰の心にでもあるかもしれないと思えてきます。

 

VII 敵のおかげでいいめを見、友達のおかげで悪いめを見る。
                   (十二夜 五幕一場26行)
   The better for my foes and the worse for my friends.

 最後、七番目のせりふです。シェイクスピア劇では道化がたくさん活躍しますが、これは『十二夜』という喜劇に出てくる、フェステという道化のせりふです。それから悲劇だと、『リア王』に出てくる名前のない道化、これは非常に優れ、ずっと引いて、人間を非常に客観的に見ているという気がします。
  最近の、NHKと朝日新聞の論争でも、おかしいですよね。これはどちらも自分の立場にとらわれて見ているからです。すると、相手に対して腹が立ちます。ずっと引いて見たら、どちらでもいいということになります。そういう具合に、これはフェステという道化が、オーシーノーという公爵に出会って言ったせりふです。「おい、近頃お前、どうしてる」と言うと、「敵のおかげでいいめを見、友達のおかげで悪いめを見ているところだよ」と言います。「逆だろう」「いや、そうじゃないね。なぜならば、友だちは俺を見ると、俺をちやほやして、持ち上げているけれども、敵はおれを見ると、この馬鹿といって、俺の本当の姿を教えてくれる」。つまり、友だちによっておのれをあざむき、敵によっておのれを知る。だから、「敵のおかげでいいめを見、友達のおかげで悪いめを見ているところだよ」と。これは道化的にちょっとひねりを加えて、引いて見ている感じです。確かに、自分の耳にこころよい言葉というのは受け入れやすいけれども、きつい言葉というのは、なかなか入ってまいりません。それを道化なりに、軽く言っているわけですけれども、こういう言葉も時々思い出してみたいと、自分では思っています。
  もう予定の時間になりました。
  結局最初に申し上げたように、人間や人生を見る時に、少し引いて見るということができれば、見えないものが見えてくるだろうと思うと言うだけで、僕自身はまだ修行が足りなくて、そこまでできません。時々こうやって、シェイクスピアのせりふから叱られながら、これからも、なるたけ自由な目、第三者の目、何ものにもとらわれない目で見ていこうと思っております。どうも最後までお聞きいただき、ありがとうございました。

(東京大学名誉教授・東京藝術劇場館長・演劇評論家・東大・文修・文・昭28)


※本稿は平成17年1月20日午餐会における講演要旨です