私の起業物語
─フリーペーパー黎明期を駆け抜けて─
村山由香里(ファウプ代表取締役・アヴァンティ編集長) No.846(平成16年3月)号

 私は、福岡で働く女性向けの情報誌を出版する会社を経営している。会社を作って10年間一回も売上が落ちたことがなく連続成長を続けているのは、いまのド不況にあってちょっとだけ自慢だ。売上の90%以上は広告収入。いわゆるフリーペーパーの手法で、企業へ直接無料で届けている。


■ 広い世界が知りたくて鬱々としたOL時代 ■

 20代後半、まわりの結婚ラッシュを尻目に、私は地元の小さなミニコミ誌で夜な夜な仕事をしてるのか遊んでるのかわからない生活をしていた。まさか、それが会社を作る羽目になろうとは。

 卒業したのは昭和57年。その昔「新人類」と呼ばれたあたりの世代だ。

 就職活動は惨憺たるものだった。当時四大卒女子にはごくわずかの募集しかなかった。大学進学の際、「九大なんかに行ったら、お嫁のもらい手も就職もない」と言われていたが、まさしく、なーんもなかった。同級生の男の子たちは、ばんばん大企業へ決まっていくのに‥‥。東京へ面接に行く彼らがうらやましくてたまらなかった。 なんとか就職できたのは、創業して数年の化粧品メーカー。インストラクターという職種で、いくつかの販売会社を担当し、売り方使い方の指導をするという仕事内容だった。そこで毎日会うのは、化粧バリバリのおばちゃまたちや、組織販売でひと山あててやろうというあやしいおじさんたち。もちろん、まじめに経営して着実に成績をあげている販売会社の方たちが大半なのだが、「純粋培養」とあだ名されていた世間知らずの私には異様な世界に見えたのだった。

「社会人になったら、広い世界が待っていて、刺激がいっぱいで自分がどんどん成長していく」と単純に思っていた。ところが現実は、大違い。職場は、哲学も歴史も国際政治も経済もなんにもいらない世界。自分の世界がしぼんでいく、未来が閉ざされていく思いがした。東京本社からやってくる部長たちは、おもしろそうな人脈がありそうだった。でも、そんな立場になれるのはいつのことやら。日常は、福岡支店で若さと情熱の限りを尽くしてへとへとになっていた。

 他の会社の女性たちはどんな思いで仕事をしているんだろう、仕事と結婚の両立をどうやっているんだろう。違う世界が知りたくてたまらなかった。自分を高めたかった。知的でエキサイティングなビジネスの世界が見たくてたまらなかった。いまの自分だけが自分の世界だと認めたくなくて、手当たり次第におけいこごとをしたり、寸暇を惜しんで本を読んだり、さまざまな抵抗を試みた。

 結局3年で退職した。

 数年前、「第二新卒」という言葉が出現した。就職戦線を潜り抜けて入った大企業をいとも簡単に1、2年で辞めて転職するわけのわからん若者、でも社会経験があるので重宝する人材、という理解だと思うが、私は、「やっと男たちが女性の意識に近づいてきたのね」と思ったものだ。
 仕事への情熱があって自分の力を信じられる若者にとって、「〇年後に係長になって、〇年後に課長になって‥‥、あのくらいになったら本当に自分のしたいことができる。いまは会社に対して『これはおかしい。こうしたほうがいい』と提案しても、出る杭を打たれるだけで関係がよくなっていくわけではない」環境はがまんができない。もっと早く自分の力を試したい、もっと早く自分の裁量で会社を動かしたい、と思う。私が最初の会社を辞めたのも、そんな理由だったように思う。

 自分を押し殺して企業の倫理に合わせる人が出世していく現実を目の当たりにしたとき、たまらない理不尽さを感じたし、「女性」であることで企業における自分の将来が全く見えなかった。
 高学歴にも関わらず、専業主婦やパートなどで社会の中核を担えずに人生を終わる女性たちは多い。日本での仕事に見切りをつけて海外へ飛び出していく女性も増えてきた。ニッポン企業の枠の外にいる女性たちが過ごしてきた人生は、案外、いまのまともに就職しない若者、すぐに会社を辞めてしまう若者の未来を暗示しているのではないだろうか。


■ 女性差別を細胞に叩き込まれたとき ■

 さて、意欲だけはある26歳の高学歴女の地方での再就職はさらに悲惨で、しかたなくとりあえず、市役所の臨時職員の職を得た。3ヶ月契約で仕事内容は書類の清書、コピー取り、タバコ買い、職員のためのお茶くみ、他に何があったかなあ‥‥。そのフロアには50人ほどの職員がいた(庶務の女性以外全員男性)。
 お茶くみは、朝、昼、三時のお茶、夕方帰る前の4回。6人の20代女性の臨時職員が、職員全員のためにお茶を入れ席まで持っていく。いそいそと。全員のマイカップを覚え、コーヒー一杯だの一杯半だの、クリープは入れるだの入れないだの、砂糖は‥だの、この人は三時だけは紅茶だの‥、全ての好みを覚えて入れるのだ。あきれた。
 屈辱でカラダがガタガタ震えてきた。なんだ、これは。

「社会は女性の労働力をこの程度にしか見ていない」という差別の実態を自分の身をもって体験したときのあの屈辱感。自分がこんな労働でしか社会の役に立たないという立場に立たされたときの、全人格を否定されたかのような無力感。カラダに電流が走ったような衝撃を受けた。しかも、臨時職員の給料は私の税金から出ている。私の税金がこんな使われ方をしているなんて、知らなかった‥‥。頭だけが冴え渡るなかで、自分の机の上にぽつんとあった初めて見るミニコミ誌の編集部に夕方電話した。
「何かアルバイトでもありませんか?」

 そうして行き当たりばったりに決めた仕事がいまの仕事の前身である。広告代理店の一角の小さな事業部、契約社員の女性ばかりが何のスキルもなく、ただ「広告を集めて自分たちの食い扶持は自分たちで稼ぐ」と作っていたミニコミ誌だった。

 いまでこそ、「フリーペーパー」はひとつの業界として成り立っているが、当時はどこを回っても「広告出すくらいならお客さんにサービスする」と断られてばかりいた。書店販売の雑誌は認められても、タダで配っている雑誌は全く市民権を得ていなかった。しかし、仕事は異常におもしろかった。
 自分の興味のままに動き、人に会い、話を聞いた。クライアントの売上に貢献でき、経営者の人生に触れることができた。読者の働く女性たちと語り合うことができたのも財産だった。

 昭和60年に入社し、3、4年でその雑誌の売上は10倍になった。自分たちがやっているのが、ミニコミ誌なのか情報誌なのか雑誌なのかさえよくわからないまま急激に膨張していた。チラシをホッチキスで留めたような情けない状態になり、見せ方を考え、「広告は同じパターンで集めることで情報になる」という真理を発見した。競争は広告効果を削ぐのでなく逆に「同業種は何社も同時に掲載したほうが効果が高い」ことを発見した。
 8年間で2つの情報誌をへて平成5年に独立した。


■ 「大丈夫。あたなにもできる」 ■

「あなたの会社、女性が社員のためにお茶くみしてる?」20代後半は、当時の私の最大のテーマだったこの問題を読者に聞きまわっていた。それから広がって女性の働き方、将来のこと、いまの不安、彼のこと、いろんなことを語りあった。
 あるとき、大企業に勤める入社3年目の女性と話していて、こんな言葉を聞いた。
「私がこの会社に10年いてもいまと同じ仕事をしていると思う。でも、10年たった自分がいるより、若くてかわいい女の子が同じ仕事をしたほうがいいに決まってる」。
 自嘲気味に言う女性の心の奥を痛いほど感じた。「会社にいたらいまの自分しかない。でも、別の場所で自分が生かせる場があるかもしれない」という悲痛な叫びを、彼女は全身で発していた。

 どうせ女性だから、とあきらめながらも、どこか自分への期待を秘めている女性たち。私は、そんな女性たちに「あきらめないで。大丈夫。あなたには可能性がある」と言ってあげる雑誌を作りたかった。福岡の働く女性たちを揺り動かす雑誌を作りたかった。そして、私がOL時代に感じた焦燥感から、会社だけでは得られない出会いの場づくりがしたいと思った。

 一人暮らしのマンションのリビングルームで起業した。都心に中古マンションを買ったばかりで膨大な住宅ローンを抱え、「息をするだけでも赤字」という状態だったので、資金はすべて友人から借りた。
 15万、30万、100万。起業を決意して1週間で、有限会社を作るための300万円の資本金が集まった。人生でいちばん集中力のあった時代かもしれない。デザイナーもカメラマンも社員も銀行もマスコミも、磁石に引き寄せられるかのように私のまわりに集まってきた。

 コンセプトを決め、クライアントを集め、世の中に誕生した一冊の雑誌『アヴァンティ』。月刊で発行し、11年目のいまは、福岡版、北九州版、熊本版と3誌合計30万部を発行している。

 働く女性たちに新たな出会いと刺激の場を作りたいという気持ちから毎月4~6本の小さなセミナーや食事会を続けている。社会人が「知」の世界に触れるきっかけを作りたくて、大学教授を街によんで講座を開く「アヴァンティ・ゼミ」は、創刊以来福岡だけでも120回を超えた。

 誌面では、地元で活躍する女性のインタビュー記事を掲載し、その人の生き方働き方を聞く。読者と同じ年齢の頃、何をしてどんなことを考えていたのか、それはいまにどうつながっているのか。がんばっている人は、その人なりの生きる哲学を持っている。生き様から、元気や勇気をもらうことができる。東京ではなく、地方の人を登場させることが大事。地元でも可能性があることを感じることができるし、そんな素敵な先輩女性がいる地方を愛する気持ちになれるから。
 そうして始めた雑誌の仕事も、最初の2、3年は苦しい時代が続いていた。赤字が続き、広告効果はなく、社員もやる気を失い、次々に辞めていく。「意識の高い女性が福岡にたくさんいるわけない。あなたがやろうとしていることは、ごく少数の人にしか受け入れられない。戦略を変えたほうがいい」。経営者の友人からはそう指摘されたりした。

 そんなとき、自分の方向性が間違っていないことを確信する出来事があった。平成9年に開催したトークライブの成功だ。

 読者実行委員を募って企画を練り、海外で仕事する日本人女性と福岡の女性とのパネルディスカッションを開催した。タイトルの『女たちのサクセスストーリー』は、「どんな話を聞いたら、ワクワクして、さあ、がんばろうって気持ちになる?」と問いかけて読者と一緒に決めた。目標200人と決まったものの、不安でいっぱいだった。
ところが、ふたをあけてみると250席が超満員で立ち見が出るほどの盛況ぶり。勇気づけられたのは、参加者がキャリアウーマンばかりでなく、20代30代の普通のOLたちだったこと。『女たちのサクセスストーリー』というタイトルに拒否反応を起こすのでなく、それだけの数の若い女性の心を惹きつけたのだ。

 私の方向性は間違っていない、女性たちに求められている、と実感した出来事だった。以来、毎年300人から400人の女性たちが集い、熱気ある1日を過ごしている。パネリストとして登場していただいた女性たちは『アヴァンティ』の応援者になってくれ、いい循環が生まれるようになった。

 もっとレベルの高い自分になりたい。成長した。自分らしく生きたい。それは、一部の「意識の高い女性」だけでなく、人間すべてが持っている欲求ではないだろうか。人はそれを口にするのが恥ずかしかったり、格好悪かったりする。そんな会話をする友人がいないから、口にしないだけ。でも、人はみな心の奥に輝く可能性の原石を持っている。『アヴァンティ』は、そんな心の原石にひっかかり、自ら輝きだすきっかけになる雑誌でありたいと思っている。


 起業してみて思うのは、会社経営は雑誌づくりよりもはるかにクリエイティブだということ。最初は社員が消しゴム1個買うにも身を削られるような思いをしたけれど、支払いできずに自分のカードローンを借りまくり、顧問税理士に「もし会社がうまくいかなかったら、自己破産してますよ」とあきれられるくらいのハチャメチャな経営をしてきたけれど、一度も後悔したことはない。起業は新しい出会いと冒険の毎日、人間成長の最高の場なのだ。

 そして、いまだからわかる。しようもない仕事もアホらしい仕事もすべて意味がある、ということが。いまの若者のように「自分のやりたい仕事しかしたくない」とフリーターになっていたら、何にもなれない。やってみて、感じて、経験しなければ、本当にやりたいことは見つからないのだ。

 願わくば、多くの女性や若者に起業してほしい。小さい会社が竹の子のように出現することが必ず日本経済を元気にするし、変革期のいま、起業の芽は山ほどある。
「いま」を打ち崩してよりよい社会を築く鍵は、女性と若者にあると思うから。

(ファウプ代表取締役・アヴァンティ編集長・九大・文・昭57)