「未来」をかえりみる  
坂本 義和(東京大学名誉教授) No.829(平成12年10月)号

 二〇世紀の終わりを迎え、「二一世紀」という言葉がいたるところで使われている。「ミレニアム」といった、日本ではなじみのない千年単位の暦年までが、国連の会議の呼び名になったこともあって、メディアに登場するようになった。

 こうした言葉の氾濫には、底の浅さが感じられるが、他面、時に歴史を長い射程で考えることにも意味があると思われる。とくに「二一世紀」という場合、もしそれが未来の歴史をイメージしており、過去と現在から自分を引き離して未来を表象するという行為だとすれば、それは、きわめて人間的な営みだと言っていいだろう。しかし、人間的ということは、本質的に不確かさを免れないということでもある。そして、未来を考える際の不確かさは、予測したことについても見られるが、より重要なのは、何を予測しなかったかということだろう。いくつか例をあげよう。

「未来学」の落とし穴

 一九六〇年代からしばらく、欧米先進国で、また日本でも、「未来学」が流行した。例えば米国では、一九六七年に、アメリカ文芸・科学アカデミーが『二〇〇〇年に向けて』という共同報告を公刊した。これは、その後七三年に『脱産業社会の到来』を著わしたダニエル・ベルを座長とし、マーガレット・ミード、デイヴィッド・リースマン、エリック・エリクソン、サミュエル・ハンティントンなど、錚々たるメンバーが寄稿している論文集である。そこでは、情報革命、生物学・医学などの進展、家族・都市・人口・社会・国際政治などの構造変化その他が論じられている。

 同じ一九六七年、日本では梅棹忠夫・加藤秀俊・小松左京など五氏の監修になる『未来学の提唱』や、香山健一『未来学入門』などが刊行された。前者は、さすがに広範な問題を論じているが、その基礎にあるのは、情報社会への急速な移行という文明史的な変動の意味を解読するために、過去の歴史とともに未来を考える必要があるという認識と、その場合、未来を「論理的科学的に研究」(小松)するのが「未来学」だという主張だと言っていいだろう。また後者は、核戦争、イデオロギーの終焉、豊かさと余暇、脱産業=高度知識社会、南北格差などの諸問題について、未来の展望を試みている。

 これら米国や日本での「未来学」的考察は、それぞれに興味ある洞察を含んでいる。だが、そこで論じられなかった重要な問題があった。それは環境破壊である。日本では一九六八年に日本未来学会が創設され、それが中心となって七〇年四月に京都で国際未来学会を開いたが、環境破壊は主要な論題とはならなかった。

 これは、驚くべきことである。というのは、すでに五六年には、水俣病患者が数多く発生し、五九年には、熊本大学医学部の研究班が原因究明を始め、六八年には、ようやく政府も水俣病を認定するまでになり、六九年には、第一次訴訟が起こされていた。また、五五年には、イタイイタイ病についての学会報告がなされ、六八年には、政府が公害病として認定するにいたっていた。五九年には、四日市の公害病が多数発生していた。そして、七〇年三月には、こうした日本の実態をふまえて、公害問題国際シンポジウムが、都留重人を中心に東京で開かれていたのだ。

 日本の、また欧米の「未来学者」は、六七年の時点で、なぜ環境破壊を看過あるいは軽視していたのだろうか。それはおそらく、「脱産業社会」という未来イメージにとらわれ、産業社会そのものの現在と未来である地球環境破壊を軽視したということだろう。だがそれは、単に認識が足りなかったということではないのであって、そこには二つの問題があったと思われる。

 一つは、先端科学技術や先端産業という、競争力をもった強者が先導する未来に関心を集中する半面で、産業公害の犠牲となった弱者の視点を欠落させるという、知識社会学的な問題である。もう一つは、そうした弱者が、もはや弱者として泣き寝入りするのではなく、声をあげ、市民的支持組識を獲得し、企業や国家の権力に対抗して行動するという、現代の市民社会とその未来が見落とされているという問題である。換言すれば、そこには「政治的パワーの未来学」として、二重の欠落があったと言っていいだろう。

 事実、その二年後の七二年には、環境問題にかんする未来認識を鋭く提示した、二つの出来事が起こった。一つは、ローマ・クラブのリポート『成長の限界』の刊行である。これは、東西あるいは南北を問わず、世界中が「高度成長」を善として追求していた六〇年代の発想に、強い衝撃を与えた。ただしその力点は、高度成長を続けた場合、地球資源の限界にぶつかり、破局を生じる危険があることを警告する点にあり、環境汚染の人間への影響は、二次的に言及されるのにとどまっている。つまり議論の焦点は、未来の資源の有限性にあるのであって、現在すでに発生している人間への危険性にはなかった。

 他方、もう一つのイベントである、ストックホルムで開かれた国連人間環境会議は、環境の汚染・破壊が人間に対してもつリスクを強調し、環境問題を「世界問題」として国際的に認定した。それだけではない。このように「人間」に力点を置くことは、国家だけでなく、市民を重視することを意味していた。そのことは、この会議で、政府間会議と並行して、NGOによる本格的な「カウンター・コンファレンス」が初めて開かれ、それが政府間会議にインパクトを与えるという方式が打ち出されたことに示されたのである。水俣病の患者も、これに参加した。周知のように、この方式は、その後、多くの国連主催世界会議を通じて、制度として定着していくことになった。

国連プロジェクトの盲点

 だが、こうした「未来学」の落とし穴は、私にとっても他人事ではなくなった。というのは、私は七二年から二年間、ニューヨークの国連機関で未来予測のプロジェクト・チームに参加することになったからである。「国連の未来」というこのプロジェクトは、七一年に任期を終えたウ・タント前事務総長の意向によるものだった。つまりウ・タント氏は、「国連は、問題が起こってから事後的に対応するのが通例だが、問題をよりよく解決するには、将来国連が当面するであろう問題を先取りして取り組むことが必要だ」と考えたのである。

 そこで私は、世界的な影響をもつと考えられる将来の「世界問題」を、①エコロジー問題群、②デモグラフィー問題群、③経済発展問題群、④情報・コミュニケーション問題群、⑤ヒューマン・ディベロップメント問題群(疎外、差別、家族崩壊、麻薬、余暇など)、⑥平和安全問題群の六分野に整理し、それらについて同僚と議論をしながら、国連が今から準備すべき対応を考える作業を進めた。情報技術革命や遺伝子工学といった、今日議論の焦点になっている問題も、このチェックリストに織り込みずみだったのであり、その意味で、問題予測としては、いい線を行っていた。

 ところが、私たちの予測しなかった事態が、作業の最中に起こった。それは、七三年十月の第四次中東戦争と、その当事国エジプト・シリアを支援してアラブ産油国が行った石油の価格引き上げと減産であり、またこの石油戦略が引き起こした、世界的な「石油ショック」である。

 その上、これに続いて七四年、産油国だけでなく途上国が歩調を揃え、国連で「資源に対する主権」を主張して「新国際経済秩序(NIEO)」を打ち出した。たまたま現場にいた私にとって、この時の途上国の意気軒昂たる盛り上がりは、予想をはるかに超えたものだった。この「資源総会」でアルジェリア代表が、「途上国は石油に続け」と、その他の資源を挺子にした団結と、先進国への圧力強化を訴え、途上国の熱気にあふれた喝采を博したのだった。

 この第四次中東戦争と「新国際経済秩序」との結合は、私の予測には入っていなかったのであり、この事件を契機に、私は「未来予測」について、すっかり自信を失ってしまい、それ以後は、未来の予測はなるべく公言しないことにした。そこには、二つの反省があった。一つは、政治とくに国際政治の予測は、きわめて難しいということである。もう一つは、イスラエルを含む「北」に対して、弱者の立場に置かれた途上国が、ちょうど団結した労働者の運動のように圧力を行使できる可能性を、私は軽視していたということである。

 新国際経済秩序は、「南」の側の国際的・国内的な格差と対立、「北」の側での不況などのために、その後、当初のインパクトを減じたが、OPECを軸とする資源ナショナリズムの潜在的圧力は、今日も消えてはいない。「未来予測」は、人口圧力を除けば、変動の先端的推進力である「北」の強者の視点に立ち、それ以外の弱者の目線とパワーを軽視しがちであることを、私は、この時の失敗で痛感したのである。

非歴史的な歴史予測

 だが、その後、こうした一部の研究者だけでなく、ほとんど世界全体が未来予測に失敗するという出来事が起こった。冷戦の終結である。

 冷戦の終結について、世界の政治家や国際政治学者で予測した人は、皆無に近かった。なぜ、そうだったのか。その一つの答えを示しているのが、八〇年代、ヨーロッパでの反核運動(END)で中心的な役割を演じたイギリスの学者、E・P・トムソンとメアリ・カルドアである。

 カルドアによれば、冷戦研究に従事していた、おびただしいシンクタンクや大学の学者、あるいは政治家やそのブレーンが、冷戦の終焉を予測できなかったのは、観察の対象を誤っていたからなのだ。つまり、彼らは国家に焦点を置き、その底辺で市民の行動や運動によって引き起こされていた変化に目を閉じていたのである。また、トムソンは、すでに八二年の著書『冷戦を超えて』の中で、国家間ではなく、国を異にする東西の市民の間で現に進行している接近を指摘し、冷戦の終結を予測してこう述べている。
「そこで起こるのは、氷河がゆっくりと溶けていくような十年単位のデタントではなく、急速で予測不能な変動である。国々を結びつけていた同盟は解体され、国内では先鋭な対立が生じ、次々と危機が訪れるだろう。われわれは、冷戦という地図をたたんで、しばらくは地図なしで漂流することになるだろう。」

 冷戦終結の過程については、多くの研究が出つつあるが、大局的に見て、東欧での下からの民主化運動と、それを容認しつつソ連でゴルバチョフが進めた上からの民主化政策との組み合わせが、主体的な変革の要因となったと言っていいだろう。八〇年から始まったポーランドの「連帯」は、労働者の運動であるがゆえに根深い変革の素地を作った。東欧での市民の反核運動は、「反核・平和」という共産党政権も否定しにくい目標を掲げながら、市民の自発的行動の組織化という意味で、「民主化」運動の機能をも果たした。そして、当時行われた中距離・戦域核ミサイルの配備は、東西ヨーロッパ共滅の危機意識とともに、「ヨーロッパは一つ」という意識を、壁を超えて生み出した。これらが、市民の手と足による、ベルリンの壁の崩壊へとつながったのだ。

 ここにもまた、冷戦時代の「未来予測」が、弱者である市民に着目せず、したがって市民のもつ「弱者のパワー」を見落としていたという問題があったのである。

 終わりに、あえて予測をすれば、二一世紀の「未来予測」は、その轍を踏んだのでは成り立たないに違いない。

(東京大学名誉教授・東大・法・昭26)