古代史発掘の喜びと悲しみ
坪井 清足
(奈良国立文化財研究所長)
No.754(昭和57年1月)号

  平城 [ へいぜい ] 宮跡の発掘をやらないかといわれて奈良国立文化財研究所にいれていただいて、いつの間にか四半世紀が過ぎた。その間に飛鳥寺の発掘に参加し塔を中心に北と東西に三つの金堂のある一塔三金堂の今までわが国で考えてもいなかった伽藍であったことがわかった。その上東西金堂の基壇のつくりがそれまでのわが国の建築史にない下成基壇にも礎石のある二重基壇であったことがわかったなど驚きの連続であった。塔の中心部の地下三メートルの深さに心柱の礎石があり、その周りから古墳と同じような装身具、鎧、馬具などが出て、わが国最古の本格的寺院が建立された六〇三年はまさに古墳時代だったという実感を味わった。続いて発掘した川原寺も一塔二金堂のそれまでに知られもしなかった伽藍配置を持っていたし、その下層から処々にマンホールのある暗渠をともなった遺構を検出し、寺が母斉明天皇の菩提をとむらって天智、天武両天皇によって建立されたことと考えあわせて、斉明天皇の一時住まわれた川原宮の跡の一部を掘りあてたのではないかと考えた。引続いて飛鳥川をへだてて東側の江戸時代の地誌に大化改新の舞台となった板蓋宮跡と記された小さな塚の付近を掘って、ここにも一本柱列の不思議な回廊をめぐらした大きな宮殿遺構のあることを確かめることができた。これは出土する土器が七世紀後半のもので、板蓋宮そのものではなかったが、皇太子草壁親王が奈良時代に岡宮天皇とおくり名されているので、その場所が嶋宮の北端であったろうと推定している。その後この遺跡を奈良県教育委員会が引続き発掘し最近ではこの回廊の規模もわかり、その中央正面の巨大な正殿も検出され、さらにこれらの建物より古い建物群のあったことなど多大の成果をあげている。何故かこれを浄見原宮に比定する考えが出されている。

 平城宮跡の発掘が昭和三十四年に軌道にのったが、当初は記者諸君から何を掘っているかと聞かれ、平城宮内の役所の一つだとしか答えられず、当時の藤田亮策所長が「あわてなさんな十年も掘ればきっとどういう役所かという見当がつきますよ」と答えておられたのが咋日の事のように思える。ところが二年目の冬の雪の降る中で木札に墨書のあるものが続々と発掘された。中国でしか発見されていなかった木簡の発見である。奈良時代の文書は正倉院文書しかないものとおもっていた古代史家を驚かしたが、現在までに三万点におよぶ木簡が平城宮跡から発掘されたばかりでなく、平城宮より古い藤原宮、さきにふれた板蓋宮伝承地下層からより古い木簡が発見されたばかりでなく、西は大宰府から東は宮城県の多賀城、岩手県の 胆沢 [ いさわ ] 城、秋田市の秋田城まで、奈良時代から平安時代の大きな官衙遺跡では殆ど出土するようになり、古代史の生の史料が限りなく地下から発掘されるようになったのである。最初の木簡の内容からこの地域が当時の官人の給食を司る「大膳 [ しき ] 」であったと推定できるようになり、その後木簡や墨書のある土器から内膳司、皇后宮職、 造酒司 [ みきのつかさ ] 、大政官、人事院にあたる散位寮、馬寮などがそれぞれ推定できるようになってきている。個人的に今でも気味悪い思い出は、大膳職の一辺二・四メートルもある大井戸の底から眼と胸に木釘を打ち込んだ呪の 人形 [ ひとがた ] を掘り出したことで、胸に書かれた文字様のものが解読できないので千二百年後までもこの人形にこめられた呪は解けていない。これを掘ってはじめは後宮の女官の呪とおもったが、「水鏡」に 井上 [ いがみ ] 内親王が光仁天皇をおとしいれるために井戸にまじわざをしたのが発覚したという話が出ているのを知り、権力争いのすさまじさをおもい知らされたものだった。

 このように平城宮跡の発掘成果が世間に理解されはじめた頃に私鉄による平城宮跡西南隅の買収問題が明らかとなった。このことが新聞紙上に報ぜられるや平城宮跡保存の国民的な声がわきおこり、国会でも問題となってついに西側三分の一の史跡未指定地を含めた平城宮跡全域の買上げが政府によって決定された。これに安心するひまもなく万博までに奈良の中心を通る国道二四号のバイパスを平城宮の東に接してつくることが決められた。早速その予定地を発掘したが、宮域は予想外に東に拡がっており、これが記録に見える東院が東に張り出しているためだとわかり、再び保存の声があがって計画決定までしていた国道の路線を大きく東に変更してもらう結果となった。このようなことが次々とおこったのは実は平城宮跡が大阪・京都から三十分の通勤圏にあって、昭和三十年代の戦後の復興による都市化の波がこの地におよんだことによるものである。事実奈良市は昭和三十年代のはじめ七万人の人口が今日では三十万を突破し、埼玉に次ぐ人口増加の著しい場所となっている。このような大都市圏の人口増は奈良のような古代史の中心に及んだ時にどうしても開発と保存の正面衝突の形をとらざるをえない。しかし今日では平城宮跡一二四ヘクタール(現在の東京の皇居とほぼ同面積)が周辺のスプロールの進むなかで遺跡博物館構想によって、史跡公園的整備が初歩的に実施され、遅々としてではあるが、公園的に整備され、最近では奈良公園からあふれた人々が日曜祝祭日に多勢来訪されるようになってきている。公園的整備とはいえ、運動施設などの便益施設は地下平均六〇センチメートルに残っている各種遺構に影響があるのでこれは認められないが、千二百年前の宮殿や中央官庁の役所がびっしり建ちならんでいた状況を肌で感じていただけるように心掛けており、一部出土資料の展示施設などもみていただけるようになっている。

 平城宮跡の保存に一応の見通しがついた頃大阪から一時間の通勤圏の飛鳥地方の保存問題がクローズアップされてきた。平城宮より一世紀古い七世紀の政治の中心飛鳥地方は、推古天皇から元正天皇が平城宮に移られるまで歴代の天皇の宮が転々と移られたところで、其処は平城宮と異なって、藤原宮以外いまだにどこに、どの範囲に宮があったかも確定できていない地域で、わずかな発掘調査しかできていないが、いたるところに大規模な宮殿に関連した遺跡が埋もれていることがわかってきている。さらに飛鳥寺、川原寺のほかに、聖徳太子の誕生地を記念した橘寺、推古天皇の宮を寄進した豊浦寺、七世紀後半の寺々の行政を監督した大官大寺、蘇我本宗家の建立した飛鳥寺に対して支流の蘇我倉山田石川麻呂(大化改新直後の右大臣)の建立した山田寺、渡来人の建立した 檜隈 [ ひのくま ] 寺をはじめ多くの寺々がその間を埋めてたちならび、その周辺に蘇我馬子の墓と伝えられる石舞台古墳、高松塚、中尾山、越岩屋山、 牽牛 [ あさがお ] 子塚、マルコ山等の飛鳥時代の古墳がつくられている。さらに欽明陵の外堤から出たといわれる猿石、橘寺に持ってこられた二面石、飛鳥石神出土の須弥山、道祖人石、川原寺の領域の西南隅を示す亀石、坂田寺入口のマラ石、板蓋宮伝承地の両側にある酒船石など、各種の石彫がみられる。その表現は古墳時代の埴輪の人物像や飛鳥時代の仏教彫刻とも異なるおどけた表情で今日までの彫刻史にほとんどとりあげられることがなかったのも不思議である。

 飛鳥地方の保存は俗に古都法とよばれる法律によって方向づけられているが、ようやくその緒についたばかりで、今後多大の困難が予想されるばかりでなく、この法律は明日香村と大和三山のみを対象としている点で、桜井市、橿原市の一部にひろがる古代遺跡の保存に十分対応できないうらみがある。

 平城宮跡、飛鳥地方の保存が全国各地の大規模遺跡の保存に大きなはずみをつけることになった。陸奥国の多賀城、出羽国の秋田城、筑紫の大宰府などもそれぞれ史跡の指定と買上げ、発掘調査とその成果をとりいれた整備などその最も顕著なものであるが、東北地方の柵跡、各地の国分寺、国郡衙など律令体制下の主要官衙遺跡の調査と保存が各地で大きく進展してきている。このような保存体制はこの十年間に全国的にひろがったが、眼に見える古墳をのぞいて先史時代遺跡の破壊は眼にあまるものがある。開発に伴って建設側は土質調査をはじめ各種の調査を当然自己負担で実施するのに、何故埋蔵文化財だけ除外して平気でいるのだろうか。わが国は国土の大半が山地で、昔から人間の棲める平地はかぎられている。したがって万年単位の旧石器時代から中・近世までのあらゆる種類の遺跡がその狭い平地とその周辺に重なり合っている。咋年の全国の発掘件数は約一万になんなんとし、その九九%は発掘後破壊されて、残ったものはほんのわずかなものでしかない。これらの遺跡は先人が如何にその土地に適応して生活してきたかを示す貴重な記録が大地に刻み込まれたものであるからせめて十分な調査をしておきたいと望むのは無理な注文であろうか。確かに調査体制は開発のテンポに余りにもかけはなれ、個々の調査では多くの人々に御迷惑をかけているのは申し訳ないが、開発に投下された資金と、保存に充てられた費用の格差はあまりにもひどい。全国の教育機関に開発関連の学科のないところはないにもかかわらず、考古学、建築史、美術史、造園史をはじめとする保存に関連した研究を教える学科は数えるほどしかない現実がこの結果をまねいているといっても過言ではないであろう。

(奈良国立文化財研究所長・京大・文・昭23)