≪學士會館再開 記念特集号≫

No.665(昭和31年10月号)

 
【山田老先生へ感謝】
  東京 安倍能成(文 四二)

 私はあまり社交的でなく、クラブを楽しむというたちでありませんから、学士会館にもそう度々ゆかず、懐しいという程の親しみは感じません。しかしこの建物が多数の旧帝国大学出身者に与えた便益は大したものですし、会館の利益と拡張及び充実の為に、始終奮闘された理事長山田老先生の御骨折と御熱心とに対しては感謝の外ありません。

 私の家でも昭和十七年に長女、十八年に長男が、あの学士会館で式を行い披露をさせて頂きました外に、私の媒妁をした披露宴も四五回はあったように思います。長女、長男の時には、戦争も大分進みまして、恐らくこんな披露の最終の時機だったかと思います。その長男は戦後間もなく病死し、嫁がその忘れがたみの男の子、娘が二人の女の子をつれて、今日もやって来ました。その嫡孫が尋常六年、娘の子が中学一年と小学五年という年齢になって居ます。現下の困難な日ソ交渉、この国家的大問題に当る政治家の出鱈目と私闘、国民の暢気な無自覚を思うと、その間に過ぎた十数年の間に、日本は又戦争前の出たとこ勝負を繰返しはせぬかと心配でたまりません。

 今度やっと神田の学士会館が学士会の手に帰ったのにも、当事者の苦労と奔走とは大したものでありましたろう。殊に八十七歳になられた山田老先生の根気のよい御奔走がなかったならば、今日の喜びに会うことは恐らくできなかったでありましょう。学士会館の再開に当って、重ねて山田先生の労を感謝し、御老健を祈ってやみません。


(学習院大学長 前評議員)

【会館再開おめでとう】
  東京 大内兵衛(法 大2)

 神田の学士会館がもどって来る、そしてわれわれがまたあそこをわれわれのクラブとすることができる! これはすばらしい。

 ひどい安普請で冬にはさむい風が吹きこむままであったバラックのあとに、あの堂々たる建物が出来たのはいつのことであったろうか。かれこれ三十年前ではなかったか。われわれはあのとき、あの新建築をほんとうに宮殿のように考えていた。というのは、当時はまだ実業界にも官界にもああいう類の近代的なクラブ組織はなく、交詢社や日本クラブがあっても、あれほどに立派な独立の建物はもっていなかったからである。しかも、われわれのクラブは、政治や事業やという利害につながるものではなく、同学という、ほんとうの友誼につながるものであった。それでそういうことに勝手な誇を感じこれはクラブ以上のクラブだと思っていた。

 あの一ツ橋の大通りから、横に長い御影石の石段をふんで、このクラブに入るときの私はいつもほがらかであったような気がする。私たちは、あそこで「経済研究会」や「社会政策学会」の例会をひらいていた。また、大蔵省の大正二年会もやっていた。それどころか、私は、ときどきいろいろの新聞や雑誌をよむために、また碁を打つために、友人と面会するために、散髪をするためにさえ月に何度かは必ずあの会館に出入りした。私が招かれた幾つかの結婚式もあった。なかんずく思い出されるのは、山崎覚次郎先生、矢作栄蔵先生の還暦祝賀会である。しかしそれよりも学士会館と一層直接不離に考えるのは山田先生である。というのは山田先生はたいてい毎日か少くも週日何回かは、あそこに来られていたらしく、会館に行けば先生の影をどこかに見たからである。例えば、地下の理髪室で、先生は長身を悠然と椅子によせて目をつぶって、頬のヒゲをそらせていた。あの当時、先生はまだお若くて皮膚の色が美しくあられたのである。

 学士会館はいうまでもなく山田先生の子供である。この会館を生んだのも育てたのも、山田先生である。私は、学士会館が進駐軍にとられたとき、山田先生は自分の息子が捕虜になったような感じであろうと想像した。先生の待望と並々ならぬ御努力とによってその息子が、ナホトカから帰って来たのである。学士会館再開についての山田先生のおよろこびはどれほどであろうか。考えるだけでも愉快である。

 学士会館の利用者はたいてい学士会の受益者である。義務が少くて権利が多く、しかもそのことを十分に自覚しない疑がある。そういう人は正確にいえば、「たかり」である。私も、多年このたかりであり、今後も、そういう類の一人であろう。なるべく改心する心得であるが、そういう不逞のやからにかかわらず、私は、学士会館の華々しいカムバックに喝采し、歓呼いたします。


(東大名誉教授・法政大学長・理事)

【会館建築当時の思い出】
  鎌倉 高橋貞太郎 (工 大5)

 大正五年に学窓を出て約十年を経た時、已に岡田信一郎先輩によって新築の立案が出来上って居った筈の学士会館が、突如会員間の懸賞競技によって、その設計を募集するという事を耳にした。洵に驚きであると同時に胸騒ぐ思いであった。

 当時宮内省に奉職して居た私は、早速同僚の若手で、美術学校や高工出身者の応援を得て二案を提出したのであるが、その中の一案が一等当選の栄を得て、実施設計委嘱の運びとなったのである。然し何分三十幾歳の若輩で、大きな建築物の実施設計監理の経験のない私であり、また宮内省に奉職中の身であるから、当時の宮内省の工務課長で私の上長官でもあり、また大事の思師である佐野利器先生が、一切の責任をお持ち下され、私が佐野先生の下で設計監理の任にあたることになったのである。ところが早速先生からお叱りを受けた、プランが拙いというのです。最も大切なことですから幾度か練り直して理事会の御承認を得たのが今日の旧館のプランであります。外観は懸賞競技に当選のものと殆んど変って居りません。いたって地味な合理主義的な様相を持って居ります。私は之が学士会会員の最大公約的性格だと考えて居ます。

 南北に長い矩形敷地に対し、将来の増築にそなえて、南の方にL字型に建物を配したのでありますが果して数年にして北側の方に新館増築の議が起り、(之は三菱地所部――現在の三菱地所株式会社で設計監理をされた)只今の様な形となったのであります。

 旧館は二階に大講堂と大食堂を持ち、三階に小集会室、四階にホテルを持って居るので此が建物として最大の弱点になって居るのでありますが、幸に都合よく行って居ります。大講堂の音響が兎角問題になるのでありますが、昭和三年三月竣功の砌、当時の若手の選良牧野代議士(現法相)が、大講堂の壇上に立って、演説のテストをされ「之れなら大丈夫」と太鼓判を押して下さったことを、今更の様に想い起します。

 外壁の腰廻りは、当時の新材料富国石を貼りめぐらし、内部一階の広間にも富国石の磨いたものを使用して、メードストーンの適応性を誇揚し、幸に今日まで何の支障もなく、富国石も益?多く大建築に使用されるに至って居ります。

 接収中二三回、会館内部へ入った事がありますが、色々の意味で、実に情けなく感じて居りました。

 幸に接収解除、皆様の手で改修せられ、再び吾々の会館となる日が来たことを、ただただ嬉しく想うばかりであります。

 更に立派に育って行くことを念じて止みません。


(高橋建築事務所長)