刑事訴訟法の四十五年  
松尾 浩也 No.803(平成6年4月)号

現行刑事訴訟法は、平がな口語体、全文五〇六条の清新な法典として、一九四八年(昭和二三年)に公布された。施行されたのは翌四九年の一月一日であるから、すでに四十五年を経たことになる。この法律の下で展開された刑事裁判の諸相は、ほとんど日本の戦後史そのものであった。ここでは、まず著名事件の点描を交えて犯罪の発生とその処理状況を概観し、続いて法運用の推移発展について述べ、最後に将来への展望を付加したいと思う。その際、便宜上右の四十五年を三等分し、第一期(一九四九~六三、昭二四~三八)、第二期(一九六四~七八、昭三九~五三)、第三期(一九七九~、昭五四~)と呼ぶことにする。

刑事事件の四十五年
(1)第一期は、戦後の激動ないし混乱と、その沈静の過程である。前半期には、平事件、メーデー事件、吹田事件、大須事件などの集団事件が発生し、また、下山事件、三鷹事件、松川事件など謎めいた事件も多発して、社会の緊張を高めた。風俗の変化を示すチャタレー事件、構造汚職の原点と言われる造船疑獄事件、多数の被害者を出した保全経済会事件なども、昭和二〇年代に集中している。
しかし、これらの著名事件の処理もさることながら、当時の刑事司法に重い負担を強いたのは、一般的な犯罪の著増であった。物資の不足や生活の窮迫を背景として、窃盗、強盗、臓物故買、食糧管理法違反などが急激に増え、関係者はその対応に忙殺された。新たに刑を受ける者も数を増し、刑務所人口は収容定員をはるかに超えて、いわゆる過剰拘禁の状態が続いた。
後半期には、犯罪の発生件数は──増加一方の道路交通関係を別として──落ち着きを見せ、過剰拘禁は徐々に解消され始めた。六〇年安保の前後、ハガティ事件、国会突入事件、浅沼社会党委員長刺殺事件などが続発したが、しかし所得倍増政策が軌道に乗るにつれて、社会の関心は「政治」から「経済」へ移った。裁判所は、前半期に生じていた難件の処理に全力を傾けた。その頂点に位置したのが松川、 八海 [ やかい ] の両事件で、前者は二回の上告を経て二十名の全員無罪が確定し(一九六三年)、後者は三回の上告審がくり返された後、共犯とされていた四名が無罪となった(一九六八年)。「裁判批判」をめぐる激しい論争を誘発したのも、この両事件であった。
(2)第二期は、新幹線の開業や東京オリンピックの開催(いずれも一九六四年)が象徴するとおり、日本の経済力の興隆とともに始まった。しかし、刑事司法の歩みが平穏だったわけではない。昭和四〇年代前半の学生運動は、行動性を強めて羽田事件、新宿騒擾事件などを生み、また、全国規模の大学紛争をもたらした。さらに、昭和四〇年代後半には、一部のクループが過激化して、連合赤軍事件や連続企業爆破事件を引き起こした。一方、第一期の終わり頃に生じていた公務員労働や学校教育の分野での行政と組合との対立は、公労法違反事件や学力テスト事件として刑事訴訟となり、裁判所を苦悩させた。
第二期の後半には、経済活動の分野では石油カルテル事件が発生し、独占禁止法違反に対する刑事罰の問題が現実化した。公害関連では、熊本水俣病事件の責任者に対する刑事訴追が行われた。また、政治の領域ではロッキード事件が発覚して、国政を揺がした。いずれも刑事手続は長期にわたり、次の第三期に入ることになる。なお、事実誤認に対する救済として、再審手続が急浮上した。昭和五〇年代初頭の白鳥事件最高裁決定を画期として、弘前、加藤、青森の三事件が再審無罪となる。この流れも、次の第三期に続き、さらに加速するのである。
第二期における事件処理のもう一つの特色は、道路交通事件への対応で、質的には比較的軽微な事件であるが、量的なインパクトはこの時期激烈なまでに大きかった。道路交通法違反者の起訴は、一九六五年、四百万人の大台に乗ったし、業務上過失致死傷罪、すなわち人身事故で起訴された者は、一九七〇年に四十五万人を超えた。検察庁および裁判所は、略式手続をフルに活用する方針をとり、さらに道路交通法違反の一部については交通反則金による司法外処理の方途が導入されて(一九六七年道路交通法改正)、事態はようやく収拾に向かった。
(3)第三期は、日本が経済大国としての地位を確立するとともに、国際社会との協調を初め、情報化の進展、大量消費社会の運営など、新たな局面への取組みが求められた時期である。一九七九年、東京サミットが開かれ、また国際人権規約の批准が行われたことは、国際化が歩を進めたことを意味していた。日本への入国者、すなわち来日外国人の数は年々増え、第三期初めの年間約百万人強から三倍以上にもなった。それに伴って外国人の犯罪が増加することも避け難いが、とくに顕在化したのは第三期後半以降で、通訳・翻訳の必要ともからんで問題を意識させた。外国への犯罪人引渡しの例は少数にとどまるが、中国民航機ハイジャック事件(一九九〇年)など、大きな波紋を投じた事件もある。
薬物事犯もまた国際的関心の高い犯罪類型である。日本は、ヘロイン等の事犯が少ない反面、覚せい剤事犯がきわめて多い。終戦直後、ヒロポンの名で乱用された覚せい剤は、いったんほぼ完全に押さえ込まれた後、第二期の後半から急増し、第三期には大きな問題となった。最近やや頭打ちの傾向が見られるとはいえ、年間の起訴は一万七千人にも及び(一九九二年)、また、暴力団との関連でも困難をもたらしている。
政治との関係では、第三期にも、リクルート事件を初め、政治資金の清潔さを疑わせる幾つかの事件が発生した。裁判が終了するまで犯罪の成否は未確定であるが、かつての事件では金品収受の方法が単純だったのに対し、未公開株式が登場したり、利益供与の基礎に指名入札制度があるなど、経済活動との複雑な相関が見られるようになった。
最後に、第二期から引き継がれた再審の問題は、免田、財団川、松山、島田の順で、死刑四事件が無罪とされた。再審請求人は、原判決の確定から二十年ないし三十年を死刑囚として過した後、自由の身となったのである。

法運用の四十五年
(1)第一期の出発点をなす「刑事訴訟法」は、検察・被告両者の攻防を軸とし、裁判所を中立化するアメリカ法系の公判像を提示し、断然たる新鮮さを誇った。しかし、日本には綿密な捜査と慎重な起訴を重視する伝統が存在したから、その間の調和は新たな問題であった。昭和二〇年代、尨大な事件数と格闘し、訴訟の遅延を防ぐことに腐心していた裁判所は、やや余裕を取りもどした昭和三〇年代にこの問題を取り上げ、準備の徹底、審理の充実をスローガンとする「集中審理方式」を打ち出した。もっとも、それが「伝統」の超克を志向するものか、それとも伝統の維持に傾くものかは明瞭でなかった。
新方式の構築は、もっぱら裁判所部内の理論家集団によって行われ、やがてその成果は、公判へ向けた当事者の事前準備や、公判に出廷した証人に対する交互尋問を規律する刑事訴訟規則の改正となって定着した(刑事訴訟法そのものの改正は行われなかった。実際、この四十五年間、刑事訴訟法は一度も重要な改正を経ておらず、社会の変動への対応は、ほとんどすべて法の「運用」によってまかなわれているのである)。
(2)刑事司法が、第二期において多くの波瀾に見舞われたことは、前に述べたとおりである。集団事件の被告人は、裁判自体に対してしばしば拒否的な態度をとり、「荒れる法廷」を現出させた。検察官と被告人との「対立」は訴訟法の予定するところであるが、裁判所と被告人・弁護人との間に対立が生まれたのは不幸なことであった。審理の遷延を憂慮する声が高まり、俗称「弁護人抜き法案」が国会に上程されたが、やがて法曹三者の協議が成立し、事態は平静に復した。
しかし、刑事手続の運用は、なお「岐路」に立っていた。第二期の前半、アメリカ合衆国最高裁判所はウォレン長官に率いられ、刑事被告人の人権擁護を核心とする適正手続論を展開し、日本へも影響を及ぼした。しかし一方、裁判所は──「荒れる法廷」を克服した後──集中審理の実践によって、審理期間の目覚ましい短縮に成功し、また長期未済事件を減少させた。そしてそれは、捜査段階における真相解明の結果を尊重する伝統的手法に親しむものであることが、次第に明らかになってきた。
(3)第三期が国際化の時代の始まりであったこともすでに述べた。アメリカ的ないし西欧的価値基準と日本の伝統に立つ思考様式との調整は、多分に痛みを伴う。刑事手続については、最高裁判所が、適正手続のある部分──違法なやりかたで収集した証拠は排除すべし──を理論上受容した(一九七八年)。しかし、基本的に完成したのは、捜査段階における関係人、とくに被疑者の取調べに重点を置く日本型の刑事手続であった。むろん公判の段階では、ほとんどすべての事件に弁護人がつき、防禦活動を行っている。それでもなお、公判廷での対決が捜査の成果よりも著しく重視されているとはとうてい言い難い。そしてこの点で、欧米型司法との間には明らかな違いが見られるのである。
日本の刑事手続については、「精密司法」の称がある。それは、綿密な取調べに始まり、慎重な起訴を経て、入念な判決に終わる。「事案の真相」を細部まで解明し、また量刑の資料も提供できること、起訴に無駄がなく高い有罪率を確保できること、盗聴、おとり捜査、司法取引などの「不純物」を含まないことがその長所であり、捜査が糺問的な色彩を帯びやすく、国際的な批判の対象にもなること、虚偽の自白など誤判の原因を生じた場合の是正に関係者の多大の労力を要することがその短所である。

将来の展望
取調べの徹底、起訴の厳選という精密司法の特質は、四十五年の運用の凝縮体であるのみならず、萌芽的には江戸時代まで遡ってその形成が認められるものであって、一朝一夕にこれを変化させることはできない。かりに、刑事訴訟法を全面改正してみても、それは徒労と混乱に終わるおそれが大きい。
しかし、法運用──および立法──の現状が、今のままでよいということではむろんない。現在、学界でほぼ意見の一致が見られるのは、起訴前弁護の充実、とくに国選弁護制度の導入である。各地の弁護士会による「当番弁護士」制の発足も、おそらく軌を一にするものであろう。それは、捜査から「糺問的な色彩」を除去し、また、誤判防止のための「労力」を減少させるのに役立つ。当然ながら国選弁護の拡充のためには国の予算措置が必要であるが、それは、経済大国が「人権大国」でもあるための不可欠のコストであろう。刑訴四十五年、この方向に一歩を踏み出す時期はすでに到来しているように思われる。

(上智大学教授・東京大学名誉教授・東大・法・昭29)