文学の伝統と思想表現  
辻井 喬(詩人・作家) No.832(平成13年7月)号

文学にとって伝統とは
 私は、最初は詩を書くことから文学の活動を始めました。それからかなりの年月、もう四十年……五十年になります。口語自由詩などを書いておりますと、どうしても「伝統とは何だろう」という問題にぶつかります。ご存じのように、文学の歴史は詩から始まっています。歌集でも『万葉集』という世界にも誇れる詩の全集が残されています。

 最近は、文学というと何となく小説が中心のように思われていますけれども、これは少し不思議に思います。やはり随筆とか伝記とか記録文学とか、あるいは批評というものが、もう少し評価されても良いのではないかと思うことがしばしばあります。

 そういった中で詩を書いてきて伝統ということを考えると、どうも自分は伝統を生きて動いているものだという感じではなくて、文学的な現実とは別のところにある、アンタッチャブルな宝物のような感じで見てしまうことが非常に多いのです。これは私の反省ですけれども、そういう伝統観がいつの頃から自分の中に生まれてしまったのだろうかと、私自身の問題として大変疑問に思うわけです。

 というのは、イェーツとかT・S・エリオット、おそらく英語で詩を書いている二十世紀最大の二人の詩人だと思いますが、たとえばT・S・エリオットの作品は、生ける伝統の意識を基調にして書かれていると言われています。T・S・エリオットは、一八八八年から一九六五年まで生きています。それからイェーツは、一八六五年から一九三九年まで活躍したアイルランドの人です。もともとの浪漫主義的な傾向と象徴性の強い言語を使った人で、その言語の磨き方という点から見ますと、やはり彼も、二十世紀最大の詩人という人もいるくらいです。

 そういった人達が、いずれも自分の書いている詩は伝統に基づいているのだと言っているわけです。ところが、日本の口語現代詩の詩人は、伝統を拒否するという場所で書いている。あるいは、本人の意識としては伝統を拒否するような意識で書いている場合が多い。私などもその末席を汚していて、そのような意識で書いてきたような気が頻りにするわけです。

 けれども、これは少しおかしなことなのではないかと思います。現在の日本の文学は、詩にしても小説にしてもエッセイにしても、大変に衰えてきている。衰微しているという感じを免れない。最近、文学者の国際交流が非常に盛んになってまいりまして、去年もモスクワで国際ぺン大会がありました。そうすると、いろいろな国から著名な作家がやってくる。基調演説をギュンター・グラスがやって、あの輝かしかったロシア文学が、どうしてまったく振るわなくなったかということについて、あるいはコソボの問題だとか核兵器の問題について、堂々たるスピーチをしてくれる。

 そういうところに日本の文学者が出ていって、「われわれ日本の文学者として、アジアの中にいる作家として、私はこう考える」という意見表明をほとんどしない。あるいは出来ない。そこでの議論が、自分たちの書いていることと、別の世界での議論のような感じがしてしまう。それはなぜだろうと考えた時に、またもや伝統の問題が出てきたのです。それで、これは放っておくわけにいかないなと考え、はっきりしておかないといけないと思い始めたわけです。

古代日本人の文学的業績
 日本人は文学というものがあまり得意でない民族なのだろうかと考えますと、それはまったく事実ではない。たとえば、『源氏物語』は十一世紀初めの頃の作品です。ヨーロッパ文学の歴史の中で近代心理小説が出ましたのは、ラ・ファイエット夫人が書いた『クレーヴの奥方』あるいは『クレーヴ大公夫人』が始まりです。これは一六七八年、十七世紀の終わりのほうです。

 ですから、十一世紀の初めの頃に『源氏物語』のような近代の心理小説と言っても充分通用するものを書いた民族がいるということは、世界の文学史の中でも驚異であるはずなのです。『万葉集』はさらに以前、八世紀を中心に六世紀、七世紀、八世紀という三百年近い年限をかけて、長歌二百六十五首、旋頭歌六十二首、短歌四千二百七首もの歌が収録されている。これも、どの国の古代の叙事詩と比べても引けをとらない。

 また、それで途絶えてしまったのかというと、ご存じのように『古今和歌集』が十世紀の初めに編まれ、これが勅撰和歌集の始まりです。続いて『新古今和歌集』が十三世紀の初め、八番目の勅撰歌集とだんだん短歌になってきて、歌の歴史は綿々とつながっている。

 短歌ばかりではありません。演劇の方面で世阿弥の『風姿花伝』が書かれたのが、ちょうど一四〇〇年、十五世紀初めです。この『風姿花伝』は演劇論ですが、各国語に訳されていまして、現代の世界的な演出家が読んで私に会った時に、「これは本当にその時代に書かれたのか」と聞くといった、それぐらい非常に優れた演劇論です。それに基づいて、狂言などがつくられている。

 芝居そのものでも、近松の心中ものは元禄時代、そして西鶴もほぼ同じ時代で『好色一代男』が出たのが一六八二年、十七世紀の中頃から以降ですけれども、これは堂々たる戯曲です。いまだにそのいくつかは歌舞伎で上演されている長い歴史があります。また、俳句は芭蕉からと考えても十七世紀の中頃以降。本居宣長が十八世紀中頃。上田秋成もその頃。

 こうやってずっと見てみますと、日本人は文学があまり得意でない民族どころか、錚々たる業績を残している。しかし、そういった日本人の才能は、いつ、どこで、どのような理由で消えてしまったのでしょう。これはやはり、大変な問題です。文学だけの問題ではなくて、芸術全般にわたる問題につながっていく。そういった問題をはっきりさせないで教育の問題を考えても、これは畑を充分耕さないで種を蒔くようなことになるのではないか、という気がするぐらいです。

文学における明治維新の衝撃
 そういう問題意識をもって、今、私たちが生きている近代から現代、明治以後の文学の歩みを考えてみますと、やはり明治維新というのは大変な衝撃を文化・芸術全体に与えたわけです。どうやって欧米……ことに西洋の優れた芸術作品を学び、取り入れ、そして自分たちの芸術、文学を豊かにしていこうかと、先輩たちは大変な苦労をしてくれている。ただ、その大変な苦労をしてくれている様子を、少し中に分け入って探ってみると、最初に言葉の問題が非常に難しい問題として立ちふさがっていたように感じます。

 森鷗外のような人は、ヨーロッパの詩を漢詩に翻訳する。漢詩に翻訳しないと、うまく翻訳出来ないという感じを鷗外はもったようです。もちろん、漢詩ではなく日本語の文語で書いた『於母影』という詩集、これにはいくつか鷗外自身の訳も含まれておりますけれども、どうしてもその頃の口語は粗雑な、表現力の充分でない言語という意識が多くの人の心の中にあった。

 それに対してたとえば落合直文は、「いや、そうであっても口語で詩をつくるべきだ」と主張している。たとえば、『孝女白菊の歌』などは、翻案ものでもあるわけですが、漢詩を口語訳に移しています。

 国木田独歩が、『新体詩抄』(外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎共著)が出たとき、「嘲笑、四方より起こりき」と書いています。「あざ笑う声が四方八方から起こってきた」と。けれども「このおぼつかなき小冊子は、草の間を潜って流れる水のように、いつの間にか山村の校舎にまで普及し、『われは官軍、わが敵は』という没趣味の軍歌すら至るところの小学校生徒をして歌わしめている」と。そして国木田独歩は新体詩派に、「漢詩ではない、口語で詩を書こうとしている。しかも、ヨーロッパの作品などの影響を受け止めて書こうとしている」、このような評価を下しています。国木田独歩は、明治四年に生まれて四十一年に亡くなった。若死にだったのですけれども、この人もかつて、自分で新体詩派様の詩を書いたりしていたわけです。

 それに続いて、あるいはほとんど並行して、正岡子規が俳句、続けて短歌の革新に乗り出します。『歌よみに与ふる書』という短歌批判は、痛烈なものでした。子規はこんなふうに言っています。「今日、和歌というものの価値を回復せんとするならば、いわゆる歌人、すなわち愚痴なる国学者と野心ある名利家の手を離して、これを新生詩人の手に渡すの一策あるのみ」と。そういうふうに歌壇、主として宮廷歌壇の爆撃をし始めた。そして、明治三十年過ぎぐらいから根岸派という、彼の住んでいたところの地名を取った和歌の集団をつくった。

 一方、子規に対抗するわけではなくて、競い合った形で与謝野鉄幹が現れてくる。益荒男ぶりの短歌をつくっていたのですけれども、与謝野晶子と結婚した頃から俄然、明星派と言われる歌をつくり始める。これもまた、既成の装飾的な歌壇に対して激しい攻撃を加える。こういうものがスタートになって、新しい時代が始まったわけです。

明治以降の文学表現
 しかし、伝統短詩系と私たちは呼んでおりますが、伝統短詩系の世界はそれから後、つねに激しい攻撃に晒され続けております。尾上柴舟の『短歌滅亡私論』が出たのが明治四十三年。この頃は自然主義が勃興してきて、このままでは短歌は自然主義という作品、小説を中心としたものに押されてしまうという危機感があったのではないかと思われますけれども、これが最初に唱えられた短歌滅亡論です。

 第二回が、大正十五年。いろいろありますけれども、その中から特徴的なことだけ申し上げますと、大正十五年に折口信夫先生が、「歌の円寂する時」という題の論文で歌壇批判を行います。彼はその中で、「華やかであった万葉復興の時世が、ここに来て向きを変えるのではないか」と書いています。なぜ向きを変えて、明らかに衰微する傾向、兆しを見せているかというと、彼はいくつか理由をあげています。

 一つは、「歌壇に批評がない」ということ。お師匠さんの歌を褒めて、事勿れ主義で毎日を送っている。あるいは、褒めて自分の歌も載せてもらおうと思ってゴマを擦っている。

 そして二つ目に、「歌人の人間が出来ていなさすぎる」。歌人が人間としてお粗末だ、と。

 それから、「子規がかつて、二十年近く前に言ったことをもういっぺん考えてみる必要がある」。そこで、子規の歌の中で代表的な歌、「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」を例にあげて、「これは何でもない叙景歌のようだけれども、そこには生きたいという激しい思いと、人生への諦観と、いろいろなものが入っている」と言っています。瓶に藤の枝がさしてあるのだけれども、垂れ下がっている花ぶさがみじかいので、畳の上にはついていないと。彼はおそらく寝ていたのでしょう。寝ていて、畳についていない姿がよくわかる。ついたほうが良いのか、つかないほうが良いのか、自分では見ているうちにわからなくなってくる。ただし、畳につけば藤の花は思いを遂げられるのではないだろうか。というようなことも含めて、この歌は人生論になっている、ということだと思います。

 そういった歌を引用して、歌人の生活態度からくる歌の行方不明を説いている。つまり、生活態度がイージーであると本当にハッとさせられるような歌はつくれないものだということです。万葉集による文芸復興を考えるならば、ここで歌人一人ひとりが自分の生き方を振り返ってみる必要があるのではないか。この「歌の円寂する時」という論文は、彼が非常に尊敬もしておりました島木赤彦が亡くなった期に書かれておりますので、そういうニュアンスは多少ありますけれども、やはり「このままでは短歌は滅亡してしまうよ」と言っているのです。

 これが大正十五年ですから、まもなくプロレタリア文学が盛んになってくる。そういった予感を折口先生は持っていたのかもしれない、という気もするぐらい、この「歌の円寂する時」というのは、短歌論としても非常に内容の高いものだと私は思っています。口語歌と自由小曲という、短歌が行くひとつの方向として、完全に口語を使った短歌の作品というのもあり得るよという展望も、そこで出されております。大正十五年といえば、昭和元年とだぶっています。

 ところがもう一回、短歌に大変な危機が来ます。それは約二十年後……昭和二十年に日本が戦争に負けて、伝統的なものは一切恥ずべき野蛮な遅れたものだから捨ててしまえということが、盛んに言われるようになった。これはイギリス文学の先生、フランス文学の先生、そういった人々が俳句をいくつかあげて、「有名な先生と無名な人と作品の区別がつかないじゃないか。俳句などは第二芸術論だ」と言ったことから始まりまして、俳句と短歌を合わせて、伝統短詩系は第二芸術論だという風潮が出てくる。

 百家争鳴と言えば恰好が良いのですが、伝統短詩系が戦争に完全に協力をしてしまったということがあったので、社会的な形勢は伝統短詩系にとって非常に不利な時代が続いたわけです。しかし、伝統短詩系ばかりではありません。自由口語詩も高村光太郎の例に見るように、これが高村光太郎の書いた詩だろうかと思うぐらい、『十二月八日』などの詩はポスターの宣伝文句のような詩になっている。彼はそれを恥じて、日本が戦争に負けてから後、山へ引き籠もるわけですけれども。

文学の危機への対応
 ただ、こういうことをずっと申しましたのは、短歌が危機に遭遇した時の対応の仕方と、口語自由詩などが危機に遭遇した時の対応の仕方が、全然違うということを申し上げたかったからです。私の感じでは歌壇や俳壇が危機に遭遇した時の対応の仕方と、口語現代詩が危機に対した時が表向き似ているような感じがします。ところが中身を見ると、正反対なところがある。

 俳句を第二芸術論だと言われた時に、高浜虚子は「ははあ、俳句もやっと芸術の仲間入りをさせてくれたか」と言って、腕を組んで笑っていたそうであります。これはおそらく、「外国文学の先生が何を言おうと、俳句は民間に広がっていてびくともしないよ」という自信に裏付けられていたからだという気が、私にはするわけです。

 現代詩のほうはすっかり恐れ入って、高村光太郎は山へ籠もってしまう。また、モダニズムの詩人たちは、「モダニズムとは何だったのだろう」と非常な懐疑に陥る。それでも何とかして新しい詩をつくらなければと、「荒地」などのグループは努力していたのですが、しかし詩のグループは、自分たちの詩の形が大勢の読者に支えられているという実感は持てないでいた。従って、沈黙を守ったという点では俳句と現代詩は似ていますが、中身は全然違う。現代詩の場合は中が空虚で、俳句の場合には自信がその中には溢れていた。

 このように比較しますと、小説の場合はまたまったく違った対応の仕方をしているわけです。だいたい小説というのは、近代市民社会が生まれた後の文学の様式としては中心的な様式です。ヨーロッパではそうなっている。アメリカでもそうなっている。しかしわが国の場合には、いまだにどうも小説というのは、大勢の人に読まれているということにはなっていない。

 昭和十年に、横光利一が『純粋小説論』を出しました。彼は、この中で「もし文芸復興というべきことがあるものなら、純文学にして通俗小説、このこと以外に文芸復興は絶対にあり得ない」と書きました。そして、ドストエフスキーやスタンダール、バルザックなどの例をあげて、「彼らの作品は、わが国の『純文学』という概念で当てはめると、純文学ではないではないか。ある面では推理小説みたいなところがあるし、ある面ではハードボイルドの作品のようなところがある。けれども大勢の、そして世界中の読者を魅了しているではないか」と。

 そういう点で『純粋小説論』は、「純粋」という形容詞に足を取られてしまうと読み誤るのですが、その背景になっているのは日本の小説が大衆性を全然持てないでいるということです。そして、純文学と大衆文学に真っ二つに分かれていることが、悲劇であるという認識でした。

 その昭和十年の『純粋小説論』から昭和二十年の敗戦を経て、昭和二十七年……ですから『純粋小説論』から十七年たって、『国民文学論』が登場します。この『国民文学論』というのは野間宏さんが唱えたのですが、その野間宏さんが「人民文学」に発表した『国民文学論』を読んでみますと、伊藤整さんとか竹内好さんとか、いろいろな人が小説という文学の形式に危機感を持っていたことが書いてあります。「戦争に負けてから七、八年たった頃、このままでは文学は、小説はだめだ。国民文学になりきらなければわが国の文学は栄えないという一種の危機意識、あるいは焦燥感があって、こういった議論が盛んになった」と。

 野間宏という人は大変に魅力的な人で、私もその謦咳に接したことがありますけれども、丸山真男先生も「作家の生き方と思想的な変化の過程が、人格的にたどれる作家というのは日本で少ない。野間宏君などは、その数少ない例の一人だ」と言って評価しておられますが、少なくともこの『国民文学論』を読む限り、私などは文学論としてどうも、あまり出来が良いようには思えない。

 たとえば、大勢の人に読ませると言って、どういう人に読ませるのかというときに、野間宏さんは「労働者階級、農民、インテリゲンチャー、小市民、民族資本家を含む、広範な国民の読み手を予想して、作家は書かなければならない」と言っています。何だか、ある政党の中央委員会の決定を読んでいるような感じがするわけです。こんなことを言っていても、国民に愛される作品は出て来ないのじゃないかと思うのですけれども、しかし、真面目にそういうことを考えていた。

 そして、「作家は魂の技師にならなければいけない」ということを盛んに言うわけです。私はその「魂の技師」という言葉で、どうしてもスターリンが「作家はソビエトの社会主義建設の現実を書かなければならない。作家はソビエトの国民の魂を鍛え、変えていく、魂の技師だ」と言ったのを思い出してしまいます。私は、これは本当は魂の詐欺師と呼んだほうが良いのではないかという感じがする。やはりその頃はまだ、そういった社会主義リアリズム論というのが、良かれ悪しかれ文学者の意識を強く縛っていた時代だったのだなと、私には思えてくるのです。

 そういう欠点が野間宏さんの『国民文学論』にはあるけれども、それにしても小説の危機に際しての発言というのは一味違って、本来は大勢の国民に支持される歴史を持っているはずの小説が、なぜかわが国では大勢の人に支持されていない。これは何とかしなければならない。そういう点では、短歌の場合と正反対の危機意識で議論されている。そう思うわけです。

 ですから、そういった文学の足跡、明治以後の足跡というものをずっと考えていきますと、今わが国の文学が衰微している状態になっているのは、当然だなという感じがしてくるのです。どうしてそう言えるかというと、やはり小説も詩も、どうしても国民の中に根を張ることが出来ない。短歌、俳句は根を張ってはいるが、放っておくと歌壇、俳壇の長老に牛耳られて、クリエイティビティを無くしていく。どっちを向いても創造性というものが生まれてこない。そういう停滞の状況が出てきてしまう。それを乗り越えるにはどうしたら良いのでしょうか。

中国文学の目標
 そういえば、少し余談になりますが、一昨年でしたか、ペンクラブの代表で中国へ参りまして、中国の作家同盟幹部の人と大変な議論をしたとこがあります。私が、「中国の作家同盟はどういうことを目標にして運動をなさっているのですか」と聞いたら、「目標は二つあります。一つは、国民大衆に愛されることです」と。私は「それは非常によくわかります。日本の作家も、大勢の人に読んでもらおうと思って書いておりますから、その点では日本のペンクラブも中国の作家同盟も同じですね」と申しました。

 「二つ目は何ですか」と聞いたら、「中国における社会主義建設を促進することです」というお話でした。私は、「その二つ目の目標は理解出来ません。なぜなら、あの輝かしい伝統をもっていたロシア文学は、社会主義リアリズムこそソビエトの文学の国是であるとスターリンが決めてから、見る影もない衰えを示したではありませんか」と言って、大変な議論をしました。

 中国のほうは「いやいや、わが国の社会主義は、ソビエトの社会主義とは違うのです」と言うので、こちらの守備範囲に入ってきたと思って、「どういうふうに違うのですか。スターリンの社会主義は中央指令経済というのが特徴でしたが、中国の場合は自由市場経済ですか」「そうです」と。「そうすると、自由市場経済をやっていて社会主義リアリズムというのは、どうもつながらないように思いますけれども、どういうわけですか。あなた方は、フアジェーエフという作家同盟の書記長が、スターリンの死後、自殺をしたということをご存じないのですか」と言うと、中国のほうはもう大変に困って、変な文学者が出てきたという顔をしながら、二時間半ぐらい議論をしました。

 そのうちに、「いやいや、わが国の社会主義は時と場合で変わるのです」という意見が出てきました。「それは非常に結構なことだ」と私は申し上げたのですが、そのような体験を思い出しました。

文学の本来の姿
 このままでは日本の文学が具合が悪いということだけは、どうも残念ながらはっきりしている。それにはやはり、伝統の問題をもう一度見直さなければならないのではないか。確かに、十五年戦争と言われた時期、軍閥は伝統的な文学作品を勝手に我田引水的に使って、本質とは関係のない、戦争を鼓吹する道具に貶めた。その結果、文学の伝統についてのアレルギーが生まれてしまった。しかし、今になって見れば、そして読み直してみれば、『万葉集』でも『古事記』でも、立派な文学作品であって、軍国主義者が言っていたようなものではないということがわかってくる。

 ですから、その当時の反動から抜け出して、伝統そのものの本当の姿をわれわれは見直す責任をもっているのではないだろうか。伝統から切り離された芸術が、いかに想像力を、クリエイティビティとイマジネ―ションとをなくして、弱いものになるか。これは、T・S・エリオットもイェーツも同じことを言っています。ですから、伝統を今までの固定観念から外して、自前の目でストレートに見ることから始めなければならないのではないでしょうか。

文学の思想表現
 そのように見てみると、よく言われる次のような主張の誤りも見えてくるように思います。それは、「日本の文学には思想を盛り込むことはなかった。だから、思想を盛り込まなければいけない」と。私なども、思想の言葉がないということをよく言うのですけれども、しかしそれも、大変よく考えてみないと落とし穴がある。そういう人たちが思想という場合は、外来思想の場合が多いのです。これは、カントやへーゲルに代表されるドイツ観念論から始まって、あるいはギリシャ哲学であったりいろいろするのですが、とにかく外来の思想です。日本には立派な日本古来の思想があるのに、やはり思想というと外来思想になる。その最たるものはマルクス・レーニン主義であり、これも外来思想です。

 ですから、話があちこちになって申し訳ありませんが、中国でどうして革命が成功したかというと、それは、まだ若かった頃の毛沢東が、マルクス主義を中国の思想として、中国風のマルクス主義にすることが出来たからです。そういうふうに考えますと、日本には思想が、なかったかというと、そのようなことはなく、仏教思想もそのうちの立派なもののひとつですし、いろいろな思想があるのです。

 この間もある対談の企画で、作家の高樹のぶ子さんと恋愛について話した時に、「私の作品は思想を嫌います。恋愛に思想はいりません」とおっしゃいましたから、「私はそうは思いません」と申し上げました。高樹のぶ子さんの作品の中で『透光の樹』という、谷崎潤一郎賞をもらわれた作品があります。舞台は金沢の近くですが、テレビのプロデューサーが昔知っていた女性と出会って、お父さんの病気で彼女が生活に困っていることを知る。そこで、経済的な必要があったら私はいつでも手助けしますということを言ってしまいます。それを言ってしまったことが、二人の恋愛の進展に大きな障害になってしまう。それがひとつの回転軸になって、恋愛事件が発展していくわけです。

 私は「あなたの書かれたこの恋愛小説は、立派な思想を持っているではありませんか。思想というのは、止揚しなければならないとか、構造を変革すべきだというような言葉がなければ思想がないというのではありません。これが思想だと思ったら大間違いです。日常の普通の言葉の中に滲み出てくるものこそ、本当の思想なのだと私は思います」と申し上げました。哲学や思想史の偉い先生は、そういったものを抽出して、抽象的な、あるいは普遍的な言語に置き換えているのです。そういう点では日本の文学作品はどの時代のものをとってみても、今に残っているものは立派に思想性を持っています。

 昔は、「あいつは思想家だ」と言う時は、あの人は危険人物だ、社会主義に染まっているらしいぞ、という意味になっていたそうです。でも、そのような時代から、もう五、六十年たったのだから抜け出さなければいけないのに、いまだに抜け出すことが出来ないでいるとしたら、それはわれわれの思想的怠慢だと私は思います。

 伝統を見直すこと、それから思想のあり方を外来思想という形ではなくて、無意識のうちに出てくる中にその人の思想があるということを認識する必要があります。その思想を指摘して、自覚して、それを把握し直すことによって、その作家の作品がより一層よくなるような役割を果たすのが、批評家の役割だと思います。折口信夫先生が『短歌が円寂する時』という論文の中で「歌に批評がない」と言っていますけれども、文学全体に本当の意味で詩人や歌人、作家を育てるような批評の行為が弱いのではないだろうか、ということを私も感じてしまうのです。

日本人の感性の再構築
 思想について、このように申して参りますと、なぜ感性と思想とはそんなふうに一致出来るのか、今までのパラダイムではそれは一致しないが、と思われる方も多いかと思います。ここでどうしてもぶつかってくるのが、「日本的なもの」とはいったいどういうものなのだろうということです。私は「日本的なもの」という表現に出会うと、少し警戒をするような世代に属しております。これは、「日本的なもの」という言い方で、本当の意味の「日本的なもの」を悪用した時代があったからで、「伝統」と同じことです。

 たとえば文学の伝統というと、雪月花とか花鳥諷詠と言います。あるいは、わび・さび。そして、京都のあるお寺の石はまことに幽玄であるというように言われます。確かにそれも素晴らしいものです。しかしそれは、日本の伝統の中のごく一部です。たとえば能の中に表現されている人間の葛藤、それが宗教的なものによって癒され、調和に近づいていく。これにはやはり、シェイクスピアも驚くような人間のドラマが描かれています。それはすでに十四、五世紀に世阿弥によって書かれています。そういうものを日本人はつくり出しているわけです。しかし、なぜか日本の伝統というと、人間の葛藤のドラマというようなものは捨ててしまう。近松でも西鶴でも伝統の中に数えない人が多いのです。

 戦争をも自然現象のごとく眺めて詠嘆する、それが日本の伝統だと無理に叩き込まれてきたという感じもします。それは、私は間違いだと思います。ですから先ほど申しましたように、本当の伝統を発掘すること、それから日本の文学にしまわれている思想を、もう一度自分たちの血管の中に流れている思想として取り出してみる作業が必要です。それは確かに人間の感性によって違って当然で、日本人の感性、それからモンゴルの人の感性、スラブの人の感性、それは違うと思います。遣わなければ国際交流などもあり得ないわけです。感性の一方が美意識にいき、もう一方が思想にいく。思想というのも、感性に根づいていない思想は実に弱いものなのだと私は思います。美意識は、感性から出る。これは誰でも、若者たちでもそう思うのですけれども、思想もまた感性に基づいてなければいけないのだということが、どうもわが国の場合は継ぎ方が間違ってしまったのではないか、という気がします。あるいは西欧の近代思想が知識として輸入されたことが原因なのでしょうか。

 そういうふうに、感性を元にして同じ根から思想と美意識が生まれていると考えますと、たとえば日本人の「水」についての感性は、極めて多彩、多様で、隅隅にまで行き渡っている。たとえば言葉でも、「瑞々しい」とか、「水も滴る」とか、「水くさい」、あるいは「水際立った」、「水を向ける」と、水に絡んだ表現がどれだけ豊富にあるかということに、改めて気づかされます。

 「風」もそうです。『風の辞典』を見ますと、千何百という風の呼び方がある。地方によって、それぞれの地形や風土によって異なりながら、いかに日本人が風というものと対立し、かつ親しんで長い生活の歴史を送ってきたかということがわかるわけですけれども、そういった自然との関係の結び方というものは、確かに違う。しかし、それがひとつは花鳥諷詠にもなるでしょうが、ひとつは人間対立のドラマにもなってくる。そういう点で、感性をもうひとつ見極めて再構築をする必要がある。これは言い換えれば、日常性に文学を立脚させるということでもあろうかと思います。

日本の文学の可能性――回定観念を打破
 ですからそういう点で、少し分析をし、かつ固定観念を外していきますと、私は日本の文学にも大変たくさんの豊かな将来性が見えてくるのではないだろうかと思います。偉そうなことを申しましたけれども、そういうことをこれから私たちはもちろんのこと、若い人たちにも考えてもらわなければならないと思っています。日本の文学は今が最低である。しかし、これから固定観念さえ取り払う作業を厭わないならば、無限の可能性が開けてくるのだということを、私はお伝えしておきたいと思います。

 ご清聴ありがとうございました。

(詩人・作家・東大・経・昭26)
(本稿は平成13年2月20日午餐会における講演の要旨であります)