反物質の謎
小林 誠
(文部省高エネルギー加速器研究機構教授)
No.824(平成11年7月)号

 筑波研究学園都市の高エネルギー加速器研究機構において、Bファクトリーと呼ばれる加速器が完成した。この文章が掲載される頃には、Bファクトリーを使った本格的な実験が始まっているであろう。実験の最大の目的は「CP対称性の破れ」と呼ばれるものの検証であるが、これは自然界の大きな謎の一つである反物質の問題と深く関わっている。

 イギリスの物理学者ディラックが、1930年頃、粒子には対となる反粒子というものが存在すると言いだしたのが、そもそものことの起こりである。反粒子は粒子と質量が等しく、電荷の符号が反対という性質を持つ。

 われわれの身の回りの物質は電子と、原子核を構成する陽子および中性子からできていると考えると、ディラックの主張は、電子の反粒子である陽電子、陽子に対する反陽子、中性子に対する反中性子がそれぞれ存在するというのである(電子の場合だけ反電子とは言わない)。陽電子と反陽子と反中性子からは反電子が作られ、反原子が集まれば、反物質ができる。反原子だけからできた反人間も、少なくとも原理的には存在しうることになるのである。

 ディラックの説が登場して間もない1932年に、米国のアンダーソンが宇宙線による反応の中に陽電子を発見し、反粒子の存在は実験的にも確認された。その後の理論、実験両面からの研究の結果、反粒子の存在は素粒子のもっとも基本的な性質の一つとして揺るぎないものになっている。しかし、地球上のどこかに反物質の鉱山が見つかったとか、いつか反人間に出会う可能性があるとかいうわけではない。それどころか、われわれの目の届く範囲の宇宙空間のどこにも、安定な反物質というものはまったく存在しないと言ってよいのである。

 それではわれわれは、どのようにして反粒子を手にすることができるのであろうか。そのためには素粒子の生成・消滅ということを少し理解しておく必要がある。質量もエネルギーの一形態であることは、相対性理論の帰結としてよく知られたことである。これはエネルギーが非常に大きな反応では、そのエネルギーを質量に転化して、新しい粒子を生成することが可能であることを意味する。粒子を生成するのに必要なエネルギーは、有名なアインシュタインの関係式、E=mc2で決まるが、軽い素粒子の代表である電子の場合でも、その質量のエネルギーは、常温で飛び交う粒子の運動エネルギーの数千万倍に達する。このため日常的な現象の中では粒子の生成・消滅が問題となることはまれで、原子などは不変、不滅の存在と見えるのである。

 反粒子に話を戻そう。反粒子は素粒子同士を高エネルギーで衝突させて、その運動のエネルギーを質量に転化させて生成する。その際、通常、反粒子は粒子と対になって生成される。例えば、ガンマ線(高エネルギーの光子)を物質に当てると、もともと物質中にあった電子とは別に、電子と陽電子の対が生成される。アンダーソンが見つけた陽電子も、宇宙線という天然の加速器で加速された素粒子が引き起こした反応で対生成されたものである。

 逆に、反粒子が粒子と出会うと対になって消滅する。たとえば陽電子は電子と出会うと一緒になって消滅する。消滅してそのエネルギーは光子となって運び去られる。質量のエネルギーが転化するので、発生する光子のエネルギーは非常に大きい。脳の研究などで使われているPET(陽電子放射断層撮影法)はこの反応を利用したものである。

 ここで、われわれの住む宇宙の成り立ちを考えてみよう。粒子と反粒子は鏡に映したように対称な存在であるにもかかわらず、見渡す限りの宇宙は、粒子からできた物質で満たされており、反物質は見あたらない。これはいったい何故なのであろうか。

 この疑問は宇宙の進化ということを考えると、もっと鮮明なものとなる。宇宙は大爆発で始まったとするビッグバン理論はよく知られている。宇宙の始まりについてはなお諸説入り乱れているが、極めて高温・高密度であった宇宙が、膨張とともに冷えて今日の姿になったというのは確かと考えてよいであろう。

 温度が高いということは飛び交う粒子のエネルギーが大きいことを意味する。いまこのエネルギーが、粒子・反粒子の対を生成するのに十分なほど高温であった時の宇宙を考えると、対生成が頻繁に起こり、宇宙空間は無数の粒子と反粒子で満たされていたはずである。膨張とともに温度が下がると、粒子と反粒子は互いに相手を見つけて対消滅を繰り返す。その結果、相手に遭遇することなく対消滅を免れたものだけが生き残り、天体などその後の宇宙空間の物体の材料となる。

 従って、われわれの身の回りの物体がすべて粒子だけからできているという事実は、宇宙が高温で無数の粒子と反粒子が存在していたとき、すでに粒子の方がほんのわずかばかり多かったことを意味する。結局、問題は、このほんのわずかの粒子と反粒子の数の差がどのようにして用意されたのかということになる。

 この疑問に対するもっとも魅力的な考え方は、宇宙の誕生直後には粒子も反粒子も同数だけあったが、粒子と反粒子の性質のわずかな違いのため、宇宙進化のいずれかの過程で、粒子の方が少しだけ多くなったとするものである。この粒子と反粒子の性質の違いが、CP対称性の破れと呼ばれるものである。Cはチャージに由来し、Pはパリティを表すが、なぜこう呼ばれるか、詳しいことはここでは省略する。

 CP対称性の話に進む前に、一言、注意が必要であろう。もし粒子と反粒子が対生成と対消滅しかないとするならば、いくら粒子と反粒子の性質に違いがあっても、粒子の数と反粒子の数の差が変化することはあり得ない。従って、このシナリオが成立するためには、対生成・対消滅以外の反応が存在しなければならない。これはこれで素粒子物理の大変興味深いテーマの一つとなっているが、これについてもここでは深入りしない。

 CP対称性の破れに戻ろう。粒子と反粒子では、電荷の符号が反対であるとか、ある種の相互作用が左右逆転しているといった違いがある。しかしそれらは見かけ上の違いということができて、本質的な違いではない。素粒子のレベルで見る限り、粒子と反粒子はほとんどあらゆる点で、対等な存在である。実際、1960年代の半ばまでは厳密に対等な存在であると信じられていた。

 ところが、1964年にこれを覆す事実が発見された。中性K中間子と呼ばれる素粒子の崩壊の中に、CP対称性が破れている、すなわち粒子と反粒子が対等とは見なせない現象が見つかったのである。この発見から35年が経とうとしている。中性K中間子の実験は繰り返し行われて、実験結果の精度は飛躍的に向上したが、驚くべきことに、他の素粒子ではCP対称性の破れを示す実験事実がまったく無いのである。

 宇宙の粒子数の優位も、素過程である素粒子レベルの、個個の反応におけるCP対称性の破れの結果、生ずるものである。それでは中性K中間子の反応のCP対称性の破れから、宇宙の問題が説明できるかというと、残念ながら、これだけからは説明できない。しかしながら、粒子と反粒子の間のきわめて基本的な対称性が少なくとも、一ヵ所では破れているという事実は、宇宙の問題に対する考え方が見当違いのものではないことを示していると言ってよいであろう。いずれにしてもCP対称性の破れの全貌を解明することが期待されているのである。

 ところで、中性K中間子のCP対称性の破れの現象に対しては、素粒子の標準理論と呼ばれるもので一応の説明が与えられている。従って、さしあたっての急務は、この標準理論による説明が正しいかどうかを検証することである。ちなみに、標準理論におけるCP対称性の破れの機構は、1973年に益川敏英氏(現京都大学基礎物理学研究所所長)と筆者によって提唱されたものである。

 標準理論によると、B中間子と呼ばれる素粒子の崩壊現象で、比較的大きな粒子と反粒子の非対称性が見られると予言されている。そこで、B中間子を大量に作って、この非対象性を測ろうというのが、冒頭で述べたBファクトリーの実験である。Bファクトリーとは、工場のようにB中間子を大量に作る加速器といった意味である。

 こうした実験を通じて、B中間子系でCP対称性の破れが見つかれば、そしてまた、標準理論による説明が正しいことが分かれば、われわれのCP対称性の破れに対する理解は大きく前進することになる。しかし、宇宙はなぜ物質からできているかという問題に最終的に答えるにはまだ不十分であろう。宇宙の謎を解く鍵はまだミクロの世界の中に秘められているのである。

  (文部省高エネルギー加速器研究機構教授・名大・理博・理・昭42)