科學的方法に據る書畫の鑑定と登録  
狩野亨吉
No.512(昭和5年11月)号

本稿は九月二十九日第九十一囘茶話會に於ける講演の筆記であります。 大體筆記によりましたが、登錄の話は補つたところがあります。

一、 科學的の意義

 科學的とは、科學のとか或は科學に基く所のとか云ふ意味である。然らば其科學といふのは何であるかと尋ねられると、是は簡単に説明することは出來ない。故に又科學的方法といふことも從つて判然と申上げることが出來ない。是は此道の先覺者であるマッハを呼起して見ても、又現に此所に御列席の中に御見えになる科學の大家に御伺致しても、矢張一般世人に分り易いやうに説明することが出來兼ねるかと考へられます。然らば科學といふ語を聞いて、一般世人が何等の概念をも作ることが出來ないかといふに、決してさうではない。科學といふものは組織的に嚴密なる穿鑿を遂げるもので、卽ち違算がない樣に勉むるものであるから、從つて正確なる結論に導いて行く所の知識の系統であると云ふ樣なことは、普通の字引にも載つてゐる次第であり、此位のことは一般世人も考へ得る所であらう、科學と云ふことを準備的には先づ此位の意味に取つて好いのであるが、しかしそれでは哲學とか數學とかいふ樣な學問と區別がつかない。卽ち科學では絶對といふことを言はないとか、或は價値觀を述べないとかいふやうなところが明かになつて居らない。尚叉科學では、いざといふ場合には、具體的の證據を提供することが出來るのであるが、さういふこともはつきりと現れて居らない。しかし乍ら此處で槪念的に一々科學の特性を申述べるよりも、段々と御話申上げる間に、其特性の例證と見るべきことが擧つて來ると思ふのであるから、其時に注意することと致します。此處では先づ普通一般の人の頭に浮ぶやうな意味にとつて置いて差支はない。實は私の所謂科學的と申したのは、それ程のものでないのかも知れない。元來この科學的方法に據る鑑定と登錄といふ語は私の職業のモツトーであり、自分だけでは科學的と考へて居ることも、それは唯自分免許に過ぎないことで、甚だ淺薄であり、充分考へた上に纒りを着けたと云ふのでは無いのであるから、科學の手前誇張に過ぎたやうな感も致すのであります。兎も角科學的ならんと勉むるのでありますから、其邊のことは宜しく御汲取あつて、何卒御耳軟かに御聞流しになるやうに御願致して置きます。
 其處で私の申上げる題目は科學的方法に據る書畫の鑑定と登錄といふことでありますが、元來かの藝術と科學とは其性質が違ひ範圍も違ふのであつて、一樣の取扱をすることの出來ないものの樣に考へられてゐる。今の處此見方が穩當であり無難であると思はれてゐるから、私も強いて爭はない。從つて私が科學的方法に據ると言つたのも、書畫に係はる譯ではなく、鑑定と登錄とに係つて居るのであります。卽ち書畫を科學的に考察するといふのではなく、書畫の鑑定と登錄を科學的に成就させやうとするのである。一應かく考へたからと申すものの,實際に當つては藝術と科學とは全く沒交涉でもあり得ない。現にレオナルド・ダ・ヴィンチの如き藝術家にして科學者たる人もあり、現代にも類似型の人が數多あることであらうと思はれる。然しながら槪して云ふと藝術家と科學者とは素質が違ふので意見が違ひ、普通犬猿唯ならざる關係を持つてゐるかの如くに考へられてゐる。そこで藝術家の目で科學を見れば沒趣味で冷酷で、所謂精神的文化などいふことには微塵も貢献するところが無いやうに思はれる。一方科學者の目で藝術を見れば誇張的で氣まぐれでいざと云ふ場合には何等實際生活に益するところが無いやうに思はれる。假に我輩をしてヴィンチの亞流として藝術に對して公平の意見を述べしむるとしても、我輩が藝術品に對する時には、先以て錯覺を必要とする。例へば點で書いた所を線に繫いで見なければ分らないとか、曲つて書いた所を眞直ぐなものと考へなければ解釋がつかないとかいふやうなことが抑もその始である。こうした錯覺的知覺から進んで鑑賞に入り陶醉に至るに從つて、幻惑を必要とし錯亂を必要とする。其著しい例は未來派立方派等に現れてゐる。卽ち藝術には錯誤乃至病的な分子が多分に含まれてゐると認めざるを得ない。しかしさうした變態的な現象は何も藝術に限つてばかり起ることではない。社會の各方面に亙つて現れはてゐる。而して何より一般世人がその錯覺と幻惑と錯亂によつて滿足を得てゐるといふならば、何も今急に藝術を捨てさする必要はない。將來誰か工夫を凝らして、食も取らず、人には從順に仕へ、而して産兒制限を必要とせざる電氣美人を拵へて、繪畫美人に代る樣にして呉れる迄は、よろしく現狀維持で、藝術至上主義を叫ばしめて差支ないであらう。故に我輩は科學のメスを藝術其物の上に加へることは差控へる。
 さ程に人類に滿足を興へ、幸福を增進するところの藝術であるならば、所謂藝術品は尊ふべきものと云はざるを得ない。それ故また其尊いところを利用し惡用して、種々な曲事を企つるものがあるであらうといふことも察するに難からぬ次第である。其曲事の種類も多く、行はるる範圍も廣く、實際世間に害毒を流しつゝあるのであるから、之を匡正し若くは防止する方法があるなら、攻究して見るのも無駄なことでなからう。私の狙つたところは則ち此方法にあるので、しかも決して害毒の全部を取去ることが出來ると主張するのではないが、ある種の犯罪は的確に剔抉することが出來るのであるから、幾分世益となることであらうと信じてゐるのであります。
 ところで昔から、惡い事を防止したり抑壓したりする爲に用ゐらるる方法は先づ三つある。卽ち第一に道德に依るもの第二に宗敎に依るもの第三に法律に依るもの、凡そこの三つに依る方法以外には考付かなかつたものである。故に近頃叫ばれてゐる思想善導と云ひ明るい政治と云ひ、皆この三つの方法を籍りて實現させやうとするのである。しからば其期する所の結果を得らるゝかどうか。是は甚だ心細い次第である。さう氣付いて見れば其處に恐るべき事實が現はるるのであるから用心すべきであるが、事實であるから仕方がない。然らば則ち其事實は何であるかと云ふに、惡は今迄是を退治しやうと務めてゐたかの三方法によつて減滅出來ないと云ふ事實である。この事實は之を純理に質すも、之を人類既往の經驗に鑑み、現在目撃するところの實際に徴するも、如何ともすることの出來ない事實である。然らば三法以外に別に氣付かれる方法がないかと云ふに、是は有ると思はれる。其一法は世間の經濟組織等を改善すると云ふことで、古諺に所謂衣食足つて禮節を知るの意味を擴充せしむるのである。此考に立脚して改善なり救濟なりを思立つた人は古より全く無いのではない。而して近頃此考を以て最も勢力を張つたものはマルクスである。彼の主張は唯物史觀に基づくと云ふ所に、科學的の方法を取入れたと見るべきものがあり、反對者も又他山の石として研究すべきであると思ふのであるが、彼の徒の實際の行動を見れば科學者の冷靜にして謙遜なる態度を缺いてゐるのみか、反對に熱狂にして暴戾なる運動を敢てするのであるから、結局マルクスの徒は彼等の最も忌嫌ふところの宗敎家、頑迷で喧嘩好な宗敎家の亞流に過ぎないと見做されても仕方があるまいと思ふ。マルクスを御祖師樣として尊信する有樣を見ても、たしかに宗敎家の態度に類してゐる。惜むべきことである。私も科學的方法に據ると云ふからには矢張唯物史觀に立つものであり、又現在に滿足せず、不合理なるところを改善しやうとする心も持つてゐる。しかし確に改善出來ると見込の付くまでは躍進的に行動しない。ピツタリと現實に卽して現實何物なりやと觀察する。其觀察が徹底すればするほど、現實其物の性質が明に分つて來る。從つて之を操縦し之を改變する具體案も出來ると云ふことになる。もし然らずして現實を忌嫌ふところから、餘り早く現實と別れ、現實を向ふに廻して自分の主觀的の城壁に立籠ると、忽ち喧嘩となるのは見易い道理である。勿論打つたり、はたいたりすることが最後の目的であるなら、方法として採用するのも差支のないことであらう。しかし苟も圓滿なる解決を目的とすることであるなら、一步一步合理的に進行くところの科學的方法に依ることを正しく且つ穩なりと云はざるを得ない。實際科學はあらゆる事物を相對的なりと見る所に采協の精神を包含し、個々の事物をそれぞれ必然的なりと見る所に自他共存の雅量を發露するのであるから、これ程公平穩當なる見方をする學問はない。之を排他的獨斷若くは煽動的感情を以て抑厭慰撫の武器とする從來の方法に比ふれば、雲泥の差があると云ふべきである。そこで何事でも疑問とか爭鬪とかが起つた場合には、科學的方法により解決を着けるが一番徹底的であり叉安全であると考へる。この考の基に、私は書畫鑑定に附纏ふ疑團を解き、曲事を除くことを勉めやうとするのであります。

二、 現今の書畫鑑定と登錄

 書畫を鑑定するといふことは誰でも知つてゐるが、登錄するといふことは一寸耳新しく聞える。處が現今でも鑑定もし登錄もすると云つてゐる鑑定家は、私の知つたところではたつた一人ある。それは吉岡班嶺氏で、書畫に關する雜誌を經營し、本も澤山書いて居らるるので、夫等のものに載つてゐる記事により、其登錄の性質が大體分つてゐる。昔から鑑定家が鑑定書を作成する場合には、手元に控を取り、鑑定書と控とに割印を施したものである。この控を作つて置くことが明に登錄の初步であると云つてよろしい。吉岡氏の方法も此割印帳より發達して登錄と云ふ語を使ふ樣になつたものと考へられる。
  しからば現在に於て、鑑定と登錄とが實際如何なる風に行はれてゐるかを,一寸具體的に説明すれば、鑑定家は問題の品物を前に置き、スツと開いて惡いと思へば皆迄見ず、アツ是は何誰の僞物。少し善いと思へば軸の處まで開き、ヂツと見入つて、ムー是は確によろしい、何誰の眞蹟。其所で早速極が付いたと云ふもの、其間幾秒もかからない。甚だ手取早い。是が普通の鑑定である。この鑑定に於て鑑定の根據とされたものは何であるかといふと、鑑定家の主觀的考察卽ち鑑賞叉は鑑識と稱せらるるものである。熟練なる鑑定家に在つては此力は殆と直覺的に働き、其抜神に入ると云ふべきである。時には幾日も留置いて研究の上鑑定することもないとは云へないが、そうした場合は稀である。
 處で博物館、古社寺保存會、史料編纂掛、美術協會、國華社等幾人も鑑定家が居る所になると、單なる鑑賞だけでは意見の不一致を來すことが往々起るのである。そこで種々な方法を設け、科學的とも云ふべき研究も行はれ、時日を費してヤツト鑑定を了すると云ふ樣な次第である。かくして出來上つた鑑定は多くの場合一箇人の鑑定より信賴するに足ると見るべきは當然のことである。
 卽に鑑定が濟み、依賴者に對し鑑定書を興へる場合には、前に述べた如く割印した控を取る。卽ち登錄するのである。其登錄の方法は書畫の名目を掲げ、説明批評を加へ、地及び表装等に就ては寸法等數畫を記入するものもある。近來は叉寫眞をとつて保存することを登錄の一條項とするのである。
 熟練なる鑑定家の鑑識は相當確かなるもので、その鑑定の的中する場合が頗る多いのであらうといふことは想像することが出來る。叉精密なる登錄は品物の異同を辨別するに當つて、多少依據となり得るものであらうといふことも想像することが出來る。然しながらいざといふ場合になると、鑑定に於ても登錄に於ても的確なる證據を出し得ないであらうと云ふことも又想像が出來るのであります。元來鑑定とこれに附帶した登錄とは、品物の世界に在つては、丁度人間社會に於ける司直機關の如き働きを爲すものである。其司直機關とも取るべきものが證據を出し得ない樣な無能のものであるなら、其虚に乗し僞物の出來るのは自然のことであらうと思はれる。勿論今日は美名の下に隱れてさへ惡事を行つてゐる族もある樣な世の中であつて見れば、何も書畫の僞造を知つたからとて驚くことはない。けれども鑑定を經た品物にも僞物が少くないといふ事實は何と解釋すべきであらうか。是は裁判所で重罪を犯した惡人を潔白の善人だと稱して送出すと同樣のことで、甚だ腑に落ちぬ次第である。處が本を見ても人に聞いてもこの怪しからぬ事實の存在が認められてゐる。叉其原因も幾分か分つてゐる。唯甚だ香ばしからぬ話になるから立入つて論じた人が無い樣な譯であらう。しかしながらかかる原因の基にかかる事實の發生することは、鑑定に取つては甚だ迷惑なることである。そのまゝ捨てゝ置いては、其信用を傷け效力を損ひ存在の意義を滅却するものと云はざるを得ない。之を等閑に附すべき問題でないのであります。
 然らば何故に鑑定の誤が生ずるか。此問題を究明するためには、今まで分りきつたとしてゐた鑑定其物が何であるかを吟味せざるを得ない。次に叉鑑定に附纒ふところの種々の事情を殘るところなく穿鑿せざるを得ない。先づ鑑定とは何んなことをするのであると尋ねると、これは勿論書畫に限つたことでなく、殆ど總ゆる事物に關して行はれてゐると云つてよろしい。卽ち物品に就て云へば鑛物鑑定、生物鑑定、文書鑑定、書畫鑑定、刀劒鑑定其他幾らもある。化學分析による物質鑑定、指紋法による人間同一性の鑑定も此種類に屬すべきである。事件に就て云へば病症鑑定、犯罪鑑定、史實鑑定、氣象鑑定、資格鑑定等々がある。それから種々の相法、占法及び抽籤法による運勢或は運命鑑定がある。是は迷信を伴ふ嫌があるが鑑定の要素を具備してゐる。現に九星鑑定など稱してゐるのでも分る。さうして見ると鑑定と云ふことは三世の事物に應用出來るといふ次第で、甚だ廣汎なる意義を持つてゐる。實際鑑定を廣義に考へると、あらゆる研究あらゆる學問も皆其中に這入るやうにも思はれる。しかし一般普通の意味に於ては、所謂鑑定と云ふ語は鑑定家と稱する特殊職業者の研究に限定して使用されてゐる。是が卽ち鑑定の狹義の意味であつて、蓋し叉最初の意味である樣に思はれる。そこで私はこの原始の狹き意味に解し、創生的定義を作ることを試みる。
 或る事物に當面して疑問の起つた場合に、其儘疑問を放擲して置くことが不利益であるとすれば、誰しも黙つては居らずして、必ず知識經驗の優れた相談相手を求めて、其疑問を解決しやうとする。卽ち自分丈では見極のつかない所を人に鑑定めて貰ふのである。この鑑定めることが鑑定であり。相談相手となる人が鑑定家である。
 この定義により鑑定は論理的に云へば、研究より判斷に至るところの合理的過程であると云へる。而して最後の判斷卽ち人に求められてゐる重要點に重きを置き、鑑定は判斷であると見ることが出來る。あらゆる知的作用が皆この判斷の形式に於て現はるる所を以て見れば、何もこれは新しい發見でなく、初から分つた事であつたとも云へる。しかしながら鑑定の着物を剝取つた裸の形は、判斷に過ぎないと極つて見れば、是は慥に我々の目的にとつて善い事を知つたといふことになる。なぜなれば先に私の提出したところの何故に鑑定の誤が生ずるかといふ實際的問題は、何故に判斷の誤が生ずるかといふ理論的問題に單純化し得るからである。叉この定義よりして鑑定には依賴者と鑑定家とを必要とするのであり、兩者の間には社會普通の習慣に從つて金錢の授受が行はれることを豫想することが出來る。故に叉金錢が鑑定の上に働きかくる可能性のあることをも裏書するのである。叉鑑定家が未熟であつたら鑑定を誤る虞れがあるといふことも分る。此の如く單に鑑定の定義より種々のことが推考出來るのである。更に叉論理的、心理的、社會的に判斷に附纏ふところの種々の事情を取調べると、鑑定は如何なる原因に由て誤るものであるといふことが判然と分つて來る。卽ち問題は豫め理論的に解決が出來ると云ふことになる。而してかくして理論的に得る結果を實際に見るところの事實と照合せると、それがピツタリと一致することを見出すのであるから甚だ面白い。私はこの事を御話する積りで書いては見たが、人の裏面を發き心術を刳る如き觀察を爲すことを餘議なくさせられるのに平口する。原々私は遺漏を防ぐために、論理的とか心理的とか言つて推考して見たものの、諸君に於かされては鋭感を以て直覺的にア,あの事かと御氣付になることもあらうと信ずる。卽ち詳説の必要がないとも思はれ、叉時間がかゝるから旁々この研究は割愛することに致します。唯一つ玆に申して置かなければならないのは、この研究の結果として鑑定は故意に誤る場合があるといふことが判然と分つたといふことである。甚だ怪しからんことであるが、そうした場合が多いと云ふのは歎はしい世相である。
 そこで香ばしからぬ議論は止めて、具體的ではあるが餘り差障りのない實例を一つ二つ申上げる。勿論鑑定登錄が不充分不確實であるために起つた現象として申上げるのであります。
 世間には惡い商人惡い鑑定家がないとは限らない。其等のものの野合により僞物を生産する場合には、世諺に反して金のあるもの程多産する。かくして誘惑的に拵上げられたお蠶(蠢?)ぐるみの箱入ものが、相當立派な家庭に嫁入出來るものは叉推測に難からぬ事實である。むべなり其證據は最も貴族的な高價な品物を取引する美術倶樂部の賣立に現はれて來る。その賣立目錄の寫眞を見ただけでも僞物と判じ得るものが頗る多いのであります。
 諸君も御記憶があるかと思ふのであるが、たしか大正十一年の暮から翌年 の正月にかけてのことである。書畫の僞物の製造に坐して百に近い人が東京のみで檢擧されたことがある。其中には知つた人も交つてゐた。其頃敎職に居た達筆家が僞筆を爲したことを正直に自白してしまつたが、同じく立派な敎職に居た鑑定家がしらを切つたので,遂に元兇を捕へることが出來なかつた。叉今年の春のことである、關西の税關で密輸入の廉でつかまつた古物商のことが傳へられた。それを機會に京阪地方に於ける僞物の大量製産をやつてゐる所に法の手が延びる樣な話も聞いたが、天網恢々遂に大魚を逸してしまつた。
 乃木將軍の書は千金に價することは誰でも知つてゐる。今申上げた鑑定家の極附のものを屢見受けることがあるが、勿論眉唾ものが多い。しかし學習院長として乃木さんの後釜に据えられた御方の極附とあらば恐らく疑ぐる人はあるまい。なぜなら乃木さんの友人でもあり、誰でも立派な方と信ずるからである。處が院長を騙して署名を餘儀なくさせる工らみが仕組まれてあつたのだから驚かざるを得ない。實に院長に對しては御氣の毒であり、叉世人を馬鹿にするにも程度がないと申すべきである。元より惡鑑定家と惡商人との連盟になつたことである。
 此頃或人の處へ行くと、立派な掛物を見せられた。畫は可成の出來であるが僞物だ。これはどうしたのだと問へば、無落款のものを買入れた處、經師屋が見て落款を入れさせるがよいとの事になり、則ち鑑定家に相談すると是は某のものとするがよい。しかし自分が某の箱書をすると二千圓で通る品であるから、鑑定料二百圓をよこせと云ふ。それは髙過ぎると思つて今一人の鑑定家に持て行くと、矢張同じ見立で料金二十圓でよろしいとなつて、其人に箱書して貰つたとの事であつた。落款は某の落款の專門家が書き、印は御丁寧にも旅費まで出して田舎に居る某の子孫の家に行つて押して貰つたとの話。そこでよく見ると何の事だ、其印は書いたものである。
 こうした實例は幾らでも掲げることが出來る。しかし餘り裏面觀をなすのも聞苦しいから此位で打切り、今度は尤も公正なる科學的方法の御話に移ることに致します。