辞書あれこれ  
丸谷才一(作家) No.702(昭和44年1月)号

 
中野好夫先生に、
「英文学の研究とはN・E・Dを引くことなんだ」
という名台詞があるそうで、もちろんこれは、ろくすっぽ辞書を引かないで演習に出て来た学生を叱ったときの言葉である。先生の演習は、われわれが学生のころも猛烈を極めたが、それでもすこし前にくらべれば気が抜けたようなものだと言われていた。中野先生がいちばん張り切って学生をとっちめていた時代に、この名台詞が吐かれたものらしい。われわれに対しては、ただ、
「芋字引なんか引いて来たって駄目」
とか、
「最初の意味だけ読んだってN・E・Dを引いたことにはならない」
とか、教壇の上でつぶやくだけであったが、こう叱られるだけで身のすくむような思いがしたことを、いまだにありありと覚えている。

 芋字引というのは、日本で出ているポケット版の辞書のことである。あれは昔、書生たちが寄ってたかってこしらえ、それで本屋から金を貰うと、焼き芋を買って食べたのだというのが、先生の説明であった。あんなものはいくら引いても何の役にも立たぬ、辞書は、N・E・D、つまり『オクスフォード英語辞典』というのが、先生の持論であり、口癖であったように思う。
  しかしこの『オクスフォード英語辞典』というのが、途方もなく厚くて丈の高いのが13巻もあってやっと1組という浩瀚なものだから、なるべくほかのもので間に合わせたくなるのが人情だし、たとえ引いても、語義の1番目のところを当っただけでくたびれてしまう。第一、この辞書は、何しろ詳細を極めているので、引き方のコツがなかなか呑みこめない。ぼくなどは、上級生に手取り足取りして教えてもらって、ようやくすこし引けるくらいになった程度である。(それも近頃は、また怠けてちっともこの辞書を引かないので、腕がぐっと落ちていると思う。)この辞書に当るときは、何となく、さあこれからN・E・Dを引くんだぞと自分に言い聞かせてそれから手を出すようなフシがあって、つまり肩に力がはいりすぎていることが、自分でもよく判る。

 その点、いつぞや東大の研究室で、中島文雄先生がこの辞書を引いているところを見かけたけれども、先生ぐらいになると、まるで手帖をひろげてちょいとのぞいているような感じに見える。ぼくはその姿を見て、ああいうのが語学の達人というものなんだな、などと考えた。たしかにそれは、おかしな比喩だけれど、剣豪小説に出てくるような情景であった。

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 5年ほど前の春、ある大新聞の文化部から、新学期に当って辞書の買い方について書いてくれと頼まれたことがある。そこで、第一条、辞書はポケット版のものはいけない、なるべく大きくて厚いものを買え、という中野先生の受け売りからはじめて、いろいろと買い方のコツを並べた。そのおしまいに、これは受け売りではなく、1つだけオリジナルな意見を記したのだが、それは、どんなに評判のいい新刊辞書が売り出されても、初版は決して買うな、再版が出るまで待て、というコツである。
  これはたしかに大事なことなので、初版にはどうしても誤りが多い。それが使用者の注意を受けてぐっと改善された再版を買うのが賢明な策なのだ。(だから辞書の初版は部数が比較的すくないのが普通である。もっとも、先年ある文芸もの専門の出版社が国語辞典を作って、これは非常に立派な出来ばえのものであったが、何しろ辞書つくりなどはじめてなので、この初歩的な心得を知らず、初版を10万部とか刷ってしまったそうだ。)
  ぼくのその文章が新聞にのってから、数ヵ月後、その新聞の文化部の次長と話をしていたら、彼は、
「いや、あの記事ではひどい目に会いましたよ」
  と言って笑った。どうしたのかと思って訊いてみると、初版はぜったい買うな、という件に関してほうぼうの辞書出版社から抗議があって、実際はたしかに再版以後を買うのが上策なのだけれども、ああいうことを大っぴらに新聞に書かれては困る、
「『もしみんながあの記事を真に受けて、誰も辞書の初版を買わなくなったらどうします? 永久に再版が出ないじゃありませんか』というんですな。いや、わたしもこれにはギャフンと参ってしまって」
  と文化部次長は大声で笑った。

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 研究社から出ている『国語新辞典』はポケット版国語辞書の白眉だと、かねがねぼくは思っている。福原麟太郎、山岸徳平の共編という異色の顔あわせだが、語義の1つ1つのあとに英語が添えてある仕掛けのため、語義の分け方がたいへんしっかりしていて、明快で、気持ちがいいのである。それに、見出しがローマ字なため、非常に引きやすい。やはり英語の辞書を引くのに慣れているせいなのか、それともローマ字のほうが字数がすくないためか、普通の国語辞典よりはるかに便利である。
  そう言えば、ぼくのうちでは住所録や電話番号の手帖も、みなローマ字引きにきめている。五十音では面倒くさくて仕方がないのである。ぼくはローマ字運動は嫌いだけれど、何が何でもローマ字はいけないというのではない。こういう能率性のようなものはやはりはっきりと認めなければならない。

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 ぼくは何しろ『オクスフォード英語辞典』も持っていないような不勉強者で、たいていは研究社の大英和で間に合わせてしまう。これは日本の辞書のなかの傑作と呼んでもいいような本で、すこぶる調法なのである。
  そういう人間だからろくな辞書は持っていないが、上海の商務印書版の『英語大辞典』はときどき引いてみる。殊に近頃の日本の辞書は漢字がちゃんと使っていなくて、つまりところどころが仮名書きになっていて、困ることがあるが、当り前の話だけれどもこの辞書ではそんなことが絶対なく、ぜんぶ漢字なのが嬉しい。
  それにたとえば、
Love laughs at distance. 恋愛不遠千里。

というような説明を読んでニヤリとするのも楽しい。
  商務印書館版の辞書では『辞源』という2冊ものの漢字辞書も持っているが、これもなかなか役に立つ。いつだったか、「実感」という言葉を調べていて、この辞書ではじめて、元来は美学用語だということが判った。明治時代の日本でもこれはもともとは美学用語(「仮感」すなわち「美感」の反対語)だったのだが、そのことが日本では忘れられてしまった。ところが中国ではその意義が残っているわけなのである。
  ただ、これも当り前の話だけれど、音訓引きができず、劃数を勘定して引かなければならないのが大変だ。

(作家・東大・文・昭25)