言わでものこと  
中野好夫(評論家) No.702(昭和44年1月)号

 
 近ごろ、折に触れて思い出す文章に、内村鑑三(わたくしには、直接の師であったわけではありませんので、敬称は略させていただきます)の「デンマルクの話」というのがあります。もともとは明治44年「聖書之研究」という内村の個人雑誌に載ったものだそうですが、もちろんわたくしの読んだのは、もっとずっと後のことです。現在、内村鑑三著作集ならば、第16巻に収められていますが、それでせいぜい10ページあまりの短文です。全体の調子からみて、どこかで話されたものだと思いますが、話の内容というのは、「信仰と樹木とを以て国を救ひし話」と副題にもありますように、みなさんもご承知の国デンマルクが、ちょうど百年ばかり前、1864年の手痛い敗戦から立ち上がった経過の話、とりわけそれに主役を演じたダルガス父子の話です。

 デンマルクというのは、もともと大国ではありませんが、それがさらに1864年ドイツと戦って敗れ、シュレスヴィヒ、ホルシュタインという沃土を失うことになりました。そこで問題は敗戦後の再建のことですが、どこかの国ではないが、デンマルクはもはや武力をもって立つ大国の夢などは考えませんでした。復讐も考えませんでした。そしてその新しい平和再建の中心人物になったのが、工兵将校であったエンリコ・ダルガスだったというのです。
  彼は当時まだ荒涼たる砂漠であったユトランドを植林による緑の沃地と化し、将来もっとも豊かな酪農国として再生する根拠を築いたという経過を、内村は詳細に語っているのです。内村はもちろん偉大な指導的精神の根拠を、新教徒ユグノーの子孫であったダルガスの信仰に求めています。予言者イザヤの精神であったとすら言っています。

 なにもこれはこの一文の紹介ではありませんので、内容のことはこれくらいに止めますが、なぜわたくしが、近ごろ折にふれてこの一文を思い出すと申しましたかは、近年の日本の逞ましい経済成長、国民総生産において世界第3位になったとか、ふたたびアジアの指導国家たる大国になったとか、そうしたまことにめでたい復興ぶりと対比して、ふとこの再建デンマルクのことが思い合わされるからです。
  太平洋戦争直後のことですが、よくこの国ではもう第三流国だ、第四流国だなどという言葉が聞かれました。みずから卑下したとでもいうか、こうした表現の自嘲的気分にはとうてい賛成できませんが、同時に今日なお日本人の多くが棄てかねている。まことに奇妙な大国の夢、強国の幻というものを考えますと、正しい意味で考えられる第二流国、第三流国という言葉の内容には、十分耳を傾けてみるだけの意味はあると考えるのです。

 時期も同じ明治44年、夏目漱石は和歌山市で「現代日本の開化」という有名な講演をやっています。いくつかの漱石の講演の中でも、これはもっとも悲痛をきわめた注目すべき講演です。明治以後の日本の開化ぶりに対して、痛烈な批判を加えたものですが、その大要は、明治日本の開化というのは、決して「内発的」――つまり、内から自然に出て発展したものではなかった。いきなり先進世界との接触による衝撃を受けて、やむなく不自然な発展に精根を傾けざるをえなくなった。したがって、階段を一つ一つ順序を踏んで登る余裕など、とうていなく、何段かずついきなり跳ね上がるよりほかなかった。言葉をかえていえば、ただ上皮を滑って行くだけで、たえず息せき切って、爪先立ちの駆け足ばかりつづけてくるよりほかに致し方なかった。これでは神経衰弱に罹らない方がよっぽど不思議だというわけです。「気息奄々として今や路傍に呻吟しつつあるは必然の結果」だとも言っています。「気の毒と言はんか憐れと言はんか、誠に言語同断の窮状」だとも言っています。漱石のものとしては、もっとも暗いものの1つです。

 この講演のなされたのが、やはり「一等国になったんだという高慢な声を随所に聞く」とある日露戦勝後の44年のことです。なぜ内村がデンマルクの話などをこの時期にしたのか。おそらく理由は、同じ声を巷の随所で耳にしながらの警告だったにちがいありません。44年といえば、わたくしはまだ小学校に入ったばかりのころです。たしかに一等国、一等国という声を、いたるところで聞かされた記憶があります。そして、まもなく第一次大戦が進行すると、五大強国の1つというので有頂天になっていた憶えがあります。
  しかし、考えてみますと、日本で一等国、五大強国といったのは、いったいどういう意味だったのでしょうか。それはただ軍事的に、武力だけおいて、そうだったというだけにすぎなかったのではないでしょうか。それによって国民自身は、どこまで真の意味で幸福であったか、いま考えても大きな疑問があります。たしかに軍事力だけでは息せき切った駆け足つづきで、一等国になっていました。しかし、かんじんの国民生活は、一部寄生的受益層は別として、すべてその犠牲になっていたのではないでしょうか。

 太平洋戦争の敗戦後、たしかにいわゆる軍部はなくなりました。だが、それに代わったのは経済人、財界ではないでしょうか。
  亡くなった首相池田さんは、はじめてまた大国という言葉を誇らかに口にしました。佐藤さんもまた21世紀は日本の世紀だなどという、無責任なハーマン・カーンの放言を、口癖のようにくりかえしています。またしても別の駆け足つづきです。たしかに国民総生産においては、あれよあれよというまに世界第3位の経済的一等国になっているようです。ですが、ひとたび国民1人当りの所得となりますと、依然として20位あたりをうろついているようです。ついでに上のデンマルクについていえば、内村が上の文を書いたころには、米英独をすら凌いで、世界第1位であったとあります。流石に今では追い抜かれているようですが、それでも立派にベストテンには入っています。総生産では第3位、個人所得では20位そこそこといったこのアンバランス、果してこれはなにを意味するのでしょうか。

 それで思い出すのは、近年の例の交通地獄交通戦争です。国産自動車の生産は、これこそ文字通り世界第2位というまで急躍進をとげました。しかし、まさにそれに正比例して見事な躍進を見せているのが、交通犠牲者の激増です。流石に政府もこれが防止には躍起になっているようですが、一向に効果のないことは先刻ご存知の通りです。原因は実にはっきりしています。要するに、定員のある映画館に、2倍3倍の観客をむりやりに詰め込んだ、その結果として起る危険と同じです。だが、かんじんのその原因については一向に手を打つ様子はなく、もっぱら防止策は弱い歩行者や運転者にシワ寄せばかりされている実情は、これまたご承知の通りです。おそらく産業の国際競争力という理由が、メーカー側に対して手の打ちようがないということの根本原因なのでしょう。

 国際競争力といえば、近ごろこれほどよく耳に入ってくる言葉はありません。国際競争力とさえいえば、たいていの国民生活の犠牲は押し切って罷り通れるもののようです。あるいは現代日本の錦の御旗であるかもしれません。
  ところが、この言葉、わたくしなどには実にくすぐったい記憶を呼び起こしてくれるのです。わたくしどもの少年、青年時代には、一にも二にも軍事的競争力というのが錦の御旗でした。富国強兵などとよく言いましたが、実は強兵あっての富国であること、したがって、文武官からすれば、実業家などは一段下位と考えられていた当時の資料は、いくらでものこっています。
  つまり、軍事的国際競争力に代ったものが、今の経済的国際競争力であることは目に見えています。軍事から経済へと、冠詞はかわりましたが、国際競争力という共通の発想が、ひとしく大国、強国の爪先立ちの妄想につながっていることには、少しも変わりありません。

 それで思い出すのは今次敗戦直後のことです。先にも述べましたように、三流国、四流国という自嘲的口吻は、もちろん採りませんが、もしあのとき、ダルガスは残念ながらいなくとも、そこは国力や国土の条件にふさわしい、よしいわゆる強国や大国でなくとも、正しい言葉の意味で国民の幸福と平和を目標にした、新しい国づくりのビジョンと国策をもった指導者が出てくれていたら、どうだったでしょう。
  あるいは二等国にしかなれなかったかもしれません。世界第3位の工業国にはなれていなかったかもしれません。しかし、おそらく国民の幸福ははるかにもっと大きかったはずです。そしてそれがまた、ほんとうの意味で、日本をアジアの指導国家にしていたはずだと思うのです。
  少なくとも国民総生産と個人所得の間に、いまのような奇妙なアンバランスが生れることはなかったでしょうし、傾城買いのヌカミソ汁ではありませんが、ただ上皮だけ華かな昭和元禄の消費狂態ぶりだの、夥しい疏外者への社会保障の貧寒というような事態は、おそらく生じていなかったでしょう。また、挫折感に悩む青年層の自棄的不満もありえなかったろうと思うのです。すべてこれ無理に上ずった駆け足つづき、漱石ならずとも、「随分悲惨な国民」と言いたくなるのは、果して理不尽でしょうか。

 もちろん内村の警告も、漱石の悲痛な叫びも、当時一等国熱に浮かされていた為政者たち、いや、国民には、蚊の鳴くような片隅の声に終りました。(ほかに徳富芦花も日露戦勝の直後、「勝利の悲哀」という、小さな予言者の叫びを響かせています。)しかし、その片隅での警世の声は、やがて数十年の後、太平洋戦争の終末において、見事に当っていたことを立証しました。
  そして、いままた現在のセールスマン国日本の将来に対してケチをつけることも、おそらく閑人の愚痴として、一蹴されることでしょう。しかしながら、あの当時旭日の登る勢いだった織田信長を一見して、ひそかに運命を見て取っていた安国寺恵瓊の予見ではありませんが、果たして「高転びに転び給う」おそれは、絶対にないと言い切れるのでしょうか。

(評論家・東大・文・大15)