中国と日本?
貝塚茂樹(京都大学名誉教授) No.758(昭和58年1月)

 私は昭和三年、京大文学部東洋史学を卒業すると、恩師の中国文学哲学の権威故狩野直喜博士のお供をして北京に出かけ一ヶ月ほど滞在した。満六歳のときから祖父に四書五経を手始めにして、十八史略、唐宋八家文から資治通鑑の一部まで読まされてきたのであるが、このときになって初めて中国の土を踏み、中国の人に接触したわけである。
  その第一印象は、書物のなかで知っていた中国と現実の中国とは全然かけはなれてまるで別物であるということである。そこで中国とはいったい何か。中国人とはいったいどんな人間だろうかという疑問がわき上がってきた。それいらい五十余年の中国歴史の研究は、「中国とは何か」を明らかにすることであったが、今もってこの問題は未解決のまま残されている。
  私どもの乗った汽船は天津の沖合から白河を天津の外港の塘沽まで遡るのであるが、その白河の水は茶褐色の泥の流れで、日本人からする河流という概念にあてはまらない。下船すると、たちまち無数のポーターたちに取り囲まれ、手荷物の奪い合いが始まる。汽船会社の専属のポーターに委任して、やっと群衆の激しい渦巻きから脱出した。無秩序、混乱、喧騒、不潔、あらゆる文明の汚濁と悪徳がひしめきあっていた。
  中国上陸第一歩の印象から、黄土の堆積から成る華北大平原を流れる黄濁した黄河などの水と、そこに居住する中国国民の心性との間には深い関係があるのではないかと漠然と想像したのであるが、この予測は中国大陸にたいする経験が重なるにつれて、次第に形を変えてゆくことになる。

 第一回の中国旅行の三年後、昭和九年に東方文化研究所の同僚たち一行五人で再び北京を中心として一ヶ月ほど史蹟の調査に出かけた。学術調査と銘打った集団的旅行は、報告書が東方学報の一冊として刊行されているけれども、現在からふりかえって考えて見ると、私個人にとって、大したことではなかった。ただ中央研究院歴史語言研究所を中心とする学者たちと歓談したのは楽しかった。一昨年物故された古文字学の権威の唐蘭さんも同席されていたわけであるけれども、当時甲骨文と金文の研究に着手したばかりで、とてもこんな大家と本格的に学問的な意見を交えることはできるどころではなかった。
  昭和九年三月には満州国が成立し、日本の軍部はしだいに華北に圧力を加えているので日本と中華民国との関係は険悪となっていた。こういう政治的情勢のもとで、私ども中国の学問の研究に従事しているものを快よく迎えてくれた中国学者の態度はそんなことを全く感じさせなかった。
  こういう雰囲気のなかで昭和十一年八月末から日中仏教史研究に不滅の業蹟を残された塚本善隆先輩とともに山東省、江蘇省、浙江省の史蹟調査のため出張することになった。神戸から乗船して一路青島にむかった。コウ州湾と黄海の間に突出した半島の尖端に位置する青島は、背後の緑の丘陵には、かつてのドイツの租借地時代の名残りである赤屋根の洋館が点在し、碧い海に夢の国の港のような感じを抱かせた。

 青島市は現在では工業が発達し人口も十倍以上に急増したそうであるけれども、三面海にとり囲まれ、青山碧海、緑樹紅楼という素晴らしい景観は昔の面影を残しているらしい。夏は爽やかに涼しいので、避暑地として知られていたが、今も在留外人などに愛好されているらしい。この青島港の埠頭に集まる苦力といわれた港湾労働者も、港の空気を反映して、天津とはちがって、ずっと温和であるのに、驚いたものであった。山東地方の史蹟といっても、塚本善隆さんが寺院や石窟、つまり仏教中心であるにたいして、私は斉の国都であった臨シとか、曲阜の孔子の故蹟、つまり純粋の史蹟が目標であった。山東省には漢代の古い石碑が多く遺存し、また殷周の青銅器が発掘されているので、これらを収蔵しその銘文を解読する金石学が盛んであった。特に隷書で書かれた漢碑の実物を現地で眺めて見たいというのが、私の抱いた欲望の一つでもあった。
  青島から鉄道で先ず旧青州、つまり益都県に向い、居留民に泊めてもらい、ここを根城として、駝山、雲門山の石窟や、臨シ城の遺蹟などを訪ねて歩いた。

 山東省は古文化財の宝庫であるから、至るところで思いも寄らない遺蹟に出会う。シ川県の北郊外では蒲松齢の墓と故宅などはその例である。彼は清代の文人で怪異小説『聊斎志異』著者として有名であり、柴田天馬の名訳によって、日本でもかなり愛読されている。彼はシ川県の商家の子で、科挙試験に落第して、家庭教師として一生を終った。その不遇のなかでこの名作を残したとされている。私も若いときに聊斎志異を読み耽ったこともあるが、現地に行って見ると、清流の傍らに蒲氏の家廟があり、蒲松齢が幼時読書した場所と伝えられ、沢山の碑が並んで立っている。不遇であったといわれる蒲松齢の一家の子孫は繁昌し、この家廟を中心として蒲家庄という村を作っているのである。私も蒲宅を訪ねて、九代の孫に面会した。日本には『聊斎志異』の愛読者もかなり多く、かれを専門に研究している文学史家もいる。しかし蒲松齢の故家を訪ねて来たのは、多分私一人であろうから、大いに自慢してもよさそうであろう。
  この家廟のそばに満井と呼ぶ泉があり、これをとって満井堂と名づけられている。彼が柳泉居士と号しているのも、この泉の傍に居をかまえていたからであろう。私は小雨のなかをここを訪れ、塚本さんとこの井戸をのぞきこんだことを思い出すが、塚本さんは昨年世を去られてしまった。
  この満井の例でもわかるように、山東地方は華北の黄土平原とはちがって、なかなか水の奇麗なところである。省都の済南は泉城すなわち水の都と称され、城内いたるところに多く泉が湧き出ていて七十二を数える。第一泉ははく突泉と呼ばれている。「はく」とはおどるという意味で、この泉は水がおどるように湧き出て、数尺に達するさまをとって名を付けたといわれ、ひじょうな壮観であった。宋の女流詩人の李清照はこの泉を愛して傍に住んで、詩篇を残している。この泉を訪れ詩を詠じた文人墨客は多数にのぼっている。

 私どもは済南から津浦線を南下してコウ州駅から自動車で孔子の故郷であり、
魯国の都である曲阜に向った。車は先ず泗水の橋を渡ったが、その流れが澄み切っていたことを現在でも思い起こす。孔子はこの泗水の流域に生れ育ったのである。曲阜の城内に孔子の七七代の末孫の孔徳成の家をたずね、その叔父に刺を通じて面談した。子供の時から論語を読まされて育ったと述べると、温顔をもって迎えられた。孔子の余徳をうけて、七七代の子孫にいたるまで、乱世にしばしば遇いながら、外敵の侵入と、内乱とをまぬがれ、平和の生活をつづけることができたことは、中国数千年の歴史では珍らしい出来事であった。孔子の末孫にも先祖からの温和な血が流れているように見えた。こういう気質は魯国の国民たちが共通にもったもので、それが子孫に遺伝され、この風土に自然にはぐくまれたように感じられる。その風土性の中心となり、これを決定するのは、その国を流れる河水性質にあると、山東の思想家たちは考えていた。
  山東の文化は周代の初めここに封じられた斉・魯両国によって形成された。周が殷国を滅した軍功によって、太公望が封ぜられた斉国と、周の同族で宰相として政治文化面を指導した周公の子孫が封ぜられた魯国とは、国柄として、可成り異なっているものの、一つの共通点をもっていた。それは山東の風土にはぐくまれたということであろう。

 中国古代の文化は主として華北の黄土地帯に成立したものであるが、そのなかで山東地方は、海岸に接して温和な気候に恵まれていた。山東半島の脊梁をなする泰山を初めとする山岳は、まるで黄土の堆積からでき華北大平原のなかに浮ぶ島のようだとたとえられる。この黄河の中流の黄土台地と、下流の黄土の大平原の大陸国にたいして山の斉・魯の二国は、その島国性によってきわめて異質的な山東文化を育成した。
  斉国を代表する思想は、春秋時代の中期に斉桓公の宰相として富国強兵策を推進した管仲の著述と伝えられる『管子』のなかに現れている。もちろん管仲自身の著述ではないけれども、『管子』のなかには斉国を代表する思想が現れている。その一つの現れが水地と題された一篇である。地は万物の根本であり、生の根源であり、人間の美徳の性質と、賢愚の才能はこれから生れる。地とならんで重要なのは土地を流れる水が重要であり、水は土地の血気のようなもので、土地の筋脈を循環している。水は柔弱のようであるが、その清さで人間の悪を洗い去ってくれるといっている。
  また度地と題した一篇には、国家は山を背にし、河にそって建てられる。河は国の廃棄物、悪徳を流しさり、人間を養い育てるものだと述べている。また水地篇の最後には水は万物の本源であり、生の本家のようなもので、そこに生きる人間の性質才能を左右する。そこで一つの国家を流れる河川の水流の性質が、国民の性格を決定するという。
  例えば斉国の河は急流で激しいから、斉の国民は貪欲で粗暴なところがあるとして、以下に楚、越、秦、晋、燕、宋などの戦国時代の諸国の国民性の差異を、流域の河水の性質によって説明している。まえに山東の地形の島国性を指摘しておいたが、泰山などから流れ出る河はすぐ勃海湾などに注ぐものがあり、その領土内では清い流れのままのものが多い。それは島国である日本の河がそのまま海に注ぐものが多いので、洪水の濁流は別として、すぐ清流にかえる。中国の黄河はつねに濁流で、百年河清を待つという言葉がある。山東の斉・魯などの島国性をもった国の河は、日本の河に似て清流が多いという点で、黄土の華北平原の泥流とは全く類を異にしている。

 山東を旅行して、華北では珍らしい清流に出くわしたとき、島国の日本に帰ったような感じに襲われたような錯覚したことがある。儒教思想が中国から日本に輸入されて、ここによく育った一因は、日本の風土と儒教の生れた山東の風土と類似点をもっているためでないだろうか。

(京都大学名誉教授)