夏目先生と私  
出原 佃(名城大学講師) No.691(昭和41年4月)号

 明治三十六年九月、私は愛知一中を出て一高に入学した。その頃の高等学校や大学は、九月から第一学期、一月から第二学期、四月から第三学期、六月末に学年試験があって、夏休みはユックリ休めた。

  一高で私は運よく夏目先生に英語を教えて貰った。学期のはじめからでなく、中途からであった。英国から帰られたのが中途だったのだろう。

 教科書はテキストブック・オブ・ジオロジーで、先生は一語が出ると、それにサフィクス、プレフィクスをつけて教えられる。一度に沢山の言葉が覚えられるのである。例えば
「マリンは海だね、サブマリンは何だね、オイ出原君」
そのころ、私は禅を始めて、無言の行をして居た。さればといって、夏目先生に、無言の行をする訳にも行かず、立って兵隊口調で返事をした。
「知らんです」

  サブマリンは海の下で潜水艇、アルトラマリンは海よりも濃い青、それで、一度に沢山の語いが出来る。とてもよい方法である。

  発音もやかましかった。「オアシスでなく、オエーシスだよ」今でも覚えて居る。

 何度聞かれても「知らんです」の応答に、先生はついに怒ってしまわれた。
「おい、君は変な男だね、知らんことをさも偉いことに思って居るね。俺も長い間リードルの先生をして居るが、君見た様な男ははじめてだ。知らなきゃ、知りません、ともっとしおらしく返事をしたらどうだね。マー、イゝわ、君に博士号を授けよう。──『ドクトル・シランデス』有り難く頂戴せよ。よいか」 
「ハイ、有難うございます」とお受けした。

  ギリシャの学者達に沢山ある。ソクラテス、アリストテレス等のSに韻をふんだのである。今もホントに有り難く思って居る。

  私は二部甲の一三組でした。二部甲は、工科へ進む組です。その組に周家彦君が居た。その周君も、当てられたがグズグズして、返事がハッキリとしない。
「オイ、もっとテキパキ返事をせよ」
と怒鳴られた。
「周君は、支那人です」 と注意したら
「ホウそうか」
と頭を掻いて居られた。その周君は、出世の早い男で、大正三年には、袁世凱総統の事業部次長をして居て、北京で会った。

 二年の時は教わらなかったが、3年の時にまた教わった。その時の教科書は、コナンドイルのアドベンチュア・オブ・シャーロックホルムス、その書き出しが、サッカレーの何とかいうことばではじまったことを覚えて居る。先生の造られた博士第一号、愛弟子の私を見られて、

「オイ出原君、まだ息をして居るかね。もう君は息をして居ない、と思って居た」
「ハイ、私は息を続けて居ります、どうぞお手軟かにお願いします」
「それがよいね」
「オイ、君、君は愛知だったね」
「ハイ、愛知です」
「大島与吉という男を知っとるかね」
「ハイ、私の先輩です」
「大島は二銭銅貨一つを持って名古屋を出発したそうな。小石川の何処かの素人下宿の二階に居た。冬のある日のこと、彼は素裸になって、自分の着物を砧を打つ様に、槌で叩いて居た。宿の主人が、大島さん、何をやって居るんですか、と尋ねたら、シラミが沢山居て、一つ一つ取るのは面倒だから、一緒に潰して居る、と。面白い奴だね」
「ハイ、面白いですね」

 私が愛知ということをどうして知って居られたのか、不思議である。何年かたって、その大島さんに、どうして夏目先生と知り合いですか、と聞いたら、俺は夏目の弟と友達で、よく夏目の家に行った。その弟の奴が、酒でも飲むと、隣の家の梯子を借りて来て、庇にかけて直接二階へでも上ると思ったら、敷居にかけて家に這入りやがるんだ。敷居が高くてまたがれん、という。

  私は一高を出て大学へ行ってから、小石川竹早町の愛知社に入り、寮生活を続けた。その頃文部省は推薦で先生に博士号を贈った。先生は、文部省に博士号を貰いに行かないと新聞に出た。文部省は困って居った。書留か、内容証明かでお歳暮の様に届けたろうか。私は博士号を屁とも思わぬその夏目先生からヂカに戴いたから、ホントに立派なものと思った。

  その頃西園寺総理大臣が、春陽会の文士達を招待した。わが夏目先生はハガキで断られた。句に曰く
   時鳥厠半ばに出かねたり
漱  石

  その頃聞いた話、文科で先生が講義をして居られると、一人の学生がいつも懐手をして聞いて居る。先生は、その懐手の学生は、礼儀を知らぬ男だ、と思って居られた。その頃の学生は、皆和服に袴で、懐手には都合がよい。

  ついに先生のカンシャク玉が破裂した。
「オイ、君、講義を聞くのに懐手で聞くとは、無礼じゃないか」と、叱った。学生達が、
「先生、彼は手がないです」
「ウウン、手が無いッ。オイ、俺は、ない知恵を絞って講義して居るんだ。君も、無い手を出せ」禅の問答その儘。

 私は、明治四十二年大学を出て満鉄に入社した。

  そして大連に勤務した。その時の満鉄の総裁は中村是公で、先生の無二の友達である。その是公の招きで、私と同じ頃満州に行かれた。満韓ところどころに
「是公の奴が大連の電車のレールを一本棒にせやがった」
 その大連電鉄の経営を私がしたのも、誠に因縁深いもの。

  漱石先生が「門」か何かの小説に、宗助の名前で鎌倉の円覚寺に参禅される所がある。 その時の典座が釈宗演の養子の釈宗話である。

 その宗話老師は、根岸に両忘庵を造って禅の指導をして居られ、私も其処に行った。無言の行はそれから。そして「知らんです」の因縁。

  参禅された頃知り合いになられた二人の雲水さんは、東京へ来ると、先生を訪問され、先生も喜んで御馳走された。ご逝去の時そのお二人が、色々世話をされたとの話。猫に出て来る多々羅三平こと、俣野義郎君も満鉄で同じ釜の飯を食った。そして時々先生の話を聞いた。ある年新京の一高会で、一高時代の自慢話のコンクールをやった。私が一番終りに、私は一高一年の時に天下の夏目先生から博士号第一号を貰った詳細を発表したら、遂に優等賞を貰った。

  愛知一中の四年先輩に中川芳太郎氏が居る。中学二年で、どんな英語の本でも読めたという話、先生が東大で講義をされた時の英文科二年。全集に収めてある夏目先生の文学論は、その中川芳太郎氏が筆記したものだとの話。虞美人草の誰かゞ、その中川芳太郎氏。東大から離れて八高の英語の先生、一高で私の一年下に高柳賢三君が居る。これは私と逆に、夏目先生に質問許りする。先生もウンザリするほど。ある時、高柳君に
「君は俺に質問するが、俺の月給を調べたことがあるか、俺は君の質問に答えなきゃならぬ程の月給を貰っては居ないよ」

  その高柳賢三先生と倫敦の東洋館という旅館で同宿して居た。大正十三年、英国ではもうラジオ放送をして居た。高柳先生は、労働党の党首マクドナルドが、グラスゴーで演説して居るのを、ラジオで聞いて居た。

 その先生相手に英語の無用論をしたら「その通りである。然し、日本人は自惚れが多過ぎる。英語でもやって、その高慢心を打ち砕かなければならぬ」との話。なるほどと、その軍門に下った。

  後で、同僚の山田潤二君にその話をしたら、高柳は、一高で一年落第してまで、夏目先生の講義を聞いた程の夏目先生の直伝、日本では英語専門家以上の英語の名人達人、わが夏目先生の作品である。終戦処理に大した役割をした。

  工科系の学生の教科書に、科学系の教科書を使われたことも、先生の卓見である。科学のことは、数学でも、物理でも、化学でも解って居る。それを英語で読んでも解る。又英語の自信がつく。

  私は晩年教育に転向して、新京工大の世話をした時に、英語の先生に、科学書を教科書にすることを頼んだ。そしたら、英語の先生達は、科学に弱い人が多い。科学用語を知らない。逆に私が科学用語の指導をした。

  夏目先生は科学に弱くないので、科学書を教科書に使われた。こういろいろ書いて見ると、夏目先生とは因縁が多い。先生在世中に先生の面会日にでも出て、もっと接触したかった。満州に居て、遂にそれが果たせなかった。ご逝去になってしまった。

  そして、それから五十年、半世紀、今ごろお逢いしたいと言ったとて出来ぬ相談、こんなことを書いて見て先生を偲びたい。

(名城大学講師・東大・工・明42)