ボーボワール「老い」を読む
篠原 一 No.773号(昭和61年6月号)

 ご紹介頂きましたように私は今年三月東大法学部教授を定年退官いたしまして、成蹊大学に参り文学部で講義をいたしております。なぜそういう道を歩んだのかと申しますと、いままでやってきたことと同じことをほかの大学に行ってやるということは、老いをますます深めるのではないかと思ったからであります。これからは少ししんどいけれども全く違ったことをし、違った人とつき合いをしてみようかという意図で、あえて文学部を選ばさせていただいたわけであります。しかし、私は別に文学者でも、ボーボワールの研究家でもありません。ですから、今日の出席者名簿を見ますと文学部出身の方が少ないので安心しております。文学部的な質問でもされると何も答えられないことになりそうだからです。この頃は、学生にもかたい本は殆ど読まれなくなりましたが、古典に近いものをじっくり読むということは大変にいいことではないかと考え、せっかくならボーボワールに挑戦してみたいとこのテーマを選ばせていただきました。

 ご存知のように、ボーボワールは長寿を全うして最近亡くなりました。彼女は大変多くの著作を残し、皆さんご存知のように、ウーマンリブの先駆けとなりました『第二の性』という女性論などは、最も有名な本ですが、それと並んで彼女のニ大作の一つがこの『老い』という作品ではないかと私は考えています。たまたま彼女がその老いに終止符を打った時でもありますし、私自体が定年退官を迎えて、新しい人生を歩み出そうとしているときでもありますので、老いを自分自らの問題として真剣に考えてみる必要があるんじゃないか、と思ったわけです。

  シュテファン・ツヴァイクという有名な評論家がいることは皆さまもご承知のとおりですが、彼は自らが歩んできた戦間期を回顧して『昨日の世界』という名著を残しています。良心と鋭い感受性に恵まれたこの知識人は、ナチの世界侵略に絶望してその後自害をとげましたが、私は彼の著作に感動しながらも、しかしむしろ『明日の世界』に生きようと思っていますので、前向きに「老い」に挑戦していきたいと思います。

  さて、ボーボワール自体の作品について語らなければならないのですが、ボーボワールははじめのところで、自分がこのテーマを選ぼうとしたとき、いろいろな人から何と陰気なテーマを選ぶのかと言われたと記しています。またボーボワールによりますと、ある連載漫画の作家はその登場人物のなかに祖父母の老人カップルを入れたために、編集者から大量の書き直しを命ぜられ「年寄りは消せ」といわれたということであります。確かにこのテーマはテーマとしてはあんまり愉快なものではないと思いますが、しかしわれわれ、ことに六十近くなっている人間は人に何と言われようと老いに体当りをしなければなりません。しかしわれわれは老いてもなお老いと体面することを避けています。プルーストがいうように「人生のあらゆる現象の中で、老いは、われわれがもっとも長い間たんに抽象的な概念しかもっていない現実である」のかもしれません。要するに抽象的な概念であるということは、自分は年取るのじゃないかと思ってはいるのですが、本当に年取るという実感がわれわれの中にないということです。ボーボワールもそれに挑戦するためにあえてこの本を書いたのだと思います。彼女がこの本を書いたのは六十三歳で、ちょうど老いの境目に入ったときでした。確かに生に対応するものは死ではなく、まさに老いにほかなりません。

  ボーボワールの大作は、二部からなり、第一部は外部からの視点という題になっています。ここでは膨大な民族学の文献を使い、原始的な未開社会における老いがどういうふうに取り扱われていたかということを分析し、その次に歴史社会――ギリシャ、ローマから二十一世紀に至る人間の歴史社会――において老いが客観的にどういうふうに取り扱われてきたかということを取り上げ、まさに圧巻です。第二部は、一転しまして人々の心の中から老いを見ていく、という手法をとり、古今東西の作家、学者の作品を題材にして人々が老いをいかに認識してきたかを生き生きと描いています。

  最初に内容の重点的なところだけを若干説明しておきますと、たとえば、ご承知のように、未開社会におきましては、老いというものは非常に重要な問題でありました。しかし未開社会でも老人の扱いは様々であり、老人が殺され、遺棄される社会もあれば、伝習とか宗教が尊ばれる社会では老人が崇められる場合もあることが報告されています。たとえば、アリューシャン族はカヌーで移動しながら漁をしてくらすモンゴル族の一種ですが、彼らにとっては両親を見棄てることは恥辱であり、長寿を保つことは子孫に対する模範として尊ばれています。そして老人たちを大切にする未開社会の例からすれば、老人が大切にされるには二つの理由があったのではないかといっています。一つは、宗教やシャーマニズムが社会の中で重要性をもつにつれて、老人の持っている知識とか、経験がその共同体にとって価値をもってくる場合です。もう一つは、両親が子供を育てるときに、ほったらかしで愛情を持って育てない社会が多いようですが、やはりそうではなくて、未開社会の場合でも、子供を親が大切にして、教育し、愛し育てているところでは、老人がその社会で尊重されています。おそらくこの二つの条件が合ったときに、未開社会においても老人が尊ばれるのではないかと思われます。私がなぜこういうことを申し上げたかと申しますと、文明社会に、おいてもほぼ同じようなことが言えるのであり、これは未開社会の問題だけではないからです。日本にも『楢山節考』という作品があり、母親をおぶって山にいき、おいおい泣きながら山に棄ててくるということが書かれていますが、同じようなことは現代社会にもあるのじゃないか、われわれ自体、そういうことを現にやっていないだろうかということを問題にしたいと思います。

  この第一部の中では、さらにいろいろな歴史社会での老人の問題が取り扱われております。皆さんご存知のように、中国は伝統的にも思想的にも老人を最も大切にする社会だといわれていますが、しかし西洋社会、ことにギリシャなどでは肉体という価値を尊びますから、やはり老人は廃棄物とみなされる可能性があり、一般的に見ると、必ずしも老人は幸せな生活を送っていなかったといってよいようです。

  ただし、十九世紀から二十世紀にかけて、社会の下積みにある老人の問題が制度的に取り上げられ、たとえば年金制度とか、老人ホーム、それから健康保険制度など一連の問題が社会的な制度として取り上げられるようになり、人間社会が新しい展開をしてきました。この問題はまた後にのべることとして、彼女は、そういう社会的な構造の問題も大切だけれども、やはり老人にとっては「不意打ちにやってくる」老いに対して個人的に、内面的にどう対処していくかということが問題であり、古今東西の学者、作家がこの問題に対してどう対処したのかということが注目されます。

  老いることの悲劇は、当り前のことですけれども、未来がますます少なくなって、未来に対する企ての可能性が之しくなってくることですが、こういうことは思想家や、著述家にとっても同じことであり、彼女は非常に該博な知識を駆使しておもしろい引用をたくさん提供しています。もちろん楽観論、悲観論があり、人によっては老いに対して非常にオプティミスティックな態度をとる人もいないわけではなかったようです。ボーボワールにそって若干この問題にふれてみたいと思います。

  これからややかたい話になりますので、若干の引用をすることをおゆるし下さい。さて、私は年取ってテレビなどに出るのがいやになってきましたが、それは自分の体とか顔が、ブラウン管に映るのがいやだからで、確実に老いているという感じがするためです。ポーボワールも同じようなことを言っています。

  有名な画家ゴヤは、七十歳のときに自分の五十歳の自画像を描いたそうですから、やはりこういう天才でも、自分の年取った顔とか体とかいうのは非常にいやだったのだろうと思われますが、しかしボーボワールが引用しているセヴィニエ夫人という人は不断に進行する年の変化を神の摂理の一つと考えたようです。「神は人生の異なる幾つかの時期をつうじて私たちをまことに慈悲深くお連れ下さるので、わたしたちはそれらの移り変りを殆ど感じません。この傾斜はなだらかに進み、意識されません。それは動いていくのが私たちには見えない文字盤の上の時計の針ににています。これは私が感嘆してやまない神の奇跡の一つなんです」といっています。

  大変に美しい言葉で、われわれもそういうふうに考えればいいのかなあという感じもしないわけではありませんけれども、実際はそういう考え方を持つ人、楽観論の方が非常に少ないので、この問題については悲観論の方を中心に考えてもいいと思います。

  ただオプティミストの話は楽しいので、若干それをつづけさせていただきます。ボーボワールがあげている楽観論者の代表は有名な詩人のホイットマンでして、この人は楽観主義の典型でした。この人はいろんな詩を書いていますけれども、その中に青春という美しい詩があります。

 「青春」、大きくて元気がよくて、愛にあふれて――優美さと力強さと魅力の横溢する青春よ。

  君は知っているか、ひょっとしたら「老年」というやつが君たちに劣らぬ優美さと力強さと魅力をそなえて君の後からやってくるのを

  というように歌っています。

  彼はそういうように、若い昼の太陽の後にまた再び美しい夜の精――老年のときが来るということを美しくうたったわけですけれども、彼もやはり晩年になって体が不自由になってきますと、その悲惨、老いを悲しむ気持を告白しています。

  そういう点でボーボワールが出している例の中で、私が感心したのは、皆さんご存知のトルストイです。この人は老人になっても非常な活躍をしました。何回も病気をして、もうだめになりそうになってまた持ち直し、活躍をしたのですね。当時は帝政ロシアの時代で、農民運動に対して帝政政府が弾圧をしたのですが、彼は病の身にありながら、この弾圧をいきどおり「黙すること能わず」という公開状を出したり、当時の最高指導者ストルイピンに対して抗議文を送ったりして大変な活躍をしました。むしろそういう活躍をすることを通して病気が治ったという面もあったようで、私などこれからも大いに模範にしたいと思っています。もっともこのトルストイも最後は旅に出て駅頭で死んでしまうのですが、しかし少数だけれども楽観的な老いを生きた人もいることは確かです。

  しかし大部分の人は先程申しましたように悲観を持っておりまして、たとえば有名なフランスのモリヤックもそうです。「老人に向って、人生から得た豊富な経験などと言わないでもらいたい。あのように長い年月のあいだわれわれのなかに流れこんだもののうち、われわれが留めたものは何と少ないことか、信じられないほどである。いろいろな事実はぼやけてしまうか、忘れられてしまった。でも思想についてはどうだろう。五十年間の読書……しかしいま何が残っているか」といっています。アンドレー・ジイドも確か七十五歳を過ぎてから、自分はもう何も書くことがない。何を書いても繰り返しになるということを日記に書いております。彼のように非常な創造性を持った人でもやっぱりそういう憂いを持っていたということは、私もまだ老いの入口ですけれども、わかるような気がします。

 さて、ボーボワールはいろいろな事例をあげて問題を縦横に論じたあと、次のようにいっています。「老いが心の明澄さをもたらすという偏見は徹底的に排除されなければならない。古代以来、成人は人間の境涯を楽観的な光の下で見ようと努めてきた。成人は自分以外の年齢に自分がもっていない美徳を押しつけてきた。すなわち、純真無垢を子供に、明澄さを老人たちに。……これは都合のいい幻影であった。なぜなら、この幻影は、老人たちがあらゆる病苦にうちひしがれていることを知っているにもかかわらず、老人たちは幸福なのだと考えることを人に許し、彼らをその境涯にうち棄ておくことを許すからである。ロールシャハト・テストは、すべての老齢者、たとえ不安などは感じないと主張し、自分の境遇に満足していると言う者にさえ、不安があることを示している」と。

 このことからもすでにうかがえるように、ボーボワールは問題を個人の心がまえの問題に局限せず、老人問題についてもそれを常に社会構造の中において考えようとしているところにその特色があります。そこに彼女の真骨頂があります。そして彼女は、この点に関してニつの欠点を重視しています。

  第一は、老人といっても同じカテゴリーで論ずることなく、豊かで恵まれた少数の人と、大多数の、彼女の言葉で言えば被搾取者とを区別して考えることです。日本でもここにおられる方はどっちかというと恵まれた方に属する方々ですから、こういうことを申し上げたかったのですが、たとえば、生活保護を受けるような老人は怠けものだということを言ったえらい人がいましたが、自分がある程度恵まれた地位にあるからといって、そういう考え方をすることは、やはり問題です。

  最近は、考人医療なんかの問題をめぐって、老人の自立自助ということが盛んに言われています。けれども、その自立自助ということは精神としてはもちろん必要ですが、自立自助をしようと思ってもできない人がいっぱいいる。それがむしろ老いであって、老人なんだということを私は忘れてはいけないと考えます。

  大部分の人々、私が見ている老人たちはそういう人たちであります。私などは、芸術家ほどの才能はありませんが、比較的知識の蓄積がありますから、年を取っても何らかそれで生きていくということはできるのですが、大部分の人にはそういうことはないわけでして、私みたいな学者とか、あるいは大資産家という特権的な地位から大部分の老人を論ずることはできないと思われます。たとえばミケランジェロのように非常に年取ってから創造的な作品を書いた人でも、やはり年取ってくればだんだん創造性が衰えてくることは明らかでありますが、それにしてもそういう特殊な人を普通化して、一般の人に及ぼすわけにはいきません。東京都などでは老人パスが公布されておりますが、老人パスなんか要らないという財界人がいますけれども、必ずしも一般の大衆の人はそう思っていないのじゃないでしょうか。私も最近職を変えてからバスに乗ることが多いのですが、非常にたくさんの老人があのパスを使っています。結局そういうものを持っていることによって非常に社会に出やすくなっているということがあるわけで、まあ年収五千万もあるようなご老人がパスは要らんというのはちょっと問題があるのではないでしょうか。人間に対する痛みをやはりいつまでも持ちつづけたいと思います。

  それから第二点は、ボーボワールもしょっちゅう言っていることですが、彼女の言葉をかりれば、人間の老化現象というのは常に社会の中で生ずるものであって、それは社会の性質ということによって左右されるのだということです。彼女は、老年期において人間が一個の人間であり続けるためには、社会はいかなるものであるべきかと質問をしまして、自問自答しています。答えは簡単だ、すなわち彼――老人が、それまでの生活を通じて常に人間として取り扱われていたのでなければならないということだといいます。つまり老人問題を取り扱う仕方によってその社会の質が決定されるのだというのです。むしろこの問題こそが社会をはかるもっともいい鏡になるのだということをボーボワールは強調しているわけです。私の読み方が足りないのかもしれませんが、ボーボワールは北欧の福祉国家に関しては比較的好意的でありますが、それ以外のフランスも含めて先進国に関しましては非常に批判的です。極端に言うと現在の先進国は文明国ではないのじゃないかということを言っているように私には思われます。

  一応ここでボーボワールの話を終りまして、では日本は本当に文明社会になっているのか、どうかということをこれから二十分ほど話してみたいと思います。ここにはおそらく経済の専門家とか、官庁にお勤めだった方、あるいはお勤めの方もおられて、異論があると思いますけれども、私は最近の政治問題でもっとも気になったのは、一九八三年の二月にできました老人保健法です。この法律を見ますと、たとえば入院のときは二カ月間毎日百円、外来の場合毎月診察料四百円を払うというような規定があります。それがいいかどうかについて盛んに新聞で議論されました。それが今度、外来が千円に、入院が五百円になって、しかも期限がなくなる、といわれています。ともかくこれまでの制度の改正をしようとしているのですが、やや極言すれば、この初診料とか入院料は、ほかの問題に比べれば大した問題ではないのじゃないか。そういうところ以外にむしろ問題があるように思われます。この法律は保健法という名の通り、老人の病気を予防するという非常にいい趣旨で書かれているのですが、その中にいまの初診料だけがポッと入っています。実はこれを決定した政治家も殆ど知らなかったというのですが、その後幾つかの施行規則とか、それを実施するための基準とか、医療報酬の点数とか、パタパタと細かい規定ができまして、結局どうなったかといいますと、要するに老人病院をつくって一般病院と区別し、老人病院に入った人は普通の人と違って差別をされるということになりまして、細かいことは申しませんが本当に驚くことばかりです。そういう法律用語があったのかなあと思うくらい妙な言葉が並んでいます。ただしこれは七十歳以上で寝たきりになって入院した人の話です。元気な人は四百円払えばいいわけですからそこのところがわからないのですが、老人病院に入りますと、たとえばみだりに注射を打ってはいけないとか、みだりに治療をしてはいけないとか、みだりに入院してはいけないとか、何かそういう言葉がやたらに出てきます。やたらに出てくるだけならいいのですが、それをちゃんと点数制で具現しておりまして、長くいればいる程病院はもうからないような仕組みになっております。一年たつともう全くペイしませんから、お医者さんとしては出ていただくよりしようがないということになります。

  七十歳以上の老人に関しましては、たとえば七百五十円の点滴注射料は二百円しか認めない。心電図は月一回、それから尿とか血液等の検査はまとめて一カ月千五百円まで、注射料は月千円までというふうになっております。また耳鼻咽喉科は一まとめにして一カ月三百円ということになっております。元気なときはいいのですが、いざ病気になって寝たきりになってしまったら、もうこれは注射もしてもらえないということになります。もちろんお金を持っている人は自分で払わなければいけません。私が去年調べましたところ、東京都の中で、いままでお世話料という、おむつなどについて私的な支払をする金額が月十万円を越しています。従来は五、六万円平均であったのですが、それが倍の十二、三万になりました。その上に付添い看護料というのがついてくるわけです。それは平均二十五万円ぐらいかかります。こういうふうに、お世話料というお金を払わないと入院させてもらえないし、もし入れてもらえても金のない人はおむつを一日に二回しかかえてくれないということになります。私はやはりこれは非常に悪い制度ではないかと思います。ともかく財政が赤字になったためというのですが、それはだれの責任でそうなったのか。いま寝たきり老人になっている人のせいではないことはたしかです。ともかく一番先に切られていくのは老人医療で、しかも寝たきりになった老人についての費用です。そういうことは、ボーボワール的にいえば、日本の社会の一つの性格をあらわしているものだと思います。私も退職金を若干もらいましたが、もう全部ためて寝たきり老人になったときに看護料を払えるようにしておこうと決意をいたしました。こうなると、多くの人が入った金を貯金に廻してしまいますから、内需などはでてきません。銀行に金がたまって財テクばかりが花盛りになるという悪循環になります。

  実は老人の有病率は、六十歳以上の場合は普通医療の三.五倍といわれています。これはあたりまえのことでして、お医者さんにお伺いした方がいいと思うのですが、たしか有病率は三五、六%あって、実際かかっている人は半分しかいない。みんな遠慮しているのです。別の調査ですけれども、若い人を調べますと、四%有病率で、どういうわけか五%病院に行っている。老人が医療に金がかかるということはあたりまえで、もしその老人が金がかかるとすれば、やはり社会が――政治が、うまい処置をしていかなければなりません。最近のある新聞の言葉を使えば、社会が親孝行するという精神がなければこの問題は解決しないわけです。自立自助をしろといってもできない多くの老人たちがいま寝たきりになった場合どうするかが問題です。やはりいま社会の質が問われているのです。これが第一の点であります。

 この問題をのべていくときりがありません。私の友人のある女性の学者は、介護人になって、この老人病院の中に入り込みまして三日間生活をともにしました。その方はいやすさまじい。本当に涙が出ると言っておられました。いまその方はベルリンに行って不在ですが、私はここに目に見えない非常に大きな問題が横たわっているような気がします。ガンの場合と同じように、結局死んでしまう人に抗ガン剤のひどい副作用があっても、みんな黙って死んでいきますので、問題が大きくならないのですね。私みたいに図々しい人間が生きのこって、それをしゃべるとどうにか少しは問題になるのですが、しかし、にもかかわらず大部分の人々はガンで苦しんだうえにさらに苦しんで死んでしまいます。同じことが老人医療の世界で、もっと大々的にされているのじゃないか、どうも私にはそういう気がしてならないのです。ボーボワールの「老い」を読みたいと思ったその背後にも、実は三年前からそういう気持が私の心の中に常にわだかまっていたからです。そういう背景があっていまこういう話をしているのだということをご理解いただきたいと思います。

  第二番目は、日本の社会はこれから大へんな高齢者社会になって、ある統計によりますと、紀元ニ千二十年には六十五歳以上の人の比率が、二一.三になるとされています。しかし国連の統計でいくと、確か一九.三か六ぐらいだと思うんですね。最近ではもっと高い数字が出されていますが、日本の社会がほかと比べて特にひどくなるということはあまり確かではないのではないでしょうか。社会の高齢化がある程度のスピードを持ってすすむということは間違いないことですが、最近の政治や社会を考えるときには、統計というものをもう一度よく吟味しないと、統計によって誘導するということが意識的になされているような気がしてなりません。

  これはまた統計の問題になるのですが、高齢者人口の比率というのは、いま申しましたように、たとえば六十五歳とあとの全人口の比率によって出されるわけですが、本当に物理的存在としての高齢者というのではなくて、要するに社会的な政策の対象として見る場合は、そういう統計はあまり意味がないと思います。つまり生産人口と、いま働きをやめた人、あるいは将来働く子供たち、つまり非生産人口との比率ということの方が、大切だと思います。これは変な言葉で、従属人口係数といいますが、厚生省の統計資料に基づいてある学者が従属人口係数の統計をつくったところ、結論的に言うと、日本の場合は二十世紀の終りに近づくにつれて生産者人口――したがって従属人口扶養負担の比率がだんだん多くなっていきます。

  高齢者の比率だけとると別ですが働く人口の比率は世紀末までふえまして、そうして確かに二十一世紀になるとやや下がります。しかし下がっても大体昭和三十年代の初期と同じだということです。だから統計の取り方によりましてそんなに深刻な問題じゃないということになります。少なくとも政治の方が資源の配分をしっかりすれば、大した問題になりません。もちろんそれに反論している政府サイドの人もありまして、若い人と老人とは生計の費用が違うと主張しています。要するにトランスファーの問題ですが、政治というのは資源をどこからどこへと移動するもので、それが政治です。だから従属人口係数が減る、あるいは従属人口係数が不変だとすればそんなに騒ぐ必要はないでしょう。ことに労働人口については、これから女性の就職率がますますふえていきますので、実際に労働する人口はふえると思います。問題はトランスファーの問題であって、そんなに絶望的な状態ではないと思います。ただ厚生省だけの立場からすれば、予算を七千億減らしなさいといわれれば、その中で処理しなければならないから大変でしょう。しかし政治家はその枠をこえて資源をトランスファーすればよいわけで、そういうことをすることがそもそも政治なのじゃないかと思います。それでなければ政治家などはいりません。このように、政治さえしっかりしていれば大した問題はないのです。

  なぜこういうことを申し上げたか申しますと、繰り返し申しますように、老人保健法のような取り扱いをするということは、やはり文明の質に関する問題ではないかと考えるからです。対象となっている老人はいままで一所懸命働いて日本の社会を支えてきた人々であり、そういう人たちは別に寄生虫ではなく、日本の繁栄にもっとも多く貢献してきた人たちですから、その人たちに対して資源をトランスファーするということは当然なことです。そういう精神があるかないかということが、文明社会の決定的なメルクマールになると私は考えています。

  それから三番目はもっと大きな問題になります。老人問題に経済政策として費用を投ずると結局日本の経済社会がもたなくなるのじゃないかという考え方があるようです。岩波から出ている『世界』の最大のテーマは内需拡大です。ここには経済界出身の方もたくさんおられると思いますが、内需という言葉の歴史――歴史というとやや大げさですが、この二、三年の流れを考えてみますとおもしろいことがわかります。去年の春頃までは圧倒的に内需には反対でもっぱら緊縮財政が主張されていました。その中で次第に内需論が頭をもたげてきましたが、それは土木事業というか、公共事業をふやそうという内需論で、これは企業の利害と連関しますので、割に早く主張されるようになりました。ところが、去年の春頃までは賃金をふやせということはタブーでした。これは新聞をごらんになっていただくとわかるのですが、いろいろな経済の内需論がいわれる中で、賃金をふやせということははっきり書けませんでした。ところが、その後財界の方々も、やはり賃金をもうちょっとふやすべきだというようになりました。今年は一層そういう風潮がつよくなっています。現実はそうはならなかったのですが、ともかくそういうことが言い出されるようになりました。私にとっては福祉などを純粋に経済タームだけで考えることは涙が出るほど悲しいことなのですけれど、おそらく内需の需要の柱が外にあるとすれば、それは福祉政策じゃないかと私は思っています。ところが、それはいまタブーで言っちゃいけないことになっているようです。

 ご存知のように、一九二九年に大恐慌が起きたときに、各国により対応の仕方はことなり、以前のとおりデフレ政策で行った国もありますが、しかしスウェーデンは積極的なケインズ的な政策、むしろ不況のときこそ有効需要をふやせという政策をとりました。アメリカでもそういう政策がとられました。しかし一部の学者は、アメリカとスウェーデンの経済政策を一緒にして理解するのはまずい。スウェーデンのニューディールというような言葉が使われているけれども、アメリカのニューディールの政策は、何といっても企業を活性化させるということにウェートを置いて、失業を減らすとか、失業者の賃金を上げるということは、政策の視点からいって殆ど念頭に置いていなかった。したがって、そういう学者の言葉によると、これはコマーシャルなケインズ主義であるということになります。つまり、商業的、あるいは市場的ケインズ主義と定義すべきだというわけです。それに対してスウェーデンの場合は社会的ケインズ主義であるということを言っているんですね。これはなぜかというと、スウェーデンの場合はまず第一に、日本のように前から失対事業みたいなのがありまして、この種の事業に工夫をこらし、またその賃金を引き上げた。それからもう一つは、そういう政策が成功して恐慌が回復してくると、余った金の多くを福祉に投資した。そういうことによって完全雇用がいち早くスウェーデンに達成した。そういう意味で、単なる公共事業による景気回復だけじゃなくて、賃金とか、それからもう一つは福祉ということを念頭に置いた政策体系であるから、それは社会的ケインズ主義とよぶべきだというのです。 ところが、今日世界を見てみますと、再び同じような考え方の違いが出てきています。例えば宮沢さんの言っておられるような政策は、市場的ケインズ主義の範疇に属するものでしょう。それは確かにこれまでの新保守主義とは違うものですが、『世界』などで経済学者が書いている政策は社会的ケインズ主義に近いようです。そこに内需論でも違いがあるわけです。この点の有効性について歴史の分析を通して実証したいと思っています。皆さんご存知のように、フィンランドとかノルウェーは貧しいというか、資源的にも恵まれないところですね。ところが、それが日本よりも高い一人当たりの国民所得を得ているのはどうしてか。これにもいろんな学説がありまして、最近いい研究がたくさん出てきております。これは独特の経済政策によるところも多いのですが、同時にこれらの国は二十世紀の初めからずっと福祉政策を同時並行してやってきました。これの点についてこれから具体的に証明していかなければなりませんが、この点はその国が人間社会として繁栄するかどうか、重要な歴史の分れ目であり、実はいま日本でもそういう選択にさらされています。これまでのレーガニズムのような市場至上主義からだんだん内需論に移っていくときに微妙な政策の差がでてきます。そこの一つの重要な柱が、いま申しました福祉の問題と連関していると私は思います。ただし福祉問題は経済論としてだけ取り扱うのではなく、人間論の視点から経済に圧力をかけていくべきものであることはいうまでもありません。

  私は昨年友人たちと一冊の本を書きまして、ライブリーな政治という概念を打ち建てたいと考えています。外国語をつかった、変な言葉で申しわけないのですが、ライブリーというのは英語で生き生きしたという言葉です。これはリブという言葉にLYをつけた形容詞でございますが、これは一言で言うと、われわれの生、老いもそれに連関しますが、その「生」と、われわれのいろいろな分野にわたる「生活」に関する「生き生き」とした政治という意味であって、これはいま日本ではやっているように、市場価値によってすべての社会現象を解決していこうとするものと、おそらく真向から対立する政策路線になるものと思われます。私は経済社会が自由競争によって運営されることに反対ではありませんし、皆さんのお勤めになっている企業がどんどん利益を上げるということも結構ですが、それを追及していくと矛盾が出てきます。その矛盾をほっといて日本の経済が繁栄しても、糖尿病社会といったらよいのでしょうか、外見はテカテカして元気なようであるけれども、中はぼろぼろという事態が来るのじゃないか、もうそこへ入りつつあるのではないかと考えています。老いの取り扱い方もまさにそれを典型的に示しています。

 今日は一つの問題だけにしぼって、老人問題だけを申しましたけれども、もう一つ、若者の間にはスチューデント・アパシーという精神的無気力状態が蔓延しておりますので、その点だけ簡単に指摘しておきたいと思います。

 これは何かと申しますと、要するに競争社会から脱落して人間関係が持てなくなり、心身症的症状をおこすものです。最近の子供は家庭で甘やかされて育てられていますが、そういう人が、激しい利益社会とか、受験勉強をふくむ競争社会に入ってくると、アイデンティティーを失ってしまうのです。そうすると、一種のアパシーというか、一種の神経的な病気にかかります。東大のお医者さんが中央公論で確か先月号に書いていたと思うのですが、この病が大学で蔓延しています。東大はたまたま発見が早いだけで、大学はみな同じ状態です。若者、あるいは壮年もそうなのですが、そういう無気力者が非常にふえています。症状的には何も出来ないで、昼すぎまでグーグー寝ているような人ですが、これらの人をただだらしないといって片付けることはできません。われわれの世代のような働きばちからみれば、何だだらしがない、もっとがんばれと言いたいところですが、実はこういういい方がいちばんいけないのです。がんばれないから寝ているのです。人間関係に疲れるからグーグー寝ざるをえないのです。

 その東大の先生が言うには、私も同じような経験があるのですが、こちらからテーマを与えればいい回答をする。ところが自分でテーマを探せと言うと、全くできない、そういう傾向が非常にふえて来ました。これは病気の一歩手前です。皆さんの周りをよくごらんになれば、おそらくこのいわゆる無気力症という名の心身症が多いことに気づかれるはずです。お医者さんみたいなことを言って申しわけないのですが、この病気はガンと同じで早く発見して治療すればそれだけ早く治るわけで、われわれが早く気がつかなければいけません。このとき一番悪いのは、おれはがんばって旧制帝大を出た。お前は何をしておるのかとそういうような頑張り主義が一番悪いわけです。現状に適応できなくて病気になっているわけですから。

  たとえば身体障害者の場合、百メートル走れとはだれも言わないと思います。だからそういう心身症に陥っている人に対して、お前がんばれ、早く起きろ、そんなことで世の中渡っていけるかというと、ますます落ち込んで、あるいは自殺というようなことにもなってしまいます。私にも東大でにがい経験があります。

  ところで、この心身症に関する福祉は日本の場合極端に言うとゼロに等しいのです。保健婦とかカウンセラーとかいうものに対する費用は殆ど計上されておりません。朝日新聞も最近この問題は福祉を減らすという問題ではなくて、そもそもゼロなのだと書いておりました。やはり老人に対してだけでなくて、そういう問題にも資源を投下していくということが、日本の社会をあたたかなものにし、日本人社会をもまた長続きさせる所以だと思います。ところが、いま申しましたように日本の場合は、そういう弱いものとか、社会から逸脱したものに対して文明社会的な哲学を持っていないのではないかというのが私の結論でございます。

 また政治の話になりますが、最近参議院の比例代表制がよく話題になり、この制度は一般的に評判が悪いようです。与党の政治家はこの次にはやめようと言っていますが、その制度で一つだけ成功したのは、専門店を出すと国民がそこにはけ口を見出すということです。既成の政党の場合でも有名人を揃えただけではだめなのです。ところが、たとえば福祉とか、税金とか、サラリーマンとかいう専門店を出しますと効果があるので、この次には老人を専門店にする運動でもしたらどうかといっているのですが……。これは必ずしも冗談でなくある程度まじめに考えてのことです。では、最後にもう一回ボーボワールに戻って、終りにさせていただきたいと思います。

 ボーボワールはいつもながら非常に鋭いことを随所で言っております。老いて貧しいというような言葉は全く冗語法――むだな言葉であって、大部分の人にとっては老いているということは同時に貧しいことであることは自明の理であるといっています。そして「人間がその最後の一五年ないし二〇年のあいだ、もはや一個の廃品でしかないという事実は、われわれの文明の挫折をはっきり示している」と断言します。

  このように考えれば、わが国、世界の中でもっとも経済がうまくいっているはずのこの国でも、まさに「文明の挫折」がはじまっているのではないでしょうか。ですから、われわれは老人問題のためだけでなく、ひろく人間社会をライブリーなものにするためにこれからも発展をしつづけなければならないでしょう。私が本日申し上げたかったことはこのことにつきます。経済的に先進国だからといって、人間社会がうまくいく、文明社会になるという保証はありません。基本のところにもっとも人間らしい哲学をすえなければならないのです。

  しかし社会のあり方が問題であるとはいっても、その社会の中でわれわれが個人として気をつけなければならないことがあります。また問題はふり出しにもどりました。

  そこで最後にボーボワールが言っていること、彼女自身がまとめていっていることではありませんけれども、彼女の所説を私なりに要約しながら三つぐらい取り出してみたいと思います。

  一つは、これはたしかアリストテレスの言葉を使って言っていることですが、老年というのはやはり健康でなければならないということです。美しい老年とはその年齢にふさわしい豊さを所有する老いのことでありますけれども、病弱であってはなりません。昔は精神が成熟したときに体が衰えるということをよく言われたそうですが、体が弱ってくると精神も弱ってきます。そういう意味で私もやはり病弱でないように最大の努力をしたいと思っています。私は丸山ワクチンを打ち続けておりまして、まあ免疫強化に役立っていると思っていますが、同時に、普通言われている健康食品というものではなくて、専門のお医者さんが考案したいわゆる補助食糧剤を毎日こころみています。フードダイナミックスという方法です。やはり精神の健康のために、まず体が病弱しないように一所懸命努力をしているつもりです。私の友人で東大の免疫学をやっている人によると、最近では免疫学というか、あるいは人体防御機能の強化についての研究が進んでいるそうで、薬物によらない健康法が将来いっそう見直されると思います。あきらめずに、お医者さんと相談しながら、自分なりの方法を探したいと思います。

  第二番目は、アンドレ・シーグフリードという政治学者が言っているように、老いというものは好奇心の衰えにほかならないということです。本当の老人の若さというのがあるとすると、好奇心の豊かさによるのではないかという気がします。好奇心をなくすると本当の老いに陥ってしまうのではないでしょうか。私は、先程申し上げましたように、定年後は女子学生のいっぱいいる大学にいこうと考えたわけで、ちょっと不純な動機もないではありませんが(笑)、やはり好奇心の強いことはよいことだと思います。

  第三番目は、レンブラントも、音楽家のベルディも、ミケランジェロも、みんなそうだったそうですが、年取っていい作品を残した人は、自分の作品に対する疑いを常に持っていたんだそうです。ですから、何かフェティシズムというか、物神崇拝に陥って、自分の過去のものにしがみついているとますます老い込んでしまいます。これは単に芸術家だけの問題ではなくて、私みたいな小ぶりの学者にも妥当すると思います。先ほど選集とか全集は出ていますかと質問されたのですが、そういうものをつくるともう老いがはじまるのではないかという恐怖心をもっています。まだまだこれからたくさん新しいことをやるのだという意気込みで、私も自分のこれまでの業績を一々疑いながらこれから懐疑を重ねていきたいと思います。懐疑こそが老人を豊饒にするのだというような言葉があるそうでございます。

  しかし、先程も述べましたように、結局ボーボワールが言いたいのは、基本的には老いの問題を解決するのは文明のあり方だということを忘れてはならないでしょう。そういう文明社会の欠陥を克服するためには、ボーボワールの言葉を引用すれば、「人間全体をつくり直さなければならないし、あるいは人間の相互関係のすべての関係を根本的に改めなければ」ならないでしょう。そのためには、「活動的な市民として共同体の生活に参加すべきだ」ということになります。最後にもう一つボーボワールを引用させてもらいますと、多くの老人が虫けらのごときものになることを拒否して戦っている姿勢の中に、何かちょっと英雄的なものを感じるそうです。私もこれから虫けらのように取り扱われる可能性がありますが、そのさいにも何かいつも英雄的なものを身につけて生きていきたいとひそかに考えています。これでお話を終らせていただきます。

 (東京大学名誉教授・成蹊大学教授・東大・法・昭25)
(本稿は昭和61年5月9日夕食会における講演の要旨であります)