北京から南京まで ―四十年前の旅行の思い出―
小川環樹(京都大学名誉教授) No723号(昭和49年4月号)

 昭和十年の早春、中国留学中に北京から蘇州まで旅行したことがある。やはり北京に留学しておられた目加田誠氏が帰国にさきだち江南を旅するというのに同行したのである。同行者はもう一人あった。三月六日、上海ゆきの急行列車に乗り込み、午後三時五分、前門の駅を出発した。平滬通車と呼ばれ、約四十時間で上海に達するはずであった。ただし私たちは途中下車し、最後までこの列車に乗ったのではない。一行三人、三等車の座席に毛布をのべて一人で三人分の座席を占領し、長ながと寝そべることができた。天津を過ぎるころ日は沈み、済南の近くで黄河をわたったときは何も見えなかった。車中一夜を明かし、翌朝六時ごろ目ざめると、まだ薄ぐらい中に突兀たる泰山の山容をながめた。曲阜(きょくふ)駅に着いたのは七時であった。汽車をおり、駅前の小旅館で休息し朝食ののち、人力車で城内へ向った。駅は県域の町から相当はなれていて、二時間ほどかかった。泗水の川をわたったのだが、橋も何もない。ひろびろとした川原の砂地を横切り、まず城外の孔林すなわち孔子の墓にもうでた。塀をめぐらした中に木立があって墓碑が立っているだけだが、何となく京都の禅寺を思わせる風景であった。県域に入り、孔子廟と顔子(顔回)の廟にもうでた。孔子廟の本殿とでもいうべき大宮殿に劣らぬ宏壮なものである。ここには漢代以来のいろいろな石碑があり、孔子教の長い歴史をしのばせる。私は学生のころ、山本竟山先生について隷書の書き方をおそわったことがある。その手本にしたのは「礼器碑」で拓本でなじみがあったけれども、ほんものの石刻を見て、感激をおぼえた。

 顔子の廟は孔子廟から少し離れた処にある。この方はだいぶん荒廃していた。民国軍閥の内戦のおり、ここに大砲をすえつけて撃ち合ったからだという。清貧の顔回は死後にも運はわるいのであろうか。しかし私の注意をひいたのは、古い石碑がいくつもある中に、奇妙な字体のものがあることであった。よくよく見ると、元代の八思巴(パスパ)文字がきざまれている。八思巴字は蒙古語を表記するために、チベット字を少しくモディファイして作られた表音文字であるが、この碑石に刻されたのは、実は中国語の白話文でその発音を表記してあった。そのことはあとで分かったのだが。

 孔子廟の隣には孔子の子孫の住居である衍聖公(えんせいこう)府がある。ペキンの王府に匹敵する大邸宅であったが、中には入れてくれなかった。城内の小さな料理屋で塩からい昼食を取り、また人力車で駅前の旅館にもどる途中、泗水の川原のあたりでは風強く難渋したことであった。旅館の殺風景な室でアンペラの上に臥したが、昨日来の疲労のためか熟睡した。

 八日早朝、曲阜を発し前日と同じ列車で南京に向う。山東省は昔から土匪が多く、列車強盗の話も多かった。そのためであろう、汽車の一輌ごとに銃をもった兵士が乗っていた。三等車の座席は木製で、公園などのベンチと同じ形だが、広軌のせいもあって、すわり心地は案外よかった。

 蚌埠(ぼうふ)では淮河の鉄橋をわたり、夜に入って揚子江北岸の浦口(ほこう)に着き、汽車はそのままフェリーボートに積まれて、川をわたり、十一時半、対岸の南京下関の駅に到着した。ペキンを出てから、ここまで約千キロメートルの鉄道を旅したあいだに、一度もトンネルを通ったことはない。大部分は広漠たる原野であった。山地を越えたことはあるが、だらだら坂をのぼりくだりしただけだった。安徽省の山地では、もう暗くなった窓外にあちこち野火の光が見え、人影はなく、いっそうの寂寥の感を深めた。

 下関駅に近い日本旅館に泊ったのは目加田氏と私だけであった。九日朝、南京の城内に入った。下関は江岸の船着場であって城外に在る。このとき通りすぎた城壁のつづきは、南朝時代の石頭城の跡だというが、それはのちに知ったことで、石頭城は唐詩にも見える古跡である。城壁をめぐらした南京の市街は、国民政府がここを首都としたため、よく整っていて舗装道路が南北を貫ぬき、政府の各部(日本の省にあたるもの)の建物は宮殿風の豪華なもので、建ってまもなくであったから、雄偉華麗、新都の気象つまり国家の洋々たる前途をあらわすかのようであった。私どもは下関からバスで滑らかな路を走って、まず鼓楼に至った。ここは南京全市の一つの中心地点であって、日本の領事館がその近くに在った。領事館で大学や図書館への紹介状をもらって、私共はまずそこから最も近い金陵大学を訪うた。中国文学科の主任教授であった劉国鈞氏はこころよく面会され、大学の教科などについての質問にも答えて下さった。金陵大学はUniversity of Nanking と称せられ、キリスト教の三会派共同設立の学校ではあったが、このころは一般の専門教育をする大学であった。これも堂々たる建築であり、校庭の一隅に清朝時代の文官試験に用いられた建物(貢院)を模造したのが造られてあった。

 大学を出て、次は国立中央研究院の歴史語言研究所にいった。言語学部門の主任というべき人は、趙元任博士(Y.R.Chao)であった。私はまえから趙氏の著述を読み、敬慕していた。ペキンに着いて最初に買った書物は、その「最後五分鐘(最後の五分間)」であった。北京大学の羅常培教授に紹介してもらってあったので、その名刺を通ずると、こころよく面会された。私は質問すべきことがたくさんあったのに、気おくれがして二言三言たずねたに止まったが、趙氏は隣室にあった実験機械類を見せて下さり、績渓県(安徽省)の方言の資料として、胡適氏の発音の録音盤を蓄音機にかけて聞かせていただいた。中国語の方言の科学的な調査は、外国人の局部的なものはあったが、最も精密な調査研究は趙氏に始まるといってよい。その趙氏の風貌に接し、研究室の科学的雰囲気を感じとることができたのは、大変幸福であった。

 研究所を辞した私どもは、すぐそばの丘陵にのぼった。北極閣という道教の廟がある。そこから北のほうを望むと、有名な玄武湖が城壁の向うに見える。緑樹碧水、うるわしい眺めであった。山をくだって中央大学に到り、名教授黄侃(こうかん)氏を訪うたが、生憎土曜日の午後で不在で、悵然としてここを去った。中央大学は民国の初めには東南高等師範学校といい、のち東南大学と改められ、国民政府になってから中央大学とよばれた。新都の大学であるけれど、北京大学などに比し、学風はやや保守的であった。

 ここから少し南に向い、南京の古い街路をとおり右折して水西門を出て、城外の西郊にある莫愁湖にいった。ここも有名な古跡である。莫愁は南朝時代の歌謡詩に見え、妓女の名だという。その肖像画をかけた勝棋楼というのが湖畔の寺に在る。明初の名将徐達(1332-1385)が太祖洪武帝と碁をうち、賭に勝って莫愁湖をもらったから、この名がある。その当時の建物はのちの戦乱に消失し、清末に重建されたものである。ここで食事ができるだろうと思って来たのだが、飯はなかった。私どもは落花生をかじり、緑茶をすすり一時間ほどをすごした。湖は玄武湖の五分の一以下の広さで、まず不忍の池くらいのものであろうか。しかし湖をめぐって植えられた多数の柳の若葉の緑あざやかに水にうつって、あかぬ眺めをほしいままにした。また楼中に掛けられた無数の対聯、それは長い体句を漆塗りの細長い板に書いたものだが、どれも「英雄」「児女」の語を用いたものばかりである。内藤湖南先生がいわれた如く―『英雄児女、両つながら千秋』の常套語も、「ここに到りて、まま生色ありて、行客をして詩思油然として動かしむ」るものである(「燕山楚水」)。内藤先生の遊記は明治三十二年の十一月で、柳色の衰えたのちであったから「春光駘蕩の候、煙るが如く萌ゆる眺めのいかばかり美しからんと思われて、ゆかしき限りなり」とある。われわれは正にその駘蕩の候に行きあわせ、春色を心ゆくまで享受することができたのは幸運だった。北京の街にも柳は多い。春さきにはその枝々から柳のわたが、ほんとうに空に満ちて飛び、家の中庭も綿屑をまきちらしたようになる。しかし私どもが北京を出発したとき、まだ木々は枯葉の如く、一点の緑も見られなかった。唐詩に「梅柳 江を渡って春なり」の句があるが、なるほどと感じ入り、欄干に倚って、おぼえず時を移したことであった。

 莫愁湖より引っかえして城内に入り、市街の南のほうにある夫子廟に至った。夫子は孔子である。その近くを秦淮河が湾曲して流れる。秦の始皇帝が金陵(すなわち南京)の地形は王者を出すべき気象―王気があるので、その形勢を破壊し、王気を失わせるために掘った川だという伝説がある。しかし見たところ当時の大阪の道頓堀の如く、黒ずんだ水はよどみ、名高い画舫(遊山船)は古びた一隻がみぎわに繋がれていたが、往時の豪華をしのばせるというわけには行かなかった。かってはこの川の両岸には妓楼や料亭などが立ちならび、繁華街で、詩人や画家などの名士もおおかた川べりの家に寓居したという。夜はもっとにぎやかであったかも知れない。私どもは狭い小路の町の牌に「烏衣巷」と書かれたのを見て、唐の劉禹錫の詩の「烏衣巷口 夕陽斜めなり」一句をただちに想い出し、あたかも町の瓦屋根に日の西にかたむいた時であったのを喜んだ。「桃葉渡」も通った。東晋の詩に出るのは、ほんとうに渡し場だったろうが、今は橋の名になっていて、私どもは石橋を歩き過ぎたのである。だが、それら南朝の古跡の名は、詩の中にあらわれるとき、ふしぎなひびきでもって、読者の心をときめかせる。私は現実にその場所を歩いているのだが、そこにいるというだけで恍惚の思いがあった。そして小石を畳んだ街路の脂ぎった黒い色にも、古い町らしい気分があった。物売りや水を運ぶ人夫が天秤棒をかついで、狭い街の中を通りすぎる姿にも、北京では一輪車が多かったのと違って、風土と文明の差異を思わせた。五時ごろバスで宿に帰った。

 十日の朝は自動車をハイヤーし、まず城西、漢西門内、竜蟠里にある国学図書館を見学した。秦末に設立された江南図書館の後身で、惜陰書院という学校の建物をそのまま用いていた。書庫には、丁氏八千巻楼旧蔵書を中心とする多数の経籍がよく整理して置かれていて、落ちついた環境で学問の気分がただよっていた。

 それより城の南門(今は中華門とよばれる)を出て、雨花台の丘にのぼった。南朝の梁の武帝(五世紀前半)の世に、ここである法師が仏経を説法したところ、空から雨のように花がふった奇瑞があって、この名がある。美しい名だが、明の永楽帝が帝位を奪ったのに反抗し忠臣として知られる方考儒(一三五七-一四〇二)が処刑された場所でもある。まだまだ忌まわしい事件の場ともなったが、それは私の旅行よりは後の話である。丘の上にたたずんでいると、村の子供が五色の小石を売りに来た。小皿に入れ水にひたしてあると、いっそう色あざやかに見える。水石を私は小学生のころ、京都の町の店の窓の中で見た記憶がある。なつかしく思ったが、買わずにしまった。方孝儒をまつった廟にもうでたのち、また城内に入り、こんどは北に向い、やがて東に折れ、明の故宮のあたりを通った。

 明の洪武帝は南京を都としたから、そのころの宮殿があったのだが、いくたびかの戦乱に全くの廃墟となり、大理石の階段や橋がわずかに残っているだけであった。城の東にあたる中山門を出て、東郊に出て中山陵に至った。孫文の墓である。規模広大壮麗で、俯瞰した形は自由の鐘をかたどったのだという。私は京都の桃山陵を想い、やや似ている感じがした。明の孝陵が隣りにある。洪武帝のみささぎである。黄色の瓦、赤い壁の宮闕、荒廃の色はおおいがたく、墓通にならぶ石人石馬もまばらに立っているのは、あわれであった。碧瓦白壁の中山陵、その長くのびたゆるやかな石段をふくめて雄偉沈麗のありさまとは対照的で、新しい建国の気魄が中山陵にはみなぎっていた。その対照には、歴史の非情を感じたことである。

 孝陵の近くには赤い梅や桃の花がもう満開であったし、野は一面に菜の花がさきみだれ、まったく「春色平蕪に満つ」の感を深くした。陵のうしろの鍾山にも登りたく思ったが、割愛し、車で城内にもどり、太平巷というところで下車した。そこのホテルの食堂で昼食の折、豌豆の若葉を浮かしたスープが出て、豆のかおりにいっそう春の気分にうかれたことである。そのあたりの二、三の書店をひやかし、有生書局では小説「紅楼夢」の石印本を買ったと日記にある。別段珍本でもないが、学生のころ耽読した訳の原本が手に入って、たいへん嬉しかった。バスで宿に帰り、この夜も南京にいたのである。

 翌十一日の朝、南京を立って鎮江に着き,金山寺や北固山の名勝をあるき、対岸の揚州にも遊んだ。そして十二日の午後鎮江より五時間、汽車にのって蘇州に到る。蘇州での名所見物についても書きたいのだが、誌面がつきた。ただ車中、ふと窓外を大きな白帆がゆるゆると畑のあいだを過ぎるのを見て、おどろき、なるほど江南の水郷を通っているのだなと感じ入った。今もありありと目前にあるような気がする。

 (京都大学名誉教授・京大・文博・昭7)