リーダーのスタイル
京極 純一
(東京大学教授)
No.756(昭和57年7月)号

 いまの日本にはリーダーのスタイルが、少なくとも、二つはある、これはそういう話である。

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  昔のこと、といっても、よく覚えている時代のことであって、それほど昔ではない。祖父母や父母の時代、数えてみれば明治になってから生まれた人たちが、ムラの中心となって、生きていた時代のことである。そして、ムラといえば、家が二十軒か五十軒。鎮守の森があり、秋祭りとなれば、氏神さまのお社に「村内安全」「五穀豊饒」と書いた二本の幟が立ち、一日中笛や太鼓がきこえ、引率でお参りしたあと学校はお休み。そんなムラ、村祭りのあるムラのことである。明治二十年代の大合併で村(ソン)の一部に組み入れられたものの、ソンとムラは人々の心では別のものであった。そうしたムラの昔のことといっても、昭和四十年代始めまで、あちらこちらでみられた。今でも所によってはまだ見られるかもしれない。かりに、今ではムラから姿を消したとしても、マチで、都会のつとめ先のなかで、形を変えて生きつづけている。それは間違いのない事実である。

  ムラの共同生活ではエライさんが世話役をしていた。実際、道路や用水路、入会山にお社にお寺、こうした共同の事柄の管理には世話役が必要であった。そして、用水路から水を引かなければ稲が作れないから、用水路の維持はムラのみなのためであり、自分のためでもあった。しかし、そうはいっても、用水路の草刈りに一日出れば、一日分だけ家業の稼ぎが休みになった。こうして、公益と私益とは正反対の関係、いわばゼロ・サムの関係にある、これはムラの常識であった。ゼロ・サムのなかで、めいめいの世帯にマイナスになった分はどこに行くか、集められて共同生活のプラスになる、それが表向きの説明であった。そして、用水路の草刈りのあとは目に見え、その成果は参加者を納得させた。しかし、入会山の木を切り、製材してお社を修理するとき、共同生活のプラスが一から十まで目に見えるわけではない。見えないプラスが世話役をしているムラのエライさんのところに集まる、そう疑っても無理はない。共同生活のための奉仕がエライさんの儲けになる、ムラのエライさんは世話役の仕事で私腹をこやす、それがヒラの人たちのもつ疑惑であり、また、その猜疑心に根拠がないわけではなかった。

  現代の大社会のように、見知らぬ人たちが知りあっては離れる薄い接触だけならば、知能を活用した詐欺師の生業も成り立とう。しかし、二十軒か五十軒のムラ。その暮しは、何十年は昨日のこと、何百年もの間、先祖代々から子々孫々まで、家々お互いの評定表を申し送りながら、そして、申し送りのあることをお互いに知りながら、濃い接触のなかで共同生活を続けるほかない暮しである。考えてみれば、明治の御一新も昭和の高度成長も、息もつけない、こうした不自由から逃げ出す大きなチャンスであった。しかし、いくら不自由でも、ムラに止まり、ムラのなかで、尊敬され、敬愛され、人間の交際に数えて貰おうとすれば、それなりの生き方をしなければならない。その生き方は、エライさんにはエライさんなりに、ヒラにはヒラなりに、きまっていた。

  ムラのなかでエライさんが尊敬を失い、軽蔑されるのは、ムラの世話役の仕事で私腹をこやすからである。とすれば、エライさんでありながら、尊敬され続けるには、ムラの世話役の仕事をして、しかも、私腹をこやさないことが大切である。そして、私腹をこやしていないことがヒラの目に見えるのは、手弁当で奔走し、身銭を切り、自腹を切るときである。用水路の草刈りのあとムラの人たちを接待し、ムラを代表して旅人に宿をかして馳走し、お社とお寺の修理には寄進をし、村役場の敷地を寄附し、社会福祉には喜捨をする。江戸時代でいえば村一揆のため東奔西走して一身一命まで捨て、戦後であれば小学校にピアノ、中学校に体育館を寄附する。これは、明治大正期の、いまは絶滅した、井戸塀政治家の(政治マニアの方は別の源流から来ているが)手弁当で国事に奔走というスタイルの方の源流でもある。こうして、親代々の大地主であっても、尊敬されるエライさんの役割を身銭を切ってつとめてばかりでは、果ては家産を蕩尽し、先祖代々にも、子々孫々にも申し訳ないことになりかねない。村長に村会議員に農会長、一切の公職をひたすら拝辞するのも、エライさんの生活の知恵であった。

  尊敬されるエライさんの生き方が共同生活のために身銭を切り、自腹を切ることであるとすれば、ヒラが尊敬されるには共同生活の負担にならないこと、他人に依存せず、自前で暮すことが大切であった。他人の家で接待を受け、飲食するとき、必ず相応の土産を持参し、双方の支出額をなるべく均等化して、依存関係の成立をさける民俗――今日の都会でも守られている制度――は、この自前指向のひとつの現れである。明治このかた、学校体系が立身出世の経路とされたなかで、他人に学資を出して貰うこと、奨学金制度を利用することに対する強烈な抵抗感が存在したのも、この自前指向の考え方から来ている。そして、この自前指向は、日本の工業化、都市化を支えた推進力のひとつであった。ムラから都会に出て、丁稚奉公や徒弟修業のあと、自前の商店や工場をもつ、この努力にすべての人がいつも成功したわけではない。しかし、官公庁や大手企業のつとめ人の世界のとなりに、町工場や商店街の中小零細企業が簇生し、日本の労働人口の大部分を養っているのも、こうした自前指向から始まっている。

  そして、ムラのヒラが自前を誇りとし、生き甲斐とするならば、エライさんはヒラを対等に遇し、決して侮ってはならない。一寸の虫にも五分の魂。そこで、エライさんは謙遜でなければならない。声を荒げず、応対が丁寧で腰が低く、行きあう人に道を譲る、こうした謙遜がエライさんの作法である。実るほど頭をたれる稲穂かな。そして、この謙遜の日常生活への表現として、エライさんは、その生活が質素、倹約でなければならない。共同生活のため身銭を切る不時の出費の必要が多い以上、質素と倹約が経済的に合理的なことはもちろん当然である。しかし、それと別の事情もある。エライさんの、分をこえた賛沢、浪費は、ときにとなりのムラに対する誇示であり、また、ときにヒラに対する誇示である。学校であれ、役場であれ、お社やお寺であれ、明示的にとなりのムラに対する誇示は自分のムラのヒラの支持を受ける。ムラは一体となり、全員参加して、となりのムラに誇示できるからである。しかし、ヒラに対する誇示、距離の設定と隔絶の表示とはヒラの自尊心を傷つけ、その心に嫉妬、怨恨、敵意の種を蒔く。こうした行動は必ず避けるべきことであった。実際、ムラの生活改善のひとつの関門は、エライさんの質素、倹約指向をいかに説得するか、この点にあった。エライさんが台所改善に踏みきれば、ヒラも安心して追随することができた。

  こうして、質素、倹約で謙遜であり、ムラの共同生活のため身銭を切って尽力するエライさんのスタイル、行動様式は、昔、といっても、つい先頃まで、当り前の常識であった。そして、ムラから姿を消したにしても、マチの商店街のなかで、また、都会の官公庁や大手企業のつとめ先のなかで、形を変えて生き残っている。実際、課長や係長が身銭を切って若い者に酒を飲ませたり、自腹で花を買って病院に部下の見舞に出かけたり、こうした民俗はほかには説明がつかない。私は、こうしたスタイルのリーダーを「和」のリーダーと命名している。

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 「和」のリーダーの対極にあるのが、私の命名でいう「ワンマン」である。といっても、もちろん、吉田茂元首相のことではない。スタイルの話である。かつて一世を風靡した吉川英治の大作『宮本武蔵』は、ムラからはみ出し、もはやムラに帰れず、マチや都会に生きるほかない孤絶の単独者の心象風景を画いた社会心理学的名作である。閉じたムラのなかの、何百年にわたる、超長期的、超多角的な決済の、何とも濃密なシステムのなかで、尊敬され、敬愛され、人間の交際に数えで貰うことから、ムラの暮し方ができてきた。もしこのムラからはみ出せば(――そして、人間の交際の別のシステムに参入することが念頭になければ)何百年にわたる超長期の計算から解放され、文字通り、「後は野となれ、山となれ」である。そして、尊敬され、敬愛され、人間の交際に数えて貰うことを放棄すれば、人間のすることであろうと、なかろうと、自分の行動を規制するものは何もない。あとは、人生すべて、『一乗寺下り松の決闘』である。単独者として、乱陣のなかを孤剣をたよりに、斬り払い、斬り伏せ、斬り倒し、食うか、食われるか、弱肉強食、生存競争の戦場を、血と泥にまみれながら、力のかぎり、戦い抜くほかない。その歴戦の勝利者が、ここでいう「ワンマン」である。もっとも、吉川英治の『宮本武蔵』は剣の技能者であって、「道は技より進めり」(荘子)と技のかなたに道の修行を求めた。ここでいうワンマンは実在の真相よりも、現世の栄華を追求する勝利者で、まずは町工場や商店の持主であり、やがては大工場、大企業のオーナーである。勝利のたびに、事業は拡大し、手下はふえ、組織は強大な軍団ないし王国となる。

  さて、戦場では人間は勝利者と敗北者に分かれる。敗北者は殺されないで生きていられるだけでも、有難いと思わなければならない。敗北者には、当然のこととして、卑屈と迎合と曲従(柳田国男)が期待される。「長いものには巻かれろ。」手下もイエス・マンであることを期待される。もともと、勝利者の周囲には、勝利者の強運にあやかりたいという多数の人たちが押し寄せる。テレビ・ショウに参加して、タレントに花を贈り、握手を求める無邪気な観客もあやかりたい人たちである。ワンマンを取り巻くイエス・マンもあやかりたい人たちであり、ワンマンに追従し、讃歌を唱う。諫争の忠臣は例外的な史実であって、日常の事実ではない。「和」のリーダーの質素、倹約、謙遜を支えるものが実に強烈な自己抑制であるとすれば、イエス・マンにとりまかれたワンマンに自己抑制はない。あやかりとおこぼれを求めるイエス・マンは自己抑制でなく自己解禁、情動と衝動の放出を支持し、放恣と横暴をすすめる。質素と倹約に代って、俄成金の豪奢(「豪邸」の建築)と浪費が、敗北者と手下とに対する誇示のために、そして、勝利者自身の内心に巣くう無限の虚無の無限の不安を慰撫するために、繰り広げられる。また、謙遜に代って、敗北者の卑屈と迎合と曲従の対極として、倨傲と侮慢がスタイルを彩る。そして、明治このかた今日まで、倨傲と侮慢とが政界、官界、実業界、ジャーナリズム、共通の持病である。もう一度繰り返せば、倨傲と侮慢、豪奢と浪費がワンマンのスタイルであるのは、ひとつには、何百年にわたる超長期の計算をもたず、――現代風にいえば、歴史への虚栄心など、視野の外にあるからである。ふたつには、同胞から、他者から、尊敬され、敬愛され、人間の交際に数えて貰うことなど、考えてみたこともなく、――現代風にいえば、人間の自己疎外の極点にいて、人間連帯の理念が完全に蒸発したからである。この荒寥たる心象風景が歴戦の勝利者、ワンマンの栄華の半面である。

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 「和」のリーダーは伝統に守られ、平和な、閉じたムラに適合したリーダーである。戦う軍団の指揮者ではない。ワンマンは開かれた戦場の勝利者である。では、日本のワンマンたちは、開かれた国際社会の弾丸雨飛のなかで、日本丸の船長がつとまるであろうか。実は、日本の政界、官界、実業界、ジャーナリズム、各界数知れぬワンマンたちの大部分は、開かれた戦場の勝利者でなく、法令制度、官庁、企業、組織体など、土俵とルールのきまった競技場の勝利者である。ワンマンのスタイルは身についているにしても、竹馬にのったワンマンであり、実の所、内弁慶のワンマンである。その上、日本の中でさえ、他人に尊敬され、敬愛され、人間の交際に数えて貰うことなど考えたこともない人たちが、日本について「国際社会において名誉ある地位を占め」(日本国憲法前文)ることを志すことなどあるだろうか。こうして、リーダーの端境期がいまの廻り合わせであれば、ヒラは、五十年前、四十年前と同様に、耐えて生きるほかない。

(東京大学教授・東大・法・昭22)