高松塚を推理する

樋口 隆康 (京都大学教授)

No.736(昭和52年7月)号

  一、考古学の限界

 私は、考古学者ということで、一応世間にとおっているので、古代史ブームの昔今、いろいろと古代の問題について意見を求められる。「邪馬台国について、あなたは大和説ですか、九州説ですか?」とか、「高松塚の被葬者は何皇子ですか?」とかいったたぐいである。たいてい、「さあ――」とにえ切らない返事をするので、質問者をがっかりさせている。これだけ、邪馬台国について、いろんな説がでているんだから、いやしくも考古学者である以上、当然、意見があるだろう。少なくとも、次々とでてくる新説について、是非の判定ぐらいは下すべきであると、私のにえきらなさをなじる気配である。

 私は、大学で考古学概説を講義するとき、いつも、考古学の限界という点を強調している。

 考古学的研究法では、「誰が」とか「何時」ということは明らかにすることはできない。ただ、二つ以上のものの先後関係を知ることができるだけであると。すなわち、相対年代である。

 しかし、考古学の論文には、何世紀とか、何年前という絶対年代もよく使っているではないかと、不思議がられる。しかし、それらの絶対年代は碑文や文書などがあって、それらを文献学者が研究した成果を借りるか、あるいは、自然科学者が、放射性炭素などの研究によって、古物の実年代を推定しているのを借りているにすぎない。

 考古学者が説を立てるのは、たくさんの資料を集めてきて、それらを最も妥当な常識で解釈するにすぎない。したがって、資料がないことには、口をつぐむしかないわけである。

 古代史の面白さは、推理の面白さである。資料が少ないため、足りないところは、考古学者であるが故に、自由に云えない私の推理をこの紙面を借りて、少し、しゃべってみようかと思い立った。これはあくまで、推理論であって、学問的考証でないことをことわっておく。

  二、皇族か渡来者か

 奈良の高松塚が発見されて、すでに五年たった。その間、この墓の被葬者について、多くの説がでた。それぞれに推理が面白く、その点では甲乙つけがたい。とくに直木孝次郎氏の忍壁皇子説と梅原猛氏の弓削皇子説が評判になった。

 一時は百済王善光とか、高句麗から来た若光、あるいは、唐から来た薩弘恪といった渡来人の名もあがっていたが、これらは、いつのまにか消え、ほとんどが日本の皇子の誰かにあてる説となり、藤原京と関係のある皇族の一人という考では一致している。

 私は高松塚発見の当初、「被葬者は渡来人、とくに中国系ではないか」という考えを発表したことがある。誰もフォローしてくれないが、その考えはいまも変っていない。その推理はこうである。

 高松塚の最大の特徴は、なんといっても、素晴しい壁画である。古墳の墓室内を壁画で飾るのは、九州にある。しかしそれは六世紀であり、しかも九州でも、福岡、熊本、大分の一部に限られている。高松塚と同じ時代の、しかも畿内で、あれほど進んだ壁画をもった例は全くない。したがって、皇族の墓と考えるわけである。

 では、皇族の墓とは、いままで知られなかったのであろうか。いやそうではない。聖徳太子の御墓や天武陵などは、すでに早く開けられて、内部の様子が判っている。聖徳太子の御墓は、大阪府南河内郡にある磯長陵で、明治十二年に御廟修理の際に、画家の富岡鉄斎が立ち会って、見取図を描いている。これは梅原末治先生の論文中に紹介されているが、横穴式石室の内部に御生母である穴穂部間人皇后と、太子と、太子の妃である膳臣女の三つの棺が合葬されたものである。その棺は、高松塚と同じ乾漆の棺であり、石室を築いた石も、高松塚同様に磨きあげているが、壁画はなかった。

 天武陵は高松塚の近くにあり、鎌倉時代に盗掘されて、その時の記録が「阿不幾乃山陵記」としてある。筆者は不明であるが、漆の棺があり、副葬品もあったが、壁画はない。高槻市の京大地震観測所内にある阿武山古墳は、高松塚と同じ大きさの石室で、漆棺があったが、石室の壁には、漆喰を塗ってあったにも拘らず、壁画はなかった。この墓は藤原鎌足の墓ではないかと云われたものである。

 ほかにも例はあるが、ともかく、壁画のあることが、皇族の墓であるという証拠にはならない。むしろ、壁画のあることが、日本の皇族の墓でない証拠と云ってよかろう。それよりも、このような壁画を描いた古墳は高句麗墓や、六朝墓、唐墓にあるのだから、大陸からの渡来者の墓と云った方が、推理として、当然の帰結と考えられるのである。

  三、高松塚は中国人の墓

 高松塚の被葬者は大陸からの渡来者であるということになると、次は、大陸の何処の国から来た人かを推理することになる。その材料は壁画の内容と副葬品である。

 まず壁画の方からみてみよう。壁画の題材は、人物の群像と四神図と天象図である。この三つの題材を持つ古墳壁画としては、高句麗古墳がまずあげられる。そのうえ、婦人の服装のうち、縦縞のスカートが高句麗古墳の双楹塚や修山里古墳の婦人の像ときわめて似ていることはいうまでもない。さらに、中宮寺にある天寿国繡帳にも、同じスカートの人物像があることも、はっきりしており、この繡帳は朝鮮系高句麗人のつくったものといわれている。もっとも、高句麗古墳の壁画に近いといっても、その中期のもの、すなわち六世紀代のものに近いのであって、高松塚古墳の年代である八世紀初頭とは百数十年の開きがある。高句麗古墳晩期(七世紀)の壁画は四神図だけであって、人物画も天象図も消えてしまうのである。

 ところで、人物群像、四神図、天象図といった組合せの古墳壁画は、中国の六朝代から唐代にかけての古墳にもあって、必ずしも高句麗の専売特許ではない。むしろ、中国文化を受容した高句麗が一部の古墳の中に同じ壁画を描いたとみるべきであろう。

 しかも、あの婦人の縦縞のスカートもまた、中国にある。北魏の司馬金竜墓という古墳から出土した漆の屏風があるが、その漆絵でかかれた婦人の像にこれがあり、また、唐代の陶俑にも、同じスカートがみられる。これらは、中国でも北方系の拓抜族のものであり、高句麗も、北方民族とすれば、むしろこの衣裳は、東北アジア系の民族衣裳といった方がいいのかもしれない。

 さらに、天井の天象図をみてみよう。これは、日、月と星宿をあらわしているが、高句麗壁画をみると、日、月はちゃんと描いているが、星宿は、二十八宿を正確に全部あらわしているというのではなく、星宿らしい形をアトランダムに散らしてある程度である。

 ところが、高松塚の場合は、二十八宿のほとんどすべてをちゃんと方位にあわせて、整然とあらわしている。しかも、二十八宿のほかに、天の中心をなす北極五星と、それをかこむ四輔の星をも描いている。

 この点は大変、重要なことである。関西大学の有坂隆道教授もいっているように、これほど天象を完全に理解した表現は、同じ天象図でも、高句麗の場合と全くちがうわけで、高松塚の天象図は、高句麗からの直接の影響では絶対に描けないものである。

 もちろん、当時の倭人にも、これだけの理解があったとは思えない。とすれば、この高松塚の壁画は、中国人の思想を背景としなければ描けないものである。

 次は副葬品についてのべよう。第一は海獣葡萄鏡である。海獣葡萄鏡は中国で発案されたもので、隋代からあり、唐、宋代をへて、明、清代までつくられた。日本でも、奈良朝代に、その写しが作られている。ところで、高松塚出土の海獣葡萄鏡が七世紀末、中国で製作されたものであることは、私が考証した。したがって、この鏡が、中国から将来されたものであることは云うまでもない。高句麗や百済の遺跡からはあまり鏡がでない。最近の百済の武寧王陵から三面の鏡がでたのは、珍らしいケースであり、それも南朝系の鏡であった。まして、海獣葡萄鏡は、高句麗、百済の時代にはまだ中国でも出現していなかったわけで、これらの国人がもっている筈はない。また、新羅一統時代でも、鏡はほとんどないのである。

 次に透彫りで、菱花文をあらわした棺の飾り金具がある。この文様に近いのは、新羅の碑文にもあるが、全く同じ文様が、中国の永泰公主の墓誌の石蓋に彫ってある。永泰公主は、唐の高宗と則天武后の孫娘で、その墓は陝西省乾県にあり、壁画や出土品は唐文化の代表と考えていい。それと高松塚の棺金具が一致するということは、さきの海獣葡萄鏡といい、初唐時代の文物の逸品が、この高松塚にあるといってもいいであろう。

 以上のようにみてくると、高松塚の被葬者は、高句麗人ではない、まして、百済や新羅の人でもない。やはり中国系の渡来人とみるのが、最も妥当のようにおもえるのである。

  四、書紀は百済人の作

 私の推理でいくと、高松塚の被葬者は中国系の渡来人であるというところまで、比較的スムーズに到達する。しかるにである。世の学者たちは、あまりこれを問題としないで、渡来人とすれば、大抵は、百済か高句麗系の人であろうという。それは何故であろうか。

 そこで、私は渡来人というものを少しばかりしらべてみた。これらの古い資料は大体、日本書紀にある。

 書紀にでてくる最初の渡来人といわれる弓月君からみてみよう。彼のことは、応神紀十四年にあり、百済より来て、一族百廿県の人をつれてきて、帰化したとある。これがのちの秦氏の祖であり新撰姓氏録という戸籍帳によれば、秦の始皇十三世の孫、孝武王の後とある。したがって、彼は中国の出身であるという伝承をもっているにも拘らず、百済の人とみなされている。

 渡来人の一族として、もう一つ有力なのに、豪族東漢氏というのがある。高松塚のある場所は、昔は檜隈といわれ、東(倭)漢氏は、この檜隈に住んでいたといわれる。その祖先が阿知使主であり、彼は応神紀廿年に一族をひきつれて、渡来してきたという。その彼は漢の霊帝の曾孫であるという。

 このように、書紀には渡来人を秦人とか漢人とかよんでいるが、国史学者にいわせると、これらは、けっして、中国人ではなく、むしろ、朝鮮系の人々であるという。

 国史学者の考証のくわしいことはよくわからないが、書紀には、史実とは、ちがって、八世紀以降の状況に都合のいいように、書き改められたところが多い。渡来人の祖先を、中国王室の後裔とする思想も、百済や任那系の人が、祖国が亡んだ後、中国王朝の隆盛にあやかつて、自分らの出自を中国王室にかえたのであろうというのであろう。

 しかし、この通説はどうも、私には納得いかない。同じ応神紀をみると、七年のところに、次のような記事がある。

   高句麗人、百済人、任那人、新羅人が並びに来朝してきたので、武内宿禰に命じて、
   これらの諸韓人等をひきいて、池を作らせ、韓人池と呼んだ。

 ここでは、朝鮮系の人を韓人と呼び、決して、漢人とは呼んでないのである。

 とすれば、なぜ書紀に、秦人とか、漢人と書いてあるのは、素直に中国系と解釈できないのだろうか。私には不思議で仕方がない。

 不思議といえば、日本書紀には、朝鮮との交渉は詳しく書いてあるが、中国との交流のことはあまりかかれてないのである。とくに、三世紀の邪馬台国の女王卑弥呼が魏と交流したことはもちろんのこと、五世紀代に倭の五王が南朝と交流したことも、書紀には全くかかれていないのである。これは何故なのか。

 ここで、私の推理を云えば、日本書紀は百済系の司書が書いたものであるということである。そうすれば、すべてがうまく説明がつく。百済系の人であるため、中国と倭との交流については、あまり知らないか、あるいは無視して、ふれなかったのである。

 しからば、秦人、漢人はどうか。これらの人々が、百済や任那から倭国へ渡来してきたことは、間違いないとしても、その人たちは、純粋の百済人ではなく、もともとは中国から百済へ渡来してきた植民者たちで、それが、もう一度倭国へ移住したような人たちであった。百済の司書であるが故に、彼らの本貫を知っており、そのため、秦人とか漢人と呼んだのであろう。

 とすれば、高松塚が東漢民の多く住んでいた檜隈の地にあるとすれば、その墓は、東漢氏の一族のものと考えるのが、最も妥当である。彼らは、早く、日本へ渡ってきたが、その後も本国と絶えず接触をもち、鏡や金具や壁画技術を新たに導入したような人であったと。丁度紙数もつきたので、これでとどめるが、以上はあくまでも推理であって、論文ではない。

(京都大学教授・京大・文博・昭18)