ヘルシンキ学会の思い出  
宇沢 弘文 No.792(平成3年7月)号

 一九八五年、ゴルバチョフ政権によって始められたペレストロイカの流れは、その後大きな曲折を経てきた。それは、東西ドイツの統合、東欧社会主義諸国の社会主義体制の解体、という予期しなかった歴史的事件を誘発し、ソヴィエト社会主義共和国連邦の解体という形をとって、世界史的な次元における転換が現に起ころうとしている。このような大きな時代のうねりのなかにあって、私たち経済学者の考え方、思想的基盤もまた大きく転換せざるを得ないように思われる。私が専攻しているいわゆる近代経済学は、このような政治的、思想的流れとは一見無縁なものであって、経済科学として中立性を保つことができるという主張をする経済学者もいるが、私はその考え方に必ずしも賛成できない。むしろ、近代経済学という学問的規範そのものが、じつは一つの思想的、政治的枠組みのなかから生れてきたものであるといってもよいように思われる。

 この、社会主義諸国の激動をみて、私はある一つのエピソードを想起せざるを得ない。このエピソードには私自身深く関わっていたし、また当事者の多くも現存している。しかし、ソ連におけるペレストロイカの流れはすでに不可逆的な段階に達しているように思われるので、ここであえて、このエピソードについて語ることにしたい。

 一九七六年八月エコノメトリック・ソサイアティ(The Econometric Society国際計量経済学会)ヨーロッパ例会がフィンランドの首都へルシンキで開かれた。たまたま筆者が、その前年から会長の任にあって、ヘルシンキ例会で会長講演をおこなうことになった。エコノメトリック・ソサイアティは、アメリカとそれ以外の国々から交代に会長を選任することになっていて、非アメリカ諸国からの会長がヨーロッパ例会で会長講演をする慣例となっていたからである。

 一九七六年といえば、その前年一九七五年に、ヘルシンキで、ソ連を始めとする東側諸国と、アメリカを始めとする西側諸国とが一堂に会して、平和と人権とにかかわる諸問題を討議するという、戦後の冷戦時代の終焉を予兆させるような国際会議が開かれた。そして、普通ヘルシンキ・アコードと呼ばれるようになった宣言が出されて、新しい国際的環境がつくり出されたという印象を私たちはつよくもったのである。

 一九七五年の年末近くだったと思うが、ある一人のソ連の経済学者から一通の手紙を受け取った。その名前を仮にA博士と呼んで、以下話を進めることにしよう。A博士からの手紙によると、かれは、エストニア共和国の人で、ソ連科学アカデミーの研究所で研究に従事していて、エコノメトリック・ソサイアティのヘルシンキ例会に出席して、論文をよみたいということであった。私はさっそく、返事を出して、その問題については、例会のプログラム・コミッティの委員長であるボン大学のS教授に問い合わすようアドバイスした。同時に、シカゴ大学時代に同僚であったG教授からもA博士の件をよろしく頼むという手紙を受け取った。G教授は、計量経済学の実証的分析の分野で、もっともすぐれた研究者の一人として、当時すでに世界の学界で指導的な立場に立つ人である。かれ自身もエストニアの生れのユダヤ人で、十歳の初めにすでに収容所に入れられ、十代のほとんどを収容所での生活を余儀なくされるという経歴をもつ人である。第二次世界大戦が終わってしばらくして、アメリカの大学に入り、そこで天才的な能力を発揮することになったのであるが、かれはよく半ば自嘲的に、「自分がアメリカの大学ですばらしい成績をあげることができたのは、小学校も中学校も高等学校にも行かなかったからだ」と語っていたのがいまでもつよく印象に残っている。じつはあとになってわかったことであるが、G教授がA博士の件について、アメリカのある下院議員に依頼して、政治的な形で動いていた。このことにかんしては、私は当時まったく知る由もなかったのである。

 とにかく、A博士の論文はプログラムにのることになって、私も会長として正式の招待状をA博士に送ることになった。ところが、ヘルシンキの学会が近づいた頃、A博士から再度の連絡があって、ソ連政府から出国ヴィザを出してもらえないので、エコノメトリック・ソサイアティから、ソ連科学アカデミーの総裁に直接依頼してほしいということであった。アカデミーの総裁にはたしか三度手紙を書いて、A博士の学会出席のことをお願いしたのであるが、とうとう何の返事ももらえなかった。いよいよへルシンキの学会も間近になった頃、A博士が、エストニアの首都タリンで、抗議のハンガー・ストライキに入ったという知らせを受け取った。このことは、フィンランドだけでなく、広くヨーロッパの国々の新聞でも取り上げられ、ヘルシンキ宣言の出された地ヘルシンキで起こった、ソ連政府による基本的人権無視として多くの人々の注目するところとなったのである。

 エコノメトリック・ソサイアティのへルシンキ学会が開かれたのは、このような緊張した状況のもとであった。

 学会の開会式が開かれる日の前日、私たちは夜おそくまで、どう対処したらよいかということを相談した。そのときの第二副会長は、K教授というハンガリー科学アカデミー会員で、『反均衡』、『不足の経済学』などの著書を通じて、社会主義、資本主義という経済体制の類型化そのものに対して、きびしい批判と、新しい経済体制の設計にかんして、世界で主導的な役割を果たしている人であった。K教授は、エコノメトリック・ソサイアティという、政治的に中立であるべき学問的な組織が、ソ連の出国ヴィザ問題ともいうべき政治的問題に対して、一切無視すべきであるという主張を展開して止まなかった。それに対して、プログラム・コミッティの委員長であったボン大学のS教授は、わずか一年後に、ヘルシンキ宣言という基本的人権をまったく無視して、学問、研究の自由に対して重大な損失を与えるような行為に対して、黙視すべきではないといってゆずらなかった。そして、開会式の席上で、プログラム委員長として、「この、へルシンキ宣言の出された地で、エコノメトリック・ソサイアティの学会という学問的な集会がもたれているのに、政治的な理由によって、わずか百キロしかはなれていないタリンで、一人のソ連の経済学者がハンガー・ストライキをおこなっている」ということを発言するといいだしたのであった。私たちはなんとかして、S教授をなだめようとしたのであったが、S教授は頑としてゆずらなかった。そのとき副会長のK教授の発言は印象的であった。「あなたは、この学会のあと、ボンに帰ることができるが、私たちはブダペストに帰らなければならないのだ」、じつはK教授は、そのあとブダペストに帰ったのであるが、間もなくストックホルムの大学に移り、最近アメリカのハーヴァード大学に移ったのである。それはさておき、私はそのとき、決定的な誤りを犯したのであった。K教授や居合わせたその他のヨーロッパの経済学者たちのアドバイスを無視して、S教授に対して、「あなたの発言は、一人のアカデミックな、経済学者としての発言である以上、それに対して、その是非を、政治的な観点からなにもいうことはできない」といって、S教授の発言を容認してしまったのである。

 開会式は、フィンランドの文部大臣を始めとして、多くの人々が出席して盛大におこなわれた。すべては順調に進められていった。が、プログラム・コミッティのS委員長が、タリンでのハンガー・ストライキにふれて、暗にソ連政府を非難したのであった。S教授がこのことにふれるとただちに、私のとなりに座っていたフィンランドの文部大臣が席を立って、退場した。よく知られているように、フィンランドとソ連の関係はデリケートである。ロシア革命直後、フィンランドはかつての領有地を取り戻そうとして、ソ連に介入し、逆に、ソ連軍がフィンランドに侵攻し、フィンランドはその領土の三分の一近くをソ連に割譲せざるを得ない苦い歴史をもつ。以後、フィンランドは、西側にありながら、ソ連ときわめて近い関係を維持することによって、その独立を保ってきたのである。開会式場での、文部大臣の退場は止むを得ない行動だったといえよう。

 しかし、エコノメトリック・ソサイアティの学会をそのままつづけることはできなくなってしまった。というのは、ソ連、東欧社会主義諸国からの出席者たちからつよい抗議が出され、エコノメトリック・ソサイアティはもはや政治的に中立な学会としては認められないというのであった。そのとき奇妙なことに感じたのは、ソ連からの出席者の一人で、私は名前も所属も知らない人がいて、ソ連、東欧諸国の人たちを集めて、いろいろ指示を与えていたのである。かれの指示によって、S教授の発言によって、エコノメトリック・ソサイアティはもはや学会として認められず、ソ連支配下の国々の経済学者が、そのメンバーとなることは今後許されないであろうという主張が展開された。それは一つのブラフにすぎないように思われたが、K教授を始めとして、社会主義諸国からの出席者の動揺は大きく、私は会長として、なんらかの形での収拾をはかるようにつよく迫られることになった。結局、閉会式のさい、私がエコノメトリック・ソサイアティを代表して、S教授の発言に対して、遺憾の意を表明することによって、ソ連の工作員らしき人の了解をとるということになった。楽しかるべき学会がこのようなことになってしまって、何とも後味の悪い気持で、帰国の途についたのであった。

 それから数年経って、ヘルシンキの学会のことはすっかり忘れてしまった頃、A博士から一通の手紙をいただいた。アメリカからであって、ようやく、ソ連を逃れて、アメリカの大学での生活が始まったという報告とともに、私たちの好意に感謝するという丁重な言葉で終わっていた。それが、私にとってペレストロイカを最初に実感できるできごとであった。

(日本学士院会員・東京大学名誉教授・新潟大学教授・東大・経博・理・昭26)