東京大学が接収を免れた経緯について
内田祥三
(元東大総長・東大名誉教授)
No.660(昭和30年7月)号

 昨年末、日本建築士連合会の註文で、島田藤君との対談を行い、それが同会機関誌「建築士」の本年一月号と二月号とに連載されたところ、学士会の理事者の中で、それをみられた方があって、復刊学士会月報にも出したら、という御意見があったとかで、和田書記長から、是非それを書くようにとの御要求があった。元来、公事に関することなので、もしかして少しでも、間違いがあつては、その影響も少くないので、私のような記憶力の弱い者は、遠慮した方がよいことなのだが、既に、一度発表してしまったことでもあり、おことわりする訳にもいかないので、お引受けした次第である。当時の簡単な日記をたよりに、できるだけ間違いのないように書くこととする。

 昭和二十年にはいると、戦争も次第に敗色が濃くなって来て、本郷の大学附近にも、大きな木材などがはこばれて、道路や民地に、壕のようなものができるなど、何かあの附近一帯に、軍の施設でもできるのではないか、という感じをもつようになってきた。
  六月二十八日には東部軍の将校四人が大学に来て、今回、宮城及び東京都防衛のため、東部軍管区司令部の下に、帝都防衛司令部ができ、更にこれを数区に分け、各区に、少将が司令官となる部隊が、編成されることとなったにつき、その一部隊の司令部として、東大を使いたい、その人員は、幕僚以下約三千名である、との申し入れがあったので、これに応対した事務官は、本学には、とうてい、そんな余裕はない旨を答えたところ、是非にとの要望なので、その旨を上司に伝える旨を返事したが、先方は、一両日のうちに、返事を聞きに来る、といって退出した、とのことであった。
  そこで、私は、早速、登学中の各学部長の参集を乞うて、本日軍から申し入れのあった内容を報告協議し、翌二十九日には、文部省に文部次官を訪い、昨日の軍からの申し入れの委曲を語った上、現在のような戦局となっては、軍の立場としては、帝都の防衛につき、できるだけの計画をたてるのは、当然のことと考える、然し又一方われわれは、邦家のため、一日も欠くことのできない研究や教育に、建物を使っているので、これを明け渡すわけにはいかぬ、その何れを重しとするかは、極めて重大な問題で、この際、大学としては、与えられたる責務をあやまらないようにしたいので、軍の意志は、十分に尊重するが、最後の線を踏みはずすことはできない、と思っている。先方から、近く、重ねての申し越しがあることになっているから、その際は、こういう気持で、応対をしようと思うので、この点文部省の御了承を得たく、大臣に、さよう御伝えを願う、と述べたが、次官は、個人としては全く同感である旨を語られ、なお、大臣にもよく伝えることを約された。
  軍の司令部が、学内に設けられるようなことにでもなれば、研究や教育は、事実上、本郷ではできなくなる。力による接収が行われるようになれば、何とも致し方がない。不便を覚悟で、次善、三善の策として、疎開の程度も、広げなければならないことなどを考えた。
  六月三十日、東部軍司令部から、一将校が来学、本学内の建物の一部を見て帰ったとのこと。なお、同将校は、文部省にも行ったらしく、本省の会計課からも、本学の庶務課に連絡があった。
  七月二日、学部長会議の席上、私が二十九日に文部次官と面談したときの内容、及びその後の経過を報告し、私の意見をも述べて懇談した。
  七月四日、東部軍管区旅団長某少将、少佐及び主計中尉各一名を帯同して来学、同少将は、先日来の本学建物の借受交渉につき、あいさつに見えた、とのことであったので、私は、随員の少佐及び中尉にも列席を求め、当方も石井庶務課長と同席で、対談することとした。
  少将は、戦局の推移が、ゆゆしいものであること、宮城及び帝都防衛の一部を担当することとなり、陣地構築につき、いろいろと、調査、熟慮した結果、自分の関係する範囲では、上野の森と本郷台とを結ぶ線を基礎とすることが、是非必要である、という結論に達したることを詳述、教育や研究に不便をかけることは、重々御迷惑とは思うが、時局にかんがみて、是非軍の要求を承諾ありたい、と要請された。これに対して、私は、本学としては、わが国最高の教育と研究という重大なる任務に、全責任を負うているので、その建物や土地を、全く違う目的のために使うということは、われわれの認め得べき範囲ではない、という前提で、なお、細目につき、
  一、学生を文科系と、理科系との二つに分けてみて、文科系の方は、相当減少しているが、理科系の方は、二年及び三年の残留者と、一年二た組ずつとで、平常よりは反って人数が多く、全体としては、学生数は、それほど減っているのではないこと。
  二、近年、時局の要求にもとずいて、理科系の著しい拡張が行われ、これ等は文科系の空室を使っていること。
  三、研究の内容が、今回の戦争に直結しているものが多いようで、一部疎開したものもあるが、設備の関係上、大部分は、この場所で研究をやっており、若し、その場所をあけることにすれば、これ等の重要な研究は、全く中絶するの外ないこと。
  四、病院は、戦争と直結している部分があり、ここを動くことはできず、従って、病院と不可欠の関係にある医学部は、この関係からだけでも、疎開することはできない。
  五、建物各室の構造が、研究本位に出来ているから、普通の事務室や居室に使うのは非常に不便であること。
  六、既に戦炎を蒙った面積が約六千坪、延焼防止のため、除却を要する建物が四千坪あり、病院の如きは、戦傷病者収容のため面積増加の切実なる要求があるにかかわらず、これをいれることができないでこまっていること。
  等等、大学側の事情を説いて、現在の状態では、遺憾ながら、軍の要求に応
ずることはできないから、どこか他に適当な場所を物色せられたい、と述べたところ、同少将は、現在の戦局は頗る重大であって、陣地といっても、おそらくは、そこが、自分達の死所になるのではないかと思って、できるだけ、理想に近い所をと、さがし求めた結果なのであるから、是非、自分達の墳墓の地として、この場所を提供せられたい、とのことであった。これに対して私は、この場所こそ、われわれの死所と考えて、毎日の仕事をしているのであるから、どうも御要求に応ずることができないことを御了承願いたい、といって、はっきりと、ことわったのであった。同少将は、しばらく考えていたが、それでは誠に已むを得ない、今日はこのまま帰って充分考えてみるが、重ねて御無理を押してうかがうかもしれない、と述べて帰られた。
  翌五日には、各学部長に、昨日の顛末を告げ、午後には文部省に行って、少将来学の次第を報告すると共に、その交渉の内容について了承をもとめた。こういうふうに私は、東大を使用しようという軍の要求を拒絶したのだが、更に又、重ねての要求があるのではないかと、心配していたが、幸い格別のことはなく、不安のうちに、一日一日と過ぎていった。
  七月二十一日には、東部軍から、同軍の宣伝機関として、約百名を収容する場所を借り受けたい旨の申し入れがあったが、当方にはそういう場所がないことを説明して、これを拒絶することにした。
  八月一日には、陸軍では、東大の付属医院を、傷病者の治療に使いたいと考えているとの情報を得た。これは、陣地や兵舎に使おうというのとは、全く性質が違うことなので、できるだけ協力するのがよいと考えたので、もし、そういう事態の起った際の受け入れ体制について、病院長と協議した。
  八月八日には、東部軍管区から、学内一部の建物を、軍病院の分院として、使用したいとの申し出があったので、本学の建物を、軍の施設として使うのではなく、傷病者の治療を、本学の付属医院に委託されることにしたい旨の交渉をすることにした。(つづく)