国際情勢と日本外交 ―情勢判断をめぐって―
岡崎 久彦
(外交評論家・元駐タイ大使・博報堂特別顧問・岡崎研究所所長)
No.835(平成14年4月)号

はじめに
 学士会の、これだけ大勢の方のお集まりを前にしてお話しできる事を、誠に光栄に存じます。本日の演題は「テロ事件後の国際情勢と日本外交」となっておりますが、本日は、片々たる国際情勢を申し上げるよりも、私がいちばん申し上げたい事、国家情報論について申し上げたいと思って参りました。

 今、皆さんはアフガン情勢に非常にご関心があるかと思いますが、これは一種の、何というかゴシップ的なご関心でございますね。私は平成八年にここで講演させていただいております。その時に、長期的な国際情勢を分析して、日本の外交についてお話し申し上げました。その内容は、今読み返してみましても、あと十年や二十年はそのまま生きるだろうと思っております。それ以上つけ加える事はあまりございません。しかし、もし今回のテロ事件のことを今ここで詳しく一時間かけてご説明しても、意味があるのはせいぜい一年ぐらいではないかと存じます。

 もし今度の事件に何らかの長期的意味があるとすれば、今度の事件を契機として、二十世紀・二十一世紀の国際社会の独裁者とも言うべきアメリカの世論が、非常に大きく変わったということでしょう。国内的には愛国主義、同胞の助け合い精神、外に向かっては積極介入主義ですね。これは一世紀来なかったことで、これが長続きするのか、一時的なものでまた元へ戻るのかはわかりません。もし長続きするとすれば、今後の国際情勢に十年二十年三十年に及ぶ大きな影響を及ぼすと思います。これは重大な事で、ここで指摘させていただく機会を与えられた事に感謝致します。ただ、今はこの点については、それ以上詳しく分析する材料を私は持っておりませんので、この話はその程度のことにしておきます。それ以外のアフガニスタンの話は一年もすると、もうどなたも読んでいただけない話になると思っております。

国家進路の指針となる情報戦略
 最近情報関係の事務の重要性を認識する機運が識者の間で高まってきたように感じられます。そこで、私も年来の念願である情報論を一度まとめようと思いたち、去年の秋から雑誌に論文を発表し、近く本(『情報戦略のすべて』)にして、私が従来考えていたことを世に問う事に致しました次第です。

 どうして私が情報論を申し上げるのかと言いますと、私の経歴は極めて特殊でございまして、外務省へ入りましてから、室長、課長、部長、局長、防衛庁参事官と、ほほ一貫して情報だけをやって参りました。こういう経歴は役人のなかでもほとんどございません。外務省というのはスペシャリストよりもジェネラリストを育てるということで、何でもできなければいけない。ところが、私の場合はちょっと偏りまして、情報ばかりをやっておりました。

 情報をやっておりますと、課長なら課長、部長なら部長、局長なら局長同士で、CIA(米中央情報局)、NSA(国家安全保障局)、DIA(国防情報局)と付き合ったり、MI6(英国情報部)と付き合ったり、モサド(イスラエル諜報機関)と付き合ったりと、ポストがかわる度に繰り返し繰り返し付き合いますから、先方からみると、「この人間にはこの程度なら秘密を言ってもいい」といった、点数がついていくんですね。その意味で私ほど外国の情報機関と接触した人間もいないと思います。

 その過程で感じたことは、日本の情報態勢がいかに遅れているか、これを何とかちゃんとした情報態勢にしたいという事で、これが私の年来の悲願でございます。

 情報論と言いましてもいろいろあります。まず情報の「収集」、どうやって集めたとか、いちばん皆さんがご関心があるのは収集ですね。その次が「伝達」。官邸に早く伝わったとか、伝わらないとか、皆さんそういう話にも大変ご関心がある。そうやって集めた情報を「分析」する。さらに「秘密保持」、それから相手側に誤った情報を与える工作、いわゆる「反間」(ディスインフォメーション)等、これを全部まとめて情報と申しますが、ここでは入ってくるいろいろな情報にどういう意味を持たせるかという「分析」、要するに、情勢判断について申し上げたいと思います。

 情報事務をどうしたらいいかという話になりますと、すぐに政治家的発想から、俺の所に早く教えてくれというような話になります。また、どこかでクーデターがあった、どこかで地震があったという情報を外務大臣がテレビで知ったとすると、すぐ、それは醜態ではないかという話になりがちですが、これは全くのジャーナリスティックな話です。新聞というのは同じ記事が朝刊に載ったか夕刊に載ったかで鎬を削り、社長賞をもらったりする社会でございますが、伝達の遅速や経路は情勢判断にほとんど関係ありません。少しぐらい遅れて入ってもいい。一次情報というのはテレビで知ろうと、人から教えてもらおうと、あまり関係ない話です。

 私が知らないことをどこか別の役所の人が先に知っていても、それを私に教えてくれればそれでいいのであって、それは別に醜態とかいう話ではございません。その情報を得た上でいかなる判断を下すか、これがいちばん大事なことでございます。先に誰かが知っていて、自分のところに来るのが遅れたとか、そういうことばかりに振り回されていると、本末転倒と言いますか、情報組織が屋上屋を重ねて、時間と経費をムダにしてまた元と同じになる事の繰り返しになります。いかにして大局的な日本の進路を誤らないかを考える指針とする。それが情報判断であり情報の窮極の目的でございます。

情報活動の歴史
 情報活動をするにはこうしたらいいという原則についても私はすでにいろいろ書いて参りましたのでそれをご参照願いたいのですが、ここでは、歴史的な事例を挙げて、そのなかでどこが悪かったかということから考えた方がわかりやすいかもしれません。日本が過去、情報で失敗した事例は限りなくございます。

 真珠湾攻撃は一九四一年ですが、一九四〇年頃のいちばんの問題は、ドイツがどっちに向かうか、英本土上陸か、それとも、独ソ戦を始めるか、これがいちばんの問題でした。松岡洋右をはじめとして、陸軍も、日独伊三国同盟だけではだめなことはわかっている。これにソ連が入って初めてバランスがとれる、ソ連はわが方の側だという考えでしたから、独ソ戦争をやられると日本の構想はすっかり崩れる。四〇年当時、いろいろ論争があるなかで、スウェーデン大使館駐在の小野寺武官が「英本土上陸はもうない」、「独ソ戦争はいずれある」と繰り返し電報を打っています。これに対してドイツ大使館が「ドイツの判断はわれわれがする」と武官を中心としてだんだん怒ってきた。こういう縄張り根性がいちばんいけないんです。

 より根本的には一つだけの情報に依存してはいけないんです。情報というのは、多数情報、複数情報でなければいけない。ドイツはイギリスを征服する。ロシアはやがてわれわれの側に立つ。そういう自分たちに都合のよい情勢判断のみで国際政治を進めていくのは危険です。またもしそう決めたのなら、今度はそれに反対する情報をどんな情報でも全部集めて検討しなければいけない。自分がやりたい方向だけの情報しか集めないのは、情報判断のいろはを間違えています。何が間違いかというと、一つは自分の政策に都合のいいような情勢判断を正しいと思ってはいけない。希望的観測を入れてはいけない。そして複数情報を尊重しなければいけない。これは情報の基本です。それを全然日本はやっていなかった。

 イギリスとアメリカは複数情報制度を採っています。第二次大戦中にその重要性を覚えて、それが戦後原則となっているのに、日本は戦後も全く進歩していなかった。私が情報担当としてアジア問題について判断を出すと、「アジアの判断はアジア局がやる」と、こうですね。日本は戦争に負けたんですから、そこから学ばなければいけない。大失敗なんてそうしょっちゅうやるものでもないし、また、許されるものでもない。そこから教訓を学ばない手はないのに、敗戦から学んだ唯一の教訓は「戦争は嫌だ」というだけで、あの時どうすればよかった、こうすればよかったという教訓を全く学んでいないんですね。

 実は戦争が終わった時に、「全部徹底的に調べよう」と言って、幣原喜重郎が戦争調査会をつくろうとしたのですが、占領軍側が、「なぜ戦争を失敗したかの勉強をするということは、今度はどうすれば勝てるかということを勉強するんだろう」と禁止したんです。その時、幣原は立派でした。調査会には旧軍人も入っていましたから、「軍人を外せばいい」という意見に対し、「とんでもない。軍人を外して、どうして戦争の結果が勉強できるんだ」と言っています。外務大臣吉田茂がGHQを説得しようとしたのですが、GHQの許可が出ずに、敗戦を調査分析して反省しようという試みは、それきり断ち切れとなってしまったのです。

 情報判断の間違いはいくらでもあります。ドイツの敗戦が濃厚になってきているのに、ドイツの日本大使館だけは、最後まで「ドイツが勝つ」という情報をどんどん送っていました。本省が「これはあまりに変だ」と、新聞情報などを送って、「そちらの情報とずいぶん違うが、この違いをどう考えるんだ」という電報を打った。すると、「ドイツ判断に責任を持つドイツ大使館の情報と民間の新聞記者の情報と、いずれを大事と思われるかは本省の勝手次第」という返事の電報が来た。ここまで来ると、縄張り争い、政策に関する情報、一度言ったことへのこだわり、情勢判断の悪いところが全部出ています。

 もっと酷いのは、例の勝ち組と負け組の対立です。第二次大戦が終結した時、南米の日系移民のなかで、「日本は戦争に勝ったのだ」という「勝ち組」と「いや、日本は負けたんだ」と主張する「負け組」がいて対立していたわけです。「日本は戦争に負けて、平和国家になったのに、お前達が争っていては困る」と外務省から説得に行くと、「日本が戦争に負けたぐらいのことは知っています。だけども、負け組の連中というのは、戦争中は日本精神を忘れてうわついていた連中だ。われわれだけが日本の勝利のために戦っていたんです。日本が負けたからといって、あの連中に頭が下げられますか」と、はらはら涙を流したそうですが、一度意地を張ると、情勢判断はそこまでこじれてしまう。情勢判断というのはあくまでも客観的で、しかも、あらゆる事実に目をふさいではいけないのです。

 嫌な情報は隠すというのもよくありません。ミッドウェイの敗戦は隠してしまったので、政府部内でもほんの一部しか知らなかった。ミッドウェイ海戦であれだけやられ、敗戦を公表して「これは大変だ。ここで考え直さなきゃいかん」ということになっていたら、結果は全然違っていたでしょう。イギリスは、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが沈められた時に、チャーチルが翌日の議会で演説しています。「いまのところ、私が持っている情報は、日本側の公式情報しかない。だけど、どうも二隻沈んだらしい」と。これは何とかしなきゃいかんということで、戦略をつくり直す。もしミッドウェイの情報が全部知らされていて、これは大変だということになったら、事態は全く違っていたでしょう。その二カ月後にガダルカナルにアメリカが空母大機動部隊で来ます。ラバウルからわざわざ貴重な海軍航空隊をガダルカナルまで遠く飛ばしても、上空では十分か十五分しか作戦ができない。次々に損耗して、結局、ガダルカナルとソロモン群島で海軍航空隊を二千機失っています。ミッドウェイの敗戦を皆が知っていれば、こんなムダな戦術をとるはずがない。こうなるともう、全く勝ち目はありません。鍛えに鍛えた海軍航空隊はほとんど壊滅し、あの時点でもう戦争はおしまいです。あとの戦争は皆、制空権なしで戦った。ミッドウェイの失敗を公表していたら、そんなことにはならなかったはずです。これは情報の隠蔽による過誤と言えるでしょう。

 いったん作文すると、それがそのままいつまででも残るというのもよくありません。昭和十六年に戦争が始まって、十七年の三月頃にはシンガポール陥落等、いちばん勢いがあった時に、「敵の本格的反抗は昭和十八年以降であろう」と、今後の情勢判断と作戦大綱というのをつくります。もしミッドウェイの失敗がなければそうでしょう。ミッドウェイで勝っていれば、多分、昭和十八年まで本格的攻撃はなかったと思います。

 しかし、一度各省が全部集まって協議し、何遍も赤字を加えて、これでいいというものをつくると、何か法典みたいになってしまって、事態が変わってきても、もう変えようとしない。ガダルカナルに敵が上陸し、一万二千人の海兵隊、空母機動部隊が来ているのに、せいぜい八百人か五百人ぐらいと想定したまま攻めている。これではいくら攻めてもだめです。行っても行っても全滅です。飛行機も全部潰れる。それでもいったん作文した「作戦大綱」を決して変えようとはしない。負けている最中でも、文章の辻褄合わせだけをしているのですから、これでは全く情勢判断の意味もない。

 これと同じことを戦後日本でもまたやるんですね。私が防衛庁にいた時に、ちょうどベトナム戦争でアメリカが負けたあとのデタント時代に、その時の情勢判断を書いて、これに沿って日本防衛態勢をつくるという防衛計画の大綱というのをつくった。その後ソ連のアフガン侵入があり、冷戦が真っ只中になっても、これは絶対に修正しないんですね。一度書いたものを変えるということは大変なことなのです。だいたい大綱とか、綱領とかをつくって、それでいこうと決めるのは日本だけです。ひとたびつくったら、御家の掟みたいに守る。デタント時代につくった防衛計画の大綱を、冷戦が終わってしばらくするまで直していない。

 これを防衛庁の外で言うのは今回が初めてですが、私はその間中、「お前、うるさい」と言われるぐらい、防衛庁内で「あれを変えろ」と言ったのですが、全く変えないですね。冷戦が終わったら、大綱の言った通りではないかと言った人さえいる。こんなものは情勢判断にも何にもならないんです。時計が壊れて、十二時間経ったら、正確な時間を指していると喜んでいるようなものです。

幣原喜重郎と山本五十六の過誤
 私は近代史を繰り返して読んでおりますが、一体情勢判断で何がいちばん誤りだったかと考えますと、日本の失敗というのは二つしかありません。一つは、日英同盟を廃棄したこと。もう一つは、真珠湾を攻撃したこと。取返しがつかないのはこの二つだけです。それ以外は全部取返しがついています。

 たとえば一九一五年対支二十一カ条要求を出した。戦後の歴史学者が書いたものを読みますと、あれが間違いの元で、あれ以来日中関係は戦争に向かっていったと、全部そう書いてありますが、そんなことはないんです。二十一カ条要求を出してから、中国では馮国璋でしたか、孫文を迎える政権ができた。孫文は一九二四年に日本に来ていますが、その頃言っていたのは関税自主権、領事裁判といった不平等条約撤廃だけです。陸奥宗光までは日本も営々として関税自主権と領事裁判という不平等条約の撤廃に苦労してきたように、それは中国の悲願だった。満洲については、孫文は柔軟な態度を示しています。あの時、日本が率先して、中国の関税自主権回復に尽力していれば、これはもう二十一カ条は償って余りあったでしょう。日中親善関係は十分できたはずです。

 満洲事変がいけないと言いますが、満洲事変にしても、あとでいくらでも収拾の方法がありました。たとえば、中国の国民党政府が本当に破産しそうになった時、イギリスのリース・ロスが日本に来て、「一緒に改革をやろう。中国の通貨を支持してやろう。日本は借款を出すといっても、そのうちの何分の一かは満洲分と考えて、満洲から返すという形で、今の満洲国政府が中国政府に出せばいい」と提案したのに、これを見過ごしてしまった。イギリスのお金だけでも、中国の通貨が一遍に安定して本当に感謝しました。あの時日本がやっていたら、満洲事変の片は付いています。支那事変が始まってからでも、いくらでも事変を解決するチャンスがありました。

 何が悪かったかというと、やはり一九二二年の日英同盟の廃棄ですね。日本にとってあんないい同盟はなかったんです。あの頃は空軍なんてものはありません。日本とイギリスが世界で最大の海軍国でしたから、日本の安全は百%保障されていた。七つの海をイギリスが支配していて、特に西太平洋、インド洋になると、日本と一緒に支配しているわけですから、世界中の海を日英同盟が支配している。世界中の資源はいくらでも入ってくるわけですから、繁栄し、自由民権以来の努力が実った大正デモクラシーというものがちゃんとできた。大正デモクラシーは日本人がつくった本当のデモクラシーでした。軍人が制服を着て街を歩けないという政治優位の時代があったのですが、それを崩したのが、実は、幣原喜重郎です。

 アメリカやカナダはイギリスが早く日本を切って欲しいと思っていた。カナダはアメリカ側ですから、もしアメリカと日本が戦争になって、イギリスがどっちへ付いていいかと迷うのでは困る。一方、オーストラリア、ニュージーランドは日本を切るのに反対です。味方である日本と敵である日本とどちらが自分たちにとって安全か考えてみろと、それはもう正論です。アメリカとカナダは「切れ」と言うし、内部では意見が割れているし、イギリスは本当に困ったんですね。イギリスは時のロイド・ジョージ総理大臣、カーゾン外相、チャーチル植民地相、事実上の外務大臣であった枢密院議長バルフォア国際連盟担当、チェンバレン国璽尚書、陸軍大臣、海軍大臣、全部日英同盟存続支持でした。しかし、アメリカがあまりにもうるさく言うので、日米英の三国同盟にしようと、ごまかしの案を持ってくる。攻守同盟ではなく協議を中心として、何か必要があれば、その三カ国のうち二カ国はいつでも同盟に復帰できると、要するに、これは日英同盟を温存しようという案ですよね。この時、幣原は駐米大使でしたが、「外交は幣原しかできない。外交は幣原任せだ」と信頼されていた。ジェントルマンで、見識もあるし、非常に信頼できる男として、外交を任せられていた。その幣原が、イギリスが持ってきた三国同盟案を、「これはアメリカは呑みませんよ」と言って、書き換えた。これが、当時の実力者英米仏日、四カ国協議条約ですが、全くなんの役にも立たない。こんなものを覚えている人もいません。ここで、日英同盟は切れてしまった。

 幣原があれほどよく出来る人でなければよかったんです。普通の人だったら、イギリスが三国同盟を持ちかけてきたのなら、「そうですか。では、あなたがアメリカと交渉してご覧なさい」と、それでいいんです。イギリスが自分の責任で交渉すれば、当時のイギリスとアメリカの関係ではイギリスのほうが強いですから、アメリカが「日本を切れ」と言っても切れるものではない。結局、日英同盟は、そのまま存続したでしょう。あるいは、日英米三国同盟案をアメリカが呑んでいれば、一九二七年、中国の革命軍が南京まで来た時に日英同盟は復活しています。その時はイギリスが日本に「出兵しろ」と言ってきたのを、幣原は断った。日本の武官がロンドンで外務省へ来て、涙を流して「日本は兵を出せません」と言ったという話が残っておりますが、その時に日英同盟は復活していたでしょう。「もし日英同盟が残っていれば、政府部内における海軍と天皇側近の勢力に対する陸軍の勢力の均衡を覆していたであろう」と、在日米大使館のムーアが言っていますが、それはその通りです。昭和天皇は親英米派ですから、同盟国のイギリスがこう言っていますと進言すれば、その通りになっていたと思いますし、親英路線がずっと続いたであろうことはほとんど間違いないですね。もしそうなっていれば、中国の要求を日英が抑えて、権益をしっかり握ってずっと押えていたでしょう。一九九七年にイギリスが香港を返しましたが、日本は同じ頃に満洲を返還しただろうと思います。アジアのナショナリズムの屈辱と挫折はもう半世紀続いたわけですが、民の苦しみは戦争に過ぎるものはありません。戦争なしで軟着陸するには、日英同盟さえ維持すればよかった。

 日英同盟を維持していれば、日独伊三国同盟なんでできるわけがないんです。誰もがイギリスの重要性はわかっていた。駐独大使だった東郷茂徳は防共協定をつくった時から、「これはイギリスが入らなければ意味がない」と言っています。ヒットラーはリッペントロップ駐英大使に「お前の在任中に、独英同盟をつくることが最大の念願である」と言明した。ところが、リッペントロップはいかにも品がなくて乱暴なものですから、イギリスで毛嫌いされて、誰かの本によれば「裏切られた恋人のような」感じでイギリスに恨みを持ち、ものすごい反英になってしまう。これでドイツは道を誤った。

 日本では道を誤らせたのが幣原喜重郎なんですね。外務大臣として、これ以上の人はいない。明治期の陸奥宗光は別格として、その後の外務大臣では幣原がやっぱりいちばん立派だと思います。山本五十六は頭もいいし、洞察力も実行力もあるし、男も女もみんな惚れたと言われていますが、幣原といい、山本五十六といい、私も好きな人ですが、結局、その二人が国を誤ったんですね。せめて、憎むべきと言わなくても、凡庸な人が国を誤ったのならあきらめもつきますが、いちばん優れた人が国を誤っているのです。

 山本五十六はアメリカの実力を知っていますから、本来は戦争反対です。戦争をすれば負けることがわかっているからアメリカとは戦いたくない。どうしてもやれというなら、これしかないと。つまり、小錦を相手にして、幕下の小兵が相撲をとるようなもので、奇襲をかけて相手を慌てさせる。慌てているうちに、ありとあらゆる技をかけて、それで押し出す。それ以外に勝つ方法はない。あそこまで来たら、真珠湾攻撃しかないというのが山本五十六の考え方でした。腰を落ち着けて、こっちに向き直られたらかなう相手ではない。これは正しいんですね。だから、真珠湾で勝ったあとに、もうしばらく海軍航空隊を休めるとか、いろいろ議論があったのを、山本五十六は一人で決めて、またミッドウェイ海戦へ持っていく。真珠湾攻撃も山本五十六一人で考えて、計画して、反対も半分ぐらいあったのに、「やるんだ」と言ってやり通した。日英同盟廃棄が幣原でなければできなかったのと同じぐらい、真珠湾攻撃は山本五十六でなければできないことです。

 真珠湾攻撃をやった結果、アメリカの世論は反戦から開戦へと、その動向が固まってしまったんですね。

アメリカ世論の動向―日米開戦の経緯
 ここでさきほどの話に戻ります。アメリカの世論というものが二十世紀の独裁者なんですね。アメリカという国と交渉するにはアメリカの世論の動向をみなければなりません。この読みが難しいんですが、戦後はわかってきている。

 私は四、五年前にグエン・コータックというべトナム戦争時に外務大臣だった人物に会いました。革命の闘士で、強硬派ですが、すっかり好々爺になって、ニコニコして、「うちの息子達はいまアメリカにいるんだ」なんて言っている。ベトナム戦争はどうだった、大変だったろうと言いましたら、「いや、あの戦争はそんなに難しくないよ。こっちはアメリカが相手だけども、向こうはこっちを相手にして、しかも、アメリカの世論を相手にしている。こっちはアメリカ人を一人一人殺していけばいいんだ。殺すたびに、アメリカの反戦気運がどんどん出てくる。それを続けていれば、いずれ勝ったんだ。いずれ勝つ戦争だし、そんなに難しい戦争じゃなかった」と。そこで、私が「しかし、硫黄島では、アメリカは海兵隊を二万人失ったぞ」と言ったら、「二万人……」と言って絶句しました。「どうしてそれで日本は戦争に勝てなかったんだ?」と言いたいかのようでした。

 日本には石油を売らないという「石油禁輸」で対日圧迫を強めてきたアメリカは、続いて「ハル・ノート」(国務長官ハルからの覚書)という当時の日本政府がとうてい承認できない要求を突きつけて来た。それを公表して、こういうものが来たが、「四十八時間以内に石油禁輸全面解禁。そうでなかったら、戦争しましょう」と、通告を出せばよかったのです。アメリカ議会では「ハル・ノート」なんて誰も知りません。当時共和党の下院の指導者であったハミルトン・フィッシュは最後まで戦争反対でしたし、戦争反対論は議会内の多数派でした。そのフィッシュが、真珠湾攻撃の直後にルーズベルトを支持して、戦争支持大演説をぶつんですね。のちに「ハル・ノート」の存在を知ったフィッシュは、「これでは戦争をするのは当たり前だ。ルーズベルトはそれを国民に教えないで、恥ずべき最後通牒を出していた」と言っています。

 あの時に、最後通牒を公表して、四十八時間の期限をつけて、これを呑むか戦争かと言っていたら、まず、アメリカは戦争をできなかったでしょう。万が一戦争に持ち込んでも、アメリカの世論は何時まで経っても、戦争を続けていいのか、やめるべきか、半々だったでしょう。真珠湾攻撃のあとでも、日本が東南アジアを解放したものですから、「われわれはどうして英蘭帝国主義を守るために戦争しなきゃならないんだ」という論争がかなり起こっています。

 もし「ハル・ノート」が公表されて、五分五分という感じの世論のなかで戦争が始まったとしたら、硫黄島で二万人の損害も出れば、アメリカ世論は絶対に黙ってはいません。反戦気運が高まったはずです。最近の例をみても、レバノンに兵を出して何百人か海兵隊が死んだらすぐやめる。ソマリアでは二十人死んだだけでもうやめています。硫黄島で二万人もの損害を出したとあれば、アメリカの世論が黙っているはずがないんです。

 一九四五年二月の硫黄島決戦では栗林中将指揮の日本軍は全く航空隊の支援も援軍も何もなしで、孤軍奮闘。死傷者の数がアメリカ側が日本を上回ったのは、あれが唯一の戦闘です。戦略がよければ、戦術を少しぐらい間違えてもいいんですが、戦略が悪かったら、いかに戦術がよくてもだめですね。あのあと、これは大変だということで、原子爆弾投下やソ連参戦の方に行く。硫黄島の勇戦の結果、満洲の在留邦人が酷い目に遭い、広島や長崎に原爆が落ちたとも言えます。戦略さえよかったら、硫黄島戦士のお陰で、あの時に休戦条約が結ぼれていたでしょう。

 どうしてこれほど間違ったのか。幣原喜重郎、山本五十六、これは私のいちばん尊敬する人と言ってもいい人たちですが、その二人の情報判断の間違いが日本の進路を誤らせている。明治の頃は教育がよかったけども、昭和になってだめになって、その連中が国をだめにしたと言いますが、国をだめにしたのは実はこのいちばん優れた二人の人間ですね。

アメリカ世論への認識不足
 結局、アメリカなるものを余りにも知らない。ベトナム戦争時のグエン・コータックぐらいの認識を日本の閣僚が持っていたら、問題はなかった。しかし、これは戦後になってやっとみんながわかってきた話で、それまではわかっていなかった。結局、アメリカの国内事情の分析が足りないんです。議会の議事録を仔細に読んで、ハミルトン・フィッシュの発言とか、他の議員たちの発言を詳しく読んでいれば、期限付きの最後通牒で戦争した方がいいという結論は出たはずですが、そこまで読みきれていない。

 幣原の場合は、判断を誤ったのも無理もないというところもあります。あの時はむしろアメリカが悪いんですね。アメリカはウィルソンが出てから、ウィルソン主義をふりかざし、第一次大戦はどちらが悪いというものではない、あれは同盟同士が戦って戦争になったのだから同盟が悪い、同盟を全部やめて、すべての国が合意できる原則をつくって、その原則をみんなで守れば平和になるんじゃないか、と言い出した。それが国際連盟であり、国際連合であり、これはウィルソン主義として続くわけですが、その原則が崩れたらどうしたらいいかという保障は何もない。モンロー主義という自分勝手なものを持っているアメリカは安全だし、大英連邦も安泰なんですが、それ以外の国は同盟を切られて、バラバラになってしまったんですね。既存の国際秩序を破壊して、その責任をとらない。ウィルソン主義は国際社会をジャングルにしたんですね。

 フランスはドイツの報復が怖くて、イギリスやアメリカとの同盟が欲しいと望んだのに、これはだめだと断られた。それで、つくったのが英仏独伊、それにベルギーを入れたロカルノ条約ですが、幣原がつくった四カ国条約と同じで、全く何の役にも立たない。アメリカは一方でそういうことをやっておいて、国内の孤立主義に押されて連盟にも入って来ない。二十世紀が終わり、皆が歴史をもう一度見直しているから、今ならアメリカに対して「乱暴なことをやってゴタゴタにしてくれたな」と言えますが、当時はこんな情勢はわからないです。

 幣原はロンドンとワシントン暮らしが長いので、アングロサクソン派です。イギリス紳士を信用し、アメリカ人を信用し、ワシントン体制を信じて、これで行こうと決めたわけですね。幣原は、皆がちゃんと条約体制を遵守すれば平和になると信じて、中国に関する九カ国条約も承諾した。世界各国全部が条約を守っていれば、幣原の言う通りになったのです。ところが、中国が、過去の条約は全部不平等条約であるから廃棄するという姿勢を示し、もし廃棄しなければ反日運動をやる、日本のボイコットをやるという形で日本に圧力をかけた。本来なら、日本の側について、中国に条約を守れと一言うべきアメリカは、ワシントン体制に反して中国の側についた。

 この経緯は、最近、アーサー・ウォールドロンが『平和はいかに失われたか』で、マクマレーの書いたメモを紹介し、北岡伸一さんが日本語に訳しています。そのなかで、あの時イギリスとアメリカが一緒になって中国に既存の条約をきちっと守るべきだともっと強く言うべきだった。ワシントン体制を最も忠実に守ったのは日本であり、日本は非難されるべきではない。アメリカとイギリスが非難されるべきだと、はっきり書いています。実際幣原はそう思って日英同盟廃棄をしてしまったのですが、アメリカは変わる。そこを読みきれなかったんですね。

 このマクマレーの論文は実によく情況を読んでいます。こういうことをやっていると、今に日米戦争になる。そうなれば、多分アメリカは勝つだろう。しかし、勝ったって意味がない。勝ったら、日本の代わりにソ連が出てくるだけで、ソ連相手に同じことをするだけの話だとまで書いています。これを戦後ジョージ・ケナンが読んで、本当に感動し、ジョージ・ケナンの極東政策のバイブルとなった。それがマクマレーの「メモワール」です。

 結局、日本も、ヒットラーも、アングロアメリカンの出方を見極められなかった。アメリカの世論なるものが一体どういうものか、それもよくわからなかった。それでみんな国を誤った。

 最近の例では、サダム・フセインが誤っています。九〇年八月にクウェートを侵攻したサダム・フセインは、アメリカは来ないだろうと思っていた。私は当時「これはサダム・フセインは間違えるだろう」と書いたものを今でも残していますが、アメリカにああいう反戦運動があると、これは間違ったシグナルになる。アメリカが反戦運動で出てこないと思うと、これは間違いで、果たしてサダム・フセインは間違いました。

真の情勢判断者とは
 私自身も、ずっと情報をやってきたなかで、若い頃はいろいろ失敗もしました。その一つは、ベトナム戦の行方を見失ったことです。一九六七年一年間で、アメリカがそれまで十万くらいだったベトナム派遣の兵隊を五十万に増やし、たちまちにベトナム全部を抑えた。私はこれでもう勝負があったと思った。六八年一月末の旧正月にテト攻勢というのがあって、隠れていたべトコンが一斉に表に出て、総攻撃をかけた。これは旧正月の休戦協定のある時で、休暇で誰もいない時でしたから、大騒ぎになる。その時も、私はこれで勝負がついたと思った。地下に隠れているベトコンが全部出てきたのですから、これを一掃すれば、長期的にはわかりませんが、五年や十年はもったはずで、これでアメリカが勝ったという判断をしていたら、二月末にマクナマラ国防長官は辞める、ウェストモーランド司令官は本国召還となって辞任する。国内の反戦気運の高まりの前に、ジョンソンが北爆の部分的停止と次の大統領選には出ないと言い出す。アメリカ撤兵の始まりです。

 それまで私がやっていた情報・調査事務は共産圏情報でした。共産圏の情報を仔細に毎日毎日繰り返し分析して、結果を出す。私は分析課長になった時に、まず、レーニン全集と毛沢東選集と中ソ論争を全部読めと言われ、そこから始めました。当時の情報事務、調査事務というのは、防衛庁、警察庁、公安調査庁とも、ソ連、中国、北朝鮮、北ベトナムと共産圏分析ばかりでした。いくら共産圏の情報を分析しても、アメリカの内情を知らないのでは、ベトナム戦の帰趨がわかるわけがないんです。いちばん強い国アメリカのことを分析しなければ、世界はわかるわけがないのに、世界中どこもやっていなかった。

 もちろんみんなアメリカについては知っているんですが、たとえばドゴールは、「アメリカという国は天下国家の大事にあたって、幼稚なる感情(これは人権とかなんかそんなことですね)と複雑なる国内事情(議会と大統領の権限の問題とか、そういうこと)を持ち込む国である」と分析し、「だから、もう共に語るに足らない」と切り捨てています。アメリカのことを話してもしようがないじゃないか。これが二十世紀初頭から以降のヨーロッパの情報分析家の態度でした。ウィルソンが同盟はやめろと言い出して、しょうがないから同盟をやめたら、今度は自分が国際連盟に入らない。「ああいうのは相手にしてもしょうがない」となるのはしかたないんです。しかし、世界のことは、最終的にはアメリカが決めるんですね。

 私は幾つかの失敗を経て、情報関係では「どうやってアメリカがわかるか」に集中しました。これは共産圏分析とは全然手法が違います。共産圏分析というのは、共産党の長い演説の行間を読む。時々はスパイ情報が入りますが、たまたまいい情報が入っても、続いて入るとは限りませんから、ひたすら行間を読む。ビクター・ゾルザは秘密情報を一切読まないで、一日十時間ぐらい演説記録を読んでいましたが、彼の読みはずいぶん当たりました。分析課長の時に「一度日本に教えに来い」と頼んだんですが、「一週間も旅行したら、その分をもう一度読むのは大変だ。外へは出られない」と断られました。当時、ドイッチャーがその筋の大専門家と言われていろいろ本を書いていましたが、「本を書くのはインチキ野郎だ。本当の情勢判断者に本を書く時間があるはずはない」と、ビクター・ゾルザはそういう徹底した人です。いまに文化革命が来るぞと当てたのは彼ですし、チェコへのソ連侵入を当てたのは世界中の専門家で彼ただ一人です。そういういわゆるクレムリノロジーを私も一所懸命やっていました。

 ところがアメリカ情報になると、限られたものを一所懸命読んで、眼光紙背に徹する共産圏情報とはまるっきり違う。読むものは限り無くあって、読みきれない。その莫大な情報のなかから、何が玉か石かを選別しなければいけないのですから、むしろこっちのほうが大変です。それでアメリカが読めるかというと、読めるとは限らないのです。

 国際情勢を知っていると称する評論家が出てきて、「アメリカはこう考えている」とその人が言ったら、その一言で素人とわかります。「アメリカはいざとなったら、台湾を見捨てる気だ」とか、「アメリカは内心は日本の再軍備なんか喜んでない」といった発言をする人はいくらでもいますが、「そのアメリカって誰?」と聞けば、すぐわかるんですね。名前一つ言えない場合が多い。名前を知っていても、それが支配的な意見と言えない事はすぐわかる。アメリカなるものはない。アメリカには国務省がある、国防省がある、大統領府がある、議会がある。議会には上院も下院もあって、新聞世論がある、国民世論がある。そのそれぞれ全部が四分五裂で意見が全部違うんです。それらの多種多様の意思が、チェック・アンド・バランスを通じて、お互いに議論をし合っているうちに、一つの筋が出てくるんですね。その筋を見分けるのがアメリカ分析ということです。

 議論の末に政府の政策に反映していくアメリカの総意たるものは、最後に出てくる公式文書がある意味で唯一の手掛かりです。もう一つアメリカ分析をやるのにこれだけは押さえておきたいというのは、アメリカの議会公聴録でしょう。あれだけは全部読まなければならない。それも、継続的に五年十年と読まなければならない。大統領や国務長官といった要人の演説も大事ですから、これも全部読まなければいけない。アメリカのワシントンにいれば読めますから、その上で、読んでいてこれはおもしろいなと思ったら、アメリカの有識者に「この演説はここがおもしろいな」と言ってみる。もし向こうが同意すれば、そこがポイントになる。「いや、本当はここなんだよ」と教えてくれるかもしれない。アメリカの内部に精通している知識人をよく知っていて、しょっちゅう連絡をしていないとアメリカという国は読めません。そういうことを五年十年ずっと続けて、それで初めてアメリカが読めるんです。

 結局、このやり方を続けるうちに、私の情報判断はかなり正確になりました。いろいろ間違いをしたのは課長時代の終わりまでで、それからあとは、間違いをしなくなりました。

 最近いちばん世の中が動いたのは、八九年にベルリンの壁が崩れて、九一年にソ連邦解体、九〇年に湾岸戦争。そういう時の判断も、もうあまり間違えなくなっていました。ベルリンの壁が崩れた時に、みんな責任回避し合い、新聞も政府も世論もみんな「何人も予想していなかった」と言いました。でも、私は八八年に「来年、東ヨーロッパはがたがたになるよ」と外務省の幹部会で報告しています。これは記録に残っています。また、当時の安倍晋太郎幹事長に、「来年は、東ヨーロッパは大変ですよ」と伝えて、安倍さんはそれをぶって歩いた。八九年の五月頃に、「きみの受け売りを言って歩いているが、何にも起きないじゃないか」と言われて、ちょっと間違えたかなと思ったら、夏頃からハンガリー、チェコ、ポーランドが続々倒れて、終にベルリンの壁が崩壊しました。

 アメリカ判断がいかに大事か。アメリカを東京、ヨーロッパが大阪で、日本は名古屋と譬えてみますと、名古屋の人が大阪を知ろうとして、大阪そのものを分析してもあまり意味がないんです。大阪は東京の方ばかり向いていますから、むしろ東京へ行って、東京が大阪をどう考えているかを知った方が遥かに早いし、大阪が東京をどう考えているか、東京と大阪の関係を知っていれば、名古屋なるものが大阪を分析しなくても、だいたい大阪の問題はわかる。悩みを抱えていた東ヨーロッパの国も、相談する相手はアメリカしかないんです。キッシンジャーといった連中は東ヨーロッパの話を聞いて、もしドイツが統一したらどうなるか。また昔の強いドイツが生まれるのなら、フランスやロシアとともにこれを抑え込む条約をつくらなきゃいけないとか、真剣に考えているんです。私はそういう人たちと付き合っていたから、東欧の将来が読めた。日本で共産圏分析をやっていても誰も読めなかった。東ヨーロッパの国々が日本に相談に来るわけがないんですから、アメリカヘ行って、「東ヨーロッパをどう判断するか」と聞くのがいちばん早い。世界の情報というのはそういうふうに回っているものなのです。

情報分析力の強化
 私は「日本の情報収集能力を増すにはどうしたらいいか」とよく聞かれます。細かい話はさておき、大きな話を一つだけすれば、結局、アングロアメリカン世界と仲良くしていればいいということに尽きるでしょう。

 日英同盟の頃は、イギリスの陸軍情報部が日本の大本営にしょっちゅう情報をくれて、情報のつき合わせもやっていました。だから、世界中の情報がわかっていた。ところが、日英同盟が切れた途端に、わからなくなった。日本がこれだ、違いないと判断しても、それだけでは十分ではありません。イギリスの情報部とつき合わせてみれば、精度はたちまち十倍も二十倍も増えます。戦後日本はアメリカとそれをやっている。十六世紀から十九世紀、二十世紀の前半までは、世界中の情報はイギリスが全部握っていたし、それ以降はアメリカが全部握っている。そういう国と親しくすることで、情報はいくらでも出てきます。もちろん、日本にだけは教えたくないとか、情報操作はされるでしょう。聞く前から、これは教えてくれないなというのがありますし、細かい一次情報はなかなか教えてくれない。しかし、トップの人間は一次情報を全部集めた上で総合的情勢判断を持っていますから、こちらが必要なのは、その総合的情勢判断なんですね。そこでは嘘をつけない。

情報分析官の養成を
 ここまでが私の経歴で覚えたことでありまして、このノウハウを日本の組織にどういうふうに取り込もうかと思って、昨年の秋から情報論にとりかかりました。

 結論から言えば、一人で十年ぐらいは継続してみていなければだめだということです。外務省で国際情勢を全部みているのは情報局長と、次官、アメリカ大使などですが、任期は二年ですから、「自分がいた時は」という話はできるけれど、任期以前や以降の話はわからない。外務省のエリート中のエリートは、アジア局長、アメリカ局長、審議官をやって、次官を経てアメリカ大使というコースですが、国際情勢を全部みている期間は、七、八年というところでしょう。やはり国際情勢全般を継続的にみていくポストが必要なのではないか。情報分析官というのは十年は継続して情勢判断に専念していただきたい。

 アメリカにはNIO(国家情報官)というシステムがあります。私の知っている頃、国家情報官は十人ぐらいいて、ヨーロッパ、共産圏、アジア・太平洋、アフリカ、中近東、軍備、経済というふうに分担し、それぞれの国家情報官はその分野についてはなんでも知っていて、大統領に聞かれたら、すぐ答える。そういう情報システムです。日本もそのような国家情報官を置いてはどうか。そのシステムをもっと改善して、役人出身だけではなく、国際政治学者などを任命して、定年後の六十から七十歳くらいまで、任期十年ぐらいで情報分析に専念してもらう。その代わり学者であっても、アメリカの公聴会の記録、演説、これは毎日必ず読まなければいけない。これを十年やれば、情勢判断をほとんど間違えないです。私個人にしても、給料を貰っていた政府には申し訳ないけど、退官後の今の方がずっと世界情勢はみえますよ。十年ぐらいの任期で情勢判断に専心していただいて、任期が終わってからも、顧問としてかかわってもらう。任期五年目ぐらいに、後任兼補助情報官を指名してもらって、後任者にも十年やっていただく。機密費を本来の用途に使うなら、こういったシステムを立ち上げることも可能なのではないか。

 情報分析官はまた、アメリカの有識者とつねに交流する実力を持ち、その友好信頼関係を強化して、「こいつなら話してもいい」という間柄になれる人物である必要がある。そして、しょっちゅう意見の交換をし合う。そういうシステムをつくるのに、大したお金はかからないと思うんです。一次情報とか、そういうものは今まで通りにやっていけばいいんです。得た情報をほかに回す前に官邸に回す組織をつくれとか、うるさいことばっかり言うんですけど、それは今まで通りのことをちょっちょっと改善すればいいのです。

 要するに、情勢判断というのは、毎日、毎週、毎月、毎年、継続的にしなければいけない。世界の治乱興亡の理を知っていて、尚かつ、毎日毎日緊張感を持って細かい情報を全部きちんと読む根気がある人材。アメリカのCIAのトップと同じであって、しかも、それ以上に東洋的見識のある人材を情報分析官に任命すれば、世界一の情報機関ができるのではないかと私は思っております。この事は近く刊行される『情報戦略のすべて』(PHP研究所・二月二〇日刊)に詳しく書きましたので、そちらをお読みいただければと思います。

 以上、私の生涯の関心事である情報分析について、個人的体験を交えて申し上げましたが、国が誤った方向へ行かないように、日本外交にとっても、国際情勢を正しく判断していくことがいかに大事であるか、ご理解いただければ幸いでございます。

(外交評論家・元駐タイ大使・博報堂特別顧問・岡崎研究所所長・経修〔ケンブリッジ大〕)
(本稿は平成14年1月21日午餐会における講演の要旨であります)