切腹と日本人
山本博文
(東京大学史料編纂所教授)

No.845(平成16年3月)号

はじめに

きょうは、「切腹と日本人」という題で、お話し申しあげたいと思います。

いま切腹する人はほとんどおりませんけれども、たとえば阪神タイガースが非常に好調で、星野仙一監督が、「これでもし優勝できなかったら、俺は腹を切らんといかん」と言ったのが印象的でした。外国から見ると、それまで調子がよくて首位をキープしていたチームが、たとえそのあと転んで優勝できなかったとしても、監督が腹を切る必要はまったくないと思うでしょうが、日本人はそういうふうに言われると、「うん、そうだろうな」と心情に納得してしまう。つまり、人の期待を裏切ったり、自分に責任を感じたりしたときには自ら腹を切って死ぬという観念がしみついているのです。実際に腹を切る人はほとんどいませんが、そういう観念がしみついているということで、現在でも、切腹というとある程度のイメージが浮かぶのではないかと思います。

ただ、仔細に歴史を研究していますと、われわれが観念する切腹とはずいぶん違った切腹、「こんなことで死んだのか」という事例がたくさんございますので、その一端をご紹介しながら話を進めていきたいと思います。

典型的な「切腹」―責任を取る

典型的な切腹と申しますと、責任を取るということがあります。文化三年(一八〇六年)に、ロシア船がエトロフにあった番所を攻撃するという事件がございました。函館奉行の調役下役元締という役職の戸田又太夫は、ロシア船が来たというので慌てて逃げ出してしまい、後でその責任を取って切腹しております。つまり、敵が来た時に逃げるというのは、咄嗟の行動であっても非常に臆病な行動である、武士として恥ずかしいということで、何も言われないうちに本人は切腹して果てております。

文化五年(一八〇八年)には、ヨーロッパのナポレオン戦争の余波で、長崎の出島に来ているオランダ船を追って――オランダはフランスの配下にありましたから――イギリス船がやって来て、オランダ船に砲撃を加えるというフェートン号事件がございましたが、それに対して何もできなかったということで、長崎奉行の松平康英、佐賀藩の家老等数名が責任を取って切腹しております。佐賀藩は長崎警備の当番に当たっておりまして、その職責を全うすることができなかったということで、責任者が腹を切ることになったわけです。

もうひとつ挙げますと、安政五年(一八五八年)に「日米通商修好条約」が結ばれる際に、幕府は朝廷の許可を得るために、老中が勅許を得ようと京都まで行くのですが、公家たちが騒いで、結局、勅許が得られない。仕方がないので、勅許を得ないまま井伊直弼は条約を結んでしまい、後に「桜田門外の変」が起こるのですが、勅許が得られなかった責任をとって、禁裏附という幕府と朝廷の間をとりもつ役職の都築峯重という旗本が切腹しております。

要するに何か不手際があったときには、「おまえは切腹しろ」と言われるのではなくて、自分で「もうこれは腹を切るしかない」と思って腹を切っていたことが分かります。つまり、切腹というのは死刑の一つではあるのですが、何か落ち度があって、上から「切腹しろ」と言われて腹を切ることもございますが、それ以前に「自分は責任を感じる、これは切腹相当である」と思えば腹を切ったことがはっきりとわかります。

一 切腹の始まりと切腹する心性
切腹の始まり

切腹がいつから始まったか。これは歴史を繙くとそれほど古いことではございません。『続古事談』という史料に、平安時代に大盗賊として有名な袴垂(藤原保輔)が切腹したという記事がございますが、伝説的な話ですから、これは必ずしも切腹したとは言い切れません。したがっていちばん最初の切腹は、源平の争いの頃ということになります。

兄源頼朝に追われて奥州に逃げた源義経が、ついに逃げきれないという時に、「武士は、どうやって死ぬのがいいだろうか」と、傍の者に聞いております。つまり、そのときにも武士の死に方は必ずしも切腹と決まっているわけではなかったことが分かります。

このとき義経は腹を切って死ぬ方法を選びますが、一方の平氏のほうはどうだったかと言いますと、壇の浦合戦のときに平氏方の侍は敗北が決定的になったのにみんな腹を切って死ぬことはせずに、船から瀬戸内海に身を投げています。これを見ると、必ずしも武士は切腹しなければいけないというものでもなくて、入水して死んでも必ずしもおかしくはなかった。つまり、源平の合戦の頃までは、まだ武士の自殺の手段としては切腹でなくてもよかった。切腹が武士の自害の方法として定着するのは、鎌倉時代以降のことであろうと考えられます。

こういうことから、武士の切腹という風習はどうも東国のほうから起こってきたもので、必ずしも西国の武士は切腹しなかったと考えられます。しかし、腹を切るということは非常に勇ましい形をとりますので、そういう意味では「武士の死に方としてふさわしい」という観念が出てきて、全国的に切腹というのが武士の自殺の仕方として適当だと思われるようになったのではないかと思われます。

鎌倉時代の切腹で典型的なのは、鎌倉幕府が滅亡するときの北条氏一族の集団自決でしょう。二百何十名か、みな切腹して果てたと考えられています。鎌倉末期には、切腹が武士の死に方として完全に定着していたと言えるのではないかと思います。

なぜ切腹なのか

なぜ切腹しなければいけないか。なぜ腹を切って死ぬのかということについて、いままで幾つか研究がございます。切腹の研究というのは昔からありますが、歴史研究というより、好事家的な人が、腹をどうやって切ったかとかいった研究をする場合が多くて、たとえば、「三段腹」といって腹を三のように切るとか、「十文字腹」といって横に切って縦に切るとか、内臓が出ると「無念腹」といって、これは現世に思いを残して死ぬやり方だからよくないとか、江戸時代の切腹は実際に腹を切らないで、扇子をお腹に当てたらすぐに介錯をしてもらったとか、そういう細かい話はたくさんありますが、「なぜ切腹か」ということについての研究というのはそうはございません。

そのうちの一つ、大隅三好さんの『切腹の歴史』(雄山閣)を読みますと、「武士道で一番に要求されるものはこの武勇で、武勇に長ずることをもって武士の無上の誇りとし栄誉とする。(中略)武勇を誇示することを信条とした武士が自ら自分の生命を絶たねばならぬとき、最も勇名と気力を要する切腹を好んでとったことはしごく当然のことであった。彼等にとって首縊りや投身自殺など女子供のすることで武士にとっては最も恥ずべき方法であった」と書いてあります。これは非常に常識的な見方で、腹を切って死ぬというのは自分の胆力を示す、要するに死に向かって自ら自分の腹を切る勇気を示す方法を取れるというのは、やはり武士にはふさわしいと言っているわけで、おそらくこの通りだろうと思いますが、これは史実から実証したというよりも、このように考えるべきではないかという論考です。

なぜ腹かという問題をさらに突き詰めて、民俗学者の千葉徳爾さんは『日本人はなぜ切腹するのか』(東京堂出版)という本で、「(切腹は)人がその本心あるいは真心を示す手段で、それも最後の確かな方式」である。日本においては東北のほうに発生したのではないか。「応仁の乱」以後、つまり十六世紀の後半以降に、「在来の習慣・風俗のうちで大半のものが、その形式や意義を失って急速に変型してゆき、もしくは消滅していく中で、武士の心を示すための、腹を切るという自害の方式も、形の上では十文字に腹を切る形式は残るが内臓を露呈するという古い意味は、発生した時代の意味を失って、単に衆人の目をひき、華々しい形をもって、勇者たることを示す、ということにとどまるようになったらしい」と書いています。

意識に残る真心を示す切腹

つまり、日本人の真心がこもるのはお腹の中である。それを切って中を人に見せることによって、自分のいままでなした行動が潔白であるということを示すために腹を切ったのだ、という考察です。それが「応仁の乱」以降、そういう古い形は忘れ去られて、むしろ勇気を示すというだけになったように感じられるというわけです。

死んで無実を示すという自殺のあり方は、おそらく現在でも残っているのではないかと思われます。外国人なら、自分が潔白なら死ぬことはないだろうと思いますが、日本人は自分が死ぬことによって「自分は潔白である」と無実を訴える、あるいは潔白ではないにしても、実際そういう行動はとったにしても、「自分は邪な気持ちでそういうことをやったわけではない。やむにやまれずそういうことをやったので、責任はとるけれども、しかし自分は心に恥じるところはない」ということを示すために自殺するということは、おそらく現代でもあるのではないかと考えられます。

こういう形は史料の中にも出てきます。湯浅常山の『常山紀談』の逸話によれば、豊臣秀吉が馬揃えを挙行した時、成瀬正行という徳川家康の家臣が非常に立派な馬に乗って出てきた。秀吉がそれを注目して、「あの者は、何という者だ」と聞きますと、家康が「あれは自分の家臣で、成瀬という者です」と言います。すると秀吉が「家康殿は、何石与えているのか」と聞き、家康は「五千石を与えております」と答えるわけです。それを聞いて秀吉は、「あんなに立派な馬を持っているような家臣であれば、俺なら五万石を与えよう。家康殿は、私にあの家臣を譲ってくれる気はないか」と尋ねたといいます。

家康が成瀬を呼んで、「おまえは、秀吉に仕えるか」と聞いたところ、「これは、情けないことを申されます」と成瀬が言い、「これは、おまえのためにもいいと思って言うんだ」と言われた成瀬は「不肖の身禄を貪りて、主君を捨て奉らん者と思召けるを知らざるも愚かに候。只疾く自害して心をあかさん物を(自分は不肖の身でありながら、五千石もの禄を主君家康からいただいている。そういう自分に不相応なほどの禄を貰っている者が、主君を捨ててしまうような者と思って私にそういう知行を与えてくれているとは知らなかったのは愚かなことだ。すぐにでも自害して自分の心を見せたい)」と言います。

つまり、武士というのは知行の多い・少ないとか、そういうことで主人を変えるわけではなくて、この主人に仕えるとなれば、どういう態度をとられてもひたすらその主人に仕える。ことに成瀬の場合は、五千石もの知行を貰って家康様に仕えようと思っているのに、条件がいいと移るような者だと思われているということを知ったこと自体が非常に心外なことで、「そういう人間ではない」ということを示すためには自害して、自分の気持ちを家康様に見せたいと言った。これはエピソードですが、おそらくこういう事実はあったと思われます。何か言われたときに、自分の真心を示すために腹を切るということは、必ずしもめずらしいことではなかった。切腹するということは、自分の真心を示す、自分の潔白を示すということが非常に大きい動機になっています。

謀殺と斬罪

では、刑罰としてはどうなのか。切腹というのは確かに刑罰でもあるわけですが、刑罰になるのは江戸時代になってからのことで、それ以前は、切腹という刑罰は基本的には存在しません。鎌倉時代、室町時代という中世の社会においては、武士の処罰もあくまで斬罪でした。斬る、あるいは攻め滅ぼす。抵抗が予想される場合には謀殺いたします。主君が「用事があるから」と家臣を屋敷に呼んで、他の家臣に斬らせる。これが謀殺でございますが、こういうことが非常に多かったのです。

寿永二年(一一八三年)の冬、源頼朝は家臣の上総介広常を鎌倉幕府の御所の中で謀殺しております。広常がもう邪魔になったということで御所に呼んで他の家臣に斬らせた。つまりこの頃は、「おまえは、こういう悪いことをした」とか、「気に入らんから腹を切れ」と主君が言えば、家臣が素直に腹を切るという時代ではなくて、「あの者を亡き者にしよう」と思うと、主君であっても家臣を呼んで騙し討ちにしなければいけない、武家の棟梁ですら自分の家臣を殺すのに謀略を用いなければいけない、そういう時代でした。

これは、室町時代になっても続いておりまして、将軍が家臣を謀殺するという手法はよく使われています。足利義教は、意に反する守護を次々に謀殺し、播磨等三国の守護に任じられていた赤松満祐をさらに謀殺しようとした挙げ句に、逆に先手をとられて、義教は赤松によって殺害されてしまいます。つまり足利将軍であっても、「腹を切れ」と言っただけでは、家臣は――家臣といっても守護ですから、ひとつの軍団をもっている人たちですけれども、なかなか命令を簡単には聞いてくれない。「死ね」と言っても死んでくれない時代には、処罰するといえば攻めて殺すか、騙して殺すかしかなかったのです。これが江戸時代になりますと、将軍が、この者は罪を犯した、不都合があるということで、「切腹しろ」と言えば、みんな腹を切ったわけですが、中世はそういう社会ではなかったということでございます。

切腹刑の始まり

では、切腹刑はどういう形で始まったのでしょうか。オランダ人のモンタヌスが十七世紀に『日本史』という本で、日本についてのいろいろなことを書いています。これは、十六世紀の末に日本に来たバリニャーノという宣教師が日本について報告をしたことを素材にしておりますので、十六、七世紀頃の日本の様子を示していると思います。その中に、こういう記述があります。

「王が此処刑を或人に課する時は、使を彼に遣はして死すべき日を通告す。罰せられたる人は決して逃亡せんと図り、又は逃避することなし。彼は国王の命令に随ひて自決することを許容せられたしと望み、其請願の許さるる時は、彼は無上の栄誉を被りたりとなす。指定の時に至れば、彼は最上の晴着を着て腹を割く」と。

これは、日本の風習が非常に奇妙なものだということを知らせるために書かれたもので、王が切腹を命じるときには、使者を遣わせて「この日に切腹しろ」と命じる。言われた人は、決して逃げたりすることはない。彼がもし死すべき罪を犯した場合には、国王つまり将軍なり大名に「自決することを許してくれ」と願って、それが許されることは、彼にとっては非常に名誉であった。切腹する日は最上の晴着を着て腹を切るんだと紹介されているわけです。何が名誉かといいますと、自分が「死にます」と言って死ぬことが許されるのが名誉である。それが許されない時は自分の主君に攻められて殺されるということを示している。自ら死ぬことによって、上からの処罰を受けることを免れることができた。だから、名誉なのだ、と書かれています。

ただ、ここが重要だと思うのですが、「もし切腹以外の刑罰を科そうとした時には、一族や友人とともに自宅に籠もって抵抗」すると書かれています。自分が死にたいと願い、「切腹します」と通告して、それを許容されれば素直に切腹するけれども、もし主君のほうが、斬罪とか切腹以外の死に方を強要した場合には、名誉にかけてあくまで抵抗するというのです。この時期にはまだ切腹刑は確立はしておらず、攻められて殺されたり、斬罪に処せられたりするよりは、自分で腹を切って死ぬほうがいいと思っていたのだろうということが分かります。

こういうことからも、切腹刑というのはどうも江戸時代の初め、あるいは戦国時代の終わりぐらいからポツポツ出始めたのだということが分かるわけです。

具体的に実際の史料に即して考えますと、慶長期つまり家康が江戸に幕府をつくった頃は、まだ切腹は必ずしも刑罰として十全なものではありませんでした。幕府の代官の大久保長安が、生前の不正が露見して財産をすべて没収されたときに、長安の跡取り息子の藤十郎ら七人は、すべて「御成敗」、つまり斬罪に処せられております。これは政治的な冤罪でもあったとも言われているのですが、経済的な不正行為が露見してその者を処罰するときは、切腹は許されずに成敗される、首を切られるということになっていたようです。

それから十数年後の元和七年(一六ニ一年)、やはり不正を摘発された美濃国代官の栗原盛清という人が、切腹しております。経済的な不正というのは、武士としてあるまじき行為でありまして、こういうことをすると切腹も許されないような厳しい処分が下ることが一般的だったと思われるのですが、この人は切腹で許されている。この頃から武士に関する処罰が切腹になったということが分かります。

寛永二年(一六二五年)五月二十七日に、大番士の小幡藤五郎という人は、公家衆登城の日に不作法な行いがあったということで切腹しております。これは、非常に気の毒な切腹でございまして、公家衆登城のときに江戸城の門の前に控えていた小幡藤五郎は、歩くのが辛くてその前日に、膝にお灸をしておりまして、そのお灸がうまくいっていなくて、痒かったようで、袴をまくり上げてその灸の治療をしていたのを目付に見られた。そんな不作法なことをしてはいかんということで、目付は過料つまり罰金刑を科します。それが将軍徳川家光の耳に入って、家光はこういうことを言うのです。

「御本丸ニ而の儀に候は、さほどの儀、御免許もこれ有るべく候得ども、西之丸ニ而慮外之儀、御用捨成り難し」。西の丸というのは自分の父親の秀忠がいたところです。「自分の父親の城の前でそういう不作法なことをするとはけしからん、切腹である」と言われて、罰金刑のはずが切腹になったという、こういうひどいことが起こっております。

切腹というのは、武士にだけ許された処分です。なぜ武士にだけ許されるかというと、武士というのは支配階級としてきちんと道徳が身についている。自分の出所進退を自分で決めることができる。そういう尊い存在であることが合意になっているから、武士が不始末を犯した場合には、自ら腹を切って死ぬだけの倫理観がある。悪いことを悪いことと知るだけの能力があると思われているわけで、だから切腹というのが武士の罪を償うための特権として認められていたわけです。百姓町人というのはそういう道徳が身についていない被支配階級の哀れな者だという観念が根強くありますから、もし百姓町人が悪いことをしたら、本人は自分では悪いことをしたとは分からないわけだから、支配階級である武士、お上がその者を捕まえて「悪いことだ」と説得して、首を切ってやらないといけない。自分で死ぬ能力がないと思われていたのです。

だから、百姓町人が罪を犯して、斬罪に処せられるときに、決まって「どうもありがとうございました」と言わなければいけないということになっております。何がありがたいかというと、首を切ってもらうことがありがたいわけではなくて、自分で死ぬこともできない哀れな者である自分を、わざわざ殺してくれるという、そのお上の行為に対して「ありがとうございます」とお礼を言うのが決まりごとになっていたようです。もちろん、本当にありがたいと思って首を切られる人はいないと思いますが、処刑の観念というか、作法としてそうなっていたわけです。

切腹というのはあくまで武士の名誉な刑罰でした。死刑とは少し相違するところがありまして、これはあくまで自分で腹を切っての死である。自分の行為を自ら自覚して、自ら責任をとって死ぬという形式がずっと残るのです。実際は命じられて切腹している場合でも、あくまで自害である。そういうことが観念として認められていた。だから、江戸時代の切腹というのは意外と事例が少ないのです。

たとえば悪いことをしている旗本がいるとしますと、幕府の老中から封書伺という手紙が来る。封書伺は使者も見てはいけない、出した老中しか見てはいけない。「おまえは、これこれ、こういうことをしているぞ」と罪状が書いてある。これはもう切腹相当の罪だと観念して、何も言われない前に腹を切って自宅で死ねば、病死扱いになって自分の跡継ぎに家の相続は認められます。自ら責任をとって自害したから、罪は問わないということになるわけです。

それでもやっぱり死にたくないと考えて「存じ申しませぬ」とあくまでしらばくれた場合は、幕府の評定所に引っ立てられて、そこで尋問が行われます。尋問にも認めない場合は、その牢の中で、もう調べは上がっていますから――冤罪かもしれませんが――その人が死ぬべき罪だということは自明のことだということで、「お薬頂戴」といって毒薬が渡されます。その毒薬を飲みますと、吟味中に病死ということになって、この場合も一応、跡継ぎに家の相続が許されます。

旗本というのは武士の中でも非常に身分の高い、将軍の直臣です。直参の旗本が悪いことをするわけがない。もし悪いことをしても自ら責任をとるはずだということで、罪を明らかにして切腹させるとか、首を切るとかいうことは原則としてあり得ない。建前の世界では旗本には罪人はいない。あくまで自ら死んだという形が、形式的ではあってもとられるわけです。腹を切りたくない人には毒薬ででも死ねるような、そういう体制になっていたのです。

切腹というのは、あくまで自分で死ぬ行為であり、実質的には死刑ですけれども、観念としては死刑ではないということにされていたということが、その後の切腹を考える上では重要なのではないかと思います。

二 ヨーロッパ人の見た切腹
ペリー『日本遠征記』

ヨーロッパ人は切腹をどのように見たのでしょうか。

ペリーは黒船四隻を率いて日本に遠征して日本を開国させたアメリカの使節でございますが、この人は学者肌の人で、日本に来るにあたっては日本のことをよく勉強して来ます。モンタヌスの『日本史』はヨーロッパにおける日本に関する最大の参考書でございまして、ペリーもこの本はよく読んでいた。ペリーは、「ハラキリの国、日本」と言っておりまして、実際に日本に来ていろいろと交渉するわけですが、『日本遠征記』の中にこういうことを言っております。

「蒸気船を江戸市中に錨泊させて、宮殿に礼砲で挨拶しようというのが私の当初の目論見だったのだが、そのせいで市中に混乱が起きたら、彼ら個人が責任を負うことになると君侯らが繰り返し主張するので、それを多少は信用しようと思ったし、――もっとも彼らがハラキリをさせられるというのはやや眉唾であるが、そういうわけだから、当初の決意にはあまりこだわり過ぎて、せっかく築いたたいへん友好的な関係を危うくするのは得策でないと考えた」つまり、江戸湾でドガーンと礼砲をぶっぱなすと、市中は混乱するから、「そんなことは決してしてくれるな。もしそんなことをすると、担当者は腹を切らなければいけなくなります」と、交渉に当たった幕府側の人は言うわけです。ペリーは、「そんなことはないだろうけど、それであまり日本を刺激しても何だから、礼砲を撃つのはやめよう」と言っているんですが、実際にペリーがドガーンと大砲を撃ったとしたら、警備責任者は、切腹しなければならなくなったと思います。

つまり、この頃は、何かあるとすぐ切腹という時代になっておりましたので、自らの職務を果たせなかったときには、まず上の者が下の者に切腹を強要します。現在ならば、不可抗力といいますか、やむを得ないときには腹を切らなくていいのではないか、その人がいくら努力してもそんなことは不可能だというときには、責任をとる必要がないと思いますが、江戸時代においては「こういうふうにしろ」と言われて、それができなかったときは、いくらそれが自分の能力を超えるものであっても、切腹を命じられても文句は言えなかった、そういう時代だったわけです。

堺事件

ペリーは、自分に言うことを聞いてもらうために、ハラキリと言っているんだろうが、それは眉唾だ、と言っていたわけですが、日本人は本当に切腹するんだというのがよく分かったのが、次の「堺事件」でございます。

明治元年(一八六八年)十二月、フランスの水兵が開港地でない堺に上陸したことがありました。フランスの水兵が上陸して、店を物色し、市民が非常に恐怖におののいているという話を聞いて、堺を守護しておりました土佐藩兵が、フランス人水兵を鉄砲で撃って十三名を殺害するという事件が起こります。

フランスは硬化して、フランス公使レオン・ロッシュは、守備隊の責任者とフランス人を殺害した隊士の処刑を要求します。多額の賠償金も要求するのですが、明治政府は、これから江戸の幕府を攻めなければいけないのに、ここでフランスの機嫌を損ねては大変だということで、土佐藩士二十名を切腹させることにして、賠償金も払うことを了承します。ただ、誰が実際に殺したかなんていうことはもう分かりませんので、守備隊の隊長の二人の他、隊士からくじで十八人を選んで切腹を命じます。これは、森鷗外の『堺事件』という小説にもなっております。隊士たちは、「日本を守るために、おまえたちは死んでくれ」と上から言われ、そのつもりで切腹の場に行くわけです。

最初に切腹する人が検使役のフランス人に向かって、「われわれは、おまえたちのために死ぬのではない。皇国を守るために死ぬのである」と言って、腹を切ります。介錯というのはなかなか難しくて、きちんと首に当たらないと切れませんし、なかなか絶命しない。このときも二度ほど切って、首が落ちそうになりながら全然首が切れなくて、切られている守備隊の隊長は、「まだ死なん、まだ死なん、早く切れ」みたいなことを言うわけですね。フランス人はそれをずっと見ていて、顔色が真っ青になってくる。

次の隊長の首を切ったときには、これはうまくいったんですが、首がスパッと切れてフランス人の前まで転がって行ったとか、そういう話が残っておりまして、もうフランス人は足が立たないほど怖くなって、八人目を切ったときに「もういいから」と言って帰ってしまう。他の隊士は、「みんなが死んだのに、自分たちだけ生き残るわけにはいかない」と言い張るのですが、しかし検使のいない所で切腹させることはできないということで、他の十二人は助かったというお話がございます。

この「堺事件」というのが、西洋人が目の当たりにした切腹の最初か二番目なわけでございます。最初というのは、この前に「神戸事件」という、似たような事件が起こって、一人切腹しております。こういう事件があって、日本というのはとてつもない国である。自分で腹を切って死ぬ人間がたくさんいるということが分かって、これが日本に対する観念を大きく変えさせたのではないかと思います。

ある元旗本がイギリスに留学したときに、イギリスの下宿屋の娘さんから、「あなたは昔、武士だそうですが、武士というのは昔、長い刀と短い刀を持っていて、長い刀を抜いたら人を切って、短い刀を抜いたら自分の腹を切るといいますけど、それは本当ですか」と聞かれたという話が残っております。実際、外国人の殺傷事件はたくさん起こっておりまして、イギリス人もずいぶん殺されており、その責任を取って切腹して死んだ武士も多かったということで、「ハラキリ」というのはヨーロッパにも有名な風習になっていたようです。

新渡戸稲造の「武士道」

「日本は、とんでもない国だ」という欧米の風評に対して、新渡戸稲造さんは、「こういう誤解を解かなければいけない」と、『武士道』という本で、「切腹は、シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』にも見え、さらに単に自死の手段ではなく、法律上並に礼法上の制度で、武士が罪を償ひ、過去の過ちを謝し、恥を免れ、友を贖ひ、若くは自己の誠実を証明する方法である」と書いて、切腹は非常に名誉あるものなんだということを強調しております。これにはかなり無理な議論もあるのですが、しかし新渡戸さんは「日本人というのは、何をやるか分からない」というような、ヨーロッパ人の誤った日本観に対して、武士が刀を持つのは名誉を重んじるためであって、切腹というのもその名誉心のあらわれなのだと、懇々と説いております。

新渡戸さんの『武士道』は、いまのわれわれにも非常に分かりやすい武士道で、武士というのは、刀を差していることで名誉心を感じる、だから、刀は抜いて人を切るものではなくて、抜かないで名誉を絶えず自覚するためのものであって、そういうものにとっては実際は負けるが勝ちなんだと、刀を抜いて相手を殺すよりも、相手の言うことを見過ごしてやって、負けたふりをするのが本当の武士であると言っておりますが、本来、武士というのは相手にばかにされると刀を抜いて相手を切り殺さなければいけない。もしそうしない場合には、臆病だということで切腹を命じられるような、そういう社会です。しかし、そういう社会ですと、そこここで戦いが始まり大変なことになりますので、武士のほうでも刀を抜かないほうが勇気なんだ、ということを教えるようになるわけです。実際に名誉を傷つけられれば刀を抜かなければいけないのですが、いかにしたら切腹を免れるかというような教えがこの新渡戸さんの『武士道』の中にも入っておりまして、非常に理性的な武士道ですけれども、本当の武士の姿とはやや違うということなんですね。

「ヨーロッパには騎士道というのがあって、日本の武士道というのはヨーロッパの騎士道と同じような名誉の観念である」と新渡戸さんはおっしゃっていまして、武士道類似の騎士の道というのがヨーロッパにもあったというのは、確かです。ただ、切腹という、自ら命を絶つというのは騎士道にはありません。騎士道は、自分の命を捨てても愛する人のために死ぬとか、勇気を奮って戦うとか、そういう徳目はあるのですが、キリスト教の世界ですので、最後に自分で死ぬということはありません。そういう意味では、責任をとって自ら自らの命を絶つという風習は、日本独自のものです。

多分ヨーロッパの騎士道は、命を自分で捨てるよりも、「命を捨ててなにものかを実現すべきだ」と考える思想ですが、日本人の場合は何かを実現することよりも名誉を守ることを重視する思想であって、どちらが優れているかというのはなかなか難しい問題があります。倫理観という面では日本人のほうがおそらく深いけれども、ものを実現しないで単に死んでしまうだけなのは、ちょっと残念なところだと思います。

三 切腹の実際
喧嘩の結末

先ほども言いましたように、武士というのは相手に斬りつけられたり、悪口を言われたときは、即座に相手に対して反撃しなければいけない、そういう存在なのですね。武士は戦闘者である。刀を持って戦う人間がばかにされて刀も抜けないようでは、戦士として役に立たない。「そういう人間は、切腹しろ」という倫理観でございます。

寛永十九年(一六四二年)、山形藩内田三十郎という人が半年の江戸勤番を終えて国元に帰っていました。この人は、蘆野という北関東の宿場で、米沢藩家老の平林内蔵助という人の小者(使用人)とつい喧嘩をしてしまう。喧嘩といっても、宿の縁側に腰掛けていたら、「おまえ、何をしているんだ。そこをどけ」と言われて、「なにを」といって怒ったら、相手が棒で殴って来たので、相手の額を切ったというつまらない諍いです。三十郎が小者の仲間に取り押さえられそうになったのを宿役人(宿場の役人)、――これは町人です――が仲裁して三十郎を別のところに置いた。そこに同僚の大貫四郎右衛門ら何人かが到着して、「三十郎ひけをも取り候はば、異見をも仕り、腹を切らさすべく」と、三十郎がこの喧嘩で引けをとっていたら、意見して腹を切らせようと言う。下々の者に棒で打たれたりするのは武士としては恥ですから、腹を切らなければならない。本人が切らない場合は、自分たちが意見をして腹を切らせようと言うわけです。

すると、少し年配の永坂三郎右衛門という人が説得します。もし三十郎に腹を切らせたとしたら、その代償として喧嘩相手の首を取る必要がある。平林は、小者の首を取らせると言っているが、こちらは武士で向こうが小者では釣り合いがとれない。もし三十郎が腹を切れば、平林が腹を切らなきゃいかん。そうなると、平林は米沢藩の重鎮だから紛争になる。事態を円く収めるために、三十郎に腹を切らせずに済ませたほうがいいと考えたわけです。

その事件は、とりあえずそれで済むように見えたのですが、蘆野宿を出て白河宿に着いたときに組頭の杉浦藤八郎がやって来て、「おまえは喧嘩をして下々の者に打たれた。これは、武士として甚だ都合の悪いことあるから、腹を切れ」と三十郎に切腹を命じます。上司である杉浦は、これを見過ごしたとしたら自分の責任になるかもしれないので、喧嘩の当事者である三十郎に切腹を命じて、それで済ませようとしたわけです。

これで済むかと思うと、なかなか済みません。江戸屋敷ではこの事件を聞いて、永坂三郎右衛門ら、三十郎に会わずに腹を切らせなかったこの人たちに対して、強い批判が起こります。「蘆野において、初め三十郎に逢わざる段、身分に不似合いの致し方」であると。つまり、三十郎に会ってよく事情を聞いて、不都合があれば腹を切らせるというのが武士の同僚としてあるべき姿であって、会わないで適当に誤魔化そうとしたのは、武士としてふさわしくないという批判です。結局、藩当局の穿鑿(取調べ)を受けることになって、藩主の保科正之は名君として知られていますけれども、彼が下した判定は、米沢藩との紛争を恐れて武士としてふさわしくない対応をしようとした三郎右衛門は切腹、それに追随した大貫四郎右衛門は追放、他の二人に改易を命ず、というものした。

喧嘩をして恥をかいた人が切腹するだけでなく、きちんと意見できなかった人もけしからんということで、切腹にまでなるわけですね。いまの人間が考えたら、「どうしてこの人まで切腹になるのですか」と言いたくなるところですが、武士としてふさわしくない行動をしたという批判が起こると、その武士は切腹せざるを得なくなる。自ら切腹を選んだわけではなくて、命じられて自ら腹を切るということで、江戸時代の武士社会というのはこれだけ厳しい社会だったわけです。

こういう社会の中で、恥をかかずに生きていくというのは非常に大変なことです。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という佐賀藩山本常朝の『葉隠』にしても、そんな偉そうなことを言っているわけではなくて、こうしようか、ああしようかと迷ったときに、生き延びそうな方を選ぶと必ず恥をかくことになって、結局は切腹をしなければいけなくなる。もし迷ったときには、とにかく刀を抜いて相手に切りかかれば、死ぬかもしれないけれども、恥にはならない。うまくいけば生きられるかもしれない。こういう厳しい社会の中で自分の身を守ろうとすれば、とにかく臆病だと言われない方向に一歩踏み出せというのが『葉隠』の考え方の根本にあるということです。そういう意味では、戦国時代以来の武士道ではなくて、まったく江戸時代的な武士道です。

経済政策に失敗

次は、経済政策に失敗しても腹を切らねばならなかった事例です。現代に当てはめて考えるとなかなか興味深い話ですが、会津藩きっての秀才の長坂九八郎は、努力が認められて元禄十一年(一六九八年)に「不時金貯えの取り計らい」、つまり藩の予備費を増やすようにと命じられて、勘定方の元締役に抜擢されます。藩の財務大臣のような役どころです。元禄十三年春には、会津藩の財政が非常に切迫して藩士や庶民の困窮も深まるということで、藩主の保科正容は、打開策を立案するよう九八郎に命じます。九八郎は、「札金遣之考」という計画書を立てて提出し、家老の許可を得、藩主の許可も得て、藩札を発行します。藩札を多数つくって流通させれば、庶民もお金ができて融通がきくし、武士のほうにもお金が回ってきますから非常に都合がいいということで、札金=藩札を大量に発行する。

藩札を大量に発行するとどうなるかというと、とにかく物価が高騰していく。藩札がすべての人に行き渡るわけではありませんので、庶民は物価が高くなって物が買えなくなる。その上、当時の藩札はいまの日本銀行券のように精巧なものではありませんから、にせ札がどんどん出て、とんでもないインフレになっていき、庶民も同僚の武士も九八郎を恨むようになります。

つまり、いまで言えばインフレターゲットを設定して、どんどん日本銀行が紙幣を発行して、日本が豊かになったという形をとろうとしたわけですね。すると物価が高騰して、庶民の怨嗟の声が財務大臣に向かうという構造です。すると藩当局は、「おまえは、どうしてこんなことをしたのか」と九八郎を穿鑿しました。藩当局も九八郎の立案に許可を与えているわけですから、「事実を正直に述べれば、多分問題ないだろう」ということだったのですが、結局、切腹を命じられてしまいます。「九八郎義、最初より上の御為にも宜しく、国民甚だ潤ひ候様に度々申し成し候処、かえって大いに御不利益に相成り、士民共に悉く痛み候仕方、旁以て罪蹟軽からざる義、不届き至極に思し召され候。御成敗仰せ付けらるべく候へども、切腹仰せ付けらる」という申し渡しが残っております。

九八郎は最初から、お上のためにもなるし、国民のためにもなるといってインフレターゲットを設定して、紙幣をたくさん刷ったのに、それがかえって大いに国のための不利益になって、武士も庶民もことごとく苦しんだ。これは、罪が軽くないことであって、藩主は不届き至極に思し召されている。本来ならば成敗、すなわち首を切るところであるけれども、罪一等を減じて切腹で許してやると、こういうひどい判決が下ってしまう。つまり、善意でやっても結果が失敗すれば武士は切腹しなければいけない。

こういうふうに、とにかく失敗したら当事者が切腹、というケースが非常に多いわけです。現在で考えれば、当然藩当局、家老たちも九八郎を登用して、九八郎の考えを認めて、それを断行させたわけですから、責任があるはずです。しかし失敗したら、「おまえはこういうふうに言ったのに、こうならないじゃないか」といって腹を切らせる。直接の担当者が責任をとって、上の者は責任をとらないという体制になっているということでございます。

四 御家騒動と切腹
文化朋党崩れ

実際の切腹というのはいろいろと悲しい、かわいそうな事例が多いのですが、時間がございませんので簡単にご紹介します。詳しくお知りになりたい方は、私の『切腹』(光文社新書)という本をお読みいただければと思います。

文化五年(一八〇八年)に薩摩藩では「文化朋党崩れ」という御家騒動が起こりました。家老の樺山主税と秩父季保ら一党十三名が切腹、二十五名が遠島、その他、寺入り、逼塞、役免など総勢百十五名が処罰されています。樺山と秩父らは藩政改革をやろうとしたのですが、藩主の祖父である島津重豪という隠居の逆鱗に触れて、すべて失脚するという事件です。

彼らは藩政改革を行おうとして隠居の逆鱗に触れただけですので、切腹ということはなかなか命じにくい事情もあって、みんな「遠島に処す」ということになります。鹿児島は島がたくさんあるので、喜界島とか、沖永良部島とか、徳之島とかに流罪にするわけです。首魁の秩父と樺山に関しては、秩父季保の親類の川上甚五左衛門と相良市郎左衛門とが藩の御裁許方から召しだされて、「太郎(秩父季保)事、遠島に処せられ、座囲に入れ置かれると雖も、追々聞こし召し通わる趣これ有る間、親類心得を以て相働くべし」と、遠島を命じられたけれども親類の心得で働け、と言われるわけです。

当時の史料で、「働け」というのは「戦え」ということです。つまり、本来は遠島なのだけど、親類に「あいつを殺して来い」と藩当局が命じるわけです。そういうことを聞いた時に秩父はどうしたかといいますと、「押付座敷へ出、手水、髪結い、暇乞いの盃等相仕廻い、申ノ下刻比、元の如く囲い内へ入り、伊地知喜三次介錯にて〔実ハ川上甚五左衛門〕切腹卜云々」とあります。「はい、分かりました」と言って座敷牢から出してもらい、手を洗って、髪を結い直して、親類と暇乞いの盃を交わして、もう一遍座敷牢の中に入って自ら腹を切って死ぬ。藩主あるいは藩主の父親である大殿様が、「おまえは、死ね」と言われると、親類からそういうことを聞いたときには、もう自分は死ぬしかないと観念して、たいへん素直に最後の身繕いをして腹を切っているわけです。

樺山のほうも似たようなことで、樺山は親類に言われて「今さら不調法存じ当り、御断りのため切腹致すの間、脇差遣わすべき」つまり、「いまさら不調法に存じあたりますので、責任をとって切腹いたしますので、脇差を貸してください」と言う。親類が脇差を渡して、それで樺山は自害する。自害したら、本当はそのままで済まさないといけないのでしょうが、それは流石にかわいそうだということで、囲いの鍵を開けて中に入って介錯をしてやった。介錯をしたことに対しては、届け書きを出しています。藩に「座敷牢に入れておけ」と言われて、「開けていい」とは言われていないわけですから、座敷牢を開けて中で介錯してやったということについては、「差し控えの儀は、別段窺い奉る」と、つまり「樺山は自害させました。自分はつい開けて介錯してしまいましたが、それについての責任は追って処分を待ちます」と、上から命じられて、自分の親類である樺山を自害させて、その介錯をしたというだけで「差し控えの願い」も出すというのが、武士の態度であります。江戸時代の武士に生まれたいかどうかと聞かれることもよくありますけれども、こういう事例を見ますと、とても生まれたくはないと思います。命が幾つあっても足りないような、そういう世界です。

五 利用された武士の矜持
旧幕臣の本多晋の談話

切腹には幾つかあって、元旗本本多晋の回想によると、上の切腹、中の切腹、下の切腹というのがあるといいます。

「下の切腹」というのは、どういうものかと申しますと、これは幕末の京都での話ですけれども、一橋家――十五代将軍になる慶喜の家で、史料には「其時分の制度では、法則に触れた者は町奉行の手に渡して罪人にするが制度でありますが、一橋家の中からさういふ罪人を出すのは名誉に係はることであるから、町奉行の耳に入らぬ内に腹を切らした方が宜いといふことになつて私共検使に参りました」とあります。切腹を見届ける使者のことを検使といいます。

「其の者は農兵であります。同輩共が寄りまして、腹を切れと言ふが、農兵でありますから一向事理が分かりませぬ。私は死ぬ程の事はしませぬと言ふので、止むを得ずトウトウ寄て集つて殺して仕舞いました。」

不都合というのは、たとえば無銭飲食とかその程度のことでしょう。武士だったら「おまえ、腹を切れ」と言われれば腹を切るんですが、農兵ですから同輩が集まって、「おまえ、そういうことをしたから腹を切れ」と言っても「私は、死ぬほどのことはしませぬ」と、いっこう理屈が分からない。それは、あたりまえです。多分、死ぬほどのことはしていないと思うのですが、町奉行の手に落ちて、一橋家からそういう恥さらしな人間が出るのは非常にまずい、とにかく殺してしまわなきゃけないというので、殺してしまって腹を切ったことにさせた。つまり、詰め腹というのはこういうことで、この者は腹を切るのが相当であると、本人が思わなくても周りが思うと、寄ってたかって殺してでも切腹という形をとらせたのです。これが、当時の切腹のさせ方の一面を示していると思います。

「中の切腹」というのは、当時の観念でいえば少しまともな切腹です。徳川慶喜が一橋家から出て将軍になって、さらに江戸城を退去した後の話ですが、徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎中、山岡鉄舟の部下の一人が、上野の山下あたりの酒店にあがり、無銭遊興しました。すると、山岡鉄舟は「かわいそうだがこれは殺さなければならぬ」と言い、その者を呼んで、「其方は無銭遊興をした。甚だ不都合であるから切腹を命ずる」と申し渡します。するとその相手は「一言聞いて、畏まりました、切腹をしませうとて、少しも沮むことなく、其夕同僚検視の下に立派に自ら腹を切て死にました」と史料にあります。無銭飲食して、「切腹を命ずる」と言われれば、「分かりました」といって腹を切るのが当時の武士の教育だったし、武士の観念だったわけです。これが「中の切腹」です。

「上の切腹」というのはどういうものかと言いますと、ある武士が人に愚弄され、それが非常に悔しくて相手に斬りかかりたかったが、いまは非常時であるので、そういう内輪の喧嘩をするべきではないと、我慢して帰った。しかし、自分は恥をかいたわけだから、このままでは済まないと、その夜、自ら腹を切って死んだという事例があります。これが、「上の切腹」であると本多は言っております。

「上の切腹」は、武士の倫理観を示す一例ですが、中や下を見ますと、腹を切らせたほうがよろしいとか、殺さなければならぬという上司の判断で、いとも簡単に切腹が命じられております。命じられた者はわりと簡単に切腹しておりますし、もし自分は死にたくないから抵抗しようと思っても、この「下の切腹」に見られるように、周囲から寄ってたかって殺される。あるいは、親類から殺されることになるわけで、これはまあ素直に従う方がいいというか、もう腹を切らざるを得なかったわけでございます。

切腹させるかどうかは上司が判断するわけですが、上司というのは身分的には上かもしれませんが、主人ではありません。しかし、上司の言葉はあくまで主君、つまり大名や将軍の意を受けた言葉と解釈されました。主君の気持ちを忖度する上司の言葉はそのまま主君の言葉であると、江戸時代にはそう理解されていました。直接の上司だろうが、その一つ上の上司だろうが、言われたことはすべて主君の言葉として聞く。主君が死ねと言われれば、死ななければいけない。これが、江戸時代の武士の観念でございます。

では、家老は自分の責任を下の者に押しつけて、それで万事済んでいたかというと、実際は済んでいるんですが、済まない時もある。薩摩藩のお家騒動「文化朋党崩れ」の樺山も秩父も家老ですが、自分を信任してくれた藩主ではなくて、藩主の父親が非常に強い態度に出て、「死ね」と言われれば死ななければいけなかったわけです。

毛利家三家老の切腹

元治元年(一八六四年)の「禁門の変」で、長州藩は京都での主導権を回復しようとしますが、敗退いたします。このとき藩主の毛利慶親(のちの敬親)は、次のような奏上書を朝廷に送っています。

「去月十九日の事――これは「禁門の変」のことを言っていますが――、臣(毛利慶親)恐懼に堪えず、益田・福原・国司の三臣、臣が鎮撫の命に背き、却つて亡命党の首となる。その罪大なり。因てこれを幽しもつて後命を待たしむ」と。自分が命令したにもかかわらず、益田、福原、国司の三臣は、自分の「自重しろ」という言葉に背いて、かえって朝廷に対して弓を引いてしまった。その罪は大である。だから、これを捕まえて、後の命を待たしていると弁解し、結局この三人に責任をとらせて腹を切らせました。

この毛利敬親の判断に対して、萩地方の歴史家堀山久夫さんは『国司信濃親相伝』で「臣はあくまで君を守るためのものであり、生命は主君にささげたものである。平素藩主の禄をいただく藩臣のそれが義務であり責任である。そうしたことは藩主が強要するのではなくその身勝手でもなく、おのずからそうであるべき武士道藩政下の絶対的な臣道であった」と擁護しています。敬親さんというのはそんな悪い人ではありませんよ、家臣はあくまで藩主を助けるためのものであって、主君がよかろうが悪かろうが、何をしようが、最初から生命は主君に捧げたものであって、ずっと先祖代々禄を貰って暮らしているというのは、そういうことをするためのものだし、強要されたものではなく、自発的に主君を守るためにやったのだと言っているわけですが、これは江戸時代の観念としてはまったくその通りでございます。

毛利家では三家老に切腹を命じます。十一月十一日に益田右衛門佐(三十二歳)が徳山の総持院で、国司信濃(二十三歳)は澄泉寺で切腹。十二日には福原越後(五十歳)が移送先の岩国の竜護寺で切腹。その首は幕府に送られます。家老は切腹で済みましたが、野山獄に投ぜられていた参謀格の宍戸左馬之助、中村九郎、竹内正兵衛、佐久間佐兵衛の四人は斬首、つまり切腹も許さず斬首に処すということで、藩としては禁門の変の責任をとったのです。

これで、幕府の第一次征長は一応兵を解いてとりあえず終わります。この時長州では幕府恭順派が力を持っていたのですが、幕府軍が兵を解いて京都、大阪に戻ってしまうと、高杉晋作が下関で蜂起して、再び藩論を一転させ、長州藩は倒幕をめざすことになり、その後はご承知のとおりです。長州藩をこのとき救ったのは、三人の家老が自ら主君のために責任をとるために腹を切るという行動でした。つまり、自分の上の者を助けるために家臣が腹を切るということが、武士道の最も根幹となる思想でありまして、これは強要されるわけでも、藩主が身勝手ですることでもなくて、御家の存続のためにはそういうふうにするものなのでした。このような思想が、江戸時代の武士道だったのです。

実際、江戸時代の藩、家というのは、藩主がいなくなると、その家はなくなるわけです。藩主の家を守るために家臣がいるわけですから、家臣がみんな死んでも藩主さえ残ればいい。つまり、将棋と同じで王様さえ残れば戦えますが、王様がいなくなったらもう負けで、その家はなくなります。現代の会社というのは、社長がいなくなっても、会長がいなくなっても、組織は残るし、次の人が社長、会長になれば存続します。創業者会長を戴いたりする会社ですと、不祥事があった場合、取締役クラスがみんな辞表を出したり、部長クラスを懲戒解雇にして会長と社長だけは守るということになりがちですが、実は守らなくても会社は残ります。しかし、江戸時代の藩はあくまで藩主の「家」で、藩主がいないと藩としての存在そのものの意味がなくなるので、なんとしても藩主を守る、主君を守るというのが武士道の根幹であったということを理解していただけたのではないかと思います。

おわりに

こういう武士の思想、あるいは切腹という風習が、現代の日本にどういうことをもたらしているのでしょうか。

切腹というのはあくまで武士の身分的矜持、つまり侍としての誇りが前提となった風習であり、武士は支配身分である。収入が少なくても、誇りは非常に高い。高い責任感、ノーブレス・オブリージュを持つべきものだということになっています。メダルの表と裏のように、身分が高い者はそれだけ高い責任をもたざるを得ない。切腹は武士にのみ許された責任のとり方ですが、それは法律で「こういうことをしたら、切腹しなければいけない」と決まっているわけではなくて、不手際なり、結果的な失敗――意図はよかったのに運悪く失敗してしまったり、あるいは世間がその人を悪く取り沙汰している、こういうことが十分に切腹の理由になりました。

切腹を命じられても、あくまで刑罰ではなくて、自分自身で自分の結末をつけるということですから、その罪が死に相当しなくても、全然かまわないわけです。いまの刑法なら、こういうことをしたら死刑、こういうことをしたら無期懲役というのが決まっているのでしょうが、あくまで自分で責任をとっての切腹ですから、何であれ自分が切腹相当だと思えば切腹するわけです。非常に軽微な「何で、こんなことで」というようなことでも、責任をとるには切腹しか方法がなくなってくるわけです。

自分で責任をとる――これは、武士の高い身分的な矜持、誇りに裏付けられています。その高い誇りを武士はすべて下級の者まで持っておりますので、上の者が自分の責任を逃れるために「おまえ、腹を切れ」と言えば、その上の者の保身の言葉は、藩主の言葉として理解され、下の者が切腹してその事件は終わりということも、まま起きるわけです。自らの不始末の責任をとる場合もありますし、主君の身代わりになる場合もありますし、上司の保身のために犠牲になる場合もありますけれども、とにかく身分的に高いということが、自らの責任を腹を切るという方法でとるという風習があったがために、こういう理不尽なことが横行しやすい体制になっていたと言えます。

いまでも、上の者の責任逃れで直接の担当者に責任をとらせるといったことは、多分あると思います。逆に、すべてのことに対して最高の責任者が、「自分が責任をもつ」といって腹を切るということもあります。

そういう形だけが現代にも受け継がれていて、何か不始末を起こしたときには辞職するとか、そういう責任の取り方になりがちです。意図さえよければその失敗の経緯を突き詰めて、今度はそういう失敗をしないように、今後に生かしていくという発想にならずに、何か失敗すると誰かが腹を切って責任をとって、そのことはもうおしまい、「新しく始めましょう」ということでは、まったく失敗の教訓が生かされないということが問題点としてあるだろうと思います。だからといって、失敗をしても今後のために教訓になったとして、ずっとその職に居すわるというのも困りものなのかもしれませんが、過去の反省がきちんとできないということが大きな欠点なのです。

現代では、上の者は下の者の責任もとらなければならないということが一般的な常識となっているのではないかと思います。直接の担当者だけではなくて、その上の人間も連帯責任を負う、指示をした人間、あるいは許可をした人間もすべて責任をもつということになっているわけで、何か下の者の不手際があったときには、下手をすれば取締役とか社長までが責任をとって辞めなければいけないということになっているわけです。そうなりますと、何か起こるとすぐ上の者まで辞めなければいけなくなって、これは大変なので、できればそういう不祥事は隠しておきたいということになりがちで、隠蔽工作が起こりやすい下地にもなっている。個々の不祥事はケース・バイ・ケースで一概には言いようがないのですが、とにかく悪いことをした場合は誰かが切腹というような、ゼロかオールかというような考え方は、おそらく本当の責任者をきちんと処罰することはできない欠点を持つのでありまして、どうも日本では江戸時代以来、誰かを切腹させて、あるいはみんなで切腹してそれで一件落着にしてしまうことになりがちなのが悪いところだという気がします。

いや、あまり悪いところばかりを見るべきではありません。いいところもございます。やはり悪いことをしたら自ら責任をとる。これは上から下まで、人によっては逃げようとする人もいるかもしれませんが、多くの人がそう考えています。こういう自ら責任をとるという非常に高い倫理感のある人が、江戸時代を見てもたくさんいましたし、現代を見てもたくさんいるように思えるということがございます。制度や習慣がもたらした善い面、悪い面というのは、切腹という風習にも非常に色濃く現れているわけで、これを簡単に、「こういうものは日本人の悪いところだ」といって切り捨てることもできませんし、逆に「この切腹という責任をとるというのは、日本人の最高の美徳である」とも簡単には言えません。それぞれの善し悪しというのは、それぞれの方々の判断の中で試されてくるのではないかと思うわけでございます。

日本人の切腹という風習から、日本人の倫理意識とはどういうものかというのを考えてみた次第です。どうも長い間ご清聴ありがとうございました。

(東京大学史料編纂所教授・東大・文博・文・昭55)
(本稿は平成15年11月10日夕食会における講演の要旨であります)