≪文学館だより≫ 遠藤周作文学館
三浦 朱門(遠藤周作文学館名誉館長) No.838(平成15年1月)号

   一

 日本のキリスト教徒というのは辛いものがある。信者である私がそういうのだから間違いない。キリスト教を信じていると言うと、日本人なのに、どうして西欧の文化から生まれたキリスト教を受け入れられるか、という質問が返ってくる。

 遠藤周作は少年時代に両親が離婚し、母親と暮らすようになるのだが、傷心の母親はカトリックの洗礼を受ける。遠藤少年は親孝行として、失意の母親を慰めるために、洗礼を受ける。しかし大学生になった彼は、父親と暮らすようになるが、その際、彼と母親をつなぐもの――象徴的な意味ではなく、実際に母親との連絡をとってくれた人――はカトリックの神父だった。

 そのような形で、彼は心ならずも、あるいは母親と連絡をとるための便宜として、カトリックになっていた。心ならずも信者になった彼は、戦時中は時代の圧力もあり、教会に籍のあることを、否定したかもしれないし、それが後の時代の彼のオドケの原因の一つになったかもしれない。しかし信仰を否定する度に、ある種の良心のやましさを覚えていたことだろう。

 そして敗戦。カトリック信者である彼に、フランスへの留学の機会が与えられる。この時期の彼は信仰を否定しようとしたのにもかかわらず、神は彼の内面に浸透してきたと思われる。たとえば彼が慶應で仏文科を選んだのは、佐藤朔教授のフランス文学とカトリックについての短い本を読んだことがきっかけになっている。彼は文学者としてカトリックと誠実に向き合おうとしたのであろう。

   二

 だから彼は信仰を留学の手段にしたのではなかった。この際、キリスト教をその本場において学ぼうという気持ちがあった。しかもフランスに行く船に同船した若者の一人が、東京工大を出て神学生になった井上洋治であった。船がインド洋を渡り、地中海に入るころまでには、二人は混沌のアジアを越えて、明晰な西欧に入るはずであった。フランスに上陸した遠藤は、キリスト教の神髄に触れる希望に燃えていたことであろう。

 しかし彼は失望するのである。田舎の神学校に入った井上を訪問すると、彼はブドー畑で働いていた。僅かな休憩時間に慌ただしく話し合ったに過ぎないのだが、井上も悩み、迷っているように遠藤には思えた。

 遠藤にとって、フランス的な物とキリスト教的な物との区別がつかなかった。箸の上げ下ろし、という言葉があるが、フォークの上げ下ろしにいたるまで、フランスはフランスなのだし、そこにキリスト教の心がこもっている。そして東洋人である遠藤がフランス語を自在にあやつれないように、キリスト教の信仰の中で自在に動ける、という自信がもてなかった。

 彼はある意味では留学の成果に失望して、あるいは自分の信仰は、キリスト教ではないのではないか、と疑いを抱いて帰国した。

 そして彼は悩んだ末に思いついたのは、フランスにフランスのカトリックがあるなら、日本のカトリックがあってもいい。元来、キリスト教はアジアで発生した宗教だったという思いであった。キリスト教を現在の形にしたのは一人のユダヤ人で、ユダヤ教徒として育ちながら、ギリシャ文化圏に住み、ローマの市民権を持ったパウロという男である。彼のギリシャ哲学と対決するための言葉が、西欧的キリスト教の神学の基礎になった、というのが遠藤の結論であった。

 帰国してからの遠藤は、そのために日本的なカトリック、ということを言いはじめた。それは山本七平が、「日本教キリスト派」と言ったのと共通するものがある。

 私の知る限りでもインドにはインド的カトリックがある。インドの修道院でインド人の神父たちがミサをあげるのに、インド風の衣服をまとい、絨毯の上で車座になって、蠟燭の火の下で聖書を読んでいるのを見て、私はヒンズー教の儀式にまぎれこんだのではないか、とさえ思ったことであった。

 遠藤は母親への愛、母親に会いたいという気持ちから信仰に入ったことを、恥ずかしいとは思わなくなった。母親への愛をキリストへの愛に高めればよいので、それが遠藤の信仰なのだし、そのような形で信仰を形成した環境、つまり日本的環境も、やはりカトリックの一つの形、と考えたのである。そして西欧のキリスト教は、時に厳父の愛の面影があるのに、遠藤の信仰には慈愛溢れる母性愛がうかがえる。

 カトリックというのは普遍という意味で、日本のカトリック信者の悩みの一つは、普遍ということは、バチカンでのミサと典礼が普遍なので、それにあらゆる信者が従わねばならないか、という疑問である。しかし遠藤にとって、普遍とは抽象的な意味であって、ミサに使う器具、服装、などはそれぞれの民族のしきたりや、文化に従ってもよいということになった。

 このころから遠藤の信仰はカトリックではない、という一部の声が高くなる。遠藤の作品が度々ノーベル賞にノミ一ネー卜されても、遂に受賞に至らなかったのは、彼の信仰は異端ではないかという、主としてヨーロッパ世界からの意見があったからではないか、と私は疑っている。

遠藤周作文学館全景

   三

 遠藤は長崎県 外海 [ そとめ ] 町の断崖の上からの東シナ海の景観を好んだ。キリシタン時代の信者たちは、海の彼方を眺めては、西の国から何時かキリストの使者がやってきて、自分たちを迫害から救ってくれる、と信じたに違いないし、その場としてはこの断崖の上が相応しい、というのである。

 だから遠藤周作の文学館を作るとしたら、この断崖は望ましい場所だ。彼もまた極東の一人のカトリック信者として、自分の信仰が普遍から外れていはしないかと悩み、もしそうなら、その誤りをただして欲しいと、海の彼方に沈む日に祈ったことであろう。

 長崎の伝統的なカトリック信者、迫害に耐えて、三百年にわたって信仰を守り続けた人たちは、遠藤の作品が棄教を肯定しているとして、彼の信仰や文学に批判的で、文学館を作ることにも反対した。それでも地元の信者の了解を得て、ここに文学館が作られるようになったのは、彼の友人の一人として、私は有り難いことだと思う。

 キリシタン時代の聖母子を描いた絵に、和服を着た聖母が幼いイエスを抱き、波を蹴立てる船に乗っている図柄のものがある。これは片岡弥吉氏が論証したように、われわれが無原罪の聖母と呼ぶ絵柄の日本的解釈なのである。

 西欧での絵柄は聖母の昇天の図なので、その足元には三日月と雲が漂っている。ここにギリシャ・ローマ神話との混同があって、ディアナ女神は処女の女神で、その象徴は月である。月は太陽と区別するために、通常は三日月で示される。つまり原罪を持たない聖母は、汚れを持たないということで、ディアナ女神と合体されて、足元に遠く、月と雲を従えて昇天するのである。

 それが日本に来ると三日月は船に、雲は波になる。それは西方浄土という仏教の影響もあろうし、いつか西の海から聖母が救いに来て下さるという願いから、このような図柄になったものであろう。私はこれもキリスト教と考えたい。ディアナ女神と聖母を合体させたのが、ヨーロッパのキリスト教なら、西の海から船に乗って来臨する聖母子は、日本的なキリスト教ではないだろうか。

 遠藤はそういうキリシタン時代の日本のキリスト教信者を愚かとも、異端だとも思えなかった。遠藤は彼らの信仰の中に、自分の信仰の先輩を見いだしたのである。

 カトリックには、逸脱すればカトリックではないとされる、幾つかの条項があるが、その範囲にある限り、和服でミサをあげようとも、日本の陶器を聖器として、キリストの血と肉であるブドウ酒とパンを入れようとも、構わないはずである。こういう考えを導入した点でも、私は遠藤周作を日本カトリックの偉大な先達の一人と考えている。

 彼の遺骨は母親と共に眠っている。しかし彼の信仰は、長崎県外海町の遠藤周作文学記念館の中に、今も息づいて、来館する人に、信仰とは何か、われわれ日本人にとってキリスト教とは何か、を問いかけている、と私は信じているものである。

(遠藤周作文学館名誉館長・東大・文・昭23)

三浦朱門氏は他に『學士會会報』920号(2016年9月1日発行)に「~随想~ 青春時代」を寄稿されています。