アメリカ社会の特質
本間 長世(東京大学教授) No749号(昭和55年9月号)

 先ほど有沢先生からもお話がございましたように、アメリカについて私どもいろんな形で触れる機会が多いわけであります。また、それぞれの専門のお仕事でアメリカのことに深く携わってこられた方が圧倒的に多いのではないか。にもかかわらず最近アメリカのことがどうも見当がつけにくくなってきているという問題がございまして、これは非常に差し迫った日米の経済摩擦であるとか、アメリカの対イラン、対アフガン、あるいは対ソ、対中国外交の方向であるとか、そういったことについての見当がつけにくいということと同時に、アメリカという存在自体の意味みたいなものがはっきりしなくなっているということがある、そういうことについて少し引き下がってアメリカを大きくとらえてみたいというのが私の考えていることでございます。

 実は私がアメリカについて勉強するようになりましたのは、東京大学に教養学部教養学科ができまして、私はその第一期生でございますが、法学部で長らくアメリカについての講座を担当してこられ、今日もお元気でおられます高木八尺先生という方がいらっしゃいますが、この高木八尺先生がアメリカ研究の重要性ということを説かれたわけであります。そうして、最初にフランスにアレキシス・ド・トクビルという思想家――政治家というんでしょうか、人物がいまして、御承知の方も多いと思いますが、この人が〝アメリカにおけるデモクラシー〟という書物を書いております。高木先生が最初に私どもに教えてくださったのはこのトクビルの名前でございまして、外国人がアメリカを全体としてとらえ論じた例として述べられた。トクビルの話はある意味で非常に簡単でありまして、貴族社会のヨーロッパから来てみたら、アメリカというのは平等主義の国である。政治も法律も宗教も、それからトクビルに言わせれば言語も、あるいは演劇も、アメリカの諸現象のすべてはその平等主義ということから説明できると、これは少し強引でありますけれども、フランス人特有の明快さをもってアメリカを説明しているというところがある。高木先生はその例を引かれて、外国人がアメリカを見ることの重要性ということをおっしゃったわけであります。私はそのことを覚えておりましたので、最初にアメリカに留学しましたときは、私はニューヨークの本屋に入りまして店頭にあったトクビルの『アメリカのデモクラシー』の英語版のペーパーバックをまず買った思い出がございます。先ほど御紹介いただきました『アメリカ研究入門』という書物も、私が概観のところを担当しておりますが、アメリカを全体としてとらえたいというのが狙いで、しかし全体としてとらえることがいかにむずかしいかということを感ずるわけであります。今日、日本のアメリカ研究は、アメリカ学会という学会もありまして、東大法学部の斎藤真先生が会長で会員五百名ほどで、それぞれの分野で研究を進めていらっしゃる。しかし、一種のジレンマみたいなものがありまして、研究が細かく深くなっていくとかえって全体をつかまえにくいということがあります。私が学生のころは、アメリカの先生が来て話をするというのならばだれであっても聞きに行った。しかし最近は私などは、アメリカから学者が来られてセミナーとか研究会を組織しようと同僚や若い人に連絡をすると、どうも私とは専門の違う人ですから私が伺ってもあまり意味がないでしょうというようなことを言う方がふえてきた。これは一面大変結構なことであって、しかし一方から言いますと、どうしてもアメリカを全体としてとらえるということをされる努力が、ある意味で学問に良心的であるがゆえに専門家の間にも薄れているというようなことがあるのではないか。それだからこそ今度は、ジャーナリストの方とか、アメリカに滞在した方、アメリカ旅行中に独特の体験をされた方が出てきて、これぞアメリカであるというような記事がたくさん出てくる。それはそれでアメリカについての貴重なインフォメーションでありますが、そのインフォメーションを意味づけるような枠組みというものがしっかりしていないとアメリカを誤解するのではないか、そういう心配があります。その責任をアメリカの研究の専門家が果たしているかといいますと、先ほどお話がありましたように、アメリカについてどうも見当がつかなくなったというのが定説であるとすれば、残念ながら専門家は責任を果たしていないということにならざるを得ない。私は本日は、いろんなアメリカ社会の各側面といいますか、あるいは分野、トピックなどをあげてみまして、先ほど申し上げたように、一九五〇年代のときと比べてどういうふうに変わってきているかという点からアメリカ社会の特質を探ってみたい。それは今日だけで結論が出せるということにはならないと思いますけれども、しかしアメリカについての今後のいろんな情報というものを位置づけるということに何らかの参考にしていただければ大変うれしいことだというふうに存じております。

 先ほどもお話がありましたが、アメリカについて見当がつけにくくなったという声が確かにいろんなところから出て、私も伺っております。それからもう一つは、アメリカこそ日本から学ぶべきであるという声も最近は出てきている。御承知のように、ハーバード大学のエズラ・F・ボーゲルという先生が、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という書物を書かれた。これは日本ではベストセラーになり、アメリカではならないそうですが、あの本の趣旨というのは、日本から学ぶべきレッスンがあるんだと、アメリカはいわば潔くそれを学べということである。最近はそういう声がアメリカ人の中にも少しずつ出ているし日本人の中からも出ております。『ボイス』という雑誌の最近号に松下幸之助氏がアメリカ社会の変化について書いておられまして、その中でアメリカも日本からよいところは学びなさいということを書いておられる。もっと激しい議論がありまして、中川八洋という方が最近書かれた本でありますが、日本の社会がいかに欧米よりも進んでいるか、超先進国は日本であると論じておられる。たとえば日本の民主主義の進んでいることに比べればアメリカのデモクラシーはまだやっと十二歳程度であるという話を書いておられる。まあそこら辺が今日達し得る一番激しい議論ではないかと思います。そういう議論が一方に出ております。今アメリカが大変混乱しているということで、ジャーナリズムのアメリカについての記事の題のつけ方も激しい。これまた雑誌『ボイス』に出ているのでは、シカゴ大学の入江昭さんという方が書いた文章で、〝狂気のアメリカと正気のアメリカ〟という題がついている。つまり、アメリカは狂っているといイメージをジャーナリズムは広めている。これは十年ほど前にもありまして、一九六〇年代のアメリカの混乱をいろいろ報道した日本の記事の中に〝狂気のアメリカ〟〝狂ったアメリカ〟という見出しのものがあった。〝狂気のアメリカ〟とか、〝病めるアメリカ〟とか、〝病める巨象〟とか、つまり病気か狂気かその辺である。とにかく正気でないアメリカであります。そういうふうに考えていきますと、アメリカについて最近十年くらいの間に、そうしたいわばマイナスないしネガティブなイメージが広まってきているということである。ただこれは今日に始まったことではありませんで、第二次大戦以前の数十年を振り返ってみれば、アメリカを一方において先進国であるとか、あるいは私が教わった高木先生のようにピューリタニズムの国である、デモクラシーの国であるというふうに描くものもあったし、それから他方ではアメリカを狂気のアメリカとして描いてきたものもあったと思います。高木八尺先生は一九二〇年代の初めにハーバード大学その他で勉強されて、戻られてから東京帝国大学でヘボン講座を担当されたわけでありますが、その高木先生とほぼ同じ時期に、学校は違いますがアメリカに留学して、やはりほぼ同じころに日本に帰ってきて、大衆文学のほうで名をあげた長谷川海太郎という人がおります。この名前はあまりなじみがないと思いますが、この人、林不忘というペンネームで〝丹下左膳〟をつくり出した大衆小説家ですが、同時に別な名前が谷譲二、もう一つの名前が牧逸馬という、一人で三つのペンネームを使って大活躍をして、書き過ぎて夭折した作家でありますが、その谷譲二が『メリケンジャップ商売往来』という本を書いております。その本の冒頭にアメリカを論じ、今日のアメリカはもはや昔のアメリカではないということを言っている。なぜ昔のアメリカではないか、それは新しい移民のアメリカであるからだということを言って、ピューリタンのアメリカはもうないんだと。つまり、今日の社会学者の言葉で言いますと、「ワスプ」すなわちホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタントのアメリカというのはなくなったんだというわけであります。彼はボーイとか、皿洗い、その他さまざまな半端仕事をして苦学をしたわけですから、そこでつき合った人々が労働者、しかもその半端仕事の労働者であって、おそらくそれはアメリカに来たばかりのいわゆる新移民である。そういう非常にごたごたした、混乱した、そういうアメリカを彼は見てきた、その面を強調したわけです。高木先生はアメリカの伝統的なるものを深く学ばれて、ピューリタニズムとデモクラシーのアメリカということを教えられたわけです。今日の社会を考えてみますときも、依然としてそういうアメリカの伝統的なるもの、アメリカをつくってきたもの、そこからアメリカを見ていくということと、一九二〇年代以後非常にはっきりしてきたような、そしてさらに一九六〇年代になって大きな変化があったような混乱しているアメリカ、変わりつつあるアメリカ、その面と両方から見ていくということが必要ではないかと思います。

 私はこの一九五〇年代に初めて留学したわけでありますが、そのころのアメリカを考えてみますと、やはり伝統的な価値観というものが生きていたということが言えるだろうし、それから冷戦の時代、アイゼンハワー大統領の時代でありますが、世界が落ち着いていたと言っていいだろうと思います。もちろん社会が完全に落ち着くということはあり得ませんで、一九五〇年代のアメリカにおいても、たとえば黒人問題にしてもリトルロックの事件というようなことがあった。それから一九五〇年代の初めには、いわゆるマッカーシズム、すなわちジョーゼフ・マッカーシーの反共のヒステリーというものがありました。その他数えあげていけばいろいろある。しかし、六〇年代のアメリカを見、七〇年代のアメリカを見、今日のアメリカを見ている者からすれば、五〇年代というのはいかにも穏やかな落ち着いたアメリカであった。それはアイゼンハワー大統領というアメリカ人の父親像を体現したような大統領がいて、彼はそのころは何もしない大統領だと、ただゴルフだけしているゴルフィング・プレジデントというふうに言われていた。そのアイゼンハワーの時代のアメリカは政治的にも不活発であって、それだから落ち着いているように見えた。最近ある政治学者の論文がございまして、アイゼンハワーは実は非常に活動的な大統領であったと。これはまあよく修正主義と申しますが、歴史は必ず前の解釈をひっくり返して論じたりするわけですが、その論文によりますと、実はアイゼンハワーは大変精励恪勤であって、メモ帳などを引っ張り出して見ると、朝の七時半からもういろいろ電話をかけたりしているとか、アポイントメントが実に多くて、たくさんの人に会っているとか、ジョン・フォスター・ダレスに外交を任せっきりのようであったけれども、ダレスの演説の原稿を仔細に検討して、そしてここの字句はこう改めたほうがよろしかろうというようなことまで細かく書いていたとか、そういう事実が出ているそうであります。非常に綿密細心、しかも自分が表面に立たないという。もしその新しい説が正しいとすれば、日本の政治家もお手本にできるような人であったらしい。しかし、いずれにしても一九五〇年代の安定というものがありまして、そこでは、つまり、旧来のアメリカの価値観、生活様式、そういうものが支配的であった。単にアメリカの中だけで支配的であったのではなくて、実はそれはアメリカの外においても普遍的な価値を持つものだというふうにアメリカ人も思い、それから戦争に負けた国の人々も思い、その他新しく独立した国の中でもそういうふうに思った人々がいたわけでありまして、いわゆるアメリカ式生活様式ということが言われたわけであります。われわれにとってアメリカというのは豊かさの国であったし、それから一種の手本として共和国あるいはデモクラシーであった、そういうふうに見えたわけです。それで価値観の中でも個人の価値をとうとぶ、自由をとうとぶ、平等主義である、それから非常に勤勉であるということが言われていた。アメリカ人の勤勉の徳というのは、建国当時のベンジャミン・フランクリン以来出てきたわけでありますし、それから、これは日本では読まれておりませんが、十九世紀後半にアメリカの少年小説をたくさん書いたホレーショ・アルジャーという人がおりまして、このアルジャーが、少年たちに勤勉であれ、勤勉であれば運をつかんで出世すると説いた。非常に勤勉に働きまして、川に落ちた女の子を助けてやると、その女の子のお父さんは百万長者であると、そういうお話があったわけであります。それから、最近テレビに日本でも上映しておりました、『大草原の小さな家』というのがありまして、これは元の物語が翻訳されて、日本の子供たちにも愛読され、それをごらんになった方は多いかと思いますが、あれは十九世紀後半の西部の開拓者の家の物語で、そこで育った少女が六十過ぎておばあさんになってから出版をした書物であります。非常に克明に昔の話が書いてある。それを見ますと、そこに出てくる父親というのは、これは森を切り開いて畑をつくる、森の中でほかの人の木を切る音が聞こえると、ここはもう混んできたというので、新しい土地を求めて、家を売り払って幌馬車を買って、ウイスコンシンから今日のオクラホマまで幌馬車で下っていって、新しい家を建て、屋根がないから幌馬車の幌を張って屋根にして、水が出ないから井戸を掘ってという、そういう人物であります。その生活というのはひたすらに働く生活である。これが昔のアメリカの勤勉の権化、象徴のようなものであった。そういう物語の世界がそれほど遠い昔ではなかった。私はウイスコンシン大学の歴史の先生でメリル・ジェンセンという方に教わりましたが、そのジェンセン先生によると、自分が子供のころは、いま例に出しました『大草原の小さな家』の生活とそれほど違わない生活をしていたということだそうであります。やはり物語どおりに、小学校というのはワンルーム・スクールであって、先生が一人しかいない。そこに共に学んだ少女が後のミセス・ジェンセンになっているわけですから、そういう環境が現実に存在した。もちろん一九五〇年代のアメリカに大草原の小さな家はなかったわけでありますが、そういう十九世紀後半に存在したような価値観というものが生きているということが言われたわけであります。

 宗教にしましても、アメリカの宗教はプロテスタンティズムが中心であった。これはピューリタンのアメリカということを高木先生から教えられたが、アメリカの宗教はもちろんピューリタニズムだけではなかった。植民地時代からピューリタン以外のクリスチャンはいたわけでありまして、イギリス国教会の人ももちろん、クエーカーもいたわけであります。しかし、大きく言ってプロテスタンティズム、その中でもピューリタニズムがアメリカの建国に当たって、あるいは植民地から建国に当たってアメリカの宗教の伝統をつくったということは言える。今日のアメリカ宗教史の教科書の概説を見ましても、今日の状況というのを「ポスト、ピューリタン」の時代というふうに述べて、つまり現代に至ってポスト・ピューリタンであると見ているわけで、これはアメリカ人が書いている書物であります。それが五〇年代である。しかし、六〇年代には御承知のように初めてカソリックの大統領が誕生した。ジョン・F・ケネディー大統領が生れると、これまた御承知のようにユダヤ人の影響力というものがアメリカの社会で急速に広まるわけであります。特に知的な職業――学者、ジャーナリズム、出版、映画産業、芸術、そうしたところで、ユダヤ人の人々の活躍が非常に目覚ましくなる。ユダヤ人でアメリカの文学の講義をする人、ユダヤ人であってエマーソンの意味を説明し、ホイットマンの詩を分析するという人々が出てくる、というような状況が生まれた。その宗教がプロテスタンティズム、しかもピューリタン中心のプロテスタンティズムから今日の一九七〇年代、八〇年代の宗教への変貌を遂げて、今日では、プロテスタンティズムあり、カソリックあり、それからユダヤ教があり、そして新興宗教があり、それから、その新興宗教の中に含めるべきかどうか問題があるかもしれませんが、少数ながら仏教徒がいるわけでありますし、それからムスリム――回教徒が出てきているわけです。さらにプロテスタントの中でもその本流とされてきたような宗教の数が減っているという調査もあるそうでありまして、そういう意味で、プロテスタントのアメリカからポスト・プロテスタントへ、あるいはキリスト教国のアメリカからキリスト教国とは厳密には呼び得なくなったかもしれないアメリカへという変化があるわけであります。この変化が激しくなってきたのが一九六〇年代の半ば以後であります。その一つのあらわれが、たとえば〝人民寺院〟というような非常にむごたらしい話などが宗教の現象として語られるということになってくるわけであります。

 それから、それに深い関連があるわけでありますが、先ほど申し上げましたように、民族、人種という点から言いましても、ワスプがアメリカ社会の中心であった。もちろん建国初期からワスプ以外の人々はアメリカに来ていた。建国期においてすでにカソリックもいたわけですし、ユダヤ人も少数ながらいたわけでありますが、十九世紀の後半以後、いま申し上げましたように、南アメリカ、南ヨーロッパ、東ヨーロッパ系統の人々がふえ、東洋からの移民もふえる。そして、しかもこの一九五〇年代あたりまでは、アメリカの社会はもろもろの人種のるつぼであると、メルティング・ポットであるということがまだ言われていた。けれども、一九五〇年代にあらわされました一つの研究書の中で、すでにアメリカは一つのメルティング・ポットではなく、三つのメルティング・ポットから成り立っているんだというようなことが言われ始めた。その三つといいますのは、プロテスタント、カソリック、それからユダヤというので、カソリックといっても、イタリア系も、フランス系も、あるいはポーランド系もあればというように、いろいろである。しかし、それはカソリックという一つのるつぼの中でアメリカの中に同質化されていくのだというような趣旨である。しかし、このメルティング・ポットが三つから成り立っているということをいったん認めますと、これはもはや厳密に言ってメルティング・ポットということは言えなくなってくる。したがって、六〇年代にはアメリカの社会はるつぼではなくて、これは諸人種、諸民族が依然としてもとの形を残しながら寄り集まっている。これはモザイクであるとか、あるいはサラダボールであるとかいうような考え方が言われるようになってきた。私は、メルティング・ポットという言い方が誇張であったように、サラダボールであるという言い方も誇張であると思います。今日のアメリカにいらっしゃっても、決してポーランド系の人がポーランド語をしゃべっているわけではない。ユダヤの人がイディッシュを語っているわけではない。フィリップ・ロスというユダヤ系作家の作品をお読みになった方がいらっしゃるかもしれませんが、ロスはユダヤ人であるということを非常に強烈に意識した作品を書き続けている人でありますが、このフィリップ・ロスがイディッシュの言葉をろくに覚えていない。今日私どもの東大教養学部にアメリカの政治学の学者がフルブライト・プログラムで教えに来ておりますが、彼はユダヤ系でありますけれども、イディッシュの言葉を二十くらい言えるか言えないかだと言っている。つまり、その程度にアメリカ社会に同化してしまっているわけでありますから、決して簡単にアメリカはばらばらの人種の国際連合みたいなものであるということは言えない。しかし、問題なのは、それぞれの人種集団が、自分の人種集団のいわば特質といいますか、アメリカ人の非常に好きな言葉で言えば、アイデンティティーというものを非常に強調し意識するということであります。数年前に黒人のA・ヘイリーという人が書いたもので『ルーツ』というのが大変なベストセラーになったことがあります。奴隷の先祖をたどっていって、アフリカの最初の先祖が奴隷狩りに遭って、さらわれてアメリカへ連れてこられた、その場所を突きとめたという驚くべき物語であります。奴隷というのは非常に記録の残りにくいものでありますので、それを突きとめたというのは、大変な執念と、それから幾つかの調査における僥倖とが手伝ってでき上がったものでありますが、それが大変なベストセラーになったというのは、黒人以外の人々もやはり自己のルーツに対する気持、ノスタルジアが大変強かったということをあらわしている。今日エスニックの料理――民族料理というものが大変盛んで、これも一種のノスタルジア的なものでありますが、しかしいずれにしましても、かつてはアメリカ人ということで一つだというたてまえをとってきたのが、今日では非常にはっきりとアメリカにおける人種集団ということを言うようになった。それはやはり五〇年代と今日と比べて大きな変化であるということが言えるだろうと思います。

 それから、社会の問題で非常に顕著なのは女性の進出でありますが、一九五〇年代のアメリカですと、中産階級の中から上くらいの女性というのは、大体において理想としては家庭の主婦――つまり、家庭にいまして勤めなかった。そうして郊外に住んで、朝は夫を駅まで車で送る。夫は通勤列車に乗って都市の真ん中まで行く。妻のほうは、それから後は家の中を片づけ、子供が帰ってくるまでは近所の人とブリッジをするとか、テニスをするとか、歯医者に行くとかいろいろありまして、そうして子供を迎え、また夫を迎え、ウィークエンドにはパーティーをし、長い休暇のときには国内を旅行し、海外を旅行し、その旅行の成果をスライドにおさめて近所の人に見せるとか、それから美術館に行き、ミュージカルを見、芝居を見、音楽会に行くというような、非常に充実したものであって、それが女性の幸せであるということが言われていた。実際にアメリカの郊外に住む女性というのは自分の思ったことがすべて実現しているような、そういう世界に住んでいる女性だということをアメリカの女性自身が思っていたという文章があります。それが、六〇年代以後、御承知のように、女性解放の声があがり、運動が起って、非常に尖鋭なところまで発展していったわけです。つまり、女性が家庭から解放されなければ女性は幸福になれないということを言い出した。五〇年代のときには女性雑誌も家庭にいることの幸福ということを説いていたはずであります。それが六〇年代に変化した。これも非常に大きなことでありまして、そして離婚なども大変にふえた。最近上映された映画〝クレーマー・クレーマー〟もそのテーマを使っているわけであります。私も五〇年代に留学しまして、私はアメリカで日本の女性と結婚いたしましたが、その結婚したときに親代わりになってくれたアメリカ人の家族というのは、ユダヤ人であるけれどもユダヤの宗教を捨ててユニテリアンのキリスト教徒になって郊外に住んで、そして私どもが見て非常に堅実な家庭――家庭生活というのはこういうふうにあるべきではないかと思うような家庭を営んでいた、それが私の家内のスポンサーであります。私のほうのスカラシップを出してくれたスポンサーの家、これはアングロ・サクソンとそれからアイリッシュ系の夫婦でありまして、これまたマンハッタンの真ん中に住んで非常に豊かな家庭であり、夫は夕方帰ってきて家族と夜の食事を共にして、子供に物語を読んでやって寝かしつけてという模範的な夫であり父親であった。その人が二十年後にやはり離婚をしております。そういうふうな変化というものが確かにある。その女性の解放がいかなる形で成就するのかということで、六〇年代の後半から七〇年代にかけてさまざまな主張がなされて、今日ややその方向がまた変わってきているようなところがある。つまり、子供のことを考えなければならなくなった。〝クレーマー・クレーマー〟がすでにそうでありますが、女性の解放は家庭からの解放であるということを言ってきた。それでは子供はどうなのかと、これはあたりまえの話ですが、いままたそこを考え出してきているということになっている。

 それから、都市の問題も非常に大きな変化でありまして、アメリカの歴史の発展というのはフロンティアの存在によって説明されるという大変有名な学説が一八九三年に出された。フレデリック・ジャクソン・ターナーという高木先生の先生でありますが、その人の学説です。しかし、同時にアメリカの歴史は植民地時代から都市の発達の歴史であったわけであります。これは御承知のように、十七世紀に植民地建設が始まるわけでありますが、独立達成のころ、十八世紀の後半になりますと、フィラデルフィアとかニューヨークとかいうのは当時のヨーロッパ世界と比べましても、有数の都市になっているわけであります。ボストンなどは十九世紀にみずから〝宇宙の中心〟というあだ名をつけていたという、それはやや思い上がりでありますが、それくらいに自信があったわけであります。そうして、ベンジャミン・フランクリンというような人物は、パリに行ってパリの宮廷で貴婦人たちを相手にするときはいかにもニューヨークの西の西部の森から出てきたような顔をしていたらしいのですが、実際には大変な都会人でありまして、ボストンに生まれてフィラデルフィアで仕事をし、そして当時における第一級の文人であり、第一級のビジネスマンであったという人物であって、彼は都市の文化の産物である。アブラハム・リンカーンという大統領はアメリカを代表する大統領でありまして、彼は大統領時代に反対派から痛烈な批判を受けて〝ゴリラ〟とか〝山ザル〟とか言われた。当時の新聞における反対派に対する攻撃というのは非常に激しいものでありまして、今日の日本の新聞のほうがよほど上品でありますが、そのリンカーンは確かに生まれは丸木小屋というのですか、丸太小屋である。しかし、彼の思考は都会的思考でありまして、彼は当時の開拓の前線ではあるが、イリノイのスプリングフィールドという都会で暮らし、そして都市で活躍すべき弁護士という職業を選び、そして社交界を歩き回り、趣味は観劇であった。その観劇が命取りになるわけですが、その都市の発展というところから見てきますと、アメリカの一九五〇年代においては、ニューヨークという都市がありまして、これは御承知のように、アメリカの中でアメリカを代表するようでもあるし、また非常に外国人が多く、ヨーロッパの文化の影響も大変強く、アメリカ人に言わせるとニューヨークはアメリカじゃないと言う人々がいるくらいでありますけれども、そのニューヨークで私が留学していたときには、セントラル・パークには夜は入らないほうがよいと言われておりましたが、しかし私は一緒に行った留学生と二人で実は道に迷いまして、「いっそのことセントラル・パークを突っ切って行こう」と言って大晦日の晩にセントラル・パークを突っ切って行ったことがありましたが、しかし身の危険は感じなかった。今日はとてもそういう状況でない。都市が荒廃したということが言われるわけであります。一九五〇年代の都市と今日の都市との変化は非常に激しいものでありますが、それは郊外に人々が出ていくということが進み、それからアメリカのコミュニティー建設の伝統が裏目に出た。つまり、アメリカのコミュニティーの建設というのは植民地時代からあるわけでありますが、志を同じくする人々が集まるというのは大変よろしいわけですが、志を同じくしない人はどうするか――それは閉め出されるわけであります。その閉め出された人々はどこに行くか。閉め出された人々が都市の真ん中に集まってきてしまったというのがアメリカの一九五〇年代の後半から進んできた現象であったわけであります。そのような変化がやはりある。これもごく最近はダウンタウンの復活という運動がありまして、一部の都市ではダウンタウンに活気が戻りつつあるということが言われているところもあります。ニューヨークのタイムズスクエアーあたりは昼間でも車からおりるとあぶないと言われていて、おそらくそうだろうと思いますけれども、私が昨年ニューヨークに参りましたときには、留学のときのかつてのルームメイトだったアメリカ人の友達がコロンビア大学のすぐそばに住んでおりまして、二十年間ここに住んでいて、ここはウエストサイドで大変あぶないと言われているが、自分が被害を受けたのは二十年の間に空巣に一回入られただけであるということを言っておりまして、彼はあくまでもそこに住み続けるのであるというニューヨーカーとしての気概を語っていたわけであります。しかし全般的に見て都市の問題が非常に深刻になったということは否定できない。

 それから経済でありますが、一九五〇年代のアメリカは経済においてもスーパー・パワーであった。これは世界の歴史の中で、ある国が経済のスーパー・パワーであるという役割を果たす力があるというときには世界の経済に一つの安定がある。その安定の犠牲者はもちろんあるわけでしょうが、しかし安定があるということは事実であって、イギリス帝国が非常に強力であったときにはそういう時期であったわけでありますし、それからその後で戦後のアメリカというものがそういう役割を果たした。第一次大戦と第二次大戦の間の時期にはそういう役割を果たす国がおそらくなかったわけでありまして、そのなかったということが、大恐慌が非常に深刻になったとか、大恐慌の経済的な問題が政治、外交、軍事まで波及していって第二次大戦という破局に至った一つの原因であるということを述べている経済史の研究家もいるようであります。アメリカは一九五〇年代においてはそうしたエコノミックス・スーパー・パワーの役割を果たした。これは私から申し上げるまでもないわけでありますが、ドルというものが非常に安定して、世界の共通の通貨である、その事実が動かなかった。今日のようにドル自身が値打が上がったり下がったりするというようなことがなかった。それから、アメリカの経済が余裕がありまして、自由貿易という大義を掲げて、それを守るために自分自身は自由貿易のために多少の不利益をこうむってもそれを許す、つまり日本の製品をアメリカに日本が輸出するということを許し、むしろ奨励するというようなところがあった。そのときアメリカが、日本は閉鎖的な市場であるとか、日本の流通の仕組みというものは鎖国的であるとか、そういうことは言わなかった。そういうことを言い出したのは最近になってからであります。つまりそれだけの余裕があった。一九五〇年代のアメリカの経済というものと、それから一九六〇年代後半以降、ベトナム戦争以降今日に至るアメリカの経済を比較すれば、やはりここにアメリカ社会の大きな変化があるということを言わざるを得ないわけであります。余裕がなくなったために、日本に対しても日本から見て理に合わないような要求というものを出してくる。日米経済摩擦の問題のかなりの部分は今日の日本から見てアメリカのほうにその言い分に無理なところの多いものであって、しかもそれはアメリカ政府というフィルターを通してきたアメリカ側の要求であって、アメリカ政府のフィルターにかかる前の要求はもっとすさまじいものがいろいろあるということは、御承知の方も多いわけであります。それと並んで、アメリカ経済の力が落ちてきたということの一つに生産性の伸びが悪くなったという問題がありまして、これは先ほど申しましたような勤勉というたてまえが守られていたと思っていたのにアメリカ人の労働意欲が低下したとか、それから品質管理が非常に悪くなったとかいうことが言われて、そうしてそれが生産性というものの低下につながっていくということが言われるようになったわけであります。一九五〇年代に余裕があったということがいわば今日裏目に出たということになるかもしれない。必死になってほんとうに薄いマージンで何とかして商品をアメリカに輸出しようとやっていた当時の日本の商社の人たちの努力みたいなものが、やがて今日のアメリカに対する日本の輸出の非常な発展ということにつながっていった。その間アメリカのほうはそうした努力に見合うような努力を払ってこなかったということがあったのではないか。

 政治について見ましても、先ほどアイゼンハワーのことを申し上げましたが、一九五〇年代にはアメリカの民主政治というものは非常によく機能しているという自信がアメリカにあった。そして、たとえば日本ですと、日本の民主政治は果たして根づくであろうかとか、日本の民主政治はいつになったら成熟するであろうかというような議論をアメリカ人のほうがしていたわけであります。そして、その政党政治――特に二大政党政治というものが健全に機能しているというところにアメリカの政治の力強さというものを見出す人々が多かった。しかし、今日はその二大政党政治の機能が十分に果たされていないということがむしろ定説になってきているわけであります。大統領選挙における投票率というのが六〇年代からむしろ低下してきているわけでありまして、投票率ということでもし政治参加の度合いをはかるとしますと、日本のほうがアメリカよりも民主政治は進んでいるということにならざるを得ない。それから政党というものが持っていた、アメリカ社会のさまざまな利益集団の諸要求を一つの立場にまとめ上げ、そして国民に意味のある選択を提起するという、そういう機能が非常に低下した。〝パーティー・イズ・オーバー〟――パーティーは終わったのであるという書物の題が出たのが一九七〇年代の初めであります。実際にはパーティーは終わりませんで、共和党があり、民主党があり、今年においても大統領選挙は大変華々しくやっているわけでありますが、しかし党の改革をしようといろいろ努力したことがこれまた裏目に出たということがあります。アメリカの政治で非難されてきたのは、アメリカはボスのマシーンの政治があって、ほんとうの民主主義ではないということです。そのボスをどうやって退治するかということがアメリカの政治の改革の大きな課題であると言われてきた。最後のボスはだれかといいますと、シカゴのデーリーという市長だということで、そのデーリー市長の時代が終わると最後のボスがいなくなったというので、きれいな政治になって政党政治はよくなったかというと、実はかえって悪くなった。つまり、政党政治の力が弱まってしまった。指導力というものがなくなって、政党政治の主流の外にある人が大統領という地位をさらっていくというようなことになって、そうして生まれたのがジミー・カーターという大統領だといわれる。そういうふうな現象が出てきてしまった。これはアメリカの政治の制度の問題でありますが、アメリカの連邦憲法の責任ではない。アメリカの憲法には、御承知かと思いますが、別に政党についての規定があるわけではありませんで、アメリカの建国の父たちは政党ということを考えていなかった。むしろ政党のようなものは非常に政治にとって有害であると考えていたくらいであります。ですから、長年にわたる機能の問題であるということになるはずであります。この政治については、今日さまざまな議論がありますけれども、たとえばラルフ・ネーダーという日本でも有名になった消費者運動の指導者がおります。ラルフ・ネーダーのような人がふえればアメリカの政治はよくなるだろうと考える人がある。しかし、逆の立場の人もありまして、ラルフ・ネーダーのような人が出てくること、あるいはその他特定の問題に関して、運動を起こすような人々がたくさんふえるということはアメリカの政治にとってよいことか悪いことかという選択に当たって、これは政党政治にとってはむしろマイナスであると、だから政党政治の健全さを保つということから言いますと、そういう人々の運動が広がることはかえってよくない、そういう考えの学者もいるわけであります。余談になりますけれども、ハーバード大学の社会学者のデビッド・リースマンという『孤独な群集』という書物を書いたことで有名な人は―この先生も日本からアメリカは学ぶ点がたくさんあるという説の持主でありますが、このリースマン教授はラルフ・ネーダーに対して非常に批判的である。ラルフ・ネーダーは何をしているかと、ラルフ・ネーダーは一つの何かをとめる運動、やらせない運動というのだけをしているのであって、何かをさせる運動、しましょうという運動、それをやっていないではないかということが一つ。それからもう一つは、ラルフ・ネーダーがほんとうに消費者のためを思うならばなぜ日本の自動車をもっとたくさんアメリカに輸入する運動をしないのであるかと、これはアメリカの消費者にとって非常に利益になることだし、日本の自動車がたくさん入ればアメリカの業界はいやでも生産性を高めて競争していくことになるのだから長い目で見てアメリカの産業にとってもプラスになることである、消費者運動の指導者と称する人がそれができないでいるということはおかしいという、日本にとって大変ありがたいことを言っているわけであります。

 それから外交でありますが、一九五〇年代のアメリカ外交の基調には、アメリカはよかれあしかれ自由主義陣営の指導者であると、つまり世界の秩序というものの維持の責任を持つ存在であるという気持があった。これはアメリカ特有の一つのイデオロギーに支えられていたことは事実であります。つまり、アメリカ的な価値観、民主主義の価値観、憲法に言われているような、独立宣言で述べられたような価値観に基づいておりますが、そうしたものが人類にとって望ましいものであると、その価値観に基づいた生活様式を守るということがアメリカにとって大事であり、それから他の国民にとっても大事であるという、そういう前提があった。その責任を軍事的にも、政治的にも、外交の上でも果たしていくということがあったわけであります。これは当時においても、他の国々から見ますと、アメリカ帝国主義であるとか、アメリカ的なものを押しつけ、アメリカの力に従えということであるというような批判はあった。けれども、一九五〇年代におけるアメリカの外交というものはそういうもので通してきたわけであるし、実際にはアメリカは、ジョン・フォスター・ダレスのさまざまな激しい発言、表明、キャッチフレーズにもかかわらず、現実にはソ連との間に一つの平和共存というものを考えるような外交をしてきたということが言えるわけであります。その外交が、六〇年代にベトナム戦争という惨澹たる失敗がありまして、七〇年代以降そうした姿勢が崩れてきた。今日においてアメリカがどういう選択をするかという点で、昨年のイラン、アフガンの危機以来アメリカに愛国的な気持が非常に強まってきている。そうして、これは新しいナショナリズムであるというような言い方もされておりますし、アメリカが再び内向きや孤立主義でなくて、国際主義的な立場を強めるのだというふうなこともごく最近は言われるようになってきているわけであります。ただし、その場合に、五〇年代の冷戦の時期と比べて、アメリカがその後二十年間にいろんなことを学び、さまざまな経験をした、その外交における教訓をどれだけ今日生かし得るかという点で不安がないわけではない。ソ連というものの存在を今日のアメリカは今日どう考えているか。カーター大統領の外交の今日から見て非常に大きな失敗は、就任直後のアメリカの対外姿勢の根本をきめるに当たって対ソ関係というものを少しおろそかにした。それ以前のアメリカが、対ソ関係にあまりにも心を奪われていたから、そうではないような対外姿勢をとろうとした。その意図はあるいはよかったかもしれませんが、現実には対ソ関係がおろそかになったために、今日では対ソ関係の調整ということにそれこそ全力をあげなければならないようなところに追い込まれてしまったということがある。それと並んで、ソ連という国をどういうふうに判断するか。つまり、われわれがアメリカをどういうふうに判断するかという問題と共通でありますが、対ソ観というものをどういうふうに打ち立てていくかというのが今日のアメリカの外交の大きな問題であります。ソ連とロシアとはどういう関係になっているのか、ロシアはソ連であるのか、つまり今日のソ連の行動というものはひっきょうするにロシアの行動であるというふうに見るのか、それともロシアがソ連になってからロシアとは全く別なものであるのかというような問題からして考えていかなければならないし、そうなりますと、ロシア自身の、あるいはソ連自身の対外態度、対外政策の伝統のようなものを分析することが今日の対ソ関係を打ち立てるに当たって有効であるのか、それともそうでないのかという問題が出てくるわけであります。これは世界戦略その他に深くかかわる問題で、現実にはアメリカの中でその議論は専門家同士の間で割れているわけでありまして、かつて冷戦時代の封じ込め政策の基本の理論を出したジョージ・ケナンが今日ではハト派とされておりまして、ハーバード大学のリチャード・パイクスという教授がタカ派的な意見を代表している。ケナンなどは自分一人の中で冷戦時代のタカ派と今日のハト派を代表しているようで、あのときに書いた論文がミスターXの論文と言いますが、最近のケナンはミスターX2だという批評もあるくらいであります。

 いろいろ申し上げてまいりましたが、アメリカの社会の混乱、混迷の問題を個々の問題別でなしにアメリカ社会全体として見た場合にどういうことが言えるか。それはやはり日本でも言われることでありますが、民主主義社会における一つはリーダーシップの問題であり、一つは治められる者の問題であるということになるだろうと思います。治められる者の問題というのは、数年前日本でもはやりました「ガバナビリティー」という言葉で言われた。ガバナビリティーというのは治める力ではなくて、治められるほうの力でありますが、今日のアメリカが一方においてリーダーシップの危機というものを持っていることは確かである。アメリカの大統領が強過ぎる、政府が強過ぎるというので非常な反動がありまして、大統領の力を、政府の力を制限しようとした。ミルトン・フリードマンという経済学者の書物がアメリカでベストセラーになりまして、『選択の自由』という題で翻訳が出ましたが、あれなどは、政府の力が大きくなり過ぎた、もっと民間の、個人の自律性というものを回復せよというような議論でありまして、それが今日アピールする。私が留学したときには、ミルトン・フリードマンとか、あるいはフリードリッヒ・ハイエクとかいう学者の説は、アメリカのリベラリズムの外にある大変保守的な考えであるということで、あの辺はもう勉強しなくてもよいというような感じであった。現在ではそれが最も新しい思想になっている。そして民主社会主義のような理論は大変古い理論のようになってきている。そういう思潮の転換というものがあるわけでありますが、アメリカでごく最近は再びリーダーシップの回復を求める声が強くなっているようであります。それから、治められる者でありますが、この治められる者のほうの問題がかなり深刻である。アメリカは平等社会であるということを言ってきた。しかし、実際にはなかなか平等が達成できない。日本と違いまして、非常に多種多様な人々が集まっている。その平等を進めていこうとしますと、全体のレベルを下げたところで平等をはからなくてはならないという問題があるわけでありまして、これは労働者の質の問題、教育の問題で、また、ジャーナリズムの問題にもかかわってくる。ヴォーゲル教授が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』で日本の新聞が非常に質が高いということをほめて、われわれが読むと新聞の記事に憤慨したりしてひとりで怒るような日々がないとは言えないのでありますが、日本の新聞の水準が高く、記事の質が高くて、それを読む読者の質も大変高いのだろうというふうに書いている。これは、アメリカで私最近読みました論文の中に、やはりニューヨーク・タイムズはとてもむずかしいと、ワシントン・ポストとかそういうふうなわれわれがアメリカの代表的新聞と思っているものはアメリカ一般国民にはむずかし過ぎるということを述べている論文があった。テレビのニュース番組もむずかし過ぎるということだそうであります。そうしますと、アメリカの一般大衆のレベルというものは低いということになる。このレベルをどうやって引き上げるかという問題があるわけでありまして、この治められる者の質をいかに高めるかという問題が今日のアメリカの大きな問題だろうと思います。しかし、それでは今やアメリカというものはこちらから〝ジャパン・アズ・ナンバーワン〟で教えるということが先に立つような国であるかということになりますと、私はいろんな面でこれから日本とアメリカがお互いに考えていき、知恵を出し合っていき、その場合は日本から輝かしい例などが持ち出されるということがふえていくだろうと思いますし、またそうあるべきだと思いますが、同時にアメリカというものを過小評価する危険を常に戒める必要があるだろうと思います。日本はかつてアメリカをみくびって大失敗をしたという経験があるわけでありまして、アメリカが持っている力、これは何であるのかという点はもう少しいろいろ考えてみるべきでありますが、たとえばアメリカが戦前において非常に軽視されていた一つの理由は、文化的に見るべきものがないということだった。ヨーロッパには燦然たる文化があるのにアメリカには何もないではないかということが言われていた。アメリカ人自身がそう言っていた。けれども、今日のアメリカの文化的な活力というものは非常に大きい。そうした活力というものに加えて、アメリカ人が持ってきた特質にアメリカの歴史家のダニエル・ブアスチンという人が言っている「探究する精神」がある。その精神のよさが生かされるという可能性は十分にあるわけでありまして、そういうような活力を回復する可能性というものをわれわれは見ていく必要があるだろうというふうに思います。そういう点で、ややわが田に水を引くことになりますけれども、アメリカの今日の現象というものについての情報があった場合に、それをアメリカの歴史的な発展のさまざまな姿の中でとらえ直して一つの意味を探るということをわれわれは今後も続けていくべきではないかというふうに思っております。

 御清聴ありがとうございました。

 (東京大学教授・東大・教養・昭28)
(本稿は昭和55年6月10日夕食会に於ける講演の要旨であります)