「矛盾」と書けない大学生  
内田 樹(神戸女学院大学教授) No.840(平成15年5月)号

 
「最近の大学生はバカになったのでしょうか?」とよく訊ねられる。
  答えるのに困る質問である。
  ある意味では「イエス」である。たしかに学力は低下している。「壮絶なまでに」と申し上げてもよいくらいだ。だが、それを学生の責に帰すことに私は一抹の疚しさを感じるからである。
  3年ほど前、学生のレポートに「精心」という字を見出したときには強い衝撃を受けた。だが、この文字はまだ「精神」という語の「誤字」であるということがただちに分かる程度の誤記であった。去年、学生のレポートに「無純」の文字を見出したときには、さすがに、しばらく動悸が鎮まらなかった。それが「精心」とは違う意味での、知的な「地殻変動」の兆候のように思えたからである。
  文脈をたどる限り、「無純」の語をこの学生はただしく「矛盾」の意味で用いていた。「むじゅん」ということばの意味をこの学生は理解しているのである。「無純」という文字も、「(対立者を含んでいるので)純粋では無い」という解釈によるのであろうから、決してデタラメとは言えない。むしろ、「むじゅん」という音と、文脈から「無純」という「当て字」を推理した知的能力は「かなり高い」と申し上げてもよいくらいだ。
  だから問題はむしろ、語義を理解し造語する能力まで備えた学生が、なお「矛盾」という文字を知らなかった、という点に存するのである。
  もちろん、これまでも「矛盾」という字を書けなかった学生はいくらもいた。「予盾」と書いたり、「矛循」と書いたりする例は珍しいものではない。けれども、これらの誤字は「矛盾」という文字のかたちを「正確には再現できない」というだけのことであり、その文字を「知らない」ということとは違う。
  現に私たちは毎日のように、「正確には再現できないが、読むことはできる」文字を使ってコミュニケーションをしている。「顰蹙を買う」ということばは日常的に使われているが、「ひんしゅく」と正しく漢字で書ける人はあまりいない(私は書けない)。「語彙」の「い」の字や「範疇」の「ちゅう」の字を「どう書くの?」といきなり訊かれたら困る人は少なくないだろう。
  だが、「無純」が暗示するのは、そういう種類の「知識の不正確さ」とは別の種類の「知識の欠落」が蔓延しつつあるという現実である。
  なぜ、「矛盾」が書けないのか?
  「本や新聞を読まないからだよ」と言って済ませる人がいる。
  だが、そうだろうか。実際には、彼らはけっこう文字を読んでいる。
  彼らが愛読する「マンガ」というのは絵と文字のハイブリッド・メディアであり、膨大な量の文字情報をも同時に発信している(だから識字率の低い国では、子どもたちが「マンガさえ読めない」ということが起るのだ)。それに、彼らが日頃耽読している情報誌やファッション誌もまた少なからぬ文字情報を含んでいる。
  なぜ、これだけ文字に浸っていながら、「文字が読めない」ということが起こるのか。
  私の仮説は次のようなものである。
  それは彼らが「飛ばし読み」という習慣を内在化させているからである。
  今の若者たちのリテラシーには、「分からない文字は瞬時に飛ばして、読めなくても、気にしない」という「物忘れ機能」が初期設定でビルトインされている。これが問題の根幹なのである。
  通常、私たちは「自分程度の知的水準の読者を対象としている」と想定されているメディアで、自分の「読めない文字」や「意味の分からない単語」に出会った場合、「ぎくり」とする。文脈から推察できない場合は、人に聞いたり、(あとでこっそり)辞書を引いたりして、語義を確定しようとする。そのような「意味の欠如」に反応する不快や欠落感に担保されて私たちの語彙は拡大するのである。
  ところが、当今の若者たちの場合は、「自分たちの知的水準に合った」メディアに日常的に触れながら、「意味の欠如」を埋めようとする意欲がほとんど発生しない。読めない文字があっても気にならないのである。
  どうしてそんなことが起こるのか?
  実物に即してご説明しよう。次の文章は関西のある情報誌の音楽情報コラムの冒頭の一説である。
  「11月だ。イアン・シンクレアの最新作『ロンドン・オービタル』の出版に合わせて、ロンドンの『バービカン』で一風変わったイヴェントが催される。グランタから出版されるこの本はM25―この作者が首都を取り囲むフェンスであると見なす幹線道路―に捧げられたものだ。このイヴェントではワイアー(“アヴァン・ウェイブ/ポスト・ギャルド・パンクス”彼らを覚えているかな?)、思い思いに装ったKLF(覚えている?)、ビル・ドラモンド(100万ポンドを燃やした男!)起き掛けにたっぷりスコッチを呑むことで有名なSF作家J・G・バラード、そして最近ではピジン英語を世界的な言語として広めるプロジェクトと腹話術ワークショップで知られる紳士、ケン・キャンベルといった突飛なキャストが集められている。」(Paul Bradshaw, London Calling,『Meets Regional』、2003年1月号)
  私がこのパラグラフの中で意味の分かった固有名詞は「ロンドン」と「J・G・バラード」だけであった。いまどきの若者たちがどれほどワールド・ミュージック・シーンについて深い造詣を誇っているのか、私には想像もできないが、このパラグラフを「すらすらと」読んで、その意味のすべてを理解できたのは『ミーツ・リージョナル』の読者の中にも決して多くはなかったであろう。
  この引用はやや特殊すぎるけれど、それでも、このような文章ばかりを浴びるように読み続けた場合に、人間は文字情報に対してどのような反応をするようになるのか、ということは安易に想像がつく。
  そう。「意味の分からないことばがあっても、気にしない」という反応である。
  「覚えているかい?」というポール・ブラッドショウの親しげな呼びかけが暗示しているように、この文章が読者に求めているのは、ちょうど英語のヒットソングを(歌詞の意味が分からなくても)愉しめるのと同じように、「ノリのよい文章を読んで、気分がよくなること」である。
  「単語1つ1つの意味なんか、どうだっていいじゃないか。」
  書き手だってそう思って書いているのだ。
  書く側、読む側に共有されているこのような「テクスト=音楽」的な受容態度が、「今どきの若者のリテラシーに初期設定としてビルトインされている『飛ばし読み』機能」を形成する心理的土壌をなしていると私は考えている。
  同じことは英語まじりのDJ番組や、スタッフのあいだでしか通じない意味不明の「内輪ギャグ」を平然と放送するヴァラエティ番組についても言えるだろう。いわば、メディアはほとんど意図的に「虫食い算」のようなかたちで情報を供与しているのである。そして、メッセージの受け手がその「意味の虫食い部分」について、「え、いま何て言ったの?」「え、それ何?何のこと?」というふうに逐語的に反応するのは「みっともないこと」だとされているのである。
  いまの若い人たちが目にし、耳にする日本語の文章は、あまりに多くの「意味不明のことば」を含んでいる。そして、読者視聴者に期待されているのは、その逐語的理解ではなく、文章の持つグルーヴ感やテンションに同調して「乗る」ことだけなのである。
  おそらくはそのようにして「無純」と書く大学生は誕生したのであると私は思う。
  彼女は「矛盾」という文字を新聞や雑誌や小説で読むときは、それを無意味な「汚れ」として「読み飛ばし」、「むじゅん」という音の語義については、文脈と「ノリ」から推理してみせたのである。
  先日、入試の英文和訳の採点をした。「すごい」答案が続出して、何度も赤鉛筆をはらりと落とした。その答案を見て私が慄然としたのは、彼女たちが「英語が出来ない」からではない。「日本語が出来ない」からでもない(もはや、そういうレベルの問題ではない)。
  まったく無意味な文章が平然と書き連ねてあったからである。
  彼女たちは、誰が読んでも意味不明である文章を書いて、そしてそのことにご自身が心理的抵抗をあまり感じていないのである。とすれば、この事態を説明できるロジックは1つしかない。それは世界は「現に彼女たちが今書いているようなテクスト」として読まれているということである。おそらく「世界」は、彼女たちの書く答案に似た「意味の虫食い状態」として彼女たちの意識の前に現前しているのである。
  情報や知識の欠如が「欠如」として前景化せず、むしろ世界の「地」として背景に溶け込んでいる状態、「意味の欠如」が不快や不足として感知されない状態、そのような知的状況に21世紀の日本の若者は置かれている。
  そして、彼らをこのような知的窮状に追い込んだ責任は、年長者たちの世代全体(教育者もメディア業界人も知識人たちも含めて)にあると私は思う。逐語的に読んでも明晰判明であり、それが世界にぴんと筋の通った整序をもたらすようなことばで書き語るという努力を私たちあまりに長きにわたって怠ってきたのではあるまいか。学生たちの語彙の不足を責めるより先に、私たちはまず自分たちの「ことば」の点検から開始するべきではあるまいか。

(神戸女学院大学教授・フランス現代思想・東大・文・昭50)