メニューがうまくできれば名編集者になれる?
邱 永漢(作家) No.753(昭和56年10月)号

 料理の本はアメリカでもロング・セラーズだそうである。1930年に出版された「ベター・ホーム・アンド・ガーデン・クック・ブック」は35年間に1133万部、ファニー・ファーマーの「ボストン料理学校クック・ブック」(1896年)は380万部も売れたそうである。
 アメリカで料理の本がよく売れるのはアメリカの料理がまずいからという説があるが、もしその通りだとしたら、最近、日本で料理の本が売れるようになったのも、日本人の料理の腕がおちたせかもしれない。もともと料理がそれほど発達していなかったという点では、日本もアメリカに似ているが、日本はデリケートな料理の材料に恵まれたところだし、アメリカのように世界中の食いっぱぐれが集まったところではない。私なんかから見ても、日本料理は、中華料理にもフランス料理にも劣らないオリジナリティがあって、料理の水準から云っても第一級にランクされておかしくない内容を持っている。
 しかし、到来物のフランス料理や中華料理が近来とみに改良されているのに比べて、日本料理は進歩を忘れたのではないかと思うほど千篇一律なことも事実である。どんな一流料亭の板前さんも、教えられた通りの料理をすることはできるかもしれないが、新しい日本料理をつくり出そうという意欲には欠けている。
 若い者で料理に情熱を燃やしている連中は十中九までがフランス留学で、おかげでビストロと名のつくフランス料理屋が東京に溢れるようになり、その実力もとみにあがってきた。プロの料理人の世界にも、こうした変化が現れているが、アマチュア相手の料理学校に至っては、料理学校そのものが絶滅の危機に瀕している。料理が全然できなくてもおとなしく我慢する「やさしい旦那さま」が増えたおかげで、日本の若い女性は料理ができなくなってしまい、料理の本に書いてあることが信じられないくらい新鮮に見えるようになってきたそうである。
 おかげで料理の周辺をうろうろしているだけの、文人の料理の本までがバカに売れるようになった。私の「食は広州に在り」をはじめ、一連の料理エッセイも、ご多聞に洩れず、版を重ねること再三ならず、一回の再版部数が2万5千冊3万冊といった驚くべき数字がくりかえされている。20数年前「あまカラ」という鶴屋八幡の羊羹を原稿料代わりに送ってくれる小雑誌でコツコツと10年にわたって食べ物のエッセイを書いてきたが、全くもって食べ物の話を書いて飯を食べさせてもらえるとは夢にも思わなかった。どうも世の中が豊かになるということと、研究心が旺盛になるということは、いま一つ違うようである。


 私は食べることには殊の外、情熱を持っているので、他所へおいしい料理を食べに行くのも大好きなら、自分の家の食卓を豪華にすることにも人一倍熱心である。日本の一般の家庭では、奥さんの料理の腕に自信がないせいもあって、あまり自宅ではお客をしたがらないが、私は裏長屋のような借家に住んでいた時分でも、平気でお客を家に招んだ。親の代からそういう習慣があって、ふだん、家で食べている物に対して妙な自信を持っていたからかもしれない。
 収入のあまりなかった時分は、家内が一人で全コースの料理をした。メニューをつくる仕事と、材料の仕入れは私の分担で、横浜の南京街までも、築地までも、私は本職のコックや料理屋のオヤジにまじって仕入れに出かけた。少し生活の余裕ができると、私たちは専門のコックをやとうようになった。そのコックも自分なりに腕に自信を持っているから、なかなか私たちの云うことをきかない。腕前から云っても、到底、うちの女房の足元にも及ばないのだが、女とみて心の中ではバカにする。あの料理は、油の温度が低すぎた、あれは煮てはいけない、手抜きしないで蒸すように、と女房が文句を云っても、女に何がわかるかと、面従腹背で、自分勝手なつくり方をする。
 しかし、結果は歴然としているから、何回も証拠を突きつけられるうちにやがて兜を脱がざるを得なくなり、いまのうちのコックは、「私の老師は邱夫人です。でも私は貧乏ですから、弟子入りの礼物は私の方が持って行かずに、奥さまの方からもらいました」と心服するようになった。おかげで、私の家の料理は、東京中のどの中華料理店にもひけをとらない水準を維持できるようになったが、料理というのは、経営と同じように、片時の油断もならないところがある。ちょっと目を離していると、たちまち似てもつかぬ料理が食卓にのぼってくる苦い経験をいまだにくりかえしているのである。


 私の家に「邱飯店」という名前をつけたのは池島信平さんであるが、邱飯店のメニューは、昭和29年、東京に住むようになって以来、一貫して私が担当している。どうして、料理人任せにしないで自分でやるかというと、料理人は、自分の知識と鍋釜の都合ばかり考えて食べる人の胃袋の都合は二の次にしてしまうからである。うちの女房が料理人をやってくれた時だってその傾向があったのだから、プロの料理職になると、その弊はいっそうきわだっていると云わなければならない。
 いつも料理をつくっているコックだし、一つ一つの料理については腕も確かなのだから、大丈夫だろうと思って、忙しさにまぎれてついメニューを任せたりすると必ず妙なコースができあがり、一回といえども、うまく行ったためしがない。豚肉に牛肉が続いたり、炒め物のあとにまた炒め物がでてきたりする。 その点、私がメニューをつくる時は、先ずその日のお客の年齢を考える。私も含めて、うちのお客の平均年齢もあがったから、50から上の人の多い日は、肉料理を少な目にして野菜や魚や豆腐類を多目にする。中華料理は油っこくて胃にもたれるというのは全くの伝説にすぎない。事実、私の家のメニューはこれが同じ中華料理だろうかと目を見張るほど20年前とは内容が違ってしまっている。
 料理店の中華料理が胃にもたれるとすれば、それは高い料金をもらいたい一心で高カロリーの料理ばかり並べるせいではないだろうか。また材料にバラエティをあたえるために、デザートとフルーツを除いて、大体15皿でる料理の材料はほとんど同じものを使わない。鴨を使った料理のある日は鶏は使わない。ハムを使った場合は、豚肉の料理は避ける。海老に蟹が続くこともたまにあるが、それはたとえば、中華料理の材料屋から電話がかかって、「いま飛行機で上海蟹が到着しましたが、生きた蟹ですよ」と云われた場合に限る。野菜も、家鴨と白菜を煮つけたら、同じ白菜をまたスープに使うようなことは先ずない。 料理法についても、もちろん同じ揚げ物を二回続けたり、唐辛子で炒めたスルメのあとに、また唐辛子で宮保鶏丁を出すようなことはしない。あえものがあれば炒め物、揚げ物があれば、蒸し物、このへんで中だるみだなと思えば、四川風の辛い料理にするか、浜納豆で炒める広東風の料理が出てくる。スープも、正式の料理の時は、必ず始めと終わりに前後二回違った材料と味のものを出す。固形物を次から次へと入れる前に少し液体で胃の壁をなめらかにしてやる必要があるし、胃の中が八分通り一杯になったところで、また液体を流し込むことは、胃の調子を柔らげてくれると私は信じている。


 だから、メニューづくりは料理屋にとっても、お客をする人にとっても、料理の出来不出来に劣らないくらい大切なことだと私は思っている。季節季節にどういう材料があるかわからないとメニューづくりができないから、いつどんな野菜ができて、いつどんな魚がおいしいか、どうしても気をつけるようになる。地方都市に講演旅行に行っても朝早く魚市場を覘きに行ったり、スーパーマーケットに入っても、いま空豆があるか、いま、冬瓜は一個いくらするか、注意するようになる。市場通いをしたからと云って天下国家のことに明るくなるわけではないが、庶民の生活と接触面が多くなることは事実だし、少なくとも雑誌の編集者にはなれるような気がしてくることは確かである。自分の鍋釜の都合だけではなく、食べる側の都合で編集ができるようにできるようになれば読者にうける雑誌がつくれることは間違いないからである。
(著述業・東大・経・昭和20)