シルクロードの旅と玄奘三蔵の道
平山郁夫(日本画家・東京芸術大学教授・美術部長) No781号(昭和63年10月号)

 現在奈良の薬師寺に新しく玄奘三蔵院という建物が出来つつありまして、私はそこに大唐西域記を描いております。それは唐の時代に玄奘三蔵が国禁を犯し、十七年間にわたる流浪の旅の末、たくさんの経典を持ち帰り、約二十年間にわたって翻訳したわけでございますが、その長安からインドへの往還の図を描いたものでございます。
 なぜこういう絵を描くに至ったかと申しますと、昭和二十年、私がまだ中学三年生の時、広島の陸軍兵器補給廠で学徒動員中に被爆いたしました。幸い無事でしたが、原爆の投下を目のあたりに見たわけです。その日の広島上空は雲一点もなく晴れ上がっておりまして、作業場で空を見ておりますと、一機のB29が爆音を止めて入ってきたような気がいたしました。すると落下傘が開いてきますのでじっと見ておりますと、変なものが落ちてくる。友達にも見せようと、知らせに小さな作業場に入った途端に爆発したわけです。私は兵器廠の爆薬庫が大爆発したと思って目と耳を押さえ、床にひれ伏しました。そうしますと、目の前であたかも写真のフラッシュをたかれたみたいに大閃光がはしり、わけがわからないうちに大爆発が起こった。多分僅かな時間だと思いますが、外に這い出して見ますと、写真でご存知のあのキノコ雲が、真っ青な空にもくもくと、真っ黒と真っ赤と真っ白の渦を巻いて徐々に上がっていくのが頭上に見えたわけです。そして外が一変しているのに驚きました。当時兵器補給廠で原子爆弾があるということを技術将校から聞いておりましたので、あるいはそれじゃないかと思いながら近くの山に逃げて、なすすべもなく広島が焼かれるところを一日中眺めておりまして、焼け落ちた後真夜中に尾道の方へ脱出しました。幸い無傷で帰りましたが、強烈な放射能の中を一日うろうろして居たものですから、それが後遺症となり、白血球が少なくなって大変苦しみました。その後、自分のこういった経験を恨みつらみでなく、昇華するような作品が出来ないかと思い、考えついたのが仏教伝来という、玄奘三蔵が国禁を犯してまで流浪の旅に出るという絵を描いたわけです。幸いそれが認められ、また体の方も元気になりましたので、次々と仏画を描き、その結果、日本文化の源流である仏教の通った道を歩いてみたいということで出掛けるようになったのでございます。それが、仏教伝来と東西文化交流のシルクロードとつながり今日に至るわけですが、その作品を描いたのが三十年昔でございます。
 その後、薬師寺西塔の建立や金堂の建立にお手伝いさせて頂きました。また白鳳時代の復興だけではなく、今日の経済繁栄のお陰で、遠く玄奘三蔵の遺徳を称えて新しく玄奘三蔵院をつくり、そこへ壁画を描こうという計画が十数年前に起こりました。そこで、可能な限り玄奘の足跡を訪ねるという私の追体験の旅が始まりました。中国、インド、パキスタン、ネパール等、仏教美術の東漸の道に、更に西方のヘレニズム、メソポタミアの文化が重なっておりますが、東西文化の交流ということでそういう文化の後を辿ってこれまで七十五、六回歩いたことになります。
 私が初めて海外に出ましたのが昭和三十七、八年からでございます。後から思いますと、何か目に見えない糸に引き寄せられ、いざなわれるように参りましたが、これも玄奘のお陰ではないかと思っております。もし玄奘三蔵が、あの大変な道を通って、経典を求めて帰ってくる流浪の旅が成功しなかったら、日本の奈良文化は違ったものになっていただろうと言われておりまして、今日でも使用されております経典の大半は、当時の玄奘訳だと思います。
 今日は、その玄奘がどんなところを歩かれたか、地理的にどういうところに位置するか、そのごく一部を簡単にお話し申し上げたいと思います。
 仏教伝来の道と玄奘の道というのは殆どダブルわけですが、いまの西安--
 長安を出まして甘粛省の蘭州に行くわけです。この西安には玄奘のお墓があります。興教寺というお寺の中にありまして、三重の塔に祀られております。
 蘭州の町の真中には黄河の濁流が流れておりますが、黄河でも最も狭いところでありましてそこを渡るわけです。ここまで参りますとイスラム教の寺院があり、ウイグルの人もおりまして、西へ来たという感じがいたします。黄河の支流には有名な炳霊寺の石窟がありまして、ここは昭和二十四年に発見され、開放されたと言われております。二十六メートルの岩壁を彫り出した大仏を中心に、大小さまざまな石窟や仏様があります。法顕が五世紀頃ここを訪ね、この大仏の頭の上の方に落書をしたという貴重なものもあります。またここには北魏や隋のすばらしい彫刻も残っております。
 黄河を渡って西に参りますと北はゴビ砂漠、南は祁連山脈が連なっております。この道の途中には仏教伝来の麦積山の石窟があります。麦を束ねたような形をしているところからこういう名前がついたのですが、隋から唐、宋ぐらいまでの仏様がたくさんあります。またここは比較的西安に近いこともあって、各時代のすぐれた作品がたくさん残っており、石体朔像と申しまして、岩を浮き彫りにして朔像で仕上げ、着色したものもあります。私は今から十数年前の開放以前に行ったのですが、ここに瑞応寺というお寺がありまして、参道は宋時代のもので、日本でいいますと鎌倉時代につくられたままですから、木なども腐ったりしておりまして、非常に危険なところでした。

 そこからまた西の方敦煌まで行くのですが、その途中には武威、張掖、酒泉、それから万里の長城の最先端である嘉峪関、そして敦煌に入ります。
 敦煌は中国本土の出入口でありまして、ここから先は西域になります。西域とは中国本土から見ると未開の国という意味になるわけです。この敦煌には莫高窟という四百九十二の石窟が現在残っておりますが、古くは四世紀から元の時代約数千年間のものがございます。東京芸術大学では四回にわたって学術調査団を派遣し調査いたしましたが、その交流のうちから敦煌を守って欲しいという要請がありまして、今年の一月、私も発起人として「文化財保護振興財団」の設立ということに発展していったのであります。
 この敦煌にあります石窟は大体三層から成り立っておりますが、ここの地質は比較的やわらかい、岩と砂の中間くらいの脆さなので、解放後はコンクリート状のもので固め、現在では回廊あるいは梯子段によって全石窟をつないでおります。
 私が敦煌に参りましたのは昭和五十三年で、この時は汽車で行ったのですが、北京を出まして蘭州まで三十四時間、そこから酒泉まで二十七時間、酒泉からは車で八時間ですから、六十九時間もかかったわけです。
 敦煌はどういう重要な位置にあったかと申しますと、西には天山山脈、そしてパミール高原、また天山山脈の南にタクラマカン砂漠、その南には崑崙山脈が連なっております。また天山山脈の南、タクラマカン砂漠との間は天山南路といってオアシスのルートになっております。また天山山脈の北が北路です。崑崙山脈の北を西域南道といっておりますが、その南がチベット高原です。更に西の方、カラコルム山脈、ヒンズウクッシュ山脈が連なってアフガニスタン、北の方ソ連の中央アジア--キルギス共和国、タジク共和国、ウズベク共和国となっております。
 仏教はインドからパキスタンの南西を通り、パミール高原を越えて天山山脈の南にきて、カシガル、アクス、クチャ、ウルムチ、トルファン、コルラというところを通って敦煌へ来ております。南道を通る道はカシガル、ヤルカンド、ホータン、ニヤ、チェルチェン、チャルクリク、ミーラン、そして有名な樓蘭を通って敦煌へ出ます。また、インドからカシミール、カラコルム峠を越え南道へ入ってくる道もあります。あるいはまたヒマラヤの峻険を越えてチベットのラサを通り、青海省へ抜けて敦煌へ入っていく道もあります。このようなルートを通って仏教が東漸してきたわけであります。
 玄奘は往きの道はクチャ、アクスから天山山脈とパミール高原の間にあるペダル峠という峠を越え、ソ連邦のイシクル湖へ出て、チュー川という川を渡り、アムダリアの川を越えてヒンズウクッシュ山脈に入り、ガンダーラ、カシミールを経てインド国内に入っております。帰りはカラコルムを越えて南道を帰ったわけです。この南道が大変な道です。タクラマカン砂漠のあるところは現在新疆ウイグル自治区と言っておりますが、日本の三・五倍あります。そしてこの砂漠は四十万平方キロ、日本の領土が三十五万平方キロですから、日本列島の方が小さい、それだけ広大なものです。天山山脈は東西二千キロ、パミール高原というのは一番低いところで四千メートル、チベット高原も四千メートルあります。
 玄奘が一番最初に敦煌から苦労してたどりついたところがトルファンの高昌城ですが、当時の王様の泰文に庇護されて、そのお陰でインドへ行くことが出来ました。帰りに寄ろうとしたらすでに唐に滅ぼされた後だったわけです。トルファンは天山山脈の雪解けの地下水を人工水路によってオアシスへ誘導しておりまして、水の蒸発を防ぐためにポプラや柳の木を植えて、たくさんの水路を町や畑に誘導しております。外の方は六、七十度近い温度ですが、日陰に入ると乾燥しているせいかしのぎやすい。こういった中央アジアから西の方の内陸のオアシスの町はすべて泥でつくった煉瓦で築き上げられております。また、『西遊記』にも出てきます火焔山のモデルになったところでもあり、イスラムのお寺や拝火教のお寺やマニ教というキリスト教系のお寺の跡があり、国際色豊かな町だったことがわかります。
 私は玄奘の通った道を訪ねてこれらの道を殆ど歩いて参りました。気象状況から言いますと、内陸性の大陸性気候ですから、暑いころは南道の地帯になりますと日陰で五十度で、私もこれを経験しましたが、そのときに外へ出ますと摂氏七十五度です。ですから朝早く起きて自動車のガラスを全部閉めて突っ走る。試みにガラスをあけてちょっと外へ手を出したら軽いやけどを起こしますし、外へ出ますと脱水症状を起こすわけです。また寒い時はこのあたりは零下三十度になります。一昨年九月、その頃が一番よい季候というので樓蘭へ参りましたが、日中の温度が四十度くらいで、暑いときからみますと三十度以上も下がるという厳しいところです。玄奘は七世紀の前半に行っておりますが、さらにそれより二百年も昔張が行っておりまして、その時の暑い様子を「空を飛ぶ鳥なし 地を走る獣なし」と記しております。あまりにも暑いので夜、人や獣の骨を道しるべに西に向かうという描写がありますが、まさしく厳しい砂漠の状況です。そして九月の安定している頃でも砂嵐が起こります。私も一昨年これを経験しましたが、機関銃のように小石のつぶが真横にあたる。ジープの車体に左からあたりましたので、後でみましたら左側のペンキが全部とれておりました。それから六台で走ったのですが、二台のフロントガラスが破れました。とにかく車体は浮いて怖いし、視界は数メートル、ライトをつけても道はわからなくなり、瞬時にして砂丘が出来たりする、そういったすさまじい光景がいまでも起きております。
 こういう西域南道に昔は騎馬民族、いまはウイグルの人が住んでおります。この道を晴れているときはジープで走りますが、ちょうど駆逐艦が波に乗って飛ばすように、八十キロぐらいの勢いで砂漠の山の上を飛んで走る。乗っている私は馬に乗っているよう前の座席に手をかけて腰を動かしながらバウンドに合わせていくわけです。合わせそこねると車の天井に頭を強烈に打つ。そういう酷しい地理的条件ですが、しかし、こういうところにもオアシスが点々とあります。人工によって水源を確保して生活しているわけです。この地域は漢の武帝が騎馬民族を制覇するために攻略し中国領にしたわけですが、漢代から中世にかけて、この大陸の東西を結ぶ大幹線が、いろんな犠牲をものともせずに文物を運んだのがこのシルクロードの歴史です。その道が海に代わられて、やがて地中に没してしまった。それが十九世紀終わりから二十世紀の初頭にかけて、イギリスのスタインとか、ル・コック、或いはぺリオ等、日本では大谷探検隊がこのあたりをずっと歩かれ、そして再び世に出たわけです。
 私は一昨年このオアシスのあたりを歩いて一周いたしました。その時は一カ月かけて約七千キロぐらい走りました。たとえばホータンというところからニヤまでの距離が四百キロで、その間、人家が一軒もありません。出掛けるときには人工衛星からとったNASAの地図を持って行ったのですが、このあたりは砂で埋まっていて衛星からも道が見えなくなっている。ですから数キロ走るのに何時間もかかり、車が横転したり車輪が砂に潜り込んで手でかき出して進むなど、大変な苦労をしたことがあります。
 ニヤに参りますと集落の移動している跡が点々と見えます。水が涸れると町は放棄され、河岸を変えた水のそばに町や部落を移動するわけですが、一番大きいのは一万人ぐらいのゴーストタウンで、住居跡にいろんなものがありましたが、水がなくて捨てられたすさまじい有様が残っておりました。ここで驚いたのは、写生をしておりますと中国の同行者がワッと声をあげたので、そばへ寄って見ましたら、胸のところにヤジリが刺さっている白骨がある。考古学者がこれを見て漢の時代のヤジリだというのです。これは漢代の戦争の戦死者が、そのまま自然に砂に埋まってしまっているわけです。したがって漢のものもあれば、唐、明のものもありまして、それはヤジリとか鎧の部品でわかるわけですが、ともかくちょっと掘れば出てきますし、また土圧とか風によって再び表に出てくることがあるわけです。
 玄奘が冬に訪れたといわれるヒンズウクッシュ山脈の中にバーミアンというところがあります。高さが二千六百メートルありますが、玄奘はその時の様子を積雪十メートルと記載しておりまして大変なところです。ここに五十三メートルの大仏がありまして、天井には仏教伝来の壁画があります。こういう壁画はアジャンター、エローラ、オランガバード、バーミアン、そして中国の天山南路のクチャ、キジール、クムトラ、炳霊山、麦積山、雲崗、龍門の石窟というふうに足跡を残しながら奈良へやってきたわけです。
 いま中国人によってインダス川の上流にカラコルム・ハイウェーがつくられておりますが、そこは昔玄奘も通ったと言われておりまして、現在でも二尺もないような道幅のところもあります。ロバも足を踏みはずして落ちたりするというようなところですが、お坊さんや隊商などは大変な危険を冒して往来していたわけです。そういうところですから、今でも曲がる手前で白煙が上がるのをみたりします。岩崩れで道が通れなくなるためで、数年前に岩から落ちて亡くなった日本人もおります。このあたりでも夏には四十度くらいになりますのでとても走れず、夜中に走りましたら風による岩崩れで車がそこに突っ込んで大変な目に遭ったことがありましたが、そういうとても危険なところで、いつも何かザラザラと落ちてきております。中国ではこの道をつくるのに千人の犠牲者が出たといわれておりまして、私がちょっと高いところでスケッチしておりますと、塚みたいなものがあるので聞いてみましたら、みんなお墓だということでした。
 こういった厳しい中を玄奘は七世紀の中葉に歩かれたわけですが、いまでこそ進んだ装備や機械力、あるいは道具を持って行きますが、玄奘の時代はそういうものが一切ない、徒手空拳に近い中で大旅行をされたということは、大変な使命感によるものと、追体験しましてつくづく感じました。
 仏教は前六世紀に起こり、日本へ届いたときは約一千年後ですから、計算しますと一年に何十センチかずつ東へ向かってきたわけです。いろんな文化を伝えながらわれわれは今日あるのですが、その一千年の道をいま追体験をいたしまして本当に大変なところだと感じました。テレビなどで喜多郎さんの音楽を聞きながらシルクロードを見ておりますと、何かロマンに溢れたように見えるけれども、テレビにはわからない暑さとか、においとか、乾燥とか、あるいは治安の悪さというものがあるわけで、こういう大変な道を通ってやってきている。日本の今日の繁栄のバックにはこれだけのいろいろな西の文化の恩恵があるわけでございます。
 私はそういう意味で、東京芸術大学調査隊を出して保存に手伝ってほしいということを言われ、また、ここ二、三十年いろんな外国の文化遺跡に立って見たとき、先進国がどれだけ地道にそれぞれの文化保護をやっているかということを痛感いたしました。日本はアメリカとの貿易摩擦とか、オレンジとか牛肉、あるいは自動車やいろんな機械のことでたたかれておりますが、しかし何かお役に立つもろもろのことがあると思います。もし日本が防衛問題でも求められたとき、日本は攻撃力を持たない、専守防衛でいっているという憲法があるのですから、私は世界の文化遺跡を防衛しますということを提唱したらいかがかと思っているわけです。そういう意味で、経済が繁栄している現在、率先してイデオロギーの枠は越えて、どこの国のものであっても文化保護のお手伝いができれば、日本は平和という問題で世界に生きるべき道があるのではないかと思います。これが後世われわれの子孫のために徳を積むことにつながるのではないかと思って提唱いたしました。そのつもりで、今日三越で敦煌の救済事業の協力ということで展覧会をやって益金を寄付するつもりでおります。どうぞご協力の一助を賜れば幸いかと思います。

 ご清聴有難うございました。

 (日本画家・東京芸術大学教授・美術部長)
(本稿は昭和63年5月20日午餐会における講演の要旨であります)