新春所感 ―ワイマール共和国はなぜ亡んだのか―
理事長 有澤 廣巳 No.770号(昭和61年1月号)

 あけましておめでとう存じます。恒例により新春所感を申し述べます。

 ボンはドイツ連邦共和国(西ドイツ)の首都である。連邦共和国は、戦前のドイツ国がヒトラーの無謀な世界戦争の遂行によって全滅した後、戦後の収拾として東西両ドイツに分断され、ソ連の衛星国家としての東のドイツ民主共和国に対して西の自由主義国家たる連邦共和国として再建された国家である。この連邦共和国はドイツ国民の勤勉で堅実な伝統をうけついで、戦後めざましい復興をとげ、今日では西ヨーロッパの指導的な先進国としての地位を占めていることは周知のところである。それでいてドイツの新鋭の歴史学者ハーゲン・シュルツェは最近の大著『ワイマール』で「ワイマールの運命は今日もなお不安を覚えさせる。ボンはおそらくやはりワイマールであるだろうとの予感はなお打ち消されていない」と書いている。

 ワイマールは南ドイツにある小都市で、文豪ゲーテと結ばれて古来から文化の都市として有名であるが、第一次大戦後ドイツ革命の終幕として一九一九年二月、このワイマールで国民会議が開かれ、新ドイツ憲法が制定された。憲法第一条にドイツ国は共和国であると規定されているように、ここにドイツ帝国(カイザー・ライヒ) に代ってドイツ共和国が成立した。そこでこの共和国を、人々はワイマール共和国と呼び、制定された憲法をワイマール憲法と呼んだ。

 ワイマール共和国はその成立早々から、どえらい苦悩と困難な道を歩まねばならなかった。すでに憲法が制定された国民会議では、ヴェルサイユ平和条約が批准されねばならなかったが、その条約はドイツ人からヴェルサイユの指令と呼ばれるように、連合国から一方的に押し付けられた苛酷極まりないものであった。ドイツ人はこれを国民的名誉が踏みにじられた屈辱と受けとり、またその賠償負担はあまりに巨額で堪えきれないと考えた。共和国最初の内閣は社会民主党の領袖シャイデマンを首班とする内閣であったが、条約案を批准する責任はとれないとして総辞職した。しかし、それでは事は片付かない。次のバウアー内閣の下で国会は、条約案に賛成するものも反対するものも、いずれも祖国愛に出づるものであると、まず決議した上でやっと批准することができたのであった。平和条約は成立したが、しかしその負担は大きかった。賠償支払いはしばしば滞り、一九二三年には業を煮やして仏・ベルギー軍は賠償の担保と称してルールを占領した。ルール地方では住民の激しい抵抗が起こった。これを契機として終戦以来のインフレーションの昻進がいっきに暴発し、マルクの価値は一兆分の一に低下した。ドイツ経済は麻痺し、ワイマール共和国は解体の危機に瀕した。幸いに大インフレーションもレンテンマルクの奇蹟とシャハトの果敢な処置によって収束され、また賠償問題はアメリカの介入によってドウズ・プランの成立をみて一応再び軌道に乗ることができた。ワイマール共和国は小康をえて世界経済の相対的安定期に入ることができた。そして世界の各国は戦後の復興期を迎えることになったが、共和国も外資の流入をうけて目ざましい復興を遂げた。ワイマールは最盛期を迎え、ワイマール文化も多彩な光りを放った。ベルリンは未来の味がするといわれた。しかし、その期間は余りに短く三、四年にとどまり、その復興も第二次世界大戦後のそれとくらべれば力弱いものであった。成長率も四、五%にとどまった。経済成長率が一〇%にも上り、それが五、六年つづいたならワイマール共和国も救われていたかもしれない。

 やがて、一九三〇年には世界恐慌が起こり共和国ももろに巻きこまれ、大量の失業者を生み出し、就業者三人につき一人が失業するという状態になった。その大量の失業者や不平不満の若者がナチになだれこみ、ナチス運動は大躍進をとげた。一九三三年一月三十日ついにヒンデンブルク大統領はヒトラーを政権の座につかしめた。ワイマール共和国はここに十四年半の短い生涯を終った。ワイマールの最盛時に留学生活を送って日本に帰っていた私は、それをどんなに哀しんだことか。

 それからヒトラー政権の暗い十四年がなおつづいた後、再び西ドイツに連邦共和国がよみがえった。現在のドイツ連邦共和国こそワイマール共和国の後継者である。それだけにボンはワイマールであってはならないという心情が西ドイツの人々の心底にある。なぜワイマールは亡んだのか。この問いに向ってドイツの歴史学者の研究が、今も後を絶たないことはよくわかるところだ。 いな、この問題は、他の国の学者たちの関心をも集めている。西欧型の最も進んだ民主主義国が独裁者の前に亡んだことは看過できないことだからである。

 ワイマール共和国はなぜ亡んだか、その問いに私も簡単でも答える義務があるように思う。

 その答えとして第一にあげられるべきことはワイマール共和国がいわば即興的に打ち出されたもので、熟慮計画されたものではなかったことである。一九一八年十一月九日、ベルリンにも革命運動が起こって、午後二時ごろには数万の群衆が国会前の広場に集まった。多数派社会民主党の領袖シャイデマンはこの大衆に向って、即興的にドイツ共和国を宣言したのであった。党首エーベルトは、君はそんなことを言う権限はもたないとシャイデマンを叱責した。エーベルトは共和主義者であったが、ドイツの共和制はもっと不利でない時に、そしてもっと不利でない条件のもとに成立することができると信じていた。し かしその日の午後四時ごろベルリンの王宮の前に集まった大群集に対して、独立社会民主党左派のリープクネヒトはドイツ社会主義共和国を宣言した。ここに来てはエーベルトももはや事態の変えようはなかった。即興的に打ち出された共和国どころか、多数派の民主共和国か独立社会民主党の社会主義共和国かの争いに展開し、左右両派の革命の主導権をめぐっての闘争が翌一九年一月までつづく。しかし多数派が主導権を握ることになって、同年二月には憲法制定会議が開かれ、民主共和国が成立することになる。

 第二に、その民主主義共和国制は、ドイツの文化イデーの根本に反する国家形態であり、ドイツ民族はこれを国情、民情にそわぬもの、魂にとって反現実的なものとして排斥し攻撃するにちがいないと、トーマス・マンのような文豪が断言している。またマンは、ドイツ民族は政治的デモクラシーを決して好きになれないともいっているが、その言葉に間違いはなかった。ドイツの一般国民は、国家主義者でなくとも、民主主義議会政治に対して一定の距離をおいていた。ワイマール憲法草案を起草したフーゴー・プロイスもそのことを知っていた。プロイスは、ドイツ国民が民主主義的思考方法や態度様式の基本ルールに習熟していないことを忘れてはいなかったが、しかしプロイスは、ドイツ国民の民主主義の将来について楽観的な信念をもっていた。偉大なドイツ国民は、その政治的教育の仕事を自発的に完成することによって、民主主義的国家となることができると考えていた。この期待を無残に打ち砕いたのが、次に述べる第三の事情である。

 第三は、ヴェルサイユ平和条約締結の大きな重荷である。ヴェルサイユ条約は、前にも述べたようにドイツ国民にとって堪えがたき屈辱の条約であり、しかも指令として一方的に押しつけられたものである。条約の内容も許し難いが、それを抵抗もなく受容したワイマール政府は国民の敵である。ことに背後からの匕首一撃の伝説が広がるにつれ、十一月革命を起こしてドイツ軍の背後を衝いて敗戦に追いこんだ社会民主党や共和派の人々は、十一月犯罪人として糾弾されねばならぬ。匕首一撃の伝説は全く歴史的事実に反する虚構であるが、保守派の人々や国家主義者は、このような論理をもってワイマール政府を非難攻撃し、大衆を扇動した。ワイマール体制の土台固めは絶えずゆるがされた。

 第四に、共和制の樹立が即興的に打ち出されたこともあって、革命後の民主化は進展しなかった。官僚制度も軍隊も司法も大学も、民主化は全く進まなかった。ただ官僚は上級のものが漸次に共和派の人々によっておきかえられていったが、下級には及ばなかった。一般の民衆は民主主義の教化をうける機会をもたなかったどころか、カイザー時代の観念に捕われた意見を吹きこまれることが多かった。世の中が共和制と変った新風は、民衆の間には吹き通らなかった。

 第五に、共和制における最高の権威である議会がワイマール末期には遂に機能しなくなった。最初の憲法制定の国民会議では選挙法が改正され、二十歳以上の男女が選挙権をもち、無記名投票のもとに比例制選挙を行った。選挙の結果、予想を裏切って社会民主党は過半数を得ることができなかった。議会における多数を形成するために、このときには社会民主党と、カソリック信者を有権者とする中央党と、自由思想の保持者や進歩的なブルジョアジーから新たに結成されたドイツ民主党との三党の連立ができ、社会民主党のシャイデマンを首相とする政府をつくった。この三党の連立は、爾来、ワイマール連立とよばれワイマール共和国の支持勢力となった。

 しかし議会政治に習熟していなかったドイツの政治家は、連立が常に党利党略を押え大局に立つ妥協の政治であることを十分に理解できていなかった。そのため妥協はしばしば不調に終って内閣は容易につぶれた。ワイマール時代の十四年間には、二十の内閣ができてはつぶれている。内閣の平均寿命は八ヵ月半であった。最も長く続いたのは、一九二八年-一九三〇年のヘルマン・ミュラー(社会民主党)内閣の二十一ヵ月である。この内閣は、ワイマール連立にストレーゼセンの率いるドイツ国民党を加えた四党の大連立であった。折柄の世界恐慌の襲来によって増大する失業保険給付を賄うために、折衝に折衝をかさねギリギリの妥協案としての失業保険料〇・二五%の引上げに社会民主党の労働大臣ウィッセルは頑として応じなかった。長くつづいた内閣はこれでつぶれた。新聞は、「四分の一パーセントの危機」として非難した。この四分の一%の危機で辛うじて維持されてきたドイツ民主主義の実験、ワイマール体制は失敗したことが明らかになった。

ヘルマン・ミュラー内閣が倒れた後は、議会における多数派の形成の見込みがたたなくなった。多数派政府が容易に出来ないので、大統領は「強い人」としてのブリューニングを首相にえらび、憲法第四十八条の非常時大権を発動して大統領緊急令をもって政務を取り行わしめた。大統領政府がここに出来する。ブリューニングはそれでも議会との関係を保つように努め、社会民主党も政府に対して寛容政策を打ち出し、曲りなりにも議会政治の形を保っていたが、一九三二年五月、ブリューニングが大統領の信任を失って罷免されるに及んで、議会はもはや機能しなくなり、形骸となった。やがて大統領は側近の甘言に乗せられて政権をヒトラーに渡し、ナチスが天下をとった。ワイマールは亡んだ。

 ワイマールは反対派と戦って敗れたのでもなく反対派から撃滅されたのでもなく、これといった最後を飾ることなく亡んでしまった。それでワイマールは自己放棄したという人もいれば、いな自殺したという人さえいる。末期のワイマールを共和派のいない共和国と評する人もいるが、共和派がいなかったわけではない。闘う共和派がいなかったのだ。民主主義はただそのままで自ら存続しうるものではない。民主主義を守る人々によって支えられているのだ。従って民主主義はいつも闘う民主主義でなければならない。ワイマールの哀しい歴史はそのことを教えているのである。

 (日本学士院長・東京大学名誉教授・東大・経博・大11)