国立七大学総合体育大会(七帝戦)の思い出  
苫米地 秋郎 No.789(平成2年10月)号

 国立七大学総合体育大会も今年で二十九回、五巡目に入りました。凡そ三十年前、大会の発足に直接関わった者の一人として、よくぞこれ迄続いたものと、嬉しさの余り拙文を顧みず筆を取った次第であります。
 内容については、出来るだけ正確にと努力いたしたつもりですが、手元の資料不足の為、若干独断に走らざるを得なかった点もあります事を御許し願います。
 昭和三十五年秋、当時北海道大学の学生掛長であった筆者のところへ、体育会委員長の稲見芳治君(北大獣医学部卒、現在田辺製薬㈱東京特薬事業所動薬営業グループマネージャー)が次のような提案を持ち込んできました。
 それは、当時各種目毎に行われていた「旧七帝大定期戦」を一つにまとめて、「七大学の総合体育大会」にしたいという事でした。種目毎に、それぞれを当番廻り持ちで行なう為に、各大学は毎年数種目の当番を受け持たなければならず、体育団体の総括を行なう体育会(東京大学だけは運動会と称しています)としては運営上困難を来す面が多いこと、又総合化する事によって競技水準の向上をはかり併せて各大学の学生相互の交流と親睦を深め、将来は全国々立大学総合体育大会にまで高めて行きたいと言う事です。そしてこの大会の運営はすべて学生の手で行いたいが大学側の理解と協力を願いたいと言うものでした。学生の課外活動援助の担当者として、この提案は誠に尤もな事だと思いました。
 種目別の大会は当番大学の部が運営の責任を持つため、各部共大会運営経費の調達には大変苦労していました。第一は卒業生先輩からの寄付、第二は開催地の企業からの寄付、そして、当該大学からの補助金でありますが、大学としては特定の部の競技会の運営に対して予算を支出する事は困難でありました。特に数種目の当番が重なった場合、その苦労は大変なものでありました。従って総合体育大会となり当番が七年に一度となることは、大学にとっても望ましい歓迎すべき事でありました。
 そこで上司(学生部次長故倉本雄三郎氏)に此のことを具申しました。倉本次長は大いに賛意を表され、すぐに直接各大学の学生部次長宛に電話で協力を依頼して呉れました。
 早速稲見君を呼んでこの事を伝え、大会開催に向けて解決しなければならない幾多の問題について具体的に取り組む事になりました。問題の幾つかを列記すると次のようなことです。
一、 大会運営経費の問題
二、 二千名を越えるであろう参加選手の宿泊の問題
三、 開催時期の問題
四、 総合優勝制にするかどうかの問題
五、 伝統のある二大学間の定期戦をどうするか
   (北大対東北大、東大対京大、名大対阪大、等)
六、七大学以外の大学がメンバーとなっている種目の取扱い、ホッケー(鹿児島大)、ハンドボール(神戸大)等
 稲見君は各大学の体育会と緊密な連絡をとり、問題解決の為の協力態勢を作る努力を続けたわけであります。「学生の手による大会運営」が第一要件でありますので、問題の解決は大方学生諸君の合意でなされる訳ですが、大学の了承を得る必要のある問題が少なくありませんでしたので、その点は北大の学生部が中心になって取り纏めることになりました。
 翌昭和三十六年度の役員改選で、稲見君は委員長を退き、応援団長であった阿竹宗彦君(理学部卒、日本石油開発㈱探鑛部長)が委員長となりました。
 稲見君は委員長を退きましたが総務としてその後も体育会に残り、稲見、阿竹の二人三脚が始まった訳であります。阿竹君は八月の夏休みを利用して、九州大学を皮切りに大阪、京都、名古屋、東京、東北の各大学体育会を歴訪し、難問の解決に当たり、運動部の要望を入れながら総合体育大会実現の為の積極的な協力を取りつけたのであります。
 同じ七月に、突然倉本次長に呼ばれ、八月中に六つの大学の学生部を廻り七帝戦の統合のことについて、具体的な問題を説明してくるように指示されました。課長補佐になったばかりの者にとっては誠に大任であったのですが、若さも手伝い、「盲蛇に怖じず」の類で、五つの大学を訪問した訳であります。九州大学だけは事前に連絡があり「全面的に賛成、了承しているので来訪に及ばず」とのことでありました。各大学で、学生部の皆さんや体育教官、体育会の学生諸君と懇談をして廻ったのでありますが、どのようなことをお話ししたのかはまったく記憶して居りません。只、どの大学でも好意的に対応して戴いたことだけを覚えて居ります。
 秋になり、九月中旬東京大学構内三四郎池のほとりに七大学体育会委員長が顔を揃え、初めて委員長会議が開かれました。その結果最終結論を纏めるべく各大学学生部との合同会議を開催する事になりました。合同会議は翌三十七年三月、名古屋大学で開かれました。
 この会議の前に阿竹君から、「問題の九分通りは解決の見通しがついたが、第一回大会の主管を引き受ける大学が決まらないこと。もしどこも引き受けないならば北海道大学が引き受けて良いか。」との意向打診がありました。早速倉本次長に相談し、学長杉野目晴貞先生の御意向を伺いましたところ御承諾を得ました。合同会議の結果は、第一回を北海道大学が主管校で開催することとなり、第二回以降は決められませんでした。
 愈々開会式の日程を決めることとなり杉野目学長に御相談申し上げた際、学長が「せっかく学生諸君が一所懸命やって纏めたことだから、開会式には各大学の学長さん全部に是非出席して欲しい。私から茅先生にお願いしてみよう。」とおっしゃいました。それで開会式前日に七大学の学長会議が開催されることとなったと伺っております。開会式も滞りなく終了し、学生部関係者の懇親会が行われました。その席上、乾杯の前に、突然九州大学の学生部長原敏之先生が立ち上がって、「九州大学の学生部職員から、此のことだけは必ず行って来て欲しいと念を押されて来ました。来年度の主管校は九州大学がお引き受けします。」と発言され万雷の拍手を受けられたことを覚えて居ります。こうして第一回国立七大学総合体育大会は競技二十三種目(男子二十種目、女子三種目)、参加学生数二、二一九名(内女子一〇八名)で華々しく開幕したのであります。総合優勝は東京大学でした。
 爾来二十九年、今年は五巡目に入り北海道大学が五回目の主管校でありましたが、開催種目は三十五種目(男子二十六種目、女子九種目)を数え、参加学生数も四千名を越えるほど大きな大会となりました。
 学生の主体的運営による大会と、そして将来全国々立大学総合体育大会へ発展させたいという願いを込めて発足した此の大会も、大会規模の拡大による運営上の問題を考えると、全国大会への夢は不可能に近いと言わざるを得ないと思います。又、運営経費も年を追って増加し新たな問題を生じかねないとも聞いて居ります。
 しかし、本大会が、「旧七帝大」という色々な条件の似通った大学の学生同士が一堂に会し、スポーツを通じて互いに切磋琢磨し、親睦を深め合うことが出来るという、他に見られない大きな意義を有することは否定できないことであると思います。
 本大会が新たな問題を解決しつつ、より内容の充実につとめ、今後も長く継続されることを祈り乍ら筆を擱きます。

(元筑波大学学生部長・駒沢女子短期大学参与・北大・文・昭29)