超高層ビルと地震・風
武藤 清(鹿島建設副社長) No722号(昭和49年1月号)

    夢物語だった超高層
 過密に悩まされ、スモッグにあえぐ東京のスカイラインに目覚しい変化が起りはじめています。新宿副都心や丸の内周辺のオフィス街にみられる百メートルを越す背高ノッポビル群の出現は、空へ伸びていこうとする新しい東京の象徴となりつつあります。

  長い間、地震という大自然の猛威に苦しんできたわれわれ日本人にとって、つい先年まで、超高層ビルの出現は夢物語にすぎませんでした。事実、私たちが超高層実現に取り組んでいたときも、さらには第一号の霞が関ビルができ上った後でも、世間一般の人びとはともかく、学者といわれる人たちからまで、その耐震性についてさまざまの疑問が出されたものでした。

 それがこの数年間に、社会的にも技術的にも超高層ビルに対する不安感、違和感が一掃されて、当然のものとして受け入れられるようになったのです。意識的にも、技術的にも、革命的なこの変化をもたらしたものは何であったのでしょうか。

  三十六階霞が関ビル(一四七メートル)の建設以来、貿易センター(一五二メートル)、京王プラザホテル(一七〇メートル)、新宿国際電電(一七〇メートル)、さらに五十五階新宿三井ビル(二一一メートル)と、つぎつぎに東京の背を伸ばしてきた責任者として私は、超高層ビルを必要とする社会的要因とともに、いかなる耐震哲学と建設技術が新しい時代をつくりだしたかを、ここに述べてみたいと思います。

    過密都市の打開
 世界最大の都市、東京の建物の平均階数は二階にも達しないとか。狭い土地をこま切れにし、外へ外へとアメーバのように広がり、限界に達したのが、日本の都市の特徴です。

  道路は狭く、土地代も高く、市民のいこいの場もなく、通勤には長時間を要するにもかかわらず人々が都市に集まる。その理由は仕事が便利にでき、文化に親しく接することができるからですが、今やこの便利さや快適さが、無計画な拡大のために苦悩の生活圏となり果てたのです。

  今日の東京、過密都市とあきらめられたこの不健康な東京でも、都市改造が行なわれれば、それは近代的なものへと生れ代ることもできるのです。都市機能を立体化すること、すなわち都市の建物を高層にあるいは超高層にすることによって……。

  私は東大時代に学部長会議での雑談のおりに総長が、「どうも大学のキャンパスがせまいので……」といわれたことを思い出すのです。その時私はモスクワ大学を連想しながら、「東大の敷地はせまくないでしょう。せまく使っているのであって、建物を高層化すればいくらでも土地は広く使えますよ。土地が無いのではなく、人間に智恵がなく金がないということではないですか。」と、冗談をとばしたことを思い出します。

  今日の東京でも、この雑然と入りまじった事務所ビルや商店、住宅、工場や遊技場などを機能に応じて分離し、大規模な区画整理を行なって集約し、高層ビルと低層ビルをうまく活用し配合するならば、この世界最大、かつ最低の都市、東京を更生させることができるでしょう。そこで登場するのが超高層ビルということになります。

    柔構造で超高層を実現
地震列島の日本に高いビルを建てるためには、何よりもまして、この高いビルが大地の揺さぶりに対して耐えていけることを立証する必要がありました。

  関東大震災の教訓を実際に生かしてきた日本の建築界は、当時のほとんどの建物が低層のもので、それが地震に耐えて生き残れたのに対し、八~九階建の欧米直輸入の高層ビルが手痛い被害を受けた実態から、高い建物は耐震的に問題があり、低い建物をガッチリとがんじょうに、すなわち“剛構造”的に造るのが、一番安全だ――という結論を導きだしたのでした。

  そして、日本の建築法規では、一九六三年まで、建物の高さは三一メートルをリミットとしてきたのです。ところで、こういった剛構造の考え方は、限られた条件のもとでの震害例から経験的、直感的に導かれた結論ではっきりした理論的な根拠によるものではありません。というのは理論的に追及しようとしてもずっと大地震の記録を捕えることができなかったので、手がつけられずに長い年月がすぎたのでした。

  ところが、第二次大戦中にアメリカで地震の揺れを正確にとらえる強震計が開発されて、地震の多いカリフォルニア州でいくつかの実地震の波形が記録されました。戦後、これを知った筆者らも独自に強震計を開発し、アメリカに追いつけと各方面の協力で全国にこれを設置したのでした。今日では七〇〇台と世界最高の観測ネットワークがはりめぐらされ、それによって、新潟地震や十勝沖地震など、大地震の記録をとらえられるようになったのです。

  この日本やアメリカでとらえられた数多くの地震波を電子計算機で分析してみた結果、新しい事実がわかってきたのです。下を固定した棒の頂部を横に引っ張って急に放すとこの棒が左右に揺れ始めるが、揺れの一往復の時間(周期という)は、棒の材料、長さ、太さなどで決まります。つまり、棒にはおのおの固有の揺れ方があります。

  建物の揺れも同じで、それぞれの建物は、その建物固有の周期をもっており、大体のところ第一次固有周期は(建物の階数)×0.1秒くらいといわれます。九階建のビルですと、0.9秒といった第一次周期をもっています。

  ところで、地震によって建物が揺すられたとき、建物に作用する力は、この周期と密接な関係のあることがわかったのです。すなわち、0.5秒程度の周期の短い建物の場合には、作用する力がひじょうに大きくなるが、2秒、3秒、5秒と周期が長くなるにしたがって、小さな力しか働かないという事実です。

  元来地震は次から次へとおしよせてくる波のようなもので、この波動が建物の下から入り込み、各階を通り抜けて一番上の階にぶつかって再度下にもどってくるが、これがまた、次々と入ってくる波といっしょになって、たちの悪いゆれを起こすのですが、高い建物では上に登っていくうちに波が衰えるので、建物の中には大きな破壊力がたまらないことが、コンピューターで直接計算できるようになりました。ところが低い建物では入って来る地震力が衰えることなく反射されて、つぎの波と重なるので強烈な揺さぶりがかけられることになるのです。

  こうしたことから、「配慮の行き届いたフレキシブルな、つまり柔らかな超高層ビルほど、地震には安全」で、「住宅のような低い建物は、しっかりとがんじょうに、すなわち剛構造でつくる」という理論が打ち立てられるようになったのです。

    日本的動的設計法の確立
「柔構造でいけば、超高層建築が日本でも実現できる」というコンピューターによる解析に勇気づけられて、具体的な設計に生かす研究をはじめることができたのは一九五八年に地上二十四階建のビルの検討を筆者らに委嘱された国鉄の十河元総裁のおかげでした。

  さっそく、いろいろなタイプの試設計を行ない、コンピューターによって、実際に記録されたいろいろな地震波でどんな揺れが起こるか、柱やハリなどの変形や応力がどうなるかをシミュレーション解析したのです。

  数多くの試行錯誤の結果、超高層ビルは予想したとおり、耐震性に富むことがわかりました。しかし、これには高さ方向の剛性のバランスがたいせつで、従来のビルのように、下へいくほど太い柱にすると、かえって地震の影響を大きく受けてしまう。むしろ下から上まで同じような大きさの柱やハリを用いるほうがよいことが発見されたのは大きな収穫でした。

  この国鉄の計画は実現しなかったのですが、柔構造による超高層建築の可能性が明らかになるにつれ、建築法の改正が望まれるようになり、ついに一九六三年七月、容積地区制が採用され、高さ制限を撤廃するという技術の先取りが行なわれました。

    霞が関ビルを可能としたスリット壁
一九五八年、霞が関に新しいオフィスビルを建てることを三井不動産が計画しました。当初は、従来どおりの九階建の案で検討されましたが、超高層建築の技術的可能性が明らかになるにつれて、十六、二十四、三十、三十二階を経て、高さ制限の廃された一九六四年には、三十六階建とすることに決まりました。

  このビルは同じ容積を得るため、九階程度にしておけば、敷地いっぱいに建てねばならなかった従来のスタイルを一変させ、敷地の六十%以上を公共用広場に開放したもので、わが国で初めての噴水と緑のあるプラザをもつビルとして、一九六八年三月に完成したのです。この公共用地の開放は市民の共感を呼び、超高層ビルの評価が確立され、今日の超高層ラッシュ時代を迎えるようになったといっても過言でないでしょう。もしこれが、敷地いっぱいを商店街などで埋めたとしたら、非難をうけるだけで、われわれの理想は果たせなかったと思います。

  ところで、柔構造理論に基づく霞が関ビルの実現に大きな役割を果たしたものに、鉄筋コンクリート製の耐震壁“スリット壁”があります。

  このビルは、最初鉄骨だけで建てる計画だったのですが、この大地震に強い柔構造も、強風に対してはフレキシブルすぎて、中の人々が船酔い状態に悩むのでは、という不安が三井不動産にありました。また、反超高層派もそこにひとつの力点をおいて、このビルの出現をはばもうとしていました。

  揺れを押える最も経済的なものとしては、鉄筋コンクリートの壁があり、低層の剛構造ビルにはそれでよいのですが、これはあまりにも竪すぎて、力が加わるとポキンと折れて、高層ビルの鉄骨のもつ柔軟さに釣り合って働かない欠点があります。

  この問題に悩みに悩んでいる最中、筆者はたまたまメキシコシティに出張し、メキシコ地震の被害を調査する機会がありました。そして、マリア・イザベル・ホテルで、建物の外装にはってあったタンザク状の豪華な大理石板がむざんにこわれて、くずれおちているのをみたのです。堅い大理石のパネルが地震の揺れにがん強に抵抗したあげく、はがれ落ちたのでした。

  これを防ぐには、どうしたらよいか。そのときひらめいたのが、鉄筋コンクリートのスリット壁のアイデアです。堅すぎるからこわれてしまうので、地震の力にじわじわと粘り強く抵抗できる壁を作ればよいではないか、という考えです。

  実験を重ねた結果、コンクリート壁に、たてに切れ目(スリット)を入れておくと、小規模な地震や風に対しては、普通の壁のようにじゅうぶん堅くて鉄骨の変形を小さくおさえてくれ、大地震のときは、スリットの周囲にクモの糸のような肉眼では見分けられない程度のひびが入ってやわらかくなり、鉄骨のもつ大きな変形能力に同調して、柔構造の特徴を失わせずに済むことがわかったのです。この新型のスリット壁の提案によって、三井不動産では、揺れに対する不安を解消することができ、超高層ビルの採用にふみきったのでした。

    モンロー効果
 そうこうするうちに、十年という日時がたち、従来予想されなかったような問題も生じてきました。高さの面における先進国のアメリカで、超高層ビルの周辺でときどき強い風が吹くことが観測されだしたのです。いわゆる“モンロー効果”と言われるものですが、わが国でも同じようなことがマスコミの話題となってきました。

  “モンロー効果”というのは、映画“七年目の浮気”の一シーンにあるいまは亡きマリリン・モンローが地下鉄の換気口から吹き上げる風にまき上げられるスカートをおさえる情景を連想してつけられたものですが、この現象は超高層ビルの上部に当たる風が、ビルの外壁面に沿って下っていき、地面にあたってはね返るために起こるものと解釈されています。

  しかし、この現象は、超高層ビルだからといって、特別に生ずるものではなく、十階程度のビルでも広い場所にポツンと建っている場合や、あるいは、丸の内のように、たくさんのビルが並んでいるところでも、その表の広い通りや公園に面した場所では、同じように観測される現象です。

  たしかに、台風などの強風時には、困ることもあるかもしれませんが、むしろ一時鉛公害で話題となった東京の柳町のように、スモッグがよどんでしまうところに計画的に高層ビルを建て、この下降気流を利用して上空の新鮮な空気を吹き込み、よどみをなくすこともできるといっては、我田引水でしょうか。

    超高層ビルの将来
 現在超高層ビル建設のための技術的問題は、これが八十階になろうと、百階になろうと、それはそれなりに解決できる見とおしがついていると言っても過言ではないでしょう。しかし都市再開発のにない手として期待される超高層ビルは、その大きさのもたらす社会的、環境的、心理的影響をも考慮しつつ、都市全体のバランスの中で計画されたものでなくてはならないでしょう。また、そうすることによってのみ、われわれが苦心の末、開発した技術の結晶を市民の財産とすることができるものと確信している次第です。

 (鹿島建設副社長・東大・工博・大14)