ノーベル賞作家五人の印象  
高橋健二(中央大学教授) No.704(昭和44年7月)号

    一
 幸運に恵まれて、私は五人のノーベル文学賞受賞作家に会うことができた。

 そのうちの三人は、自分の専門に属するドイツ文学の作家ハウプトマンとトーマス・マンとへルマン・ヘッセであり、ひとりはグアテマラの小説家アスツリアスである。そして、もひとりは川端康成さんである。

 余計のことかもしれないが、学士会会報に原稿をと、謡曲仲間の宮沢俊義先生からお勧めを受けたので、念のため四三年用の学士会会員氏名録を調べてみたら、川端さんの名がのっていない。向陵駒場同窓会の方にはのっている。当然会員であってしかるべき川端さんが、学士会の誇りであるはずの川端さんが会員でないのは、残念である。会員になっていただくわけにいかないものであろうか。川端さんは国際文化会館の会員にはなっておられるし、日本ペンクラブの会長を十七年もつとめられた。孤独を愛する作家であるが、ひとと事を共にすることをいとわれる方ではない。ペンクラブで長くお手伝いをして来た私は、川端さんが必ずしもイエスマンでないが、決して気むずかしやではなく、たいへん行きとどいた配慮をなさるのに敬服しているので、ささやかな提案をまずする次第である。

     二
 川端康成さんは、東大に私より二年さきに入学されたので同じ時期に母校にいたわけであるが、大学時代にはお目にかかった記憶がない。大学を出られてから、川端さんは間もなく新進作家として活躍されるようになったので、文学者の集りなどで見かけることはあったが、私は地味なドイツ語教師をしていたし、やがて二年ほどドイツに留学したため、川端さんに近づくに至らなかった。その留学中に、私はハウプトマンとへルマン・ヘッセに会った。

 一九三二年二月十二日、ベルリンの民衆舞台座でハウプトマンの名作「御者ヘンシェル」が名監督K・H・マルチンの新演出によって上演されるのを見に行った。初日なので、ハウプトマン夫妻が平土間の最前列に腰かけていた。美しい白髪の大きな頭が目立った。数々の映画で日本にもよく知られた名優ヤニングスは御者ヘンシェルをさすがにけれんなく演じながら、見ごたえを感じさせた。自然主義演劇の一頂点を画する作品だけあって、時代の推移を越えて迫るものがあった。それにもかかわらず、不況時代のせいか、空席がかなりあった。その数日前やはりハウプトマンの傑作喜劇「ビーバーの毛皮」を見物したが、同様に不入りだった。二月十七日にはドイツ座で、ハウプトマンの新作「日没前」の初演を見た。新作上演の二日めだというのに、満員ではなかった。ともかくこのように、丁度七十才の老文豪を記念する上演が相次いでいたが、極度な不況と、官能的な退廃と、ナチス政権出現直前の不安な情勢とで、ハウプトマンの作品も多くの客を呼ぶことができなかった。ハウプトマン自身が日没前の作家で、かつての「日の出前」のセンセイションを呼びもどす由もなかった。

 そうは言っても、「沈鐘」などの名作ですでに一九一二年にノーベル文学賞を受けていた巨匠を目のあたり見たので、私は胸をはずませながら、幕合に廊下に立っていたハウプトマンのそばに行って、プログラムにサインしてもらう人の列に加わった。晩年のゲーテによく似て来たといわれたようにひたいの広い立派な顔で、いささかゲーテのポーズをまねているかと思われるふしがあった。「サインをお願いいたします」と言うと、軽くうなずいてサインしてくれた。とたんに開幕のベルが鳴りひびいた。ハウプトマンは「これで終わりにしましょう」と言った。私はサインをもらった最後のものだった。

 ともかくも、自然主義以来のヨーロッパ劇壇の大立物に触れることのできたのは忘れがたい思い出である。

     三
 それより先、一九三一年の八月、私はスイスを旅して、ルガーノ湖畔に行った。そのあたりの美しさに目を見はったが私の心はヘッセに会えるかどうかという期待と不安でいっぱいだった。文字どおり山紫水明の景色に恵まれたコリナ・ドーロ(金の丘)に登って、私は紹介状も何もなしに、ヘッセの家の前に立った。ハイデルベルクから手紙を出しておいたのはやはりよかった。ヘッセは「手紙を下さったのはあなたですね」と言って、気軽に迎え入れてくれた。

 ヘッセは十九年住みなれた古いアパートから、チューリヒの富豪ボードマーの建ててくれた一戸建ての家に引越している最中だったが、そんなことはかまわずに、本や家具の散らばっている応接間でいろいろな話をしてくれた。彼は平和を愛するものとして、第一次大戦の初めにすでに、戦争をあおるような言動をすべきでないことを文化人に訴えてセンセイションを起こし、それがきっかけでロマン・ロランと親交を結ぶようになった。独り行くヒューマニストのひたむきさと雲を愛する詩人のひょうひょうとした柔軟さと、西洋東洋の学芸を広く深く摂取して行く精神の若々しさとに、私は驚嘆を禁じ得なかった。ヘッセは「霧の中」のように日本でも愛誦されている詩の作者として天成の叙情詩人であるが、同時に西洋の文学や哲学や宗教や音楽に通じているばかりでなく、名作「シッダールタ」(悉達多)にうかがわれるように、東洋の宗教をも長く研究し、孔子や荘子を愛読し、晩年には周易や禅にも心を打ちこんでいた。

 やがてヘッセの作品を私は単独で十四巻の「ヘッセ全集」に訳出し、「ヘッセ研究」を発表して、読売文学賞を得ることができた。その作品からと同様に、ヘッセが一筋にヒューマニストと生き通しながら、終生謙虚に心を開いて精神のかてを受け入れて行った精進振りから、私は強い刺激を受けた。ヘッセは、すぐれた友人を多く持っていたが、大都会に住んだことはなく、社交に時を費したことはまれで、ジャーナリズムに超然としていなか暮らしを続けた。しかし、一九四六年にノーベル文学賞を受けてからも、無名の若いものたちに「いくらか年上の兄弟として」、「共に悩む者として」、心のこもった手紙をまめに書いた。私などに対しても、手数をいとわず、研究の資料を送ってくれたり、励ましのことばを寄せてくれたりし、私の邦訳全集には、序文を寄せてくれさえした。きびしい生き方をしながら、まことにやさしい思いやりのある人であった。第二次大戦後、一九五三年と五九年にヘッセをかさねて訪ねることができた。そのつど私は具体的に文学に対し目を開かれるような体験をした。ヘッセに対する私の感謝は終生かわることはないであろう。

     四
 一九五三年、ヘッセを再訪した年、チューリヒ郊外にトーマス・マンを訪れることができた。マンはその少しまえ、大戦中亡命していたアメリカからスイスにもどって来ていた。私はマンのものはほとんど翻訳していない。「甘い眠り」と「アルコールについて」というごく短い二つの随筆を訳しているだけである。しかし、私はこの二つに心から共鳴している。特に「甘い眠り」は、およそ随筆の中の最も美しい珠玉の名編と思っている。そういうマンに是非会いたいと思ってこの時も、紹介なしに、手紙をじかに出したら、すぐ丁寧な返事をくださった。

 その時マンはチューリヒ湖を見おろすエアレンバッハの丘の仮住居に住んでおり、親しい仲のチャップリンがジュネーブ湖畔に、ヘルマン・ヘッセがルガーノ湖の上にそれぞれいい家を持っているのをうらやみ、しきりに家さがしをしているところであった。その翌年チューリヒ湖の対岸キルヒベルクに最後の住み家を見いだした。

マンは身だしなみのよい端然とした紳士で、ネクタイぎらいの自然児ヘッセと大へんちがっていた。話すことばも、彼の文章のように、一語ごとに、こまかくのみを入れて行く彫刻家のおもかげがあった。すでに一九二九年にノーベル文学賞を受けた文豪で、二十世紀最大の小説家であるが、私などに対しても、いんぎんで一語一語吟味した話し方をなさるのに、私は心から敬服した。

 マンは、ロサンゼルスに住んでいたころ、女中さんも植木屋さんも日本人をたのんでいたそうで、その礼儀正しい誠実さをなつかしそうにほめたたえた。そしてマンは立ち上がって、低く腰をかがめる昔ふうの日本人のお辞儀のまねをして見せた。三十年ほど前までは、二世の日本人もまだそうしたたしなみを失わずにいたのである。

 マンは自分の生活ぶりをありのままに話した。朝から一時までは、他のことに一切さまたげられずに仕事をする。仕事をしない生活は自分には考えられない、と彼は言った。午後から夜にかけ、散歩をしたり、客と話したり、本を読んだりレコードを聞いたりする。そうした静かな営みのくりかえしであって、酒の勢いを借りて、一気に書きまくるというようなことは決してしない、ということであった。しかし、そのころチャップリンが非米活動調査会からにらまれていたことに対しては、力と熱をこめて、チャップリノンは芸術家なのだ、芸術家として遇せられなければならない、と強調した。マンは静かな創作生活に明け暮れていたが、情熱を失っていたのではなかった。情熱を創造的に凝集させ内燃させていたのである。私はそこに崇高な内面的なたくましさを感じた。

 辞去して百メートルほど歩いたところで、私はソフト帽をとりちがえたことに気づいた。私のと全くよく似ていたので文豪の帽子を持って来てしまったのだった。私は急いで引き返し、恐縮して、帽子をとりかえてもらった。しかし、あの時そのまま帰り、翌日日本への飛行機に乗ったら、文豪の帽子は永久に私の手もとに残っただろうにと、私はちょっと残念な気がした。

     五
 一九六五年の七月初め、私はユーゴスラビアの北部の保養地ブレドへ、国際ペンクラブの大会に出席するため赴いた。そこでグアテマラの作家アスツリアスに会った。その二年後彼はノーベル文学賞を受けた。それまでアスツリアスは日本には全然知られていなかったが、欧州ではすでに高く評価されており、国際ペンクラブの会長の改選にあたって、有力な候補者にされていた。

 ミゲル・アンヘル・アスツリアスは一八九九年グアテマラに生れたが、パリに長く暮らし、著作もフランス語に訳されて知られるようになった。抑圧されたインディアンに対する強い関心から独裁政治の弾劾へと、進歩的な作家として力強い歩みを続けて来ていたので、言論の自由の擁護を使命とするペンクラブの会長に推そうという動きがフランスで高まった。それに対し英米派はアメリカの劇作家アーサー・ミラーを推していた。そこには、あらゆる分野でフランスの勢力を伸ばそうとしていたドゴールのフランスの強引な策謀とそれに対する反対策謀が舞台裏で行なわれ、不明朗な印象を与えた。フランスにかつがれたアスツリアスには気の毒であった。フランス代表は執行委員会でしきりにねばったが、形勢不利と見て、アーサー・ミラー会長に賛成したので、アスツリアスは自発的におりた形になった。

 その緊迫した空気の中で私はアスツリアスとちょっと話をし、サインをしてもらった。色が地はだから浅黒く、中米人らしかったが、さすがに教養の高さから発する品位があり堂々としていた。それでいて謙虚で、親しみ深かった。アーサー・ミラーの開放的に活発で、なりふりかまわず、体当り的であるのと、たいへんな違いであった。ミラーもいいが、アスツリアスがペンの会長になっても悪くないだろう、と私は思った。候補をおりた後も彼の態度には、気おったところも、気おちしたところもなく、立派であった。

     六
 川端さんと私はふとしたことで接触するようになった。昭和十一年、河出書房が世界短編傑作全集七巻を刊行する計画を立てた時、日本の巻は川端康成編となり、独澳の巻は山本有三と高橋健二共編となった。その時はじめて私の名は川端さんと並んで印刷された。それからまた遠のいたり近づいたりした。

 長い年月ののち、一九五七年、東京で国際ペン会議が開かれることになって、川端さんは日本ペンクラブ会長として理事を増員する必要に迫られた時、私が日銀総裁の山際正道君たちと同級だという理由からであろう、私を理事に加えた。それから、やせ細った川端さんは粘り強く寄付集めに奔走した。私もそれにむち打たれて走りまわった。幸いお金はたくさん集り、ペン会議をまかなって、なお巨額の財産が残った。それでそのまま私はペンクラブの財政委員になって、川端会長の財布をあずかる役をつとめた。

 一九五九年には私はフランクフルトのペン会議で、川端さんに贈られたゲーテ・メダルを受け取り、身代りとなって謝辞を述べ、拍手を受けた。出席しなかった川端さんの人気の高いのに、私は驚いた。

 六四年には川端さんと一しょにオスローの国際ペン会議に出た。同じホテルに数日くらし、たびたび話をした。現代は文学は世界的に低調で、建築が目ざましい、特に日本はそうだ、と作家としてやや自嘲的に言われたが、四年後には、そう言った川端さんがノーベル文学賞に輝くととになった。

(中央大学教授・東大・文博・大14)