福沢諭吉について―その人生論をめぐって―
岡 義武(日本学士院会員・東京大学名誉教授) No.748(昭和55年7月号)

 福沢諭吉の基本的な思想――それは今日では世上にもはや広く知られております。そして、福沢諭吉に関する研究は、とりわけ戦後に著しく進みました。けれども、それにもかかわらず、福沢の人生論については未だそれほどには取り上げられていないように思われます。なお又、人間としての福沢、福沢の人となりについても、――福沢を識る機会をもった人たちの回顧談、追憶談はいろいろありますが、人間・福沢について積極的に考察されることはこれまで余り多くはなかったように思われます。本日は、福沢の人生論、人生観はどのようなものであったか――それについて私が理解しておりますところをお話しし、そして、それとの連関で福沢の人となりについても若干考えてみたいと思います。

 さて、福沢が『西洋事情』の初篇を公にしましたのは慶応二年、数え年で三三歳、『学問のすすめ』の初篇を公にしたのは明治五年、三九歳のとき、『文明論之概略』は明治八年、四二歳のとき、『時事小言』は明治一四年、四八歳のときであります。これらにも象徴されていると思われますが、福沢の壮年期における著作、評論などは、政治、外交、その他「時代の必要」に関連するものが多いのであります。

  ところで、今日われわれが福沢の人生論、人生観をうかがおうとするとき、彼の著書でいえばどういうものが最も役立つか。それは一つは『福翁百話』(明治三〇年刊)(福沢は当時六四歳)。また『福翁百余話』(明治三四年刊)。福沢は明治三四年に亡くなり、この『福翁百余話』は死後出版であります。さらに、この二つの書物の出る中間期に公にされた『福翁自伝』(明治三二年刊)(当時六六歳)でありましょう。以上のことが示唆していますように、福沢はとくに晩年になってから人生についてのその見解をいろいろと述べております。ところで、これらの書物に述べられている彼の考えは早くから抱かれていた持説を述べたものか、それとも晩年になって到達したその見解を述べたものか。若い頃に書かれたいろいろなものを照合しても、その点明らかでない場合も少なくありません。

  さて、ひとは人生をいかなるものとして考え、その一生をいかに生くべきであるか。この問題について、福沢はしばしば論じております。たとえば『福翁百話』の中の「人間の安心」という文章の中で、わが地球が宇宙の中に存在しているその有様は、大海の中に浮かんでいる芥子粒にも似ている、そして、人間はこの芥子粒の上に生まれ、且つその上で死んで行くものであり、「生れて其生まるゝ所以を知らず、死して其死する所以を知らず、由て来る所を知らず、去て往く所を知らず」。こうして、人間というものは「無智無力」、「石火電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、忽ち消えて痕なきのみ」。それにしても、しかし、すでにこの世に生れ出た以上は「人生本来戯と知りながら、此一場の戯を戯とせずして恰も真面目に勤め、貧苦を去て富楽に志し、同類の邪魔せずして自から安楽を求め、五十七十の寿命も永きものと思ふて、父母に事へ夫婦相親しみ、子孫の計を為し又戸外の公益を謀り、生涯一点の過失なからんことに心掛」くべきである、と述べております。そして、「人間の心は広大無辺なり」と題した別の文章の中では、人生を戯れと考えていれば、「大節に臨んで動くことなく憂ることなく後悔することなく悲しむことなくして安心するを得るものなり」と説いております。

  『福翁自伝』の中においても福沢は述べて、公私両面における自分の生活態度を約めていうと、すべて極端の場合を想像して覚悟を決め、まさかの時に狼狽したり後悔せぬように思い定めているとし、慶応義塾をひらいて以来過去何十年の間には経営が困難になったことが屢々あったが、自分は狼狽しなかった。というのは、自分としては大きな塾をひらいて天下の子弟を教えると人に約束などしたことはない、塾をひらいたときから 何時 [ なんどき ] でも塾を潰していいと思っている、それ故平生は塾の仕事を大事にし、一所懸命努力もする、心配もする、しかし、自分の本当の気持をいえば、この努力や心配も元々「浮世の戯」と考えているから、塾の仕事をやりながらも心は甚だ安らかである、自分が始めた時事新報の経営についてもやはり同じである。さらに、他人との交際についても同様で、やはり極端な場合を考えている、つまり、今迄親しく付合ってはいるものの、何時先方が心変りするかも知れない、その場合には交際をやめなければならない、しかし、そのようにして、友人が段々に減って行って、自分ひとり孤立するようになってもよい、節を屈してまでして好ましくない交際を求めない、そういう風に、自分は少年の時からはっきりと考えを決めている、と述べております。そのような次第で、自分のやり方は仕事についても友人との交際についても「最初から棄身になって取り掛り、仮令ひ失敗しても苦しからずと、浮世の事を軽く視ると同時に一身の独立を重んじ」、今日まで暮らして来た、としております。

  福沢は他人との交際について今のように述べているわけでありますが、次に問題をもう少し広くしまして、ひとは世の中にいかに処すべきであるか。福沢の言葉でいうと「士君子の世に処するの法」について、彼は好んでくり返し論じております。たとえば『福翁百話』の中の「大人の人見知り」という文章の中で、彼はいわゆる士君子の世に処するの道について述べて、「一身の私を慎んで俯仰愧る所なく、其言を高尚にし其行を活潑にし、有形にも無形にも独立の根本を固くし……」、そして、他人を善人、君子とみて親しみ、非行者に対しては無智な者としてこれを憐むべきであり、辱めたりはせず、白分の「清潔高尚」な言行により相手の「自新」を待つべきである、といっているのであります。……『福翁百余話』の中の「独立者の用心」と題する文章では、「独立の根本を固くし」という点について次のように述べております。自分こそは「天下独立の人」であると称して、まわりの者を軽蔑し、いやしくも自分と異なる者を嫌い、その結果自ら求めて交際の範囲を狭くし、他人から嫌われ憎まれてついに不平家になってしまう、そういうようなのは、「独立の君子」ではなくて「小人の偏屈なる者」である、「独立の大主義は学者安心の至宝なり。宝物は大切にして深く秘蔵す可し。真宗の教に念仏行者と人に悟らるゝ勿れと云ふことあり。余も亦この教えに傚ひ、天下後進の学者が漫にロにのみ独立を言はずして深く心の中に之を信じ、黙して之を実行上に現はさんことを願ふ者なり」としております。そして、先程の「大人の人見知り」という文章では、前に引用した部分につづけて述べて、以上の次第であるから君子がその身を修めるのは単に自分自身のためばかりではなく、自ら他の手本となることによって世の中を益するものといってもよい、「我輩の常に云ふ心を伯夷にして行を柳下恵にするとは是等の意味なり」とし、たとえ心が伯夷のように潔白であっても、同時に他方で柳下恵のようなひろい度量をもっていなければ、「今の不完全なる文明世界」に処して行くことはできない、としております。柳下恵とは、春秋時代の魯の人で聖人に算えられている人であり、彼は身を市井、世俗のひとびとの間に置き、気軽な大らかな態度で彼らに接して、そういう交際を楽しんだといわれています。福沢はひとに揮毫を求められた場合、「戯去戯来」、または「人生万事戯去戯来」という言葉を好んで書いて与えましたが、「心伯夷行学柳下恵」という言葉もしばしば揮毫しております。

 さて、ひとは人生をいかなるものとして理解し、その一生をいかに生くべきであるか――この問題についての福沢の考えは、大体以上のようなものであったと思います。ところで、福沢の以上の見解にはどこか一種の無常感―言葉が少し強いかもしれませんが―が漂っているように思われます。この無常感は、しかし、福沢の場合、彼を宗教の世界に導くことにはなりませんでした。福沢は『福翁自伝』の中で、自分は幼少の頃から神仏を信じなかった、と縷々述べておりますが、明治八年から同一一年の間―彼の四二~四五歳の頃―に彼が時々心に浮んだことを書き留めた「覚書」が残っております。その中にも亦、「古より工風発明と称するものは悉皆、造化の領分を犯して之を人力の範囲に入るゝことなり。即ち自力を用ると他力に依頼するとの界なり。神の性質は人智の深浅に由て異なる可し。人力の及ばざる処は即ち神の位する処なり」。また記して、「宗派の体裁は猶政府の体裁の如し。唯人民の智愚に適するのみ。然りと雖ども、如何なる人民にも政府が入用ならば宗旨も亦入用ならん。但し今の人民の内にも少しく品行の高き者なれば、今の政府は不用ならん。されば亦我輩学者の為にも今の宗旨は不用なり」と言っております。又たとえば、福沢は明治一四年に公にしました『時事小言』―四八歳のときの著―の中でも、自分は無信仰であるということを端的に述べております。

 なお、福沢はこのようにして彼自身宗教を信じませんでしたが、しかし、彼は宗教をもって「凡俗社会を感化する」「至極の妙法」であるとし、そのような意味で宗教の効用は認めていたわけです。以上の次第で、福沢の場合、人生についての彼の無常感――それに伴う寂寥感は、宗教、信仰によって慰められることにはなりませんでした。無常感、寂寥感は、彼の場合、ひたすら堪え忍ばれ、自己の力により克服されるべきものとされたわけであります。

 次に、ひとは世にいかに処すべきであるか。この問題については、福沢は前述のように「漫に口にのみ独立を言わずして、深く心の中に之を信じ、黙して之を実行上に現はさんこと」が大事である、としたのであります。なお、『福翁百余話』の中の「大節に臨んでは親子夫婦も会釈に及ばず」と題した一文の終りには次のように極言しております。「唯一身の独立と深く自から信じ、自分一身の外には尊ぶ可き者もなし、愛す可き者もなし。仏語に云ふ天上天下唯我独尊と覚悟して思ふ所を断行す可きものなり」。こうして、福沢はひとは世に処するにおいて結局は「一身の独立」を無上最高のものと考え、そういう考えの下に進退すべきである、としました。こうして、彼は世に処して孤立を恐れず、孤独を辞すべきでない、と主張いたしました。以上の次第で、人生に対する態度、世に処する途について寂寥を孤独を覚悟し、それらに堪えて人は生きねばならない――そのように信じた福沢諭吉は、きわめて強靭な逞しい性格の持主であったということができましょう。

  福沢は『福翁自伝』の中で、自分は大変「殺風景」な人間である。これは、自分の性質というよりも少年時代からのいろいろな事情によるものであろう、自分は「無芸無能、書画は扨置き骨董も美術品も一切無頓着、 住居 [ すまひ ] の家も大工任せ、庭園の木石も植木屋次第、衣服の流行など何が何やら少しも知らず又知らうとも思はず、唯人の着せて呉れるものを着て居る。……兎角世間の人の悦んで居るやうな事は、私には楽しみにならぬ、誠に損な性分です」と述べております。福沢という人は散文的な性格の持主でありました。福沢の早い頃の門下の一人に高橋義雄という人があります。水戸の出身、慶応義塾を卒業して、時事新報に入り、後に三井銀行に転じ、三井系実業家となりました。箒庵と号し、多趣味な人で、とくに茶人として甚だ有名でありました。高橋はその著『箒のあと』の中に、福沢について次のような思い出を記しております。「明治十七、八年頃であったか、正月早々先生〔福沢〕は理学博士の安永義章と云ふ人と談話中、日本の和歌だの俳諧だのと云ふ者は、数学上より之を割出す事が出来ぬ筈はない。仮名は四十七字であるから、之を和歌の三十一に [ ] け、俳句の十七字に乗け合せて、恰も彼の易の八卦の如くにすれば、其の乗け合わせた者が非常なる多数に上る事は言ふまでもないが、兎に角如何なる名歌名句でも此中に含んで居らない者はない筈である。安永さん、貴方は数学者であるから、十分之を数学的に研究して見て貰ひたい者であるとて、其結果を見るには至らなかったが、其思想だけは論説として時事新報に発表せられた事があった」。このエピソードも、福沢の散文的な性格―無趣味とも通ずる―を大変よく象徴しているように思われます。

  先年公刊されました『父諭吉を語る』という書物があります。これは福沢の子女たちが父を偲んで書いたり話したりしたものを集めて、一冊の本にしたものであります。この中に、清岡暎一―福沢の三女の子にあたりますーが、母から聞いた祖父の思い出を記した文章が載っております。それによりますと、福沢は歌など作ろうと思えばいくらでも出来ると気焰を挙げていたとのことであるが、実際には一向やらなかったようで何も残っていない、と思っていた。ところが、一昨年自分の家で物を整理していると、古い半紙が出て来て、それに祖父〔福沢〕の筆らしい太い字で和歌が書いてあった。それは、「 四方八方 [ よもやも ] を眺る吾も、諸共にながめの中の人にこそあれ。高麗山に登る」というのであった。亡き母はとりわけ祖父のものを大事にした人であったので、祖父が大磯に行った時に戯れに書いた歌をひそかに持ち帰り、それなり仕舞い忘れたのであろう。日付はついていないが、色々な人に見せたところ、筆蹟は祖父に間違いないということになり、「その上に或る人が、こんなまずい歌を作る人はほかにある筈がないから、たしかに先生だと云ったので、完全に福沢諭吉の作と決定しました……」とあります。

  このような次第で、福沢は前述のようなきびしい人生観、処世論を抱きつつも、宗教の世界に救いを求める。或いは趣味の世界にしばしの憩いを……というようなことは全くありませんでした。

  ところで、そのような福沢は、他面肉親に対して情愛にきわめて厚くありました。彼は天保八年父百助を失いました。時に三歳でありましたが、彼は晩年の著作である『福翁自伝』の中で、亡き父に対する実に切々たる思慕の情を述べております。福沢は又、兄一人、姉三人で五人兄弟中の末子でありました。兄は早く安政三年に歿しましたが、その後福沢は三人の姉達のことをふかく心にかけ、つねに優しい心遣いを忘れることはありませんでした。以上これらの点については、小泉信三さんが岩波新書の一冊として書かれた『福沢諭吉』の中で相当に詳細に触れておられますから、これ以上立入らないことにいたしたいと思います。

 次に、福沢は九人の子供をもちました。四男五女であります。福沢は彼自身のかねての意向もあって、長男一太郎と次男捨次郎を明治一六年から二一年までアメリカに自費で留学させました。渡米のとき、一太郎はニ〇歳、捨次郎は一八歳でありました。福沢は当時五十歳、まだ壮年期であり、現にその二年前の明治一四年には彼の代表作の一つ『時事小言』を公にしております。ところで、福沢は二児の留学のことについて『福翁自伝』の中で次のように述べております。当時アメリカへはアメリカの汽船が週に一度、時には二週間に一度出ていた、自分はこの船便ごとに、たとえ要件がなくても必ず手紙を托した、こうして子供のアメリカに滞在した六年間に結局三百何十通の手紙を書いた、自分が書いて、妻が字句の誤りを正した上で送ったのだから、手紙は両親の「親筆」である、在米の子供たちの方も船便ごとに手紙を必ず送って来た、云々。福沢が送ったこの夥しい数に上る手紙の中で、一〇六通が『愛児への手紙』と題して関係文書および小泉さんの解題を付して、昭和二八年に岩波書店から公刊されました。更に、昭和三九年に『福沢諭吉全集』の新版が同書店から刊行されましたとき、この全集にはこれらの手紙に加えてその後に発見された一一通の手紙が納められております。本当はこの新版の全集でこれらの手紙を見て頂けばよいわけでありますが、お話の都合上からこれらの手紙の幾つかに触れることにいたしたいと思います。

 一太郎、捨次郎は明治一六年六月横浜からアメリカ汽船で出立、出発してから二十数日を経た頃に福沢が両人宛に送った手紙には、その書き出しに「月色水声遶夢辺、起キテレバ窓外夜凄然、煙波万里孤舟裡、二児今宵眠ルヤルヤ眠」(原文には返り点、送り仮名なし)とあり、そして、「日々噂のみ申暮し、唯無事安着の一報を待つ斗りに候」と記しております。八月末の両人宛手紙には、アメリカは今年は大変な暑さだときき、甚だ心配していたが、この度のお前たちからの手紙では、それほど苦痛でもない由、「何卒何卒用心被致度、暑気去れば又来る寒気あり、寒暑往来の度毎に遠方より苦労は不絶候」とあります。

  ところで、福沢は、この二人の留学に先立ち、一太郎には農学、捨次郎には電気学などを勉強してはどうか、と一応意見を述べております。二人の中で、次男・捨次郎はマサチュセッツ工科大学(M・I・T)に学び、卒業の前頃には特に鉄道のことを研究いたしました。彼は後日帰国後には山陽鉄道株式会社に入り、後には父の創立した時事新報社の社長になります。捨次郎は、こうして、留学中も帰国後も先ず順当な生活をしたといえましょう。しかし、長男の一太郎は農学を勉強する筈のところ、数学が不得意でその学習に苦しみます。留学した年の暮には福沢は両人に宛てた手紙の中で、一太郎は是非とも農学をやらなくてもよい。「文学」の分野でやりたいことがあるというのなら、それをやってもよろしい、と書き、「文学」を勉強することについて若干の注意を与えております。つまり、この頃一太郎は文学の勉強をしたいと云ってきていたらしいのであります。しかし、翌年の秋に一太郎はコ-ネル大学の入学試験を受けて合格する。そのとき、福沢は一太郎に宛て祝意を伝えるとともに、帰国後に事をなす上から云って、卒業して学位を得て帰るようにしたいものである、けれども、もし今の勉強が健康を著しく害するようなら、学問をやめても他の学校に移っても自由にしてよい、何分健康が大切である、と記しております。

  それから約一年後の一太郎宛手紙の中に福沢は書いて、日本はいよいよ「英語英文の世の中」になる、そこで、どういう道に進むにしても英語、英文だけは是非身につけておくようにと述べ、又これまでは若い者を官途にばかり就かせたが、政府にはもはやその余地なく、今後は若い者は商工業に向かうことを考えなければならなくなってきている、それ故かねてからお前に、一度は「商法学校」(ビジネス・スクールのこと)に入ったらよいと申しているのだ、半年位で卒業できるのだから、いつか入学して卒業したらよい、としています。結局一太郎はイーストマン・カレッジ(Eastman College)というビジネス・スクールに入ります。しかし、将来は文学をやりたい、と重ねていって来ます。これに対して、福沢は「イーストマン卒業の上、再びコルネルに帰りてリテラチュールの課を取るも宜しからん」と返事しております。これは、明治一八年一一月の手紙であります。

  ところが、翌年四月福沢は一太郎宛手紙に記して、旅行から帰って、お前からの二通の手紙をよんだ、「書中 [ やや ] もすれば憂苦を告るものゝ如し、拙者は之を見て更に憂苦に不堪」(原文には振仮名なし)とし、外国留学で失費をかけていること、学業の進歩遅々たることなどは決して苦にするな、どうか「英文の名人」になって帰国して欲しい。この「一芸」によっても立派に独立できる、且つ自分も次第に年はとるが、至って元気である、「貴様が帰国後は親子にて面白き事を可致、必ず必ず落胆する勿れ……」。なお、世間の学者は貧しい者ばかりだが、福沢はそうではない、自分の生涯において金のために他人に屈したことはない。父にしてそうである、子にも亦容易に膝を屈しさせないつもりである。「安心して文を学ぶベし。文学士にして拙者は満足致候」。福沢は、このように一太郎を温かく慰め、且つ強く励ましております。ただ、その後一太郎宛の書簡において福沢は記して、今度来た手紙によるとイーストマン・カレッジを退学して、専ら文学を勉強するよう方向を転換したとのことだが、かねて申したように、学業のことはこちらから立ち入って指図はできない。「文学甚だ良し」、唯その文学は「実用に適し、俗世界の需に応ずる様、呉々も注意被致度、只管所祈に候」とあります。そして、「高尚なるスペキュレーショシの論議は拙者の目下喜ばざるところなり」と記されております。

  その後、次の年の明治二〇年四月一三日付の一太郎宛書簡が残っておりますが、その中で福沢は「この度受け取ったお前の手紙は満足に不堪」、お前は今の勉強が終った上は、結局父の志を継いで教育に従事したいとのことだが、「誠に妙々、如何にも適当の事ならん」、お前もアメリカでもうしばらく勉強したら、英語、英文はもちろん上達する、且つお前は もの [ 、、 ] を考えることに長じており、記憶力もよい、それらの故に慶応義塾の教師あるいは「ヂレクトル」になったら、大変愉快であり、「拙者共夫婦は死しても悦ぶ所」である、どうか勉強して帰国の上は慶応義塾を一人で引き受けるつもりになって欲しく、そればかりを待つ次第である、と記しております。そして、その後の手紙では、慶応義塾の教育法が時代遅れなものになってはいけないと、自分〔福沢〕一人で心配している。ひそかに考えると、事を成すには「父子協力」に越したものはない、お前は生涯の目的を教育に置き、慶応義塾のことに当って欲しい、自分〔福沢〕の存命中はもちろん協力するが、自分の死とともに塾が倒れるというのはあまり愉快ではない、国立の学校もあるけれども、学校の維持経営には莫大な金を要するから、到底永続性はない、それ故に日本の教育の進路を示す者は結局慶応義塾であろう、従って慶応義塾のために尽すことは「男子の仕事」として恥しくないものである、と記している。これは明治二〇年四月二八日付の手紙であります。そして、この年の暮に入ると、福沢は一太郎に宛て次のように記しております。「最早本年も二十日ばかりに相成、明れば明治二十一年なり。二十一年の秋になれば貴様達に面会するならんと、之を思出しては父母共に竊に喜び居候。愛児の面を見んと思へば、老の到るを忘れて一日も早く来年になれかしと祈るも亦愚なるかな」。

  ところで、年が明けますと、福沢は一太郎に宛てて、今年帰国するについてお前には卒業証書がない、卒業証書などというものは「実は小児の戯、なくても不苦、拙者は平気なれども、俗世界の俗情は又左様にも参らず」と思う。そこで、今迄世話になったプライヴェート・ティーチャーに「証書」を貰うか、どこかの学校で「唯文学丈けの証書」を貰うか、とにかく「得らるべきものならば、勉めて之を求むるの工夫専一」と考える、証書を貰うことについて多少不愉快なことあっても、忍んで是非とも入手するようにされたい、と書いています。当時福沢は次男・捨次郎に宛てた手紙の中でも、一太郎が帰国に当り卒業証書がない、プライヴェート・ティーチャーの証書か、「可然学校」で「文学丈けの証書」を貰うか、この件についてお前も深く考えて、できるだけ心配して欲しい、と書く有様でありました。ところが、その後一太郎は何らか証書を手に入れるという件には自分として不同意の旨を福沢に返事して来る。これに対して、福沢は一太郎に返事を書き、この件については「拙者に於てもさまで熱心する訳けにもあらず、如何様にしても不苦候間、貴様の存念通りに被致度候……」と記しております。そして、同日に捨次郎へも手紙を認め、その中に「一太郎の証書云々は如何様にても不苦」とし、実は時事新報で英文の読み書きの自由な者がなくて困っているので、一太郎はその仕事に丁度適当なので、自分が給料を出して雇入れることにする、「面倒なれば、証書もなんにも不用なり。父子独立協力、立派に生活可致と存侯」と記しております。

  明治二一年一一月、福沢のこの二人の子息はヨーロッパ経由無事帰国、福沢らはこれを喜び迎えました。帰国後の捨次郎のことは前にふれましたが、長男・一太郎については――『愛児への手紙』に付せられている小泉さんの解題によれば――、帰国後一旦は慶応義塾の教壇に立ちますが、しかし、まもなく退き、その後はほとんど隠遁的な生活の中に日を送ります。そして、昭和一三年に歿しました。

  なお、福沢は明治一九年に次女、三女、四女の三人を横浜のあるミッショシスクールに入学させたいと考え、その件について弟子の福沢英之助に入学の申し込みをするよう依頼した手紙が残っております。その中には、次のように記されています。その学校の「校則に日曜日は用事あるも外出六ケ敷よし。是れは 聖学校 [ ミッション・スクール ] に然る可き事なれども、入校当分は折々帰宅為致度候間、毎月四度の日曜日の内隔日曜日には帰宅為致度、即ち土曜の午後に横浜より東京に帰り日曜一日在宅月曜の朝帰校と為致度、斯く致して次第に校風に慣るゝに従ひ、遂には帰宅を要せざるにも至るべし。此処はエキセプションと致度存候」。

 また、福沢が明治二一、二年頃に慶応義塾の事務長に送った手紙で、当時慶応義塾の教師であったミセス・フォン・ファロット(Mrs. Van Fallot)に関するものがあります。ファロットは福沢邸内の別棟に住み、福沢の五人の娘、その他に英語とピアノとを教えておりました。福沢はその手紙の中で、ファロット夫人の家には猛犬が飼われていて、夫人の宅に通う娘たちがいつも脅かされている、実際には怖がる様子を示すからそうなるのに違いないと思う、しかし、娘達にその事を理解させるのは大変難しいので、差し支えなければ、犬の方を処分するように伝えて欲しい、と事務長に依頼したのです。ところが、それから余り経たない中に、福沢の末娘がその犬に吠えられ、逃げるはずみに転んで怪我をするという事件が起ります。そうすると、福沢は事務長に手紙を書き、その中にこう述べております。「犬は女教師の楽しみに飼ひ候ものならん、子供の怪我は甚恐るべし。就ては右の犬早々取片付候様御申聞被下度、是れに付ては或は縛り置くとか何とか申出候義も可有之候得共、承知致す訳に参らず、如何なる事情にても其犬を逐出すべし、当屋敷の法におゐて許さざる所なりと御談じ奉願候。……何分にも危険の義、猶予出来不申、唯今より直に縛りて、都合出来次第早々邸外へ出し候様、厳しく被仰聞可被下候……」。

  以上、福沢がその子女に関して認めた手紙を若干引用いたしましたが、子女に対する彼の愛情はそれらの中にも溢れております。そして、以上の手紙を通して、我々の眼前に彷彿と浮んで来る福沢の姿は―いささか文学的な表現を敢てすれば―「愚かなる父」以外の何者でもない、そういう印象を与えるように思います。そこには、先程述べましたような、人生を生き世に処するにおいて孤独を辞せず寂寥を毫もたじろぐことのなかった彼の面影は、求むべくもありません。この大きな 対比 [ コントラスト ] を前に、私には「孤独な人間はその子女を熱愛する」という言葉が思い浮ぶのです。彼が父を慕ってやまず、姉たちに優しく心を配り、さらに又その子女の上に注いだ限りないまでの情愛ーそれらは、実は彼の人生論、人生観の中に示された強靭な、逞しい性格の他の半面、しかも、不可分の半面であったように私には思われます。晩年の著作である『福翁自伝』の中で、福沢が自分は殺風景、無趣味な人間であると述べていることは、先刻申しましたが、その個所で彼は、自分には世間の人の楽しんでいるような楽しみは楽しみにならない、まことに損な性分であると述べたあと、次のように言っております。「ダカラ近来は芝居を見物したり、又は宅に芸人など呼ぶこともあるが、是れとて無上の快楽事とも思はれず、マアマア児孫を集めて共に戯れ、色々な芸をさせたり嗜きな物を馳走したりして、一家内の長少陸じく互に打解けて [ かた ] り笑ふ其談笑の声を一種の音楽として、老後の楽みにして居ます」。この全く平板な叙述も、しかし、先程申し上げましたような彼の人生論、人生観を背景に置いてよむとき、そこに一種の感慨を覚えさせられるものが含まれているように私には思われます。

  会報に掲載するにあたり講演速記に若干の手を加えた。右御諒承を願う次第である。(昭和55年3月21日午餐会)

 (日本学土院会員・東京大学名誉教授・東大・法・大15)