日本中世の庶民生活
網野 善彦
(神奈川大学特任教授・日本常民文化研究所所員)
No.819(平成10年4月)号

日本国の出現
 現代の日本人及び日本国が、どのような歴史的経緯を経て形成されてきたのかを追究することは、われわれ自身の自己認識を明確にするために必要なことであろうと思います。それは同時に、歴史的経緯そのものに否応なしに規定された現代日本の抱えている諸問題に、どう対処すべきかの的確な判断の根拠を提供することにも繋がると思います。ところが、われわれ日本人は、日本社会の歴史をかなり曖昧に認識してきたが故に、自己認識を非常に不鮮明なものにしてきたのではないか、つまり、われわれが日本人の歴史の全体像を考える場合、通念とされていたことが、実はあまり根拠がないことも多いのではないだろうか、と最近の研究で気付くことが多々出てきました。その中で大きく分けて3つほど、これまでの常識の根本的な前提となっている観点を採り上げ、その誤りを指摘し、発想の転換を図っても良いのではないか、というお話をしたいと思います。

 その1つは、そもそも「日本」という自国の名前が、いつ、誰によって、どのような意味で、決められたのかということです。日本の歴史的な実在が天孫降臨や神武東征の神話で始まるとは、もとより誰しも考えてはいないでしょうが、では、「日本」という国号がいつ決まったかについて正確に答えられる日本人がどのぐらいいるでしょうか。ここ10年ほど私は、試みに短期大学の学生100人ほどに毎年、「日本という国名は何世紀に決まったと思うか」と質問してきましたが、誰も正確には答えられませんでした。また京都大学の経済学部でも100人ほどの学生を相手に手を挙げさせましたが、どの世紀にも手が挙がり、多数派はありませんでした。また、昨年、50人ほどの、いわゆるキャリア組と呼ばれる国家公務員の研修会で質問してみました。優秀とされる彼らの答えも「11世紀」「15世紀」、何故か「19世紀」という答えもあって、正解はなかったのです。

  これは、多少学説が分かれるところですが、多くの学者の見解では「7世紀末」が正解ということになっています。制度的には、おそらく大王天武が着手し、689年(持統天皇3年6月29日)に持統天皇によって施行された本格的な体系的法律、飛鳥浄御原令で、「天皇」の称号と同じときに国名も「日本」と公式に定まったとされています。その国名が初めて外国に対して用いられたのは、702年、中国大陸に派遣された遣唐使―といっても、当時は唐ではなく周という国名―が、女帝則天武后の前で、それまで「倭」の使と称していたのを、初めて「日本」の使者といったときで、建前上は朝貢に準ずる立場にあるヤマトからの使者が、それまでの「倭」から「日本」に突如国名を改めたことに対して、則天武后はかなり厳しく詰問したようです。それに対して使者が「倭」は字が悪いとか、「倭」は日本とは違う国だなどと、いろいろ弁明したらしいことが『旧唐書』の記事から推測できます。ともあれ初めて「日本」という国名が国際的に通用し、以後、中国大陸の史書もそれまでの「倭国伝」「倭人伝」を「日本伝」と改めています。

  国名を「倭」から「日本」に変えた時のヤマトの指導者の緊張感は大変なものだったと想像されます。しかしそのことや則天武后の詰問に遇った遣唐使たちの心境はもとより、「日本」という国名がいつ決まったかということさえ、われわれは気が付くことなしにこれまで過ごしてきたといわざるを得ません。私も長年教壇に立っていながら、「倭」と「日本」とはどう違うのか、その歴史的背景も最近まで教えてきませんでした。われわれはこれまで、「縄文時代の日本」とか「弥生時代の日本人」という表現を何の違和感もなく用いており、何万年も前から「日本人」や「日本」が存在したものとぼんやり考えてきました。しかし、弥生時代には「日本」は存在していない筈だし、「倭人」はいたとしても、これは必ずしも「日本人」と同じとはいえません。関東人も「倭人」ではないかも知れませんし、東北人は確実に「倭人」ではないと考えられますから、「倭人」=「日本人」というわけにはいかないのです。これは、日本人の歴史認識の根底にある最も怪しげな部分であり、「日本」は神話から始まるという、あの戦争中の歴史観と同じ過ちに陥ってしまいかねないところがあります。そういう意味で、歴史家の責任は極めて重大だと私は自戒しています。 裏返していえば、「日本」は人の決めた国名なのですから、主権在民のわれわれが変えようと思えばいつでも変えられるのです。そのように「日本」という国名が消えることも起こり得るという意識を持たずして、どうして国を愛せるのか、ともいえます。以前、NHKで同じことを話したところ、右翼の方からNHKに批判が寄せられたと聞きましたが、実は非常に興味深いことに、幕末のころの最も国粋主義的な神道家が、この国の名前は大嫌いだと発言している。なぜなら、「日本」というのは「日の出るところ」という意味で、どこから見て日が出るかとなれば、中国大陸から見てと考えざるを得ない。従って、「日本」は「唐人」を異常に意識した国の名前なので、大嫌いだという論法です。藤田東湖の父親の藤田幽谷が「まあまあ、そういうな」となだめる一幕もあったようです。このようにわれわれのこれまでの「日本史」は、日本列島に生活してきた人類を最初から日本人の祖先と捉え、そこから「日本の歴史」を説き起こしてきました。しかし、日本が初めて歴史的実在となるのは、国名を「日本」と定めた七世紀末以降であるという事実を本当の意味で理解することが第1に必要だと私は考えています。

大陸の北と南を結ぶ日本列島
 第2の問題は、われわれ日本人が、「日本」という国が孤立した島国であると思い込んでいることです。孤立した島国に長年住んでいるから、日本人は島国根性から抜け出せないというマイナス面にせよ、逆に島国であるが故に周りの国からの影響を受けずに、独特の文化を育てられたとするプラス面にせよ、「孤立した島国」という考え方は、意外に日本人のすべてに刷り込まれた見方だと思います。私自身もごく最近までそう考えていましたので、偉そうなことはいえませんが、日本列島の地図を何の成心もなく眺めていて、この見方の誤りにはっきりと気付きました。

  日本列島を上にした地図を見ると、サハリンまで含めた列島は、アジア大陸の北から南に架かった架け橋のようで、日本海、東シナ海はまるで湖のごとくに見えてきます。確かにサハリンとアジア大陸の間は、結氷すれば人が渡れるほど極めて近いのです。実は、モンゴルが13世紀に西から攻めてきたのと同じころ、この北の道を通ってモンゴル軍がサハリンに4回も侵入している事実に、われわれ歴史家は最近気が付きました。つまり、これまではこの日本列島を、せいぜい西の朝鮮半島や中国大陸の文化の影響を受けている孤立した地域としてしか考えていなかったのですが、最近の考古学の発掘成果によると、この日本列島には、北からも西からも南からも、絶えず人と物が出入りし、動いていたことが分かってきて、周囲より切り離されて孤立した島国と考えることはまったく無理だということが明らかになってきました。それなのに、どうしてわれわれは孤立した「島国」と思い込んだのでしょうか。しかもこうした思い込みが、われわれ自身の歴史に対する見方を、これまでいろいろな意味で大きく規定してきたのですから、ことは重大です。

  こうした認識の源流は、江戸時代以前にも遡れるところがありますが、基本的には明治以後、欧米列強の圧力の中で、北海道から沖縄までの領土を1つにまとめて国民国家をつくらなくてはならない、という課題を背負った明治国家のリーダーたちがつくり出した、「虚像」といわざるを得ません。海は国防の最も大事な場所と、私は子供のころから教えられてきました。確かに海は国と国、人と人とを隔てる役割を持っています。しかし反面、静かな海は実に素晴らしい交通路で、人と物は絶えずその海を通って交流していたのです。従って、周辺諸地域との海を通じた切り離しがたい密接な関係をおさえきることなど、少なくとも近代以前の国家には到底、不可能なことでした。現代のような時代でも摘発を逃れて密入国してくる人たちの実態をみれば、それは明らかなことでしょう。にもかかわらず、「孤立した島国」として日本を捉える考え方が、われわれの頭の中に極めて根深く刷り込まれています。しかしこうした虚像にいつまでも縛られていることは、これからのわれわれの未来を考える上で大変マイナスになるのではないでしょうか。日本列島、さらに古く遡れば、アジア大陸の東に、大きな湖を抱いて海に接する長大な陸橋に生活し始めて以来の人類社会の歩みを明らかにすることは、大変大きな意義のあることだと思います。

「百姓」の実像
 3つ目の問題は、日本が果たして農業社会であったのかということで、これは、きょうお話し申し上げようと思っている主なテーマです。この「孤立した島国の日本」は、弥生時代から産業革命が行われる近代まで、稲作を中心とした農業社会であったという考え方は、極めて一般的なイメージといってよいと思います。なぜならば、近世も中世も人口の圧倒的部分が農民によって構成された社会で、大名、封建領主の農民に対する支配が、社会の基本的な関係であったとするのが、常識だったからです。現にわれわれは1945年(昭和20)の敗戦までの地主制を封建制の名残りと捉えてきました。

  私の専門は中世で、主として鎌倉・南北朝時代、せいぜい戦国時代までしか研究しておりませんでしたが、たまたま神奈川大学日本常民文化研究所の仕事で江戸時代や明治期の文書を調べるようになり、その調査の過程で意外なことに気が付きました。そして、1997年3月、日本は近代になってからも人口の圧倒的多数は農民だった、と私も信じていた従来の定説を根底から覆すような事実にぶつかりました。

  瀬戸内海に、田畠が10町足らずしかない 二神島 [ ふたがみじま ] (愛媛県)という小さな島があります。住民は専ら海を舞台とした生活をしており、海辺に家が密集して建ち並ぶ典型的な海村の島で、明治の初年、130戸の家があったことが分かっています。その島に村上水軍の流れをくみ、江戸時代中期以来、大分から大阪にかけての瀬戸内海全域で生魚の商売をしていた村上家があり、そのお宅の古文書を調べに伺ったのです。そのほとんどが仕切や帳簿類だったのですが、その中に、一冊だけ壬申戸籍の草稿が残されていました。壬申戸籍は1872年(明治5)に明治政府が最初につくった本格的な統一的戸籍簿で、いわゆる被差別部落の身分まで記されているため、法務局の管轄下におかれ、現在では歴史家も見ることのできない史料なのです。

  しかしこれは、島で調査してつくり上げた原稿で、それを清書して提出した後に、原稿本を村上家でたまたま保管していたのですから、非常に興味深く見始めたのですが、この村上家の戸主の頭に「農」と記されていたのです。不思議に思ってお尋ねしたところ、「少しは田畠を持っていたかもしれないが、ご覧の通り商売が中心」というお答えなので、改めてその戸籍に記載されている130軒を一つ残らず調べてみましたところ、寺院1軒と書き落としの1軒を除いてすべてに「農」と書いてあったのです。

  明治初年に島で生活をしていた、1軒平均5、6畝しか田畠を持っていない129軒の全部が、農業を中心にしていたとは到底考えられません。島の人びとの生活は、主として海での漁撈や船を使っての商業、運送業などに支えられていたわけで、厳密には「漁業」あるいは「商業」と書くべきであり、村上家はまぎれもなく商業であるのに、「農」にされていたのです。もし私が研究室でこの帳簿をみたとすると、二神島は農業が発達した島だなと思ったに相違ありません。もちろん明治政府も壬申戸籍の報告だけで当時の人民の生業を把握したわけではないと思われますが、ここには重大な問題が潜んでいると思います。壬申戸籍については、現在なお門外不出の史料のため、簡単に検証できないのですが、これは二神島に止まらず、全国に及ぶことは確実だと思います。二神島と同様、瀬戸内海には、田畠がたくさんある島はほとんどありませんし、紀伊半島や能登半島などの半島も、地形的に見て耕地はそれほど多くはありません。日本列島各地にこうした地形の村が非常に多数あるとすれば、海や山に依存しながら商工業にも従事して生活をしている人びとのすべてが、戸籍上は「農」と表記されていた可能性が大きいと思います。とすると、もしかしたら明治以降の為政者たちもまた日本は全くの農業社会だと思い込んでいたのではないかという疑いが出てきました。考えてみると、戦後の農地改革でも対象は農地だけで、山林は完全に見落とされていましたし、実際、私も近代の経済史を学ぶに当たっては、日本の社会は基本的に農業社会と捉えて勉強していたわけで、これはかなり重大な誤認をしていたのではないかと思うようになりました。

  なぜこのような記載が行われたかと考えてみると、江戸時代に「百姓」とされていた人びとが、おそらくすべて「農」とされてしまったのではないかと思われます。試みに研究所にある1882年(明治15)の伊豆国白浜の戸籍を調べてみたところ、二神島よりも大分戸数の多い村ですが、やはりすべてが「農」になっていました。ここも典型的な海村ですから、「百姓」をすべて「農」と記したことは十分考えられます。尤も、百姓は農民だからなんの不思議もない、と思う方もおられるかも知れません。斯く言う私も、20年近く前に出版された岩波新書『日本中世の民衆像』の中で、「近世以降、『百姓』といえば『お百姓さん』という言葉からもわかりますように、それ自体農民をさす語になっています。しかし、中世以前の社会のなかで『百姓』といわれた人びとは、決して農民だけではありません。」と、疑問を持ちながらも曖昧な表現をしており、この思い違いに気が付いたのは10年ほど前のことなのです。

  例えば、71パーセントが水呑百姓。残りの29パーセントの百姓が持っている田畠は平均2反から3反という村があるとします。これまでの常識では、水呑百姓は貧しい農民ということになりますので、この村は大変貧しい村だということになります。しかも、5反百姓が初めて百姓として成り立ち得るのであり、5反以下になっては潰れ百姓になるから、それを承知で田を分ける愚行を「たわけ」というのだ、と私はこれまで高校生に教えてきました。しかしこれはどうもウソを教えていたことになってしまったようなのです。

  いま申し上げたのは、奥能登最大の都市・輪島の人口構成です。なぜ、71パーセントもの大量の家が水呑になっているのかというと、年貢、税金を払う根拠になるだけの土地を持っていない家を、そのように呼んでいたからなのです。しかし、輪島の水呑の中には、確かに土地持ちではありませんが、大変な大商人であったり、漆器の職人、あるいは大船を持って松前まで商売に出向くような廻船業の大富豪がおり、この水呑は土地が持てないのではなく、持つ必要が全くない人たちだったのです。輪島は中世から続いた大きな都市ですが、江戸幕府の制度では、城下町を除いてほとんどの都市をすべて村にしてしまいました。瀬戸内海の倉敷も大きな都市ですが、江戸時代は水呑の非常に多い村でした。また輪島の2、3反しか持っていない百姓の中に町の有力な商人、金持ちが含まれていることも分かっており、百姓、水呑はあくまで身分上の用語であって、決して職業を指している言葉でなかったことは明らかです。従って、江戸時代でも「百姓」= 農民という捉え方は完全な誤りで、「百姓」の中には、非農業的生業、例えば商業、廻船業、手工業、漁業、塩業、林業等を主として営む人びとが多数含まれていたのです。

  そう考えると、江戸時代の人口構成の中で農民が果たしてどの程度の比重を持っていたかについて、私はこれまで考えられてきたよりもずっと低いと思っています。たしかに江戸時代には百姓の下に農人、船持、髪結、桶結、宿屋、商人など、職業別の区分がはっきり残されていたのですが、それだけをみると、やはり農人の比重が大きいのです。ところが農人の中には、生活のかなりの比重を養蚕や綿作、煙草や茶、炭焼や製塩などの生業においていた人たちもいたのに、これらの仕事はすべて農業の間の稼ぎ―「農間稼(のうまかせぎ)」という表現で捉えられているのです。現在でも「養蚕農家」とか「果樹農家」などのように農家と呼ばれていますが、中世では養蚕・果樹栽培と農業とは厳密に区別されていました。これは当然で、田畠を耕すのと、桑を育て蚕を飼い、絹をつくる技術体系、あるいは果樹を育てる技術は、全く違うのですから、養蚕業、果樹栽培等は自立した生業になっていてもいい筈です。ところが中世と違って江戸時代になると、そういう生業はすべて農人の「農間稼」中に取り込まれ、農業の「副業」という形式にされていますから、農人の比重はかなり高くなっています。

  百姓の中の農人の比重は60~70パーセントになるかもしれません。しかし、その実態を詳しく調べてみますと、むしろ養蚕や綿作を主な生業としている場合がたくさん検出できます。また、1年のうちの半ば以上を海で暮らし、村に帰ってきたごくわずかの期間だけ田畠をちょっと耕して、また海に戻るような生活をしている人も百姓で、海の生業は「農間稼」とされているのです。ですから農業の比重は厳密にみるともっと低く、私は江戸時代でも50パーセントに達していないのではないかと考えています。

  そもそも「百姓」という言葉は、古代から用いられ始めたと思われますが、船頭を業としている百姓や塩を焼くことを以て業となすといわれる百姓などが史料に現れますので、百姓は決して農民だけではなかったことが確認できます。しかし古代の国家は田地を制度の基礎にしており、6歳以上の男女のすべてに一定の比率で田を与える班田収授法を本気で実行しようとしています。ところが人口に比例して田地の絶対量が大幅に不足であるにもかかわらず、この制度をゴリ押ししたため至るところで摩擦を引き起こし、自殺する官僚も出る始末でした。そこで足りなければ開墾すればよいということになり、最近、その屋敷の跡が発掘されて話題となった長屋王は、良田百万町歩の開墾を計画し、国家機構を動かして本気で実行し始めたものの、この開墾計画が如何に無茶なものであるかにすぐ気付いて、1年で方針を転換させてしまいます。つまり、新たに灌漑用水路を開発して開墾すれば、本人から3代にわたってその土地を保有できるとする三世一身の法に切り換えます。そしてやがて新たに開墾した田地の私有を認める墾田永年私財法へと政策の大転換が行われていくことになります。

  しかし長屋王が8世紀初期に目標として掲げた百万町歩の水田の開墾が現実になるのは、16世紀ごろではないかといわれておりますので、長屋王の時代、いかに水田が足りなかったかがよく分かります。それほど不足しているにもかかわらず、この国家が本気で実施しようとした班田収授法により、人民のすべてが水田を与えられたとして「班田農民」という用語が学術用語として学界に定着してしまったのです。いまは古代史家たちも、この用語をあまり使いませんが、教科書には依然として使われているのが現状です。

  古代は史料が少ないので、製塩を業とする百姓や、船の梶取をしている百姓などの事例はあるとはいえ、多くを挙げられませんが、幸い中世になると史料が割合に豊富になるので、古代に比べれば百姓=農民ではないという証明も直ちにできます。もちろん古代の塩焼や漁業を専ら生業としている人などの流れをくむ人びともたくさん確認できますので、中世の百姓=庶民、普通の人と言い換えてもよいのではないかと思い、今回のようなテーマに掲げた次第です。

年貢の性格
 年貢は、中世の百姓に課せられた最も基本的な租税負担ですが、現在でもまだ年貢は米で納めると記述している教科書が残っているぐらい、米納が常識になっています。たしかに江戸時代の年貢は基本的には米(金・銀納の場合もあります)ですが、われわれはいままで、この「常識」に縛られて、中世でも年貢は米であると疑うことなく信じてきました。私自身も30年ほど前に高校の日本史教育でそう教えてしまい、20年ほど前に『日本中世の民衆像』(岩波新書)でそれを訂正しました。

  文永10年(1273)6月4日、「 阿弖河 [ あてがわ ] 上莊田代檢注目録案」を見ると、「所當御年貢絹拾 [ (六) ] [ (五) ] [ (八) ] 尺伍寸」と書いてあります。阿弖河上荘は、紀伊国の有田川の上流の山の中の荘園で、「ミミヲキリ、ハナヲソギ」という脅迫をされた百姓が地頭を糾弾したカタカナの申状が残っていることで有名な荘園です。その「所當御年貢」は絹だったのです。この検注目録によって年貢の賦課される田地がどのように決められたかを見ますと、「田代」―田地になり得る土地から、荒れた田地や不作の田地を除き、耕作された21町余からさらに荘内の寺院や神社を維持するための田地、地頭、公文、追補使といった荘官たちの給与になる田地を除き、年貢の賦課される田地が11町3段60歩に確定され、それに「所當絹」―絹が年貢として課されているのです。また、備中国新見荘の文永8年(1271)7月の文書、惣検作田目録によれば、本田分から、仏神田、人給など、いろいろな田地を順次除いた残りの定田は44町4段15代とありますが、その内の吉野村田5町4段30代の年貢は、「分鐡二百七十三両 段別五両」とあり、田地に鉄が賦課されています。ここに、われわれの大きな勘違いの原因がありました。

 田地から収穫できるのは米に決まっていますから、年貢は米だと思い込んでしまったのです。しかしここまではっきり分かる史料が出てきましたので、田地に対して賦課されているのは米だけでなく、きわめて多様な物品が年貢になっていたことが、はっきりと認識できたのです。その上で改めて日本全国の荘園・公領で年貢の分かる事例をできるだけチェックしてみたところ、わずかな例外はありますが、基本的に田地に年貢が賦課されているのは全国共通しています。しかし、年貢として米が徴収されているのは、じつは少数派なのです。尾張、美濃、飛騨から東の国々、東国では、米を年貢として納めている荘園・公領は、少ない例外はありますが、ほとんどありません。絹、綿(真綿)、糸、麻の布といった繊維製品の類が圧倒的で、金の産地・奥州では、田地に金が賦課されています。1反別に馬何分の1頭という割合で馬が年貢になっているところも陸奥には見られます。

  西国でも、瀬戸内海の島は基本的には塩が年貢となっています。伊予国弓削島荘の史料によると、「弓削嶋當年御年貢大俵塩送文事」として文永11年(1274)7月25日に大俵塩165俵が東寺に送られていることが分かります。弓削島は田地と畠地に塩が賦課されており、米は年貢になっていません。 こうした事例は至るところにあり、品目だけ挙げてみると、但馬国の荘園はどこもみな紙を年貢にしており、中国・四国の山よりの荘園では材木や榑という製材した木材も年貢になっています。「 合子 [ ごうし ] 」という木でつくった蓋物が1反別50枚、賦課されているケースも伯耆国で見られます。こうした米以外の物品をどのようにして田地から徴収していたのかは簡単には分かりませんでしたが、弓削島荘の年貢に関する貴重な史料が京都の東寺で発見されました。いわゆる「蒙古襲来」の5年前、文永6年(1269)に弓削島荘に下ってきた東寺の使いは、収穫した米や麦を百姓に改めて渡す形を取っています。これを「塩手米」「塩手麦」といい、田畠から採れた米や麦をこのようにして百姓に渡す代わりに、翌年の夏に塩が焼き上がったときにはその米・麦に相当する塩を必ず納めるという約束をした証文を百姓から取っていたのです。その証文によると、代官は3斗5升の塩手米を渡して、その代わりに4石の塩を納めさせることにしています。そしてもし、納期までに納められなかった場合、百姓は、自分の14歳になる娘を 身代 [ みのしろ ] として差し出す約束をしており、その身代がたとえアジールである権門勢家の領地に逃げ込んでも捕えられ、どのような処罰をされようとも一切文句はいわない、という厳しい契約を取り交わしているのです。こういう「塩手米」「塩手麦」が百姓の手元に残され、焼き上げられた塩が年貢として荘園の支配者、領家や地頭に納められるのです。つまり、事実上、米や麦と塩との交換が行われており、塩の値段や米の値段が換算されて、年貢の徴収が行われているわけです。また、百姓が米を渡す代わりに、塩を銭に換えて納める「銭手米」もあり、13世紀後半にはこのような百姓の市庭での交易を前提とした徴収の仕方も行われていました。

  鉄の年貢の場合には「鉄手米」、絹の場合には「絹手米」のように、百姓と代官あるいは地頭との間で、米と年貢となる物品との交換が行われていたに相違ないのです。全国的に見て、米を年貢としている荘園は半分以下の少数派です。興味深いことに、九州には米を年貢としている荘園が非常に多く、米どころの九州は酒もおいしいらしく、たくさんの酒樽が九州から鎌倉に送られた事例もあります。その九州ですら、絹を年貢にしている荘園もあり、全部が全部米というわけではありません。

  近畿地方の近辺も割合に米が多く、瀬戸内海の海辺の中国、四国地方、北陸の若狭、越前、加賀、能登の荘園などにも米を年貢としているところが若干みられます。荘園が成立したころ、米は現物で運ぶのが前提なので、船で比較的簡単に運べるところが年貢を米で納めているともいえます。ですから、当時の「米どころ」は現在とは全然違っています。年貢の状況がよく把握できる尾張、美濃の荘園の場合、50ヵ所以上が、すべて絹を年貢としており、米は1ヵ所もありません。現在の濃尾平野は、ふつう水田の広がる米どころと考えられていますが、平安、鎌倉時代の尾張、美濃は、養蚕用の桑が一面に植えられていたものと考えられます。先日も愛知に行き、この話をしましたところ、桑が名古屋のどこそこにたくさんあったという話を伺うことができましたし、事実、明治初年の地図にも桑畑が非常に多く記されています。いま日本の水田地帯とされる地域は、ほとんどが江戸時代後期の開発で、それ以前は湿地帯、あるいは新潟などのように潟だったところを埋め立てて田地にしたのです。江戸時代になって米が高く売れるようになり、商人が大量に資本投下して、湿地帯をどしどし埋め立て始めてから、現在の景観が生まれたわけで、鎌倉、室町時代に遡れば、いまとは非常に違った風景だったと考えるべきだと思います。

  また弓削島荘の文治5年(1189)桑検注目録という史料がありますが、これによると、桑373本に対する桑代という税金を塩373籠で代替しています。この荘園は製塩を主な生業としているので、何でも塩で税金を納めていることがよく分かります。しかし、一方、同じころ弓削島荘の百姓四郎太郎延永という人が、梶取、船頭として生計を立てられるようになったので、使い物にならなくなった塩釜や荒れて駄目になった桑に年貢をかけないで欲しいと訴えている申状も残っています。こういう事例からも推測できるように、この島の百姓の生業は、主として製塩業ですから年貢として当然塩を納めていますが、市庭で相場をみながら商売もしており、百姓の中には牛10頭や絹小袖を持っている人や廻船を営む人もいて、相当の資産を築いている百姓も多かったのです。従って、この荘園の百姓がわずかな田畠を耕しているからといって、これを農民と決めつけてしまっては、この百姓の本質を捉えることは決してできません。正確には製塩民兼漁民兼廻船人兼農民というべきですが、彼らが生業としているものは、圧倒的に製塩ですから、製塩民というのが適当でしょう。鉄を田地に賦課され、専ら鉄をつくっている百姓は、農民というよりも製鉄民といったほうがいいのではないかと思います。では、専ら木材を生産している百姓はどう呼ぶのかとなると、次第に言葉がなくなって表現に窮してきます。これほど日本社会の百姓の生業が多様なのに、学者の言葉はあまりにも農業に偏りすぎて貧困であり、庶民の生活史を本当に語るためには、これから新しく用語をつくらざるを得ないということになります。

  日本列島の地形を見ると、海辺に家が密集している集落が多いのです。このような浦、浜、津、泊に住む人びと、百姓の生業をすべて農民という言葉で括ってしまったのでは、日本の社会を非常に歪めて理解することになってしまうのではないかと思います。いまでもわれわれの頭の中には、土地を持たなければ貧しいという思い込みがあって、田地もない貧しい漁村あるいは山村などと表現してしまうことがありますが、これはとんでもない間違いで、史料に即して検証してみると、田地のほとんどない地域に米が集まっている事例がいくつも出てきます。例えば、先ほどの二神島もその例ですが、それよりもっと田畠が少ないと思われる若狭(福井県)の常神浦という海村の刀彌、一番有力な百姓の財産目録の一部がたまたま残っていますが、正和5年(1316)、鎌倉時代の終わりごろ、この人が財産の一部を一人の娘に譲っているのですが、その内訳は米150石、銭70貫文、絹小袖の上等なものが6着、柱間が5間の家を1宇、山林と材木、下人5人、それに「フクマサリ」という船名の大船一艘と記されており、この大船こそがこの百姓の富の源泉だと思われます。大船を保持して盛んに海を通じて各地と交易を行えば、田畠がほとんどないにもかかわらず、米が150石、それに銭70貫文も集まってくるのです。このころの百姓の財産目録はごく僅かしか残っていませんが、例外なく内陸部よりも海辺の百姓のほうが米を多く持っています。

  つまり、米は単に食料というよりも、むしろ早くから一種の貨幣の役割を果たしており、売買をする時に活発に用いられたのではないかと考えられます。江戸時代はまさしくそうでした。米が高く売れるので、百姓は米を先に売ってしまいます。それ故、飢饉になると米どころがまず飢えるということも起こるのです。米は決して単純な食料ではないということを考えに入れておく必要があると思います。これは江戸時代の事例ですが、田畠もごく少ない山の中の百姓が材木で大儲けをしている史料もあります。要するに、田畠のないところは貧しい、田畠を持っていない水呑は貧農であるという考え方は、すべて農業を中心にしてしか考えてこなかったわれわれの完全な思い違いといわざるを得ないのです。

田畠以外の課税
 むしろ中世の支配者の方が、百姓の生活をきちんと見ており、紀伊国阿弖河上荘の検注の結果をまとめた文書からもそれはよく読み取れます。田地は年貢をかける地種として大事ですから独自な検注目録がつくられており、さきほど述べましたように、除田などを差し引いて最終的に確定された「定田十一町三段六十歩」に「所當御年貢絹拾陸疋伍丈捌尺伍寸」が賦課されています。しかしそれ以外に、在家等検注目録では在家という百姓の家が93軒、畠が21町ほど検注されています。実は、われわれはこれまで荘園の検注目録を見る時、田畠と在家にしか目を向けず、それだけを研究の対象にしてきました。

  私が若いころ、強い影響を受けた中世史研究者の石母田正さんの著書『中世的世界の形成』は、いまでも若い歴史家に愛読されている本です。伊賀国黒田荘の史料を中心として書かれたこの本の中で石母田正さんは、平安時代の後期、祖母から所領を譲り受けた領主、藤原倫滋に触れて、その譲状を引用しながら次のような議論を展開しておられます。譲状には数値は出てきませんが、田畠、在家、所従―召使のこと―と並んで桑、苧、牛、馬が列記されています。ところがその史料を引用された石母田さんは、「かくのごとく、平安時代の末の領主も、中世の封建領主と同じように、その所領の基本構成は田畠、在家、所従、この三要素である。」とまとめられており、桑と苧と牛と馬は完全に切り落とされています。そのためかどうかは分かりませんが、桑や苧についての研究はその後ほとんど行われておりません。

  また領主だけではなく、鎌倉時代のころは普通の百姓も牛や馬を1頭ずつぐらいは持っていたのですが、こうした牛馬についての研究もほとんどなされないままに、いまに至っているのです。阿弖河上荘の場合も同様で、田畠、在家についての研究は相当進んでいますが、ここは材木の荘園であり、桑1890本、柿598本、栗林31町70歩、漆32本と、樹木がきちんと調べられて畠と並んで記されているわけですから、これらの樹木が阿弖河上荘の百姓の生活の中で重要な意味を持っていたことは間違いなく、そうであるからこそ、支配者のほうもその本数を調べ、町反歩を調べて独自に税金をかけていたのです。

  田畠以外の税金は柿にも課せられています。この荘園でも柿が598本検注され、本別に一連ずつの柿の現物が課されているのですが、こうした柿についての研究は皆無です。私の郷里の山梨県では、コロ柿といわれる干柿が食糧としても貴重ですし、柿のシブには昔からいろいろな用途があって、庶民の生活には欠かせないものの一つでした。天皇家、摂関家のような貴族も柿 御園 [ みその ] をおさえており、当時の支配者が柿に対して関心を持っていたことは明らかです。柿についての歴史学の立場からの研究が現状ではほとんどないという状況は、歴史学が本当に庶民の生活を明らかにしようとするならば、大いに反省すべきことだと思います。

  次に栗林ですが、栗の木は最近の三内丸山遺跡からも出土しており、富山県でも縄文時代の大きな桜町遺跡が発掘され、巨大な栗の柱が何本も確認されています。三内丸山のあたりは栗林だったようで、栗の実がたくさん掘り出され、しかも、その栗のDNAがきれいに揃っていることから考えて、栽培していた栗だろうと発掘者は結論づけております。それに触発されて古代・中世の栗林を調べてみると、栗の木だけは本数ではなく、どこの荘園でも林として町反歩で検注されています。栗林については私の知る限り1点だけ検注帳が残っています。播磨国矢野庄の貞和2年(1346)4月の栗林実検取帳では、それぞれの百姓名ごとに栗林が何反あるかを調べており、こういう帳簿が阿弖河上荘にもあったと思われます。しかし、年貢が賦課されるのは田地でありますから、田地の帳簿はよく残っているのに、私の知る限りでは、栗林の検注帳は矢野庄のもの一つしか現存していません。

  正長2年(1429)6月の若狭国太良庄地頭方田数百姓名寄帳に記されている「一、尻高 二百五十文 栗代」も栗林に賦課された年貢で、すでに銭に代えられていますが、矢野庄の検注帳には「栗林三町壱段卌代 分栗参石捌斗壱升六合内」とあって「生栗壱石九斗捌合、搗栗壱石九斗捌合」が反別に賦課されています。これは全国的にどこでも同じで、栗林は1反ごとに地子として栗を徴収するのが原則だったと思われます。反別に搗栗何升というように土地に対する賦課として栗の果実が徴収されています。しかし、栗林は実を採るだけではなく、その樹木が建築用材としても盛んに用いられていたと考えられます。 六国史の一つ『三代実録』にこんな記事があります。貞観88年(866)、常陸の鹿島神宮の20年に1度の遷宮に必要な材木を調達する件について、これまでは那珂川の奥の木を切って海に出して鹿島まで運んでいたが、これでは大変手間もかかるので、神宮のそばの空き地に、植えやすく、成長も速い栗の木を5700本、杉の木を34万本植えたと書かれてあります。杉の木の34「万」本は、多少疑問がありますが、栗の5700本は十分に信憑性があります。このように9世紀中ごろに意識的に造林を行っているのは、縄文時代以来の伝統を引いているものと思われます。しかも、百姓の名ごとに栗林が若干ずつでもあるとすると、年貢は栗の実で材木は徴収されていませんから、栗の木を育てた百姓が家を建てる時に栗材を用いていた可能性が十分考えられます。

 このように考えてみると、百姓が自分たちの家をどのように建てていたかについての研究がほとんど見当たらないことに気が付きました。実際、これまでは田畠のことしか考えず、農業生産力の発展こそが社会の発展の原動力という考え方からなかなか抜けられなかったため、木の持っている重要な意味、木の文化についてわれわれはあまりにも無知であり過ぎたと思います。おそらく百姓も自分の家をつくれる力は十分に持っていたのではないでしょうか。もちろん、専門家に頼まなければならない部分もあったでしょうし、とくに鍛冶のつくる釘や [ かすがい ] は、市庭から買ってこなければならないにしても、自分の家の建築用材として栗はかなり重要な意味を持っていたと考えられます。

  漆は柿と同じように本別に調べています。新見荘では鉄を年貢にしているところもありますが、かなりの部分が米を年貢にしています。しかし、漆もきちんと本数を調べており、建治元年(1275)7月27日の新見荘西方漆名寄帳によれば、漆1本に1勺1才5厘の漆が賦課されています。5厘はごく少量で、目に見える量ではありませんが、計算上、このように定められており、新見荘は西方と東方の両方をあわせて、約8200本の漆がありましたから、相当量の漆が採れた筈です。こうして収穫した漆の一部は領家や地頭に現物で送り、残った漆を使って、百姓も漆器をつくったのではないかと私は推測しています。

  三内丸山等の縄文の遺跡からも大量の漆器が出土しており、資料館には素晴らしい漆器が復元展示されています。あれだけの漆器をつくる高度な技術が縄文時代にすでにあったとすれば、漆を大量に植えていた中世の百姓が自分で漆を採って漆器をつくらないとは考えられません。おそらく、自分でつくった漆器を市庭で売っていた百姓もいたことでしょう。そういう百姓の技術を背景にして、轆轤師や塗師といった専門の職人が高度な漆器をつくっていたのではないかと思います。日本社会の職人の技術は、決して一部の職能民だけが中心となったのではなく、建築もそうですが、その基盤に百姓、普通の人の持っている技術があったことを十分に考えておく必要があると思います。

  次に桑は、庶民生活を考える上で重要ですから少し詳しく触れたいと思います。阿弖河上荘の桑は1900本近くもあると記されているように、この荘では養蚕が盛んなので絹を年貢として納めるようになっています。実は、絹は贅沢品だと私もつい最近まで思っていました。百姓があのようなペラペラした絹など着るはずがないという思い込みがあったのです。これは、百姓は絹などを身につけてはならない、木綿を着用すべし、という江戸時代のお触書の影響ですが、裏を返していえば、この規定も百姓が絹を着ていたことの証拠になります。

  そのように考え直して、植えられた桑の本数を調べてみると、極めて膨大な 量に及んでいたことが分かります。例えば、弘仁8年(817)の伊勢国多気郡に植えられていた桑は13万6532本で、それだけの桑の葉で蚕を飼い絹を生産しているのです。これを見ると、百姓自身が絹を着ていない筈はないのです。実際、13世紀から14世紀にかけての鎌倉時代の中ごろから、さきにも挙げたような百姓の財産目録に、絹小袖という品目が記されている史料がかなりあります。考えてみれば、そんなに上等な絹ではないにせよ、「ハレ」の日に百姓の女性が絹の衣類を着て市庭やお祭りに出かけていくことがあっても当然だと思うのですが、なぜかいままでそういう発想をわれわれは持たなかったのです。いつも貧しくて、粗末な着物を着て働いていないと百姓とはいえないという思い込みをどこか持っていたと思います。この先入観を払拭して改めて調べてみると、麻や苧と並行して桑は非常に広く、ほとんど全国的に植えられており、絹や綿や糸を年貢にしている荘園も非常に多く、しかも桑には「桑代」という税金が独自に課せられています。桑代とは通常は絹、綿、糸ですが、弓削島荘の場合は、373本の桑代として373籠の塩、つまり桑1本につき塩1籠の桑代が課せられています。阿弖河上荘では桑1本につき材木1支と、特産物である材木が課されていますが、これは交易を前提とした賦課だと思われます。

日本女性の底力
 江戸時代の絵や古代の説話などに、女性が桑の大木に登って桑の葉を摘んでいる姿が登場します。つまり、弥生時代より江戸時代、さらに最近まで、養蚕の仕事は完全に女性の領分でした。現に私の祖母も養蚕を手がけ、家内の母は自分で養蚕をし、糸を取り、織った「ウチオリ」という絹で布団地をつくって私どもの結婚祝いに贈ってくれました。これは日本の女性の長年の伝統で、史料の上でも田畠については「農夫」、養蚕は「蚕婦」と対語のように記されていることからみても、養蚕はすべて女性の仕事だったといえます。

  江戸時代には、棉も麻も絹織物もすべて女性自身の手によって行われており、しかも小袖売り、帯売り、白布売り、綿売りなど織物関係の商人や機織なども、中世ではすべて女性が占めていました。甲斐の上井尻村東方の享保9年(1724)の明細帳を見ると、「当村蚕」という項に「是は女の稼ぎつかまつり、糸に取り下し、繭は綿につかまつり、繭にても払い、商人に売り申し候」とあります。また、「男女稼ぎの事」については、男は農業の間に山稼ぎ―炭焼―並びに栗・柿・煙草をつくり江戸に出して商い、女は麻・木綿・茶とされており、つまり、中世ではいずれも独自な生業として存在していた樹木生産は、江戸時代には農人の仕事の中に「稼」、副業として繰り入れられてしまっています。しかし、さらに女性は「夏は蚕を少々ずつつかまつり、糸・絹、取り売り申し候」とあり、女性は自分でつくったものは自分で商人に売っています。どこかの本に「女性は世間を知らないから、商人に安値でたたき買いをされてしまう」と、男性の学者が書いていましたが、13~14世紀ごろからの日本の女性たちは、市庭で相場を見ながらできるだけ高い値段で取引きをしていた筈ですから、商人にたやすく騙されることもなかったと思います。そしてこのように女性が自分の手でつくり、市庭に出かけ、苦労して売って得た銭を、女性はそう簡単には男には渡さなかっただろうと思います。

 ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが、16世紀ごろのヨーロッパの風俗と日本の風俗との違いを書いた『ヨーロッパ文化と日本文化』が岩波文庫にあります。その中に、日本の女性は全然処女を大事にしない、妻が無断で何日も家を空けても、夫は文句をいわない、娘も親に断りもなく外泊しても問題にされない、ヨーロッパでは男が先で女が後ろからついてくるが、日本では女の後ろを男がついていく、等々、現代を幾分想起させるようなことが書いてあります。さらに、ヨーロッパでは財産は夫婦の共有であるのに、日本では夫と妻がそれぞれ自分の持ち分―これは動産だと思いますが―を所有しており、ときには妻が夫に高利で貸し付ける、と女性の逞しさを強調しています。事実、室町時代の日野富子も大名に銭を貸し付けており、中世の文献にも「 借上 [ かしあげ ] 」を業とする女性がかなり活動していたことからみても、フロイスの記述は全面的に肯定できます。

  そうすると女性は、江戸時代でも動産の財産権はしっかりと持っていたのではないでしょうか。江戸幕府の法令の中にも、夫が妻の嫁入り道具を勝手に質に入れたときは、女性が離婚を請求できるという規定があったと記憶していますが、いずれにせよ、私的な世界での女性の権利は意外に高かったのではないかと思います。たしかに公的な面での女性の地位は極めて低いとはいえ、実際の生活の中で、女性が果たしてそうした低い地位に甘んじていたかどうかについては、検討の余地が十分にあると思います。(この点についての詳細は拙稿「日本中世の桑と養蚕」『歴史と民話』14、1997年 参照)

むすび
 いろいろと申し上げましたが、百姓といわれた普通の人たちは、田畠の農業だけに従事してきたのではなく、さまざまな生業に携わっており、農業はたくさんある百姓の生業のうちの重要なものの1つだったと認識しておく必要があるということが、最も大切だと思います。明治政府が戸籍のみで庶民の生業の実態を把握したわけではないにしても、この政府の姿勢が農業に偏していたことは確実であり、それが農業以外の生業をみな、農業の兼業・副業としかみずに、海、川、山野における生業や小規模な商工業をすべて切り落としてしまうことになったと思います。そしてさらに日本は孤立した「島国」であり、弥生時代以降の列島社会の歴史を専ら水田を中心とした農業社会の歴史であるという誤った「常識」を植えつけてしまったのです。

  江戸時代は封建社会で暗い社会という「江戸時代否定論」が、何とはなしに定着してしまったのも、よく戦後の歴史学の責任といわれますが、多分に明治政府のイメージづくりに負うところが大きかったのではないかと思います。戦後歴史学は、その枠の中から完全には出ていなかったといえると思います。しかし、事実に即してみるとこの国家は、経済的には長い列島社会の歴史の中で蓄積されてきた手工業の技術、生産方式あるいは商業・信用経済のめざましく発達した実態を継承し、また、高いレベルの様々な能力をもつ一般庶民の広大な基盤に支えられて、初めて存立、発展し得たのであり、すべてを新しくするという明治の「御一新」で、もとよりすべてが「一新」されたわけでは決してなかったのです。明治以後、急速に輸出産業として成長した生糸の生産が、二千年もの年月に及ぶ古くからの伝統を持つ百姓の女性による養蚕、製糸の長年の蓄積があってこそ可能であったことは、まぎれもない事実です。また、現在まで用いられ続けている商業上の実用的な用語―市場、取引、相場、手形、切手、株式、寄付、大引などの言葉には翻訳語が全くなく、すべてが古代・中世にまで遡る在来の言葉であるという事実からも、同じことを読みとることができるでしょう。

  百姓の中には、厳密な意味での「農業」、すなわち田畠の耕作を主たる生業とする「農人」以外の、多様な生業に従事する人びとがかなりの比重で含まれているにもかかわらず、明治政府が「百姓」をすべて「農民」と扱ったとみられることなどを前提としてみると、江戸時代以降の歴史・社会の実態については、未解決、未知の問題があまりにも多く、明治以後の政治・社会の動向についても、これまでの「常識」化した誤った思い込みを捨て、「日本」そのものを歴史的な存在とみる視点に立って、徹底した再検討を行うことが、今後の緊急な課題として浮かび上がってきます。やや遅きに失した感がなくもありませんが、そう考えて、これからの余生をこの研究にかけていきたいと考えています。

 どうもご清聴ありがとうございました。

  (神奈川大学特任教授・日本常民文化研究所所員・東大・文・昭25)
(本稿は平成9年12月10日夕食会における講演の要旨であります)