観測ロケット  
糸川 英夫(東大教授・生産科学研究所) No.663(昭和31年4月)号

 昨年、昭和三十年には新聞が観測ロケットのことを大分書き立てた。それが今年になってニュースの焦点が南極探険(南極観測隊のことが新聞ではいつも探険隊である)にすっかり移って毎日紙面を賑やかにしている。

 そこでロケットとか南極とかは大変華々しい研究のように思われ、「ロケット騒ぎ」とか「南極騒ぎ」の感じをいささかドギツク与えて、心ある第三者をして苦々しい思いをさせるに到り、近頃の学界は少し浮わついているではないかと、叱咤の声も出て来る。

 然し良識をもって考えて見れば抑々研究に「華々しい」仕事なんかある筈はなく、観測ロケットを研究している現場の人達は、ボロ作業服を着てヒーターのない部屋で手弁当を食ベ乍ら、毎日メーターをのぞき、ドライバーを持って小さな部分品の一つ一つをコツコツと実験しているので、凡そ地味な仕事の塊りであるのは例の通りで、結局「騒ぎ」の原因はジャーナリズムにあるので、研究そのものにあるのではない。それが何となく錯覚で「華々しい研究」となる。

 むしろロケットの研究をやっている当事者としては、何でこのように、新聞、ラジオ、テレビなどの、所謂近代マスコミ網が目のかたきのようにして取上げるのか判断に苦しみ呆れているのが現状で、昨年の四月、都下国分寺で始めてペンシルロケットの実験を行ったときの報道陣のものものしさに、どぎもを抜かれたのは筆者だけではない。

 少くとも私には異常と感ぜられた報道関係者の関心の原因が何であるか、その後折りにふれて確めた所では、敗戦以来の劣等感からとても日本ではロケットの研究など行われないと思っていたのが、「突然に」現われたので、劣等感からの解放と云うか、日本でもロケットの如く近代科学(?)の研究もやっているのだと云うことが国民の気持ちを何か明るくするのだと云うことである。若しそうならば、当事者にとってこそ意外なことで、ロケットの研究は「突然に」始まったのではなく、以前から地道に続けられて居り、只「突然に」新聞に途中から出たにすぎない。

 さてこの研究が新聞によって国民全般に知らされて、それで国民全般の気持が多少共明るくなると云うならば、その事に別に異議を申し立てる気持はなく、少くとも国民の気持を暗くするよりはましである。唯そう云う意味での報道関係者のセンスなり報道の仕方なりが、ロケットの研究の本質とは全くと云ってよい程無関係なのである。正直なところ、東京大学生産技術研究所に席のある筆者などにして見れば、もっと「生産的」な研究をこそ報道すべきであって、ロケット観測のように稍々消費的な研究はなる可くこっそりとやらせて頂き、あまり日向でしげしげと眺められたくないのである。

 考えて見ると、このロケット観測と云う仕事は誠に消費的である。尤も敗戦後所謂、傾斜経済の名で享楽的な消費的なことに許りお金を費って来た我国の全般からすれば、科学技術の進歩に益することは大変に生産的なことと云わねばならぬだろうが、科学技術の世界の中だけで云えば、こんな消費性の強い研究も少いであろう。

 原子力の研究にも何十億とお金がかかるような話しであるが、この方は原子炉なり、もっと先きに行けば原子力発電所などと云う施設が残る。観測ロケットは一度ブーンと上空に昇るとあとは一回の観測を行うだけで、海の中にポシャンと落ちて沈んで了い、それで、何十万円か、何百万円かがあっと云う間に消えて了う。そこで何度も使えるように、パラシュートか何かで回収したらどうだと云う考えも出るが、今の所回収出来るのは極く一部だけにすぎないのが世界の現状である。両国の川開きに行く度に、筆者など貧乏育ちの人間に、何と我等日本人とは消費の好きな国民であろうかと嘆ずるのであるが、若しその伝でロケット好きなのならガッカリこの上もない次第である。

 僅か数分間の間に花火のように消えてなくなる何十万円かの代償として得られる観測とは一体何であろうか。

 第一に太陽の光りの観測、之は天文台で勿論従来とてもやっていることだ。違うのは空気層で紫外線系の波長の短い光りをいい加減吸いとられたあとでしか地上では受けられないのに対して、ロケットでは三十粁程ある空気層を遙か突き抜けて百粁位の高さで観測するので空気に遮ぎられない生の太陽が見られるわけである。

 茲で判ることは地上では見られない太陽光線の波長の短い方、所謂紫外線の強さが大変強いこと、その強さが大幅に変化すること、変化に周期をもつことである。この周期を測ることはロケットでは苦手で、一台の飛翔時間を五分とすれば、五分毎にロケットを上げて連読的に観測をやらなければ摑めない。この問題をもっと経済的に解決するのが人工衛星で、米国のバンガード計画と呼ばれる人工衛星は三段式ロケットで五〇〇粁の上空に打ち揚げられ、そこで音速の二十倍の速度で水平に打ち出される。このときの遠心力と、地球の引力がつり合って人工衛星は地球の周りに公転運動をつゞける。人工衛星と天然衛星(つまり月)の違いは寿命で、月の方は先ず永久であろうが、人工衛星は色々な原因で数ヵ月以上は無理らしい。それでも観測時間にすれば大したもので、観測時間一分当りの費用に直すとロケットより安いと云うのが、人工衛星グループの主張である。

 偖て元に戻って太陽観測の他に宇宙線の観測も大きい問題である。之も地上では電離層や空気層に邪魔されて大分傷んだものしか摑めないのが、上空では生の宇宙線が捕えられる。之は物理学にとって大きな魅力である。

 電離層も観測される。近頃太陽の異常爆発で電波が大分乱されたニュースが伝ったが、この辺の現象はロケット観測に一番活躍してほしい所なのである。この他、上空の風、気圧、夜光現象、隕石など観測したいものは多い。

 只以上のどの項目でも、地球上一カ所で精しく測るのは意味なくて、地球の全面で同時に測ることが必要である。そのためには各国の協力が必要で、この国際的協力を約束したのが一九五七、八年の国際地球観測年である。日本は国際地球観測年で諸種の地上観測に主要な地位を占める他に、日本がおかれている地球物理学上の場所、地理的条件から、ロケッ卜観測を特に要望され、遂に之を引き受けることになり、英仏のヨーロッパ線、米国の南北アメリカ線と並んで、東経百四十度線を濠州と共に受け持つことになっている。

 そこで昭和三十二年までには日本も百粁以上上昇出来るロケットを間に合わせなければならない。

 之は一体可能であろうか。筆者は当事者の一人として先ず可能であろうと考えている。勿論問題は多い。費用にしても三十一年度の経費所要額二億六千万円に対して、今までに文部省で決めたのは五千五百万円にすぎない。政治をやる方々の関心も秋の空のように変り易くて何年もかかる長期計画の遂行には便利でない。日時も限られているし、人も又限られている。それに日本の学者は協力的な立体的な仕事に不馴れだと云う批評もある。筆者は然しその反対だと思っている。或る意味では米国ではもっと協力体制をつくることが難しい。日本は国土が狭いので地理的には日本中の有能な人を集めることが楽な筈だし段々と集まって協力されつつあると思っている。損なのは地理的にヨーロッパやアメリカから遠くて研究情報の交換が後れ、又よく出来ないことである。

 観測ロケットが出来たとして国際地球観測年に国際的役割をつとめて、このつとめを果してくれたら、その後はお礼奉公で、もっと生産的なこと、例えばロケット旅客輸送機の実用化などで、この研究が日本の経済的向上に役に立って貰いたいものだと云うのが目下の心境であり慰めでもある。

(東大教授・生産科学研究所)