東西美術史家の餘澤に思う
徳川義寛
(宮内庁侍従長)
No.778(昭和63年1月号) 

 昭和六十二年五月十日に児島喜久雄先生の生誕一〇〇年記念の集いがあり、私も思出話をさせて頂いた。この一文も思出である。

 ルーヴル美術館にあるレオナルド筆「婦人の顔の習作No.2376」は緑がかった紙に銀筆で描かれた素描の優品であり、「マドンナ・リタ」(エルミタージュ蔵)の習作に帰せられている。その絵はがきを児島先生から頂いたのは昭和七年二月であった。当時先生は仙台から時折上京してわれわれ学習院出の絵の仲間に学士会館で会って下さった。その絵はがきには次のようにしるされてあった。

  「君に会った後大西君と遇って又君の話をした。又々上京の機会には訪ねてくれたまへ。紹介状は君の到着前に間に合ふやうに出して置く。」更に三月下旬に下さった手紙には「紹介の名刺同封する。君は此名刺を出せばあちらは喜んで迎へてくれるだらう。あとは又あちらで紹介を方々へ貰った方がなまじい僕などの紹介よりも便利と想像する。Prof.Glaserは国立図書館の美術部長であることは君も知ってる通り、又知ってる通り専門は欧州美術史だが、東洋美術に関しても一寸した書物を書いてるし、Springerの第六巻にも何か書いてる。」

 私は四月八日神戸出帆、インド洋経由でナポリに上陸、ローマではヴァティカンのラファエロの大壁画の前で先輩の富永惣一さんに偶然出会い、パリに寄ってベルリンに向う車中で五・一五事件を聞いた。ベルリン到着後十日程後に道順をよく調べてからグラーザー教授をお訪ねした。ウンターデンリンデンから直角にフリードリッヒ街を南下して右折し、プリンツ・ アルブレヒト街に入り、南側に目指す国立美術図書館があった。そこはポッダマー駅の近くで、国立民族博物館の一部であった。隣接して東アジア美術部があり、部長はキュンメル教授であった。又近くにフィルハーモニーの演奏会場があったので、そのハウプトプローベ所謂シンフォニー・マチネーを聞きに何回となく行ったところである。丁度フルトウェングラーの時代で、近衛秀麿さんにお会いしたこともあった。

  グラーザー教授をお訪ねして児島先生からの名刺を差し出し、研究に際しての私の希望を述べたところ、研究の手引として、パウル・シューブリング『美術史の参考書』(聖徒物語、神話、術語、年表)をすすめて下さった。私の手にしたシューブリングは一九一三年第三版で、非常に便利であった。その折月曜日午后に来るようにと言われ、図書館の読書室の利用法を教えて下さった。その二日後には日独協会に行き、ラミング博士、黒田源次博士にお会いして、ベルリン大学就学中の山田智三郎さんを紹介して頂いた。六月になって月曜日の午前に黒田博士がキュンメル教授を紹介して下さった。その時はじめて東洋美術の展示室を見て廻った。

  クルト・グラーザー教授の著書には『古代ドイツの絵画』(十四、十五、十六世紀の絵画)があり、イタリアの影響、ブルグンドの影響、十五世紀前半、十五世紀後半の、ネーデルランドの影響、後期ゴティークのバロック、十六世紀の巨匠デューラー、グリューネワルトまで及んでいる。

  東洋美術に関しては、共著としてシュプリンガー編『美術史』第六巻のうち中国・日本の美術を取扱い、一九二九年クレーナー出版であった。

  『東アジアの美術――その思索と造形の周辺』は一九二二年インゼル出版であり、グラーザー教授は一般に創作者からのみ観察される芸術作品が日本では享受者によって生かされていると説き、美的享受は瞑想に達し、床の間は祭壇になると述べられている。礼拝像と人間像、花鳥画と風景画の自然観、水墨画の境地も説明された。

  『東アジアの彫刻』は一九二二年カッシーラー出版であり、グ一ラーザー教授の叙述は歴史的進展の順を追って、中国古代は秦漢の彫刻からはじめ朝鮮の彫刻と比較しつつ日本の上代から近世の彫刻に及んでいる。

  オットー・キュンメル教授はブルガー創立、ブリンクマン編集の『芸術学叢書』アカデミー出版のうちから一九二九年出版の中国・日本・朝鮮の美術について叙述した。中国は周代青銅器から明清の陶磁まで、日本は神殿建築から仏像、浮世絵まで、朝鮮は六、七世紀の彫刻に限られている。

  『東アジアの道具』一九二五年カッシーラー出版はキュンメル教授の選定と記述であり、中国の礼拝用銅器、仏具、文房具、茶道具、香道具、武具、家具、楽器に分類して、東洋工芸の特質が記述された。

  キュンメル教授は一九一三年以来の定期刊行物『東アジア美術雑誌』の編集者であったこともあり、ティーム・ベッカー・レキシコンの美術家伝の執筆者でもあった。後年教授は国立博物館総長に就任した。

  ベルリンでは昭和七年(一九三二年)の晩秋から翌八年早春にかけて時勢が急転回しつつあった。私は八年の夏学期から大学に入学することにして、四月二十一日の入学式にも出席した。ところが五月には各地大学の教授の罷免が相次ぎ、グライヒシャルトゥング(統制)が流行語となり、ベルリン大学でも学生の行き過ぎた行動を遺憾としてシュプランガー教授は辞職し、アルトゥール・リーベルト教授は開講せず、祖父母の一方がユダヤ系である人は入学に支障を来し、一五%に就学許可が与えられる状態になった。五月九日にグラーザー教授が退職することになり、早速お訪ねしたところ、フランスとイタリアへ暫く旅行するとのことで旅行の準備中であった。立ち退き命令は突然であったらしく、同教授は昨秋夫人を失い、今また国外追放になるなどお気の毒に思い、児島先生へもお知らせした。教授の好意により国立美術図書館では黒田博士の尽力による中国日本古代版画展が開催されていた。又同日マックス・リバーマンがアカデミーを脱退した。パウル・クレー、グローピウスも去り、ワルター、クレンペラー、シュナーベルも同じ運命に逢っていることと思った。私は講義の他にブリンクマンの演習に出た。七月にはヴェルフリンが『ロゴス』のリッケルト記念号に美術史の基礎概念の修正を発表した。一九一五年発表の基礎的対概念の合理的進展に制約があるとされた、『ロゴス』は翌年秋に題名を『ドイツ精神』に変えることになった。ヴェルフリンは既にチューリッヒ大学にあり、ベルリンはブリンクマン、ミュンヘンはピンダーであった。

  なおニコライ・ハルトマンが古代哲学史、マックス・デッソアールが近代哲学史の講義をしていた。デッソアール教授には美学及び一般芸術学会の集いでオーデブレヒト講師の紹介でお会いした。昭和九年五月ドロテーン街の演習室で行われたシュテファン・ゲオルゲについての講演は簡明で充実していた。デッソアール教授はゲオルゲを語る言葉の中に自らを語り、又多くの共鳴をこの詩人に捧げた。その詩が新しい時代を象徴するかに見えたこの春にゲオルゲは淋しくロカルノ湖畔で他界した。聴講は殆どが学生ではなく、教授連やデッソアール・サークルの人達で、デッソアール教授は入口で一人一人に挨拶をされていた。

 昭和三年十一月号の『改造』に矢代幸雄先生の「ヴァサリのレオナルド・ダ・ヴィンチ伝」和訳が載った。その前文にレオナルドへの讃辞が掲げられ、トリノ市王立図書館蔵レオナルドの自画像素描が挿図とされた。それよりも前に改造社から出た『太陽を慕ふ者』にも矢代先生はレオナルドに逢ふ日などを書きしるして、西洋美術研究を志す人達に夢を与えて下さった。英文の『ボティチェリ研究』は広く国際的に知られていたが、火曜昼食会や東洋美術国際研究会を企画して、美術の観照と歓談の場をつくられたことを、例を挙げて述べさせて頂こうと思う。

  昭和十四年二月七日に数寄屋橋の東京ニューグランドで火曜昼食会があった。矢代、石沢、野村、ソーブリッジ、J・モリス、ドーナート、バルト、フォン・ウェークマン氏らの他に姉崎教授、サンソム氏、更に古垣氏の案内で先に漢口に従軍した林芙美子さんも出席、著書『戦線』を土産として持参された。

  昭和十五年二月二十日に東洋美術国際研究会の発会式があり、その夕方に、紫式部日記絵巻(蜂須賀氏蔵)、雪舟筆山水図巻(毛利氏蔵)、光悦・宗達合作歌の巻(団氏蔵)の展観があった。この研究会は名称の英文を直訳すれば東洋美術友の会であり、事務所は上野公園美術研究所内にあった。

  美術の歴史や理論の研究が盛んになってきたことはよいことだが、すぐれた作品が人の心を豊かにし、人生の喜びとなることがなお一層大切だというのが矢代先生の持論であった。先生はそれを実行して交友の場をつくり、われわれも互に親交を温めたのであった。児島先生が「レオナルド研究」を追究され、解釈学的記述によってわが国の美術史学を確立されたのに対して、矢代先生は美を慕う心を自由に書き綴って『歎美抄』(東洋美術の諸相)を残された。私はそこに両先生の特長が生かされていると思った。

  昭和二十一年一月十三日晴天の日曜日に、家内と北鎌倉の山田智三郎邸へ向い、正午少し過ぎに到着した。そこで会ったサンソム氏とは昭和六年夏以来の知己であり、久し振りに会って、よく戻って来て下さったという気がした。日本には二十年も居たが、開戦当時はシンガポール、ジャバ、オーストラリアへと逃れ、氏は軍用飛行機に乗れたが、夫人はシンガポールから海軍長官の好意でジャバへ向う途中海戦となり、爆撃に遭ってひどい目に遭ったとのこと、又ジャバの日本人は友軍機をむしろ敵が来たと言って苦笑していたとのことであった。氏はロンドンの近況について、二週間もガスが出なくて閉口したが、ストライキのためであったという。日本へは今度ツーリストとして来ようと思っていたのに、軍艦で来ようとは全く予期していなかった、皆が無事でよかったと、うれしそうであった。食糧不足の時代なのでわれわれは持参の弁当を拡げ、サンソム氏、山田夫妻と同時に昼食を摂った。食後サンソム氏が十年程前に作庭し、道を開いたという旧宅を見に行こうと出かけた。光琳風の庭、室内の戸棚にはサンソム夫人作の丸帯の布地張りが残っていて、氏は懐旧の念に堪えないという風に見えた。同宅では近く東洋美術国際研究会に出て通訳に当るというノルウェーのトゥールネーさんに会った。サンソム氏に途中で別れ、われわれは夜になって帰途に着いた。別れる前にサンソム氏はわれわれの友人の一人ヒュー・バイヤスが亡くなったと知らせてくれた。終戦直後の九月中旬に、陛下の御日常を外国に知らせるのに何かよい案があるかと石渡宮相からたずねられた時、少し古いけれどもヒュー・バイヤスがニューヨーク・タイムズに書いた記事をお渡しした。そのことを私はよかったと思っている。彼は日本をよく知っていて、『世界』に「敵国日本」を書いたことがあった。

  昭和二十一年六月二十日には米国からのラングドン・ウォーナー氏に、その後スウェーデンからのオスワルド・シレン氏にお会いしたが、日本にある美術品がどうなったかが気がかりであったと話された。数年ののち米国から来日したマックス・ レール氏とは二十年ぶりの再会であった。彼にはベルリンのキュンメル教授の研究室とミュンヘンで会ったことがある。北京の研究所に十年いてから米国に渡り、ボストンで中国美術の研究をつづけていた。著作に『中国美術――シンボルとイメージ』一九七〇年出版、『古代中国の玉』(ウィンスロップ・コレクション)一九七五年出版、『中国の偉大な画家達』一九八〇年出版等があり、いずれもすぐれた研究であった。一九八三年に東洋美術研究の成果に対して彼はフリーア・メダルを受章した。

  昭和四十三年に私は東京でハイドリッヒ著『美術史の歴史と方法への寄与』(複刻ヒルデスハイムのゲオルグ・オルムス一九六八年出版)を手に入れた。ヴェルフリンは序文の冒頭にエルンスト・ハイドリッヒは一九一四年十一月四日西部戦線で戦死したと書いている。若き死者の友人が講演を整えて出版したのである。一九一七年バーゼルのベンノ・ シュワーベ出版の原本をベルリン時代に古書肆ストライザンドに注文した時、ゲルトルード夫人から絶版で差し上げられないのは残念と知らせて下さった。時々立ち寄ったストライザンドで私は河野與一先生にお目にかかったこともあった。

  一九五三年出版のニコライ・ハルトマンの『美学』を手にして、かつてのベルリン時代の講義中の教授の姿を思い浮べた。その頃に体系的叙述の形式による冊子を見ていたので、大体の輪廓は解っていた。しかし一九五三年六月ゲッチンゲンでしるしたフリーダ夫人の後記には、出版に至るまでの苦難の道が示されていた。ベルリンの包囲と占領、飢餓と混迷の時、外界から遮断されて却って著作に集中したのを幸として書き進めたと述べられている。決定稿は未完に終り、古い草稿と比較してハイムゼート教授が出版にまで援助したと述べ、感謝の辞が捧げられている。

(宮内庁侍従長・東大・文・昭5)