東大で教えていただいた先生方の逸話

矢野 健太郎 (東京工業大学名誉教授)

No.742(昭和54年1月)号

 私は、東京大学理学部数学科へ、昭和6年に入学し、昭和9年に卒業し、さらに2年間大学院へおいてもらった。この期間は、いわゆる不景気のどん底で、満州事変から二・二六事件にいたる暗い時代ではあったが、私にとっては、良き師、良き友にめぐまれた、良き日日であった。

 私はこの東大数学科で、坂井英太郎、高木貞治、吉江琢児、中川銓吉、掛谷宗一、竹内端三、辻正次、末綱恕一の諸先生に教えていただいた。

 この東大数学科は、年若く長い間イギリスへ留学された菊池大麓先生がその基礎をきずかれたものであると聞いているが、その菊池先生の講義は、日本語より英語のほうが多いくらいであり、議論が複雑になると、先生は必ず英語を使われたそうである。私は菊池先生が書かれ、日本で出版された解析幾何学の教科書を1冊所蔵しているが、それは英語で書かれている。

 その影響であろうか、私が微分積分学を教えていただいた坂井英太郎先生は、つぎのような形で講義をされた。先生はまず、これから講義しようとなさる事柄の大要を黒板へ英語で書かれた。そしてわれわれがそれを写し終ると先生は、その詳細をわれわれに説明して下さった。しかし先生の英文は、たいていの場合、Suppose that……(……と仮定せよ)で始まっていたので、われわれはまずノートに Suppose that と書いて、先生をお待ちしていた。
 先生はこの微分積分学の講義を、1年半続けられて半年間は休まれ、また新学年度から講義を始められたので、必修課目であった先生の試験に一度失敗すると、卒業までに(ふつう3年であったのが)3年半かかることになった。

 私は高木貞治先生に代数学を教えていただいたが、先生は19才で東大へ入学、22才で卒業、23才でドイツへ留学された。それは前世紀の末のことであったが、日本から留学生がきたと聞いたフロベニュウス教授が、この分ではいまにサルもくるだろうと言ったという話を、高木先生自身が語っておられる。現在日本の多くの数学者が海外へ進出していることを思えば、感無量と言わざるを得ない。
 26才で帰朝、東大助教授、27才で理学博士、28才で東大教授となられた高木先生は、その年(明治37年)に、「新式算術講義」という本を書いておられる。
 私はこの書物を神田の古本屋で見付けてもっているが、これは小学校の先生方に数論を講義したものであって、その序文には、「……算術教師が算術の知識を求むる範囲、其教ふる児童の教科書と同一程度の者に限らるること、極めて危殆なりと謂ふべし。確実なる知識の欠乏を補ふに、教授法の経験を以てせんとするは、『無き袖を振はん』とするなり。是を以て此書は広く算術の教授に従事する教師諸氏の中に其読者を求めんと欲す」と、28才の青年が書いたものとは思われないことが書かれている。
 この書物は縦書きであるが、先生はいわゆる脚注を最後の付録にまわされ、その最初に「フート・ノートといふもの邦文の書に入り難し」と言っておられる。

 私が在学中の東大数学科の時間割は、何時から何時までは何と、1時間きざみで表示されていた。しかし教室から教室への移動などで時間がかかるので、実際には先生方は、15分過ぎか20分過ぎに教室へこられた。
 しかし高木先生は、たとえ先生のお部屋まではきておられても、必ず30分過ぎに教室へこられて、30分間講義をして下さった。
 私が大学院へ入れてもらって、少しは先生に心易く口がきけるようになってから私は、先生にその理由をたずねてみた。すると先生は
「矢野君はアカデミック・コーター(大学の15分)ということを知っているかね」
ときかれた。これは大学の先生はふつう時間より15分は遅れてくる、という意味である。そこで私が聞いたことがありますと申上げると
「ふつう講義は15分過ぎに始まることになっているのだろう。それにアカデミック・コーターを足すと30分になるよ」
というのが先生のお答えであった。なんとも良き時代であったと言わざるを得ない。

 その頃であったと思うが、私より2年後輩の田島一郎君が「高数研究」という雑誌の編集をしていた。高木先生は田島君から求められて、ときどきこの雑誌に面白い記事を寄稿された。それらの一連の記事は、Nという人物とOという人物の対話の形をしていたが、Nが愚問を発すると、Oがそれをたしなめつつ、詳しい数学的な説明を与えるという形をしていた。
 田島君も私も、このNとOは何を意味するかわからなかったが、恐る恐る高木先生に伺ったところ、このNはNANJI(汝)の頭文字で、OはORE(俺)の頭文字であるという先生のお答えであった。
 いまの人はN、Oと言えば、長島と王、または中原と大山のことと思うかも知れないが、N、Oはこのときからあったのである。
 またあるとき高木先生は、この雑誌に1つの論文を寄稿された。それは、いままでは、微分学の定理であるのに、積分学を用いて証明されていた定理に対して、微分学の範囲内での証明を与えられたものであった。
 そして先生はこの論文を、つぎの言葉で結ばれた。「昔から言うではありませんか。微分のことは微分でせよと」

 私は、微分方程式論を吉江琢児先生に教えていただいた。先生は大へん丁重な方で、すれちがった折などにご挨拶申上げると、こちらのそれよりも丁寧な挨拶を返されるのには閉口した。
 先生はいつもきちっと20分過ぎに教室へきて下さり、最初の20分間では前の講義の復習をして下さり、後の20分間で新しい講義をして下さった。私の同級生のなかには、このことを知ってからは、1時間おきにしか講義に出ない不心得者もあった。
 なお先生はいつも、黒の上衣に縞ズボンという礼服を着ておられた。

 私は、自分が専門として選んだ幾何学を、中川銓吉先生に教えていただいた。
 先生は、禄高500石の金沢藩士の家に生まれた方であるが、金沢は日本古来の数学、和算の盛んな土地であったので、先生はその影響を受けて、数学を志されたということである。
 中川先生の噂を当時の学生がするとすればまず最初に話に出るのは、先生の立派なカイゼルひげのことであろう。後で聞いたところによると、当時の先生方はほとんどすべて、ドイツへ3年間留学しておられるが、ドイツでカイゼルひげを貯えて帰ってこられたという。しかし私が教えていただいたときには、もう大部分の先生方がひげを落しておられたが、中川先生だけが最後までこのひげを残しておられたのだという。
 当時の先生方はどなたもそうであったと思うが、中川先生もドイツ語は非常にお上手であった。私が東大の先生のお部屋で先生からお話を伺っているとき、先生のお部屋のドアをノックして、刃物を売り歩くドイツ人の男が入ってきたことがあったが、先生が誠に流暢なドイツ語でこの物売りをからかわれたのには全く感心した。
 私は先生のセミナーでドイツ語の論文を読んだが、先生にしばしばドイツ語の発音を直されたものである。
 中川先生の噂を当時の学生がするとき、もう1つ必ず出てくる話は、東大数学教室の時計のことであろう。誠に意外なことに、先生はこわれた時計を修理することに趣味をもっておられた。先生は、お宅でもそうであったと思うが、東大数学教室のなかに、一寸でも具合の悪い時計を見付けられると、これを完全に修理された。おかげで当時の東大数学教室の時計は全部正確に動いていた。

 掛谷宗一先生には、直接教室で教えていただく機会はなかったが、私が東大数学教室の職員の末席をけがしているときに、先生にはいろいろのことを教えていただいた。
 掛谷宗一先生は、非常に奇智に富んだ方で、いろいろと面白い問題を提出して、人々を悩ませたものである。
 あるとき先生は、理学部教授会が始まる前の雑談の折に、なみいる先生方へつぎの問題を出されたことがある。
「自分自身を鏡にうつしてみるとき、右と左だけが逆になって、上と下、前と後はそのままであるのはなぜか」
数学、物理学、天文学などの先生方はともかく、この問題は他の学科の先生方を大へん悩ませたらしい。現に先生は、理学部教授のくせに、「それは人間の目が左右についているからだ」なんていう人があるんだからねと、先生の出された奇問の効果を楽しんでおられた。
 しかし私に言わせれば、これは非常に良い問題であり、また重要な問題である。現に、物理学の中谷宇吉郎先生も、朝永振一郎先生もこの右と左の問題を随筆で論じておられるし、さらに、李政道、楊振寧の両氏は、この問題を深く論じてノーベル物理学賞を得ている。

 もう1つ、数学の世界で掛谷の問題として有名な問題につぎの問題がある。 「平面上に1つの線分が与えられている。この線分をこの平面上で1回転させたいが、そのときこの線分が掃く面積を最小にするにはどうすればよいか」
 ここにこの線分が掃く面積というのは、例えばこの線分にベッタリと墨をつけておいて紙の上で1回転させると考えるとき紙の上に墨がつく部分の面積という意味である。
 私は先生に、先生はどういう動機でこのような面白い問題を考えつかれたのですか、と伺ってみたことがある。そのときの先生のお答えはつぎの通りであった。
「矢野君は、昔の武士が、不意の襲撃にそなえてどんなに要心深かったか知っているかね。たとえば厠へ入るときでも、突然誰かに襲われることを考えて、槍をもって厠へ入ったものだよ。そしてもし実際に、厠に入っているときに誰かに襲われたとしたら、厠というせまいところで槍を振り回さなければならないだろう。それからあの問題を思いついたのだよ」
 私は、先生が真面目にそう考えられたのか、それとも私をからかうためにこの話をされたのかを知らない。

 掛谷先生はあるとき私に、平方根マイナス1、つまり√-1を図案化したものを染めぬいた風呂敷を下さった。この平方根マイナス1を数学者たちは、imaginary number の頭文字を使ってiで表わしている。
 私が、数学の記号を図案化して風呂敷に染めぬくとは面白いですねと申上げると、先生は、矢野君はその意味がわかるかねと言われた。私が一寸考えて判りませんと降参すると先生は
「昔から言うだろう。愛(i)はすべてを包むとね」
と教えて下さった。

 私は関数論を、辻正次先生に教えていただいた。どの先生も数学一途であられたことはもちろんであるが、辻先生はとくに、世間の俗事には何の関心も示されなかった。日露戦争を知らなかった学者があったというが、辻先生を識っている人は、この話を信じるであろうと私は思う。
 あるとき数学教室の小使いさんが、午前10時過ぎに、もう10時だ、辻先生のお弁当の時間だ、早くお茶をもっていかなくちゃと言っているのに私は驚いて、小使いさんにその理由をきいた。そしてわかったことはつぎのことである。
 当時は終戦後間もないころで、電車はいわゆる通勤時間には非常に混んでいた。そこでこの混んでいる時間帯をさけようとするとき、寝坊が自慢の数学者ならば、自分が人より遅く家を出ることを考えるところであろう。ところが辻先生はこれと逆のことを考えられた。すなわち先生は、人より早く家を出て、一番電車に乗ることを考えられたのである。こうして一番電車はすいていると喜ばれ、毎日一番電車で大学へ来られることになったが、そのため、10時ごろにはお腹がすいて、お昼のお弁当を召し上がることになったというのである。
 辻先生の逸話であれば、まだまだ種はつきないが、私に与えられた紙数がもう尽きようとしているのは誠に残念である。

 以上、私が東大で教えていただいた先生方をダシにして、その逸話を並べたのは、数学者は変っているという世評を否定することはできないが、数学者というのは、たとえ変っているとしても、何とも愛すべき人々であることを読者にわかっていただこうというのが、私の真意である。

(東京工業大学名誉教授・東大・理博・昭9)