カッパドキアに魅せられて
辻佐保子
(名古屋大学教授)

No.762(昭和59年1月)号

トルコ中部、アナトリア高原の海抜一、〇〇〇メートルほどのカッパドキアと呼ばれる地域は、すでに日本でもしばしば紹介されているように、エルジアス山の噴火と、その後の河川の浸蝕、風化作用などによって、まことに幻想的な月世界にも似た景観を呈している。フランス人は妖精の煙突と呼ぶが、松茸型、筍型といった方が私たちには馴染みやすい多様な形状の大小の岩塊が、ある時は不定の間隔で孤立し、他の時はかたまって、無数に立ち並んでいる。その色彩もピンク、クリーム、白、黄土色、褐色、灰色とさまざまであり、二色、三色の帯に分れた断層もあちこちに見られる。しかも、ちょうどしめじ[、、、]茸のように、未だに無数の生まれつつあるきのこの群が、しだいに崩壊してゆく、より大きな岩塊の中に少しずつ頭の先を現わして隠れている。光線や天候の具合によって色調を変えるこうした風景は、ほとんど形容しがたい神秘的な雰囲気をもって私たちを包みこむ。

大学院在学中からもう二十年以上の長い間、私はいつかカッパドキアに行ける日を夢みていた。日本で初めてこの地の壁画調査を数次にわたって行われた柳宗玄先生から、今年の春お誘いをうけ、十人ほどのメンバーと共にようやくこの悲願を達することができた。十、十一世紀を中心としてこの地に多数の修道士たちが定住し、大小さまざまな岩塊の内部に何百もの礼拝堂や修道生活に必要な設備を掘り出し、地上に建てられた通常の聖堂の場合と同様に、内部の壁面を多数の壁画で彩ったのである。私は生来ブッキッシュな性格であるため、専門の分野の作品を訪ねる前には、できる限りの文献を集めこれに眼を通さなければ気が済まない。一九三二年から四五年にかけてそれ以前の調査をまとめて出版されたジェルファニオン神父の七冊(図版と解説)の大著をはじめ、第二次大戦後に刊行されたウィーン大学のレストレ、パリのティエリー夫妻、あるいは柳宗玄氏の著書などを通して、長年頭の中で組みたてていたこれらの[マイナス]の建築空間と壁画とが、一挙に私の眼前に出現したのである。今回はわずか十数日の滞在で立ち去らざるをえなかったが、帰国後スライドの整理をしたりして、今では図版によってではなく本物によって、またばらばらの断片ではなく有機的に連関し風景の中に生きた全体として、個々の作品が思い浮べられるようになったことは、私にとって何よりも嬉しい貴重な体験であった。

先にあげたレストレ、ティエリー夫妻の他にベルギーのラフォンテーヌ・ドゾーニュ女史を加えて、カッパドキア研究の第二世代とするならば、最近では第三世代とも呼ぶべき若い研究者たちが各国でそれぞれ活躍している。ドイツではシーメンツ、イギリスではコーマック、エプシュタイン、フランスではジョリヴェ・レヴィらの名をあげることができよう。ある時期までは、「カッパドキアの父」ジェルファニオン神父の調査から洩れていた作品を新たに発見することも可能であったため、ともすれば性急な発見[、、]競争の如き観を呈していた。最近では、よりグローバルな見地からの再検討や、個別作品の精密なカタログ化、いぜんとして実体の捉えにくい初期(イコノクラスム以前)の作品の検討、周辺地域の諸作品との比較なども行われ、カッパドキア壁画の重要性が改めて正しく認識されるようになった。当然ながら美術史以外の分野においても、カッパドキアに関連したビザンツ時代の交通路の研究、軍管区制度や土地所有の問題など、しだいに精緻な研究がふえてきている。それにしても痛感されるのは、ジェルファニオン神父やアンリ・グレゴワールら第一世代の巨大な足跡であり、各場面の詳細な記述や銘文の読みとりは、その後の損失という事情もあって、つねにこれらの大著にもどって確認せざるをえない。写真撮影一つを例にとっても、感度のよいカラー・フィルムや簡単なカメラを与えられた今の状況からは想像もつかない苦労だったに違いない。近年、トルコ政府の観光政策を反映して、多くの観光客がカッパドキアを訪れるようになり、さして不自由なく旅ができるのはありがたい。柳先生が崖をよじのぼり怪我をなさったと言うイーララの谷の絶壁も、今では鉄製の堅固な階段がつけられ、谷川ぞいに銀行の名前を記したベンチも並べられて、夏には恰好のキャンプ場と化している。その反面、壁画泥棒によってはぎとられ薬品を塗られた壁画が何ヶ所かにあるのは痛ましい。

柳先生のご案内により難なく訪れることのできたソアンル、ゲレメ、イーララの三地区の見学ののち、グループと別れて、ハルックさんという社会学を学ぶトルコの大学院生と共に、これ以外の何ヶ所かをあちこち歩き廻った。主要道路と村落に近い場所以外は、これといった目印の無い場合、似たような風景の連続であるため、初めての者にはとうてい目的地にたどりつけない。ハルックさんの通訳を介して、村の子供や広場にたむろする大人たちの間から、確かそうな案内人をみつけ出しては、きのこの群の間の谷を上り下りして歩いた。このあたりは、海岸の湿暖な地域でとれるオレンジを天然冷蔵庫とも言うべき岩塊の洞の中に保存するため、舗装道路をかなり頻繁に大型トラックが走っている。とある小さな村で、ハルックさんの親類筋にあたるこうした運送会社の社長さんを訪れた。仕事をおえた運転手たちが、テレビとタイプを置いたほこりだらけのデスクの向うに坐る社長の手から、十センチもあろうかと思う小単位のよれよれのお札を、幾度も数えなおしながら一人ずつ受けとっていた。最近日本でも公開された「ヨール」という本当に感動的なトルコの映画があるが、その幾場面かを思いおこさせるような光景であった。

アンカラの旧市街地で生れ、イスタンブールのアメリカ系のハイスクールに行き、アンカラの大学で学ぶという型通りのエリート・コースを辿ったハルックさんは、いたる所で学校時代の旧友に会っては私たちを紹介する。大学院をおえても就職口は容易に無く、経済はドイツに軍備はアメリカに支配されたトルコの現状を日本と比較して、なぜあなた方の国だけが同じ状況の東洋[、、]の国の一つとして活路を開けるのかと、食事時間はいつも彼の友人たちから質問ぜめにあった。

社会学の大学院生に満足のゆくような回答を与えるのは私には荷が重いので、キリスト教と西欧文明に対し十字軍以来の嫌悪感を抱く人たちの多い中では珍しく聖書を読んだことがあるというハルックさんに、私は壁画の中の解りやすいキリスト幼児伝の場面を説明した。次々と同じ主題の、しかしその都度様式の異なる作品を眺めているうちに、私が準備してきた地図や建築プラン、図像の配置図などを全部コピーしたいと言い、旅が終る頃にはキリスト伝のほとんどの場面を一人で確認できるようになった。トルコにも勿論この時代の美術の専門家は少なくないし、先年惜しくも若くして亡くなられたネレジ・フィラトリ氏(イスタンブール考古美術館)のように、フランスやアメリカに留学し、立派な業績を残した方もある。しかし何といっても、アンカラやイスタンブールにあるイギリス、ドイツなどの考古学研究所の長い伝統を基礎として、トルコの側でも古代遺跡の発掘や保存の方に重点がおかれている(マンセル教授を中心とするシデやペルゲの発掘など)。しかし、ギリシアの場合と同様に、トルコからヨーロッパ各地の美術館に持ち出されてしまった貴重な芸術作品をめぐるトルコ側の学者たちの複雑な気持を、幾度となく私たちは聞かされている。

旅の前半は、ニカエア(イズニック)、ベルガモ、スミルナ(イズミール)、エフェソスなど、宗教会議やヨハネ黙示録の「七つの教会」、パウロの足跡などを想い描かせる町々の古代と初期キリスト教の遺跡をめぐり、ついでヒッタイトの著名な遺跡(ヤズル・カヤ、ボアズ・カレ、アラジャ・ヒュイック)を経て、私たちはカッパドキアにたどりついた。トルコ国民にとってのアイデンティティーとは何なのか、アナトリア高原に巨大な石を積み上げた人々、ヘレニズム諸都市の繁栄や、宗教会議の果しない神学論争、あるいは奇怪な洞窟内での修道生活を、私たちが縄文土器や銅鐸を眺め、いかるがの里や大和三山を訪れる時に抱くような郷愁を以て、彼らは感じることができるのだろうか。この夏、ヨーロッパ諸国とギリシア以外では開かれたことのない、ユネスコ共催の大規模な展覧会(大アナトリア展)がイスタンブールで開催されたのは、おそらくこうしたアイデンティティー確立の一つの試みだったのではなかろうか。

ベルガモの遺跡の傍らで、ブルー地に白い点の入ったガラス玉を皮紐につないだネックレースを売っていた。もっと大きな眼球状の細工ものも方々でみかけた。「イーヴィル・アイ」風の護符は、すでにアンティオキアの舗床モザイクにもあるように、特にトルコ特有のものとは思わなかった。しかし、私たちの最初のガイドであるムハメッド氏(同じくハルックさんの親友)によれば、なんとこれらの眼玉は捕虜となった十字軍の兵士たちの碧眼をくりぬいて紐に通したものがその起源であり、それと知らずにヨーロッパの観光客が買ってゆくのだと言う。まさかと思いつつ、パリに帰ってから友人の中世史家に尋ねたところ、事実、十字軍遠征から帰国した多くの盲人たちを収容した記録も残っているのだと聞かされた。やりきれないようなグロテスクな話であるが、歴史とはそういうものかとしみじみ思ったことであった。

第一回の私のカッパドキア旅行は、夏の終りに東京と京都で開催された第31回国際アジア・北アフリカ人文科学会議の第11部門(美術史)の中に、東方のキリスト教美術に関する発表を何人かの同僚と共に企画したことにより、ひとつの区切りをつけることができた。「カッパドキアのアプシス装飾における聖体の秘蹟に関するテーマの導入」と題した発表を私は行った。身廊壁面の説話図像の配置について同じくカッパドキアの諸例を分析された、東海大学の長塚安司氏(先述の柳先生の調査にも参加された)の発表と共に、ささやかではあったが、日本にもこのような研究を行っている者があることをこの学会のアクトに記録できたのは嬉しい。私の研究は、さらに他の地域の同一の主題とも関連づけて、充実させてゆかなくてはならない。また来年五月には、パリのブランシャール神父に案内をお願いし、長年の友人であり、先の学会にも鹿島美術財団の援助を得て招くことができたタニア・ヴェルマンス女史(パリ大学)と共に、再度カッパドキアを訪れるべく計画を練っている。

(名古屋大学教授・東大・文博・昭28)